どうしよう、抜け出せない。どこもかしこも真っ暗で、進むべき道も出口もわからない。
あなたはどこにいるの? どうして、私のそばにいないの──。
「……霞さん、朝霞さん」
暗闇の中で彷徨っていた時、探し求めている人とは別の男性の声が響いてきた。
とんとんと優しく肩を叩かれる感覚と、名前を呼ぶ聞き心地のいい声で、徐々に意識が浮上してくる。
う……なぜか腕が痛い。そうだ、私さっきまで残業してたんだ。
それでどうしたっけ……と頭を回転させながら重い瞼を開き、のっそりと顔を上げる。すぐそばに人の気配を感じて振り仰ぐと、漫画の世界から飛び出してきたようなイケメンくんが私を見下ろしていた。
ぼうっとしたまま、ナチュラルショートの髪がかかる美男子を見つめる。中性的でありながら男らしさも感じる顔立ちのその人は、他部署にいるシステムエンジニアの後輩だ。
「あ、幸野くん……? あれ、私寝てた?」
「はい。電気がついてたから覗いてみたら、ぐっすり寝てましたよ」
彼はふっと笑みをこぼし、私の頬のあたりを指差す。「跡ついてる」と指摘された私は、その頬がみるみる赤くなっていることだろう。
デスクに突っ伏して寝ていた、だらしない姿を見られたってことよね!? 恥ずかしすぎる……!
どちらかというとタヌキ顔で幼く見られがちな私。寝顔もさぞかし滑稽だっただろうと、クリアになってきた頭で思った。
「でも、さすがにこのまま寝かせておくのはどうかと思って。こんな時間だし」
頬を押さえて悶えていた私は、腕時計を見下ろす幸野くんの言葉ではっとする。慌ててスマホを見やると零時半になるところで、私はひゅっと息を呑んだ。
「うっそ、日づけ変わってる!? 終電! ……もう出てるか~」
時刻表を調べようとしたものの、私が使う路線は零時頃だったなとすぐに思い出し、がっくりと肩を落とした。
嘘でしょ……終電を逃したのは初めてかも。疲れていたとはいえ、私どんだけ眠りこけてたのよ。幸い明日は、いや、今日は土曜で休みだからいいのだけど。
ヘコむ私に、幸野くんがやや気の毒そうに言う。
「朝霞さんがこんな時間まで残ってるの珍しいですよね。しかもひとりで」
「うん、どうしても今日やっちゃいたい案件があって。波に乗ってきたからそのままやってたんだけど、終わった瞬間に寝落ちたみたい」
電源は消えているけれど開いたままのノートパソコンを指差して苦笑した。
Webデザイナーの私は、主に企業のホームページを作成している。目を引きつつも見やすく、クライアントの意向をできる限り汲み取ったデザインにするのが私の仕事だ。
幸野くんの言う通り、こんなに残業することは滅多にない。ただ、誰もいないこの空間でやるとなぜか捗るので、残業自体は嫌いではない。
一方彼のほうは、こんな時間に会社にいるのは慣れっこだろう。
「幸野くんも残業してたんだ」
「ええ、サーバーのトラブルがあって対処してました。今日は終わるの早いほうですよ」
「SEは大変だねぇ」
幸野くんたちシステム開発部では、サイトのリニューアルやサーバーの障害などで深夜まで対応するのは日常茶飯事だ。今日も疲れた様子はない。
二十五歳という若さのせいもあるのかもしれないな。といっても、私は二十七歳なのでたいして違わないけれど。
デザイナーとエンジニアは同じチームになることもあり、私たちも何回か一緒に仕事をしている。
幸野くんは落ち着いた性格で、淡泊そうに見えて意外とノリがいい人なので話すのは結構楽しい。私は気心知れた関係になれたと思っているけれど、彼のほうはどうだろうか。
なんとなく考えていると、幸野くんが問いかけてくる。
「俺はネカフェかどこかで始発まで時間潰しますけど、朝霞さんはどうします?」
「うーん、できれば家で寝たいけど、タクシーはお金もったいないしなぁ」
「迎えに来てくれる人いないんですか? ……彼氏とか」
〝彼氏〟の単語が出た途端、つい表情を強張らせてしまった。
彼氏は、一応いる。ここ最近の私はそのことで悩んでいて、今日がっつり仕事していたのは気を紛らわせたいためでもあったのだ。
でも、終電を逃したのはいいきっかけになるかもしれない。
「……わがままを言えば、私のこと嫌いになってくれるかな」
「え?」
「自分では終わりにできなそうだから」
ぼそっと呟いた私を、幸野くんはなにかを察したように見つめる。私は苦笑を漏らし、「呼んでみるね」と言ってスマホを手に取った。
メッセージを送ってひとつ息を吐くと、幸野くんが隣の席の椅子をゴロゴロと動かして腰かける。
「どうしたの?」
「彼が迎えに来るなら、それまでひとりだと暇でしょう。寂しいだろうし」
そう言われ、私は目をしばたたかせた。
もしかして付き合おうとしてくれてる? 〝寂しい〟というひと言も、妙に胸に沁みる。彼は深い意味はなく口にしたのだろうけど、ここ最近の私はずっと寂しさを抱いていたから。
「なにか悩んでるなら聞きますよ。真夜中って語りたくなりませんか?」
肩の力が抜けた調子で言われ、なんとなく共感した私の心も解れるような気がした。
幸野くんって、不思議な雰囲気を持つ子だな。脱力系というか、癒し系というか。こちらの心情を汲み取ってくれているし、自然と素直な思いを吐露してしまいたくなる。
口元をほころばせ、「じゃあコーヒー買ってくる。苦~いやつ」と言うと、彼もふっと笑みを浮かべた。
そうしてエレベーターの前にある自販機でブラックの缶コーヒーをふたつ買いオフィスに戻ると、彼にひとつ手渡し、さっきと同じ席に座って私はぽつりぽつりと話し始めた。
今付き合っている人は、透さんという三つ年上の三十歳の営業マン。約一年半前に仕事を通して知り合い、第一印象から素敵な人だったけれど、偶然街中で会ったのがきっかけで私の恋心は一気に膨らんだ。
二回ふたりきりで食事をして、三回目のデートで『君が好きなんだ』と告白された時は夢のようだった。こんな王道の展開が、冴えない私にあるのかと。
包容力と余裕があり、どんな時も私の意見を尊重して、たくさん甘やかしてくれる。『君だけを愛してる』とちゃんと言葉にして、心も身体も満たしてくれる。
そんな大人な彼の魅力にすっかりハマってしまい、盲目になっていたのだと思う。
順調に交際を続け、もうすぐ一年が経とうかという頃。お互い年齢も年齢だし、結婚の二文字が自然に頭に浮かぶようになっていた……そんな矢先だった。
彼が他の女性と腕を組んで仲睦まじく歩いている姿を目撃したのは。
普通の女友達ではない距離感に寒気がした。それでも信じられなくて、他人の空似ではないのかと、少し後をつけて本人かどうかをしっかり確認した。
しかし、優しい微笑みも、愛を囁く声も、私があげたキーケースも、すべて透さんのもので間違いなかった。
私は本気だったのに。これからの人生を捧げてもいいと思うくらい愛していたのに。あなたが親密にしているのは、私だけではなかったの──?
彼にとっての最愛になれなければ意味がない。他の女性に現を抜かすような男とは別れたほうがいい。
そう重々わかっているのに、真実を知ってから一カ月近くなにもできずにいる。もしかしたらあの女性のほうが遊びで、本命は私かもしれない……そんな情けない希望を捨てきれないから。
だから確かめたくなった。これまで遠慮なく〝会いたい〟などとねだったことはない私から、急に連絡が来たらどうするか。
もしすぐに心配して来てくれるようなら、私は愛されていると実感できる。こんな真夜中に突然呼び出されたら、迷惑に感じるのが普通だろうから。
でもあの女性が本命で、今も一緒にいるとしたら、間違いなく断るだろう。その可能性のほうが高いと思っている。
むしろ断ってほしい。【こんな時間に非常識だろ】だとか冷たい態度を取って、私をとことん落としてほしい。
そうしてくれたらきっと諦めがつくから。やっぱり私は彼の一番にはなれないのだと、再認識させてほしい。
【終電逃しちゃって困ってるの。迎えに来てくれる?】
透さんに、あえて遠慮のないメッセージを送ってみた。普段は相手の機嫌や都合を窺い、気を遣って送るのだけれど。
それからもう三十分が経った。
彼との関係を幸野くんにすべて打ち明けた私は、既読がつかないトーク画面をぼんやり眺める。そんな私を一瞥し、幸野くんがぽつりと言う。
「……もう一時過ぎましたね」
「だねー。もう寝ちゃったか、もしくはもうひとりの彼女と楽しんでるか」
透さんは結構遅くまで起きている人だし、後者の可能性が高そうだなと、自嘲気味に口角を上げた。
未読スルーが一番困る。覚悟を決めるきっかけが欲しいんだから、なにかアクションをしてほしいのに。
でも、いつまでもこうしていられない。缶コーヒーひとつで付き合わせてしまって幸野くんにも悪いので、深く息を吐いて腰を上げる。
「いい加減に出よっか。警備員さんに怒られちゃう」
「朝霞さん、深夜の街って歩いたことあります?」
少し色素の薄い綺麗な瞳で私を見上げる彼に、なんの脈絡もなく問いかけられてきょとんとした。言われてみれば、こんなに遅い時間に出歩いたことってあったっけ。
「ないかも」
「じゃあ、少しこの辺散歩しませんか。真夜中って、新たに気づくものがあるんですよ。朝霞さんの気持ちも多少はすっきりするかもしれません」
穏やかに微笑む彼からの予想外のお誘いに、心がとくんと揺れる。
〝新たに気づくものがある〟……か。幸野くんと深夜に散歩するなんて新鮮だし、確かに気分転換にはなりそうだなと思い、「いいね」と笑みを返した。
オフィスビルを後にして、とっても静かで誰もいない街をだらだら歩く。いつもは駅から会社までの範囲くらいしか歩かないので、少し違う方向に向かって。
街灯は控えめになり、信号の明かりが際立っている。普段は人で見えない通りの先まで視界が開けていて、なんだか吸い込まれそうな感覚を覚える。
「人がいないと、本当に別世界みたいだね」
「でしょう。異空間に迷い込んだ感じ」
隣を歩く背の高い彼を見上げ、うんうんと頷いた。初めて見るその景色は確かにちょっぴり異様で、けれどどこかわくわくする。
幸野くんはポケットに入れていた手を出し、道路を挟んだ向かいに昔からあるアーケード街を指差す。
「あの古びたアーケードとか、海外のホラー映画にありそうでしょ。ゾンビが出てきそうな」
「あ~やめて~怖いのはナシ!」
ホラー系が苦手な私は、自分で自分を抱きしめて首を横に振った。いつもはなんとも思わないアーケード街も、誰もおらず錆びた看板にライトが当てられた様は退廃的な雰囲気がある。
こんなに印象が違うんだな、とそちらに意識を奪われていた時、背後から「わっ」と私の両肩に手を置かれて心臓が止まりそうになった。
「言ったそばから脅かさないで!」と怒るも、彼はいたずらっ子みたいに笑って謝っていた。
しばらく歩くと、今度は無機質でデザイン性のある大きな建物を発見する。
「わぁ、なんか要塞みたいなのがある」
「大学の建物ですね。てか、要塞って。さっきも結婚式場見て『サグラダファミリアだ』って言ってたし」
「あれは完全にそうだったよ」
どうでもいい会話をしながら、幸野くんがおかしそうに笑う。
「朝霞さんって面白いですね。なんでもない道のりだけど、一緒に歩くの楽しい」
とってもナチュラルにそんなふうに言われ、ちょっぴり胸がときめいてしまった。ダメダメ、一応彼氏がいるんだから。
でも、私も楽しい。深夜の街ってもっと暗くて寂しいものかと思っていた。こんなに魅力的に感じるのは、たぶん一緒にいるのが幸野くんだからだろう。
透さんとは、行く当ても理由もなくぶらぶら歩くことはなかった。彼はいつどこに行ってなにをするか、きっちり決めるタイプだから。
特に嫌ではなかったから、彼に任せていつもついていったけれど、こうやって目的のない散歩をするのもいいものだな。たいしたことをしていなくても楽しめる相手って、なかなか貴重かもしれない。
そうして気がついたら、あっという間にひと駅ほど歩いていた。
路地裏に入ると、二階建ての高級旅館のような厳かな建物が現れる。大正から昭和あたりの雰囲気を感じるそれを見るのは初めてではなく、私は「あ……」と声を漏らした。
「この日本料理屋さん、彼と来たことがある」
「へえ、リッチな彼氏ですね。政治家や官僚がお忍びの接待とかで来そう」
幸野くんの感想の通りで、ここは完全個室の隠れ家的なお店だ。実際に政治家も訪れるそう。
……思えば、透さんとのデートの場所はだいたい映画館とか、こういう個室があるレストランとか、ホテルとか、人目につかないところが多かった気がする。
会うのは週に一回、平日の夜が主だった。休日に会うとしたらだいたい土曜日で、彼の家にお邪魔する時はあったけれど泊まったことはない。
そのたび『ごめん、仕事が忙しくて』と言われて、特に疑問を抱かず信じていたけれど、よく考えれば一年も付き合ったカップルでそれは珍しいよね。なんだか、なにかから隠れて会っているみたいな……。
胸がざわめくのを感じながら大通りに出ると、もう閉まっているジュエリーショップが目に入り足を止めた。店内は暗いけれど、ショップのロゴと綺麗な指輪が映る大きな広告が、スポットライトで照らされている。
それを見た瞬間、自分の中に作り上げた〝誠実で大好きな彼の姿〟がピシッと大きくひび割れた。
ガラガラと崩れていく。彼との虚像の日々が。
……ああ、今やっと目が覚めた。私はずっと、一度たりとも本気で愛されたことはなかったのだ。
本当はわかっていながら、わざと見て見ぬフリをしていた。
他の女性といるのを目撃したあの時、彼女のお腹のかすかな膨らみと、ふたりの左手の薬指に輝くものに気づいていたのに──。
「朝霞さん?」
急にその場に立ち尽くして黙り込む私に、幸野くんは不思議そうに呼びかけた。私はジュエリーショップを眺めたまま口を開く。
「……私、終電までには絶対に帰るような人間だったの。学生時代も、どんなに羽目を外しても朝帰りとかしたことなくて」
「朝霞さん真面目ですもんね。デスクの上はいつもきちんと整理整頓されてて綺麗だし、ミスもしないからたいてい定時で帰るし。だから今夜はびっくりしました」
よく知ってるなと思いつつ、苦笑を漏らす。
自分で言うのはおかしいけれど、たぶん優等生の部類に入るほうだと思う。授業をサボったことは一度もなかったし、昔から今まで人間関係も良好で特に問題はないし、人並みに恋愛をして結婚も順調にできるんじゃないかと、勝手に思っていた。
「だから、余計に信じたくなかったのかも。……自分のほうが浮気相手だったなんて」
ようやく受け入れられた現実を声にすると、幸野くんが目を見張った。
透さんの部屋に女の痕跡はなかったように思う。きっとまだ同棲はしていないのだろうが、妊娠している彼女と結婚の約束をしているのは間違いない。
彼と過ごす休日も、彼がくれる愛の言葉も、全部上辺だけのものだった。
本当は、浮気現場を目撃する前から薄々感づいてはいた。わかっていたのに、信じたくない気持ちが先行して、都合の悪いことを考えないようにしていた。今の今まで。
そんなの、自分を苦しめるだけなのに。
「はは……バカだな、私。望みなんて、最初からなかったのに」
口角は上げているのに、瞳からぼろっと涙がこぼれた。
人前で泣くのもいつぶりだろうか。お堅い女だから可愛げがないと、遠い昔の元カレにも言われたっけ。
結局、今回もうまくいかなかったな。真面目に生きていても、愛される女にはなれないのか……。
自信も崩れていきそうになったその時、こちらに手が伸びてきて背中に当てられる。そのままそっと抱き寄せられ、目を見開いた。
優しい、優しいハグをして、彼が耳元で告げる。
「バカなのは朝霞さんじゃありません。あなたはただ、真剣に恋していただけでしょう」
私の気持ちを汲み取ってくれる言葉が響いて、さらに涙がぶわっと込み上げた。
彼の声も、腕の中も、馴染んだものではないのに温かくて心地いい。ぽんぽんと背中を叩かれ、子供みたいに泣いた。
それからどのくらい経っただろうか。近くのベンチに座らされて、私が泣き止むまで幸野くんは静かに隣にいてくれた。
ようやく涙が落ち着いた頃、気だるげに座って空を見上げる姿も絵になる幸野くんがふいに問いかける。
「ねえ朝霞さん、ブルーモーメントって知ってます?」
また突然話題が変わった。この子は掴みどころがないな。でも、彼のこういうところが不思議な魅力なんだよね。
自然に口元が緩み、さっき私が取り出すより先に幸野くんが差し出してきたティッシュで鼻をかんでから答える。
「ドラマ?」
「あーそうそう、タイトルになってましたね」
幸野くんはそう言いながら、私の鼻水を拭いたティッシュを受け取ろうと手を差し出してくるので、「さすがにいいよ!」と笑いながら首を横に振った。
意外にも気が回る人なんだな。そしてすごく優しい。
「日の入り後と日の出前に、ほんの五分くらいですけどすげぇ綺麗な深い青色の空が広がるんです。今日は天気いいし、乾燥してるから見られるかも」
「へ~、詳しいね」
「昔、天体観測にハマった時があったんで」
きっと泣き腫らしてひどい顔になっているだろう私を見つめ、彼が得意げに口角を上げる。
「これから一緒に見ませんか? 気持ちも、運命も変わるかもしれませんよ」
明るい期待を抱かせるような言葉に、少しだけ心が弾む。
私も、現実から逃げるのは今夜を最後にしたい。夜が明けたら新しい自分になりたい。
そう前向きになってきた時、トレンチコートのポケットに入れていたスマホが短く振動した。「ちょっとごめん」と断って取り出した瞬間、どくんと心臓が重い音をたてる。
【遅くなってごめん。どこにいる? 今からでもよければ行くよ】
透さんからの返信……もう来ないだろうと思っていたのに。しかも、深夜二時半を過ぎたというのに迎えに来ようとしてくれている。
ざわざわと、風に煽られた木々のように心が動揺する。
どうして突き放してくれないの。そうやって優しくするから、私は沼にはまったみたいに抜け出せなくなっちゃったのよ。
でも、今やっとそのぬかるみから這い出せそうなのだ。私がメッセージを送ってから今に至るまでの、空白の約二時間の違和感にも、もう気づかないフリはしない。
スマホをじっと見つめる私の様子から、幸野くんも彼からメッセージが来たのだと気づいたのか、若干表情が強張っている。私はひとつ大きく深呼吸をすると、意を決して電話のマークをタップした。
《もしもし、大丈夫か?》
すぐに聞こえてきたのは、心配そうな低い声。胸がぎゅっと締まって、ひどく苦しい。けれど、なんとかいつも通りの声を絞り出す。
「こんな遅くに突然連絡してごめんね。でも、もうこれで最後にするから。迎えもいらない」
きっぱり言い、息を吸い込んで笑みを作る。
「今までありがとう。これからは、彼女と子供を幸せにしてあげてね。もう浮気するなよ、クズ」
声のトーンを変えず、普段なら口にしない言葉を吐き捨てた。電話の向こうの彼と、隣にいる彼がギョッとしているのがわかる。
《えっ⁉ え、ちょっと待っ──》
「さようなら。永遠に」
ものすごく動揺した調子でなにかを言おうとしたものの、冷たくぴしゃりと告げて強制終了した。そのままの勢いで透さんの連絡先をブロックし、天を仰ぐ。
自分からけじめをつけられたことが予想以上に爽快で、これまで覆われていたもやから一気に解放された気がした。
「はぁー、すっきりした!」
「すげぇ……いつもの朝霞さんからは想像できない。カッコいいっす」
呆気に取られた様子の幸野くんに褒められて、私は「ありがと」としたり顔で口角を上げた。
──大丈夫、もう涙は出ない。もう、暗闇で彷徨っているような未来のない恋に縋りついたりはしない。
スマホをポケットにしまい、んーっと伸びをして言う。
「日の出まで、あと三時間くらいあるよね。なにして待つ?」
私がブルーモーメントを見るつもりだと察したであろう幸野くんは、嬉しそうに頬を緩める。
「飲み明かしますか」
「幸野くん、お酒飲めるほう?」
「缶チューハイ一本なら」
「弱っ」
「九パーの場合ですよ。九パー」
仏頂面になって度数を主張する彼に笑いつつ、とりあえず開いているお店を探すため再び歩き始めた。
失恋したのに落ち込まないでいられるのは、一緒にいてくれた幸野くんのおかげ。せめてものお礼に、なんでも奢ってあげよう。
結局、レトロ感のあるカフェで飲み明かすことに。ジャズが流れる落ち着いた雰囲気のお店で、こんな時間にも営業しているなんて初めて知った。
隅っこの席に向かい合って座り、いろいろな話をして、ひと晩だけで幸野くんについて詳しくなった気がする。そして自然体で過ごせる彼との時間は、なんだかとても心地よかった。
さっきもコーヒーを飲んだのでカフェインを取り過ぎてもいけないと、いい大人がふたりしてオレンジジュースを飲んでいたのはおかしかったけれど。
午前五時半、川沿いにあるスロープを歩いて開けた広場までやってきた。目の前の雄大な川の向こうに並んでいるビルは小さく見え、私たちの周辺には遮るものがなにもなく、空がとても広く感じる。
「ここが一番よさそうですね」
「見晴らしいいね~。すごく気持ちいい」
肌寒いし眠気もあるけれど、とても清々しい気分だ。だいぶ空が明るくなってきて、空が濃紺から鮮やかな青色に変わってきた気がする。
ふたり並んで柵に手をかけ、もうすぐ訪れるマジックアワーを静かに待っていると、ふいに幸野くんが口を開く。
「あの、すみません。朝霞さんにひとつ謝らなきゃいけないことが」
「えっ?」
心なしか歯切れが悪く、なにを言われるのだろうかと若干身構える私。
彼は川の向こうに目をやったまま、少々気まずそうに言う。
「朝霞さんが寝てるのに気づいた時、本当はすぐに起こせば終電に間に合ったのに、わざと起こしませんでした」
え、なんで?とぽかんとする私に、青く染まった彼の綺麗な瞳が向けられる。
「あなたと、ふたりきりの時間を過ごしたくて」
予想外すぎる理由を告げられ、私は目を見開いた。
私とふたりきりの時間を……? それって甘い意味、なのかな? 幸野くんにそんな思惑があったなんて!
「さ、策士!」
「ごめんなさい」
みるみる頬に熱が集まり、無意識に手の甲で口元を隠して叫ぶと、彼は即座に謝った。
とはいえ、あまり悪びれた様子はない。私もまったく嫌じゃなく、むしろ今夜の出来事があってよかったと思っているので、すぐに笑みがこぼれた。
「幸野くんのおかげで迷いを断ち切れたから、感謝してるよ。ありがとう」
偽りのない笑顔を向けると、彼の表情もほころぶ。
「それに、私も楽しかった。真夜中の散歩」
「ひとりでは絶対歩いちゃダメですよ。朝霞さんは特別可愛いから」
さらりと甘い言葉をかけられ、私はまたドキッと胸を高鳴らせた。裏切りが発覚して失恋したばかりなのに、懲りない女だな私……。
でも、幸野くんの言葉は出まかせではないんじゃないかと思える。誰にでも甘言蜜語を使うような人ではないからかな。
めちゃくちゃ照れてしまい、赤くなっているだろう顔を俯かせつつ返す。
「……じゃあ、また付き合ってね」
「もちろんです」
口角を上げて迷いなく答える彼からは嘘の匂いは感じず、安堵に包まれるような気がした。
やがて空は一面最高に鮮やかな青色に染まり、初めて見る神秘的な景色に息を呑む。
夜が明ける瞬間って、こんなに美しかったんだ──。
本気で愛されていないとわかった時から、世界は真っ暗になってなにも見えなかった。けれど、今隣にいる彼が、暗闇の中でも確かにある素敵な景色を見せてくれた。
どうするのが自分にとっての正解か気づかせてくれた。
終わりは始まり。朝が来たら、人も街もまた動き出す。私も新たな気持ちで始発電車に揺られているだろう。
地平線がどんどん明るんでくる。グラデーションが広がっていく空を、私たちは心地いい空気に包まれながらいつまでも見上げていた。
End
あなたはどこにいるの? どうして、私のそばにいないの──。
「……霞さん、朝霞さん」
暗闇の中で彷徨っていた時、探し求めている人とは別の男性の声が響いてきた。
とんとんと優しく肩を叩かれる感覚と、名前を呼ぶ聞き心地のいい声で、徐々に意識が浮上してくる。
う……なぜか腕が痛い。そうだ、私さっきまで残業してたんだ。
それでどうしたっけ……と頭を回転させながら重い瞼を開き、のっそりと顔を上げる。すぐそばに人の気配を感じて振り仰ぐと、漫画の世界から飛び出してきたようなイケメンくんが私を見下ろしていた。
ぼうっとしたまま、ナチュラルショートの髪がかかる美男子を見つめる。中性的でありながら男らしさも感じる顔立ちのその人は、他部署にいるシステムエンジニアの後輩だ。
「あ、幸野くん……? あれ、私寝てた?」
「はい。電気がついてたから覗いてみたら、ぐっすり寝てましたよ」
彼はふっと笑みをこぼし、私の頬のあたりを指差す。「跡ついてる」と指摘された私は、その頬がみるみる赤くなっていることだろう。
デスクに突っ伏して寝ていた、だらしない姿を見られたってことよね!? 恥ずかしすぎる……!
どちらかというとタヌキ顔で幼く見られがちな私。寝顔もさぞかし滑稽だっただろうと、クリアになってきた頭で思った。
「でも、さすがにこのまま寝かせておくのはどうかと思って。こんな時間だし」
頬を押さえて悶えていた私は、腕時計を見下ろす幸野くんの言葉ではっとする。慌ててスマホを見やると零時半になるところで、私はひゅっと息を呑んだ。
「うっそ、日づけ変わってる!? 終電! ……もう出てるか~」
時刻表を調べようとしたものの、私が使う路線は零時頃だったなとすぐに思い出し、がっくりと肩を落とした。
嘘でしょ……終電を逃したのは初めてかも。疲れていたとはいえ、私どんだけ眠りこけてたのよ。幸い明日は、いや、今日は土曜で休みだからいいのだけど。
ヘコむ私に、幸野くんがやや気の毒そうに言う。
「朝霞さんがこんな時間まで残ってるの珍しいですよね。しかもひとりで」
「うん、どうしても今日やっちゃいたい案件があって。波に乗ってきたからそのままやってたんだけど、終わった瞬間に寝落ちたみたい」
電源は消えているけれど開いたままのノートパソコンを指差して苦笑した。
Webデザイナーの私は、主に企業のホームページを作成している。目を引きつつも見やすく、クライアントの意向をできる限り汲み取ったデザインにするのが私の仕事だ。
幸野くんの言う通り、こんなに残業することは滅多にない。ただ、誰もいないこの空間でやるとなぜか捗るので、残業自体は嫌いではない。
一方彼のほうは、こんな時間に会社にいるのは慣れっこだろう。
「幸野くんも残業してたんだ」
「ええ、サーバーのトラブルがあって対処してました。今日は終わるの早いほうですよ」
「SEは大変だねぇ」
幸野くんたちシステム開発部では、サイトのリニューアルやサーバーの障害などで深夜まで対応するのは日常茶飯事だ。今日も疲れた様子はない。
二十五歳という若さのせいもあるのかもしれないな。といっても、私は二十七歳なのでたいして違わないけれど。
デザイナーとエンジニアは同じチームになることもあり、私たちも何回か一緒に仕事をしている。
幸野くんは落ち着いた性格で、淡泊そうに見えて意外とノリがいい人なので話すのは結構楽しい。私は気心知れた関係になれたと思っているけれど、彼のほうはどうだろうか。
なんとなく考えていると、幸野くんが問いかけてくる。
「俺はネカフェかどこかで始発まで時間潰しますけど、朝霞さんはどうします?」
「うーん、できれば家で寝たいけど、タクシーはお金もったいないしなぁ」
「迎えに来てくれる人いないんですか? ……彼氏とか」
〝彼氏〟の単語が出た途端、つい表情を強張らせてしまった。
彼氏は、一応いる。ここ最近の私はそのことで悩んでいて、今日がっつり仕事していたのは気を紛らわせたいためでもあったのだ。
でも、終電を逃したのはいいきっかけになるかもしれない。
「……わがままを言えば、私のこと嫌いになってくれるかな」
「え?」
「自分では終わりにできなそうだから」
ぼそっと呟いた私を、幸野くんはなにかを察したように見つめる。私は苦笑を漏らし、「呼んでみるね」と言ってスマホを手に取った。
メッセージを送ってひとつ息を吐くと、幸野くんが隣の席の椅子をゴロゴロと動かして腰かける。
「どうしたの?」
「彼が迎えに来るなら、それまでひとりだと暇でしょう。寂しいだろうし」
そう言われ、私は目をしばたたかせた。
もしかして付き合おうとしてくれてる? 〝寂しい〟というひと言も、妙に胸に沁みる。彼は深い意味はなく口にしたのだろうけど、ここ最近の私はずっと寂しさを抱いていたから。
「なにか悩んでるなら聞きますよ。真夜中って語りたくなりませんか?」
肩の力が抜けた調子で言われ、なんとなく共感した私の心も解れるような気がした。
幸野くんって、不思議な雰囲気を持つ子だな。脱力系というか、癒し系というか。こちらの心情を汲み取ってくれているし、自然と素直な思いを吐露してしまいたくなる。
口元をほころばせ、「じゃあコーヒー買ってくる。苦~いやつ」と言うと、彼もふっと笑みを浮かべた。
そうしてエレベーターの前にある自販機でブラックの缶コーヒーをふたつ買いオフィスに戻ると、彼にひとつ手渡し、さっきと同じ席に座って私はぽつりぽつりと話し始めた。
今付き合っている人は、透さんという三つ年上の三十歳の営業マン。約一年半前に仕事を通して知り合い、第一印象から素敵な人だったけれど、偶然街中で会ったのがきっかけで私の恋心は一気に膨らんだ。
二回ふたりきりで食事をして、三回目のデートで『君が好きなんだ』と告白された時は夢のようだった。こんな王道の展開が、冴えない私にあるのかと。
包容力と余裕があり、どんな時も私の意見を尊重して、たくさん甘やかしてくれる。『君だけを愛してる』とちゃんと言葉にして、心も身体も満たしてくれる。
そんな大人な彼の魅力にすっかりハマってしまい、盲目になっていたのだと思う。
順調に交際を続け、もうすぐ一年が経とうかという頃。お互い年齢も年齢だし、結婚の二文字が自然に頭に浮かぶようになっていた……そんな矢先だった。
彼が他の女性と腕を組んで仲睦まじく歩いている姿を目撃したのは。
普通の女友達ではない距離感に寒気がした。それでも信じられなくて、他人の空似ではないのかと、少し後をつけて本人かどうかをしっかり確認した。
しかし、優しい微笑みも、愛を囁く声も、私があげたキーケースも、すべて透さんのもので間違いなかった。
私は本気だったのに。これからの人生を捧げてもいいと思うくらい愛していたのに。あなたが親密にしているのは、私だけではなかったの──?
彼にとっての最愛になれなければ意味がない。他の女性に現を抜かすような男とは別れたほうがいい。
そう重々わかっているのに、真実を知ってから一カ月近くなにもできずにいる。もしかしたらあの女性のほうが遊びで、本命は私かもしれない……そんな情けない希望を捨てきれないから。
だから確かめたくなった。これまで遠慮なく〝会いたい〟などとねだったことはない私から、急に連絡が来たらどうするか。
もしすぐに心配して来てくれるようなら、私は愛されていると実感できる。こんな真夜中に突然呼び出されたら、迷惑に感じるのが普通だろうから。
でもあの女性が本命で、今も一緒にいるとしたら、間違いなく断るだろう。その可能性のほうが高いと思っている。
むしろ断ってほしい。【こんな時間に非常識だろ】だとか冷たい態度を取って、私をとことん落としてほしい。
そうしてくれたらきっと諦めがつくから。やっぱり私は彼の一番にはなれないのだと、再認識させてほしい。
【終電逃しちゃって困ってるの。迎えに来てくれる?】
透さんに、あえて遠慮のないメッセージを送ってみた。普段は相手の機嫌や都合を窺い、気を遣って送るのだけれど。
それからもう三十分が経った。
彼との関係を幸野くんにすべて打ち明けた私は、既読がつかないトーク画面をぼんやり眺める。そんな私を一瞥し、幸野くんがぽつりと言う。
「……もう一時過ぎましたね」
「だねー。もう寝ちゃったか、もしくはもうひとりの彼女と楽しんでるか」
透さんは結構遅くまで起きている人だし、後者の可能性が高そうだなと、自嘲気味に口角を上げた。
未読スルーが一番困る。覚悟を決めるきっかけが欲しいんだから、なにかアクションをしてほしいのに。
でも、いつまでもこうしていられない。缶コーヒーひとつで付き合わせてしまって幸野くんにも悪いので、深く息を吐いて腰を上げる。
「いい加減に出よっか。警備員さんに怒られちゃう」
「朝霞さん、深夜の街って歩いたことあります?」
少し色素の薄い綺麗な瞳で私を見上げる彼に、なんの脈絡もなく問いかけられてきょとんとした。言われてみれば、こんなに遅い時間に出歩いたことってあったっけ。
「ないかも」
「じゃあ、少しこの辺散歩しませんか。真夜中って、新たに気づくものがあるんですよ。朝霞さんの気持ちも多少はすっきりするかもしれません」
穏やかに微笑む彼からの予想外のお誘いに、心がとくんと揺れる。
〝新たに気づくものがある〟……か。幸野くんと深夜に散歩するなんて新鮮だし、確かに気分転換にはなりそうだなと思い、「いいね」と笑みを返した。
オフィスビルを後にして、とっても静かで誰もいない街をだらだら歩く。いつもは駅から会社までの範囲くらいしか歩かないので、少し違う方向に向かって。
街灯は控えめになり、信号の明かりが際立っている。普段は人で見えない通りの先まで視界が開けていて、なんだか吸い込まれそうな感覚を覚える。
「人がいないと、本当に別世界みたいだね」
「でしょう。異空間に迷い込んだ感じ」
隣を歩く背の高い彼を見上げ、うんうんと頷いた。初めて見るその景色は確かにちょっぴり異様で、けれどどこかわくわくする。
幸野くんはポケットに入れていた手を出し、道路を挟んだ向かいに昔からあるアーケード街を指差す。
「あの古びたアーケードとか、海外のホラー映画にありそうでしょ。ゾンビが出てきそうな」
「あ~やめて~怖いのはナシ!」
ホラー系が苦手な私は、自分で自分を抱きしめて首を横に振った。いつもはなんとも思わないアーケード街も、誰もおらず錆びた看板にライトが当てられた様は退廃的な雰囲気がある。
こんなに印象が違うんだな、とそちらに意識を奪われていた時、背後から「わっ」と私の両肩に手を置かれて心臓が止まりそうになった。
「言ったそばから脅かさないで!」と怒るも、彼はいたずらっ子みたいに笑って謝っていた。
しばらく歩くと、今度は無機質でデザイン性のある大きな建物を発見する。
「わぁ、なんか要塞みたいなのがある」
「大学の建物ですね。てか、要塞って。さっきも結婚式場見て『サグラダファミリアだ』って言ってたし」
「あれは完全にそうだったよ」
どうでもいい会話をしながら、幸野くんがおかしそうに笑う。
「朝霞さんって面白いですね。なんでもない道のりだけど、一緒に歩くの楽しい」
とってもナチュラルにそんなふうに言われ、ちょっぴり胸がときめいてしまった。ダメダメ、一応彼氏がいるんだから。
でも、私も楽しい。深夜の街ってもっと暗くて寂しいものかと思っていた。こんなに魅力的に感じるのは、たぶん一緒にいるのが幸野くんだからだろう。
透さんとは、行く当ても理由もなくぶらぶら歩くことはなかった。彼はいつどこに行ってなにをするか、きっちり決めるタイプだから。
特に嫌ではなかったから、彼に任せていつもついていったけれど、こうやって目的のない散歩をするのもいいものだな。たいしたことをしていなくても楽しめる相手って、なかなか貴重かもしれない。
そうして気がついたら、あっという間にひと駅ほど歩いていた。
路地裏に入ると、二階建ての高級旅館のような厳かな建物が現れる。大正から昭和あたりの雰囲気を感じるそれを見るのは初めてではなく、私は「あ……」と声を漏らした。
「この日本料理屋さん、彼と来たことがある」
「へえ、リッチな彼氏ですね。政治家や官僚がお忍びの接待とかで来そう」
幸野くんの感想の通りで、ここは完全個室の隠れ家的なお店だ。実際に政治家も訪れるそう。
……思えば、透さんとのデートの場所はだいたい映画館とか、こういう個室があるレストランとか、ホテルとか、人目につかないところが多かった気がする。
会うのは週に一回、平日の夜が主だった。休日に会うとしたらだいたい土曜日で、彼の家にお邪魔する時はあったけれど泊まったことはない。
そのたび『ごめん、仕事が忙しくて』と言われて、特に疑問を抱かず信じていたけれど、よく考えれば一年も付き合ったカップルでそれは珍しいよね。なんだか、なにかから隠れて会っているみたいな……。
胸がざわめくのを感じながら大通りに出ると、もう閉まっているジュエリーショップが目に入り足を止めた。店内は暗いけれど、ショップのロゴと綺麗な指輪が映る大きな広告が、スポットライトで照らされている。
それを見た瞬間、自分の中に作り上げた〝誠実で大好きな彼の姿〟がピシッと大きくひび割れた。
ガラガラと崩れていく。彼との虚像の日々が。
……ああ、今やっと目が覚めた。私はずっと、一度たりとも本気で愛されたことはなかったのだ。
本当はわかっていながら、わざと見て見ぬフリをしていた。
他の女性といるのを目撃したあの時、彼女のお腹のかすかな膨らみと、ふたりの左手の薬指に輝くものに気づいていたのに──。
「朝霞さん?」
急にその場に立ち尽くして黙り込む私に、幸野くんは不思議そうに呼びかけた。私はジュエリーショップを眺めたまま口を開く。
「……私、終電までには絶対に帰るような人間だったの。学生時代も、どんなに羽目を外しても朝帰りとかしたことなくて」
「朝霞さん真面目ですもんね。デスクの上はいつもきちんと整理整頓されてて綺麗だし、ミスもしないからたいてい定時で帰るし。だから今夜はびっくりしました」
よく知ってるなと思いつつ、苦笑を漏らす。
自分で言うのはおかしいけれど、たぶん優等生の部類に入るほうだと思う。授業をサボったことは一度もなかったし、昔から今まで人間関係も良好で特に問題はないし、人並みに恋愛をして結婚も順調にできるんじゃないかと、勝手に思っていた。
「だから、余計に信じたくなかったのかも。……自分のほうが浮気相手だったなんて」
ようやく受け入れられた現実を声にすると、幸野くんが目を見張った。
透さんの部屋に女の痕跡はなかったように思う。きっとまだ同棲はしていないのだろうが、妊娠している彼女と結婚の約束をしているのは間違いない。
彼と過ごす休日も、彼がくれる愛の言葉も、全部上辺だけのものだった。
本当は、浮気現場を目撃する前から薄々感づいてはいた。わかっていたのに、信じたくない気持ちが先行して、都合の悪いことを考えないようにしていた。今の今まで。
そんなの、自分を苦しめるだけなのに。
「はは……バカだな、私。望みなんて、最初からなかったのに」
口角は上げているのに、瞳からぼろっと涙がこぼれた。
人前で泣くのもいつぶりだろうか。お堅い女だから可愛げがないと、遠い昔の元カレにも言われたっけ。
結局、今回もうまくいかなかったな。真面目に生きていても、愛される女にはなれないのか……。
自信も崩れていきそうになったその時、こちらに手が伸びてきて背中に当てられる。そのままそっと抱き寄せられ、目を見開いた。
優しい、優しいハグをして、彼が耳元で告げる。
「バカなのは朝霞さんじゃありません。あなたはただ、真剣に恋していただけでしょう」
私の気持ちを汲み取ってくれる言葉が響いて、さらに涙がぶわっと込み上げた。
彼の声も、腕の中も、馴染んだものではないのに温かくて心地いい。ぽんぽんと背中を叩かれ、子供みたいに泣いた。
それからどのくらい経っただろうか。近くのベンチに座らされて、私が泣き止むまで幸野くんは静かに隣にいてくれた。
ようやく涙が落ち着いた頃、気だるげに座って空を見上げる姿も絵になる幸野くんがふいに問いかける。
「ねえ朝霞さん、ブルーモーメントって知ってます?」
また突然話題が変わった。この子は掴みどころがないな。でも、彼のこういうところが不思議な魅力なんだよね。
自然に口元が緩み、さっき私が取り出すより先に幸野くんが差し出してきたティッシュで鼻をかんでから答える。
「ドラマ?」
「あーそうそう、タイトルになってましたね」
幸野くんはそう言いながら、私の鼻水を拭いたティッシュを受け取ろうと手を差し出してくるので、「さすがにいいよ!」と笑いながら首を横に振った。
意外にも気が回る人なんだな。そしてすごく優しい。
「日の入り後と日の出前に、ほんの五分くらいですけどすげぇ綺麗な深い青色の空が広がるんです。今日は天気いいし、乾燥してるから見られるかも」
「へ~、詳しいね」
「昔、天体観測にハマった時があったんで」
きっと泣き腫らしてひどい顔になっているだろう私を見つめ、彼が得意げに口角を上げる。
「これから一緒に見ませんか? 気持ちも、運命も変わるかもしれませんよ」
明るい期待を抱かせるような言葉に、少しだけ心が弾む。
私も、現実から逃げるのは今夜を最後にしたい。夜が明けたら新しい自分になりたい。
そう前向きになってきた時、トレンチコートのポケットに入れていたスマホが短く振動した。「ちょっとごめん」と断って取り出した瞬間、どくんと心臓が重い音をたてる。
【遅くなってごめん。どこにいる? 今からでもよければ行くよ】
透さんからの返信……もう来ないだろうと思っていたのに。しかも、深夜二時半を過ぎたというのに迎えに来ようとしてくれている。
ざわざわと、風に煽られた木々のように心が動揺する。
どうして突き放してくれないの。そうやって優しくするから、私は沼にはまったみたいに抜け出せなくなっちゃったのよ。
でも、今やっとそのぬかるみから這い出せそうなのだ。私がメッセージを送ってから今に至るまでの、空白の約二時間の違和感にも、もう気づかないフリはしない。
スマホをじっと見つめる私の様子から、幸野くんも彼からメッセージが来たのだと気づいたのか、若干表情が強張っている。私はひとつ大きく深呼吸をすると、意を決して電話のマークをタップした。
《もしもし、大丈夫か?》
すぐに聞こえてきたのは、心配そうな低い声。胸がぎゅっと締まって、ひどく苦しい。けれど、なんとかいつも通りの声を絞り出す。
「こんな遅くに突然連絡してごめんね。でも、もうこれで最後にするから。迎えもいらない」
きっぱり言い、息を吸い込んで笑みを作る。
「今までありがとう。これからは、彼女と子供を幸せにしてあげてね。もう浮気するなよ、クズ」
声のトーンを変えず、普段なら口にしない言葉を吐き捨てた。電話の向こうの彼と、隣にいる彼がギョッとしているのがわかる。
《えっ⁉ え、ちょっと待っ──》
「さようなら。永遠に」
ものすごく動揺した調子でなにかを言おうとしたものの、冷たくぴしゃりと告げて強制終了した。そのままの勢いで透さんの連絡先をブロックし、天を仰ぐ。
自分からけじめをつけられたことが予想以上に爽快で、これまで覆われていたもやから一気に解放された気がした。
「はぁー、すっきりした!」
「すげぇ……いつもの朝霞さんからは想像できない。カッコいいっす」
呆気に取られた様子の幸野くんに褒められて、私は「ありがと」としたり顔で口角を上げた。
──大丈夫、もう涙は出ない。もう、暗闇で彷徨っているような未来のない恋に縋りついたりはしない。
スマホをポケットにしまい、んーっと伸びをして言う。
「日の出まで、あと三時間くらいあるよね。なにして待つ?」
私がブルーモーメントを見るつもりだと察したであろう幸野くんは、嬉しそうに頬を緩める。
「飲み明かしますか」
「幸野くん、お酒飲めるほう?」
「缶チューハイ一本なら」
「弱っ」
「九パーの場合ですよ。九パー」
仏頂面になって度数を主張する彼に笑いつつ、とりあえず開いているお店を探すため再び歩き始めた。
失恋したのに落ち込まないでいられるのは、一緒にいてくれた幸野くんのおかげ。せめてものお礼に、なんでも奢ってあげよう。
結局、レトロ感のあるカフェで飲み明かすことに。ジャズが流れる落ち着いた雰囲気のお店で、こんな時間にも営業しているなんて初めて知った。
隅っこの席に向かい合って座り、いろいろな話をして、ひと晩だけで幸野くんについて詳しくなった気がする。そして自然体で過ごせる彼との時間は、なんだかとても心地よかった。
さっきもコーヒーを飲んだのでカフェインを取り過ぎてもいけないと、いい大人がふたりしてオレンジジュースを飲んでいたのはおかしかったけれど。
午前五時半、川沿いにあるスロープを歩いて開けた広場までやってきた。目の前の雄大な川の向こうに並んでいるビルは小さく見え、私たちの周辺には遮るものがなにもなく、空がとても広く感じる。
「ここが一番よさそうですね」
「見晴らしいいね~。すごく気持ちいい」
肌寒いし眠気もあるけれど、とても清々しい気分だ。だいぶ空が明るくなってきて、空が濃紺から鮮やかな青色に変わってきた気がする。
ふたり並んで柵に手をかけ、もうすぐ訪れるマジックアワーを静かに待っていると、ふいに幸野くんが口を開く。
「あの、すみません。朝霞さんにひとつ謝らなきゃいけないことが」
「えっ?」
心なしか歯切れが悪く、なにを言われるのだろうかと若干身構える私。
彼は川の向こうに目をやったまま、少々気まずそうに言う。
「朝霞さんが寝てるのに気づいた時、本当はすぐに起こせば終電に間に合ったのに、わざと起こしませんでした」
え、なんで?とぽかんとする私に、青く染まった彼の綺麗な瞳が向けられる。
「あなたと、ふたりきりの時間を過ごしたくて」
予想外すぎる理由を告げられ、私は目を見開いた。
私とふたりきりの時間を……? それって甘い意味、なのかな? 幸野くんにそんな思惑があったなんて!
「さ、策士!」
「ごめんなさい」
みるみる頬に熱が集まり、無意識に手の甲で口元を隠して叫ぶと、彼は即座に謝った。
とはいえ、あまり悪びれた様子はない。私もまったく嫌じゃなく、むしろ今夜の出来事があってよかったと思っているので、すぐに笑みがこぼれた。
「幸野くんのおかげで迷いを断ち切れたから、感謝してるよ。ありがとう」
偽りのない笑顔を向けると、彼の表情もほころぶ。
「それに、私も楽しかった。真夜中の散歩」
「ひとりでは絶対歩いちゃダメですよ。朝霞さんは特別可愛いから」
さらりと甘い言葉をかけられ、私はまたドキッと胸を高鳴らせた。裏切りが発覚して失恋したばかりなのに、懲りない女だな私……。
でも、幸野くんの言葉は出まかせではないんじゃないかと思える。誰にでも甘言蜜語を使うような人ではないからかな。
めちゃくちゃ照れてしまい、赤くなっているだろう顔を俯かせつつ返す。
「……じゃあ、また付き合ってね」
「もちろんです」
口角を上げて迷いなく答える彼からは嘘の匂いは感じず、安堵に包まれるような気がした。
やがて空は一面最高に鮮やかな青色に染まり、初めて見る神秘的な景色に息を呑む。
夜が明ける瞬間って、こんなに美しかったんだ──。
本気で愛されていないとわかった時から、世界は真っ暗になってなにも見えなかった。けれど、今隣にいる彼が、暗闇の中でも確かにある素敵な景色を見せてくれた。
どうするのが自分にとっての正解か気づかせてくれた。
終わりは始まり。朝が来たら、人も街もまた動き出す。私も新たな気持ちで始発電車に揺られているだろう。
地平線がどんどん明るんでくる。グラデーションが広がっていく空を、私たちは心地いい空気に包まれながらいつまでも見上げていた。
End
