深夜に出会う一杯の珈琲


「き、君まだ居たのか。早く出なさい。」
 ぼやけた目をこすりながらあける。
 眠い……。疲れた……。
 頭のてっぺんからつま先まで全てを疲労で覆い尽くしてるみたいに体と頭が重い。
「え……」
 わたし、さっきまでここで勉強してたはずなのに。
 周りは真っ暗でカーテンには街灯の淡い光が透けて見える。
 わたし、自習室で寝ちゃったんだ。
 ところどころ体が痛いのも、硬い椅子に硬い机、そこに突っ伏していたわたしのせいだ。
「今、何時ですか?」
 わたしはすがるように警備員さんに問う。
 嫌な予感がする。
「ああ今?二十三時五十分だよ。日付が変わってしまう。早く帰りなさい。」
 急いで大量の問題集とノートをまとめて席を立つ。
 せっかく静かなところを選んで電車で遠いなか来たのに寝ちゃったなんて。
「すみません。すぐでます」
 終電に間に合わない!急いで自習室を出ようとすると、警備員さんがわたしの問題集を見ていった。
「中学三年生、受験生か。勉強がんばってね。」
 ぴたりと足が止まる。
 がんばれ、がんばれって、もう十分頑張ってる。
 昨日だって、今日だって寝ずに勉強してるのっ!
 自分がさっき居眠りしていたことを棚に上げ、頭の中で怒鳴る。
「はい、では」
 冷静そうに見える言葉とは裏腹にわたしの心はざわざわしてる。
 さっきの言葉を耳から払いのけるようにして足を速める。
 駅のロータリーに向かうと電光掲示板は真っ黒。次の電車はない。
 やっぱり、終電を逃しちゃった。
 ひんやりとしているコンクリートの壁に手をつく。
 どうしよう……。帰れる時間があるのは朝の四時くらい。
 あと四時間だ。駅の回りをうろうろして勉強できるところがないか探す。
 こんなところで勉強をしないとと考えるわたしは世間一般論でいうと余裕のない人なんだろう。
 駅のロータリーには小さなベンチがぽつんと一つあるだけで勉強ができそうにもない。
 単語帳で勉強しようとも考えたけど、もう疲れた。
 せめて暖かくて座れる場所があればな……。
 途方に暮れていると、オレンジ色の暖かい光を放っているこじんまりとしたお店があった。
「カフェ……?」
 おしゃれな雰囲気だ。
 こんなカフェがあったんだ。
 こんな遅い時間までやっているなんて。
 そんなことを考えていると、風が吹いて一月の寒さにぶるりと鳥肌がたった。
 寒いので早くお店に入ってみようと思いドアを押した。
 中に入ると、珈琲が香った。どことなく落ち着く雰囲気で、丁度いい暖かさだった。
「お客さんですか、こんばんは」
 カウンターには背の高い男性……いや、大学生くらいに見える。
 知的そうな青年が文庫本を読んでいた。
「こんばんは」
「こ、こんばんは」
 低く、落ち着いた声。落ち着いた立ち振る舞いに圧倒される。
 一体何者なんだろう。
 人間離れした美しい外見。ジーンズに白いカッターシャツ、黒いエプロンに身を包んだ青年は、何もせずとも様になる。
 こんなに綺麗な店員さんに落ち着く雰囲気だと、少しは話題になってもおかしくないはずなのに、聞いたことがない。
 当然か、わたしには友達はいない。いなくなった。
 
 ある日、友達だった由希が、模試前日に遊びを誘ってきた。
 残念だったけど勉強のために断ったら、次あった時にはわたしの居場所はなくなり、話を聞いてくれる人は誰もいなくなった。
 何かをするたびに嘲笑う由紀。思い出すだけで頭に血が上る。
 そんなことで人間関係が変わるなんて思ってなかった。
 現代は理不尽だ。みんな由希のことしか信じない。

 胃のあたりがむかむかしてくる。
 過去を打ち消すように目をぎゅっとつぶり、店内を見回す。
 店内も外見と似たような雰囲気でアンティークだ。
 天井には小さなランプが付いていて、店全体を明るく包んでいる。
「ここって、勉強できますか?」
 わたしが聞くと青年は言った。
「勉強?いいですよ。珈琲入れますね」
 珈琲?今は電車に乗るためのICカードしか持っていない。
 丁度電車に乗るためだけのお金しか入ってないし……残念だけど断らないと。
 そんなわたしに気づいたのか、青年はふんわりと微笑みを浮かべた。
「サービスです」
「……ありがとうございます」
 ちょっと申し訳なかったけど、お言葉に甘えることにした。
 カウンターに座り、教科書を広げてノートに問題をうつす。
 丸っこくて幼気が抜けていない字。
 この字を見ると他人との遅れを気にせずにはいられない。
 じりじりと焦りの気持ちが芽生える。
 いくつか問題を解いているとコーヒー豆をひく音が聞こえてきた。
 心地いい。
 がり、ごり、がり、がりがり
 いろんな音が聞こえる。どんどん音は滑らかになっていって、豆も粉へと近づく。
「あ、うるさかったですか?」
 コーヒー豆を引く手に思わず見入ってしまった。
「いえ、全然」
 豆をひくざっざっと言う音を聞きながらすらすらと問題を解く。
 ひいた豆を入れたドリッパーにぽとぽとお湯をしたたらせる。耳をすませば細かい気泡がはじける音がする。
「x=12……」
 赤ペンでざっざっと問題の間違えているところを赤でバツマークをつける。
 そのページはまっ赤なバツでいっぱいになった。
 数学は苦手教科。頑張ってもなかなか点数が上がらない。
 志望校の模試もc判定。
 理想はA判定……。最低でもB判定を目指していたのに。
 どれだけ勉強しても、なかなか結果がでない。
 シャーペンを握るこの手が強くなる。
 わたしの志望校は自由な校風で、緑を基調にしたセーラー服の制服。広くて植物がいっぱいの中庭がある。
 ずっと前から憧れているあの学校。
 しかも受かったら由希とももう会わない。
 絶対その高校に受かりたいんだ。
 学校見学のときに自由な校風、暖かそうな雰囲気に憧れを覚えた。
 ポットにたまった珈琲をティーカップに注いでいるところを横目に問題を解き続ける。
「ミルクとガムシロップはいりますか?」
 じゃますると悪いと思ったのか、遠慮がちに聞かれ、うなずきながら返す。
「はい、お願いします」
 ノートのページが埋まって一段落付くと、コト……と目の前に一杯の珈琲が置かれた。
 ミルクはおしゃれな器に入っていて、カップも上品でおしゃれな模様だった。
 ミルクとガムシロップをカップに入れて、混ぜる。
 焦げ茶色と白がくるくると円を描き、ベージュになった。
 ふんわりと珈琲が香り、わたしの鼻をくすぐる。
 ほのかに香る珈琲のほろ苦さと甘さが混じったような香り。ふんわりと漂う湯気にカップに手を伸ばそうとする。
 問題集にこぼれるかも。
 せっかく奮発して買った問題集が汚れるのは嫌だ。
 自分のお小遣いで買った。これも全部あの学校に受かるため。
 問題集を閉じて端に寄せると青年は言った。
「亜珈さん、いい名前ですね」
 青年の言葉は温かくじんわりと胸にしみた。低くて、落ち着いて、不思議な声、魅力的な声だ。
「え、ありがとうございます」
 突然言われたから驚いた。
「珈琲の珈」
「そうなんです。父が好きみたいで」
 珍しいとはよく言われる。ここは珈琲が自慢のカフェなんだろう。
 メニューも置いてないし、珈琲と書かれた小さな黒板しか置いてない。
 だから気になったのかな。
 なんだかくすぐったいような気持ちになった。
 カップを手に取ると、ほんのり温かく、さっきまではりつめていた糸がふわりと緩んだような気がした。
 口に含むとほろ苦さがまだ消えきっていない、けれども甘くて奥の深い味が口の中に広がった。
 こんな珈琲、飲んだことない。驚いて目を見開いていると青年は微笑んでいった。
「気に入りましたか?」
「はいっ!」
 つい勢いよくこたえる。恥ずかしい。
 青年はほほ笑んだ。由紀がわたしを嘲笑ったのと違う、優しい、包み込むような笑顔で。
 家では基本、お湯で溶かして飲む粉状の珈琲しか飲まない。しかも砂糖をいっぱい入れて珈琲本来の味を味わってない。
 この珈琲はガムシロップを少ししか入れてないけど、嫌な苦さが全然ないから飲みやすい。
 カフェで飲むのも久しぶりだっけ。
 初めて飲んだときはその苦さに顔をしかめたけど、大人になりたくて、背伸びして飲んだ。
 いまは慣れてきて、なんともなく飲めるようになったけど、珈琲が飲めたからって大人になったのかな。
 小さい頃は珈琲が飲めたら本当に大人になれるのかと純粋に信じていた。
 いつの間にか憧れていた中学生になって、もう少しで高校生。
 成長すればするほど大人って楽しいのかな、と思う。
 わたしは今、大人になろうとしているのだろうか、ちゃんと成長できてるのかな。
 あれこれ考えてしまう今より、無邪気で純粋な子供が、あの頃が羨ましい気もしてきた。
 あの高校を初めて見に行ったとき、あの高校に入れるって信じていた。
 こくり、こくりと少しずつ珈琲を飲んでいく。
 じわり、じわりと舌の上に珈琲の味が広がる。
 心もぽかぽかと暖かくなっていく。
 気づいたらカップの底にはもう少ししか珈琲が残っていない。
 名残惜しく最後の一口を飲みきると、頭がぼうっとしていった。


 ひらひらと、桜の花びらが舞い降りる。

 温かい春風がほほをなでる。

 これは……制服かな。緑のセーラー服。

 緑が広がる中庭は、桜の絨毯だ。

 あ、あそこに人が居る。

 あの人、どこかで……。


「……」
 ここどこ?
 ここ、カフェだ。また寝ちゃったんだ。
 珈琲を飲んだのに寝るなんて、どんだけ眠かったんだろ、わたし。
「すみません、寝ちゃって……。あれ、いない?」
 珈琲を入れてくれた青年が見当たらない。
 周りを見渡すと、窓の向こうで朝日が昇ってくるのが見えた。
 壁に掛かっている時計は五時を指している。
 よくみるとカウンターにおいてあったはずのティーカップも姿を消した。
 教科書とノートもカバンのにきちんとしまわれている。
 不思議に思いながらも席を立つ。
 テーブルで寝たはずなのに、体はなぜかすっきりしている。
「ありがとうございます」
 誰も居ないけど、律儀にお礼を言った。
 急ぎ足で駅へ向かう。
 冷たい風が頬を突き刺した。
 寒い。
 そう思ったけど、なぜだか首元がぽかぽかしてる。
 あれ、なんでだろう。
 首元を触ると、ふわふわしたものが手に触れた。
 首には薄い茶色、ベージュのマフラーが掛けられてあった。
 何で気づかなかったんだろう。
 暖かい。
 これもあの青年がかけてくれたのかな
 なぜだか心がぽかぽかしてきた。
 よくみるとマフラーに刺繍がしてある。
 猫とティーカップ……珈琲が入ってあるのかな。あとはアルファベットで
【Bir kahvenin kırk yıl hatırı var】
って、どういう意味だろ。
「う゛ぃる、か、かぶ……?」
 まったく読めない!意味も分からないし。
 それにしても細かくて、かわいい刺繍だ。
 アルファベットの意味が気になって、ジャケットのポケットに入っていたスマホを取り出す。
 ロック画面を開くとお母さんからの連絡が表示された。
『今どこに居るの?大丈夫?』
「今から帰るよ。っと」
 スマホの液晶画面に指を滑らせる。
 既読が付いたことを確認して、アプリを切り替える。
 マフラーを見ながら慎重に打ち込む。
 
【一杯のコーヒーにも四十年の思い出】
・トルコのことわざ。
・コーヒーを一緒に飲むことで、良い思い出が長く記憶に残るという意味をあらわす。

「……!」
 なぜかわたしは、あの店のあの青年にきっと、また会える気がした。


 桜の花びらが舞う。
 春風が頬をなでる。
 わたしは一年前から行きたかった学校に行くことができた。
 桜吹雪に見とれていると、ふわりと懐かしいあの珈琲の香りがして足が止まる。
「やっぱり会えた」
 ポツリと口からこぼれた言葉。
 誰かがわたしの名前を呼んだ。
 低くて、落ち着いていて、不思議で、魅力的な声。
 この人を、わたしは知っている。
 スクールバッグからチラリとはみ出たマフラーの刺繍が、木漏れ日を浴びてキラリと輝いた。