夏休みが明けても、暑さは容赦なく校庭を焼いていた。

体育教師がトラックのスタートラインに立ち、手にしたストップウォッチを睨みつけている。

今日は、毎年恒例の100メートル走のタイム測定日だ。

この記録が、体育祭の大隊リレーでクラス代表を決める材料になる。

葶驀の苗字は画数が少ない。

体育の先生は名前の画数が少ない順に並べていたため、葶驀の番はすぐに回ってきた。

第二レーンに立ち、スタートの構えをとる。

隣の生徒たちはほんの数センチでも前に出ようと足元を調整しているが、葶驀だけは、特に意識することもなく、自然体でそこにいた。

「位置について!」

体育係の生徒の声が飛ぶ。葶驀はほんの少しだけ、身体を前に傾けた。

「よーい――ドン!」

号砲と同時に、葶驀は地を蹴り、風を手刀で切るように腕を振る。

ゴールラインの白が視界に入り――葶驀は最後の一歩を力強く踏み込んだ。

「林くん、11秒15!」

教師の声がグラウンドに響いた。

減速しながら振り返ると、後続の生徒たちはまだゴールに届いていない。

葶驀は、そのまま何事もなかったようにクラスの休憩エリアへ戻り、空いていた渃嫣の隣に静かに腰を下ろした。

「速いじゃん。選ばれるよね?」

渃嫣がちょっと驚いた声で言う。

「全員が測り終えないとわからない」

葶驀は無感情にそう返す。

「絶対選ばれるってば!」

渃嫣が声を張り上げたその瞬間、周囲の生徒たちが一斉に振り向いた。

渃嫣は顔を赤らめて、思わず頭を下げる。

「陳さんはうつむかなくても、みんなには見えないんじゃない?だって、僕がこの席に座ってると、理屈では君のことを完全に隠してるはずだし。」

葶驀は不思議そうに言ったが、渃嫣から返ってきたのは呆れたような白眼だけだった。

自分のどこが悪かったのか、葶驀にはまったく分からなかった

「私、やっぱり先生に欠席届け出してくる」

席を立とうとする渃嫣に、葶驀は首をかしげる。

「どうして?」

「足が短くて遅いから、たぶん選ばれない。それなら一人減っても変わらないでしょ?」

渃嫣の答えに対し、葶驀は真剣な顔でこう返す。

「問題ないわけないだろ?20人が選ばれるとしたら、21番目の子が走り終えた瞬間に、選ばれる確率はもう100%じゃなくなる。仮にNが20より大きいとすると、第N人目が走り終えた時点で確率は変動し、N+1人目が走り終えたらまた下がる。だから、20人以降は一人増えるごとにちゃんと意味があるんだ。少なくとも、選ばれる可能性においては……」

その理屈に、渃嫣は思わず吹き出した。

「何それ、数学の帰納法をそんなふうに使うなよ!」

大笑いしながら、手で口元を押さえる。

「歪んだ理屈も、誰かが理屈を与えれば理屈になるんだよ」

葶驀はどこか誇らしげに胸を張った。

「はいはい、まさか“やってみなきゃ分からないでしょ”って説得してくるかと思ったのに!」

渃嫣が笑いながら言った。

「それは君が先生に相談しに行けば絶対言われると思ったからね。どうせ同じこと二回も聞きたくないでしょ?」

葶驀がそう言うのと同時に、スタート地点から体育係の生徒が渃嫣の名前を呼んだようだった。

「君の話聞いてたら、なんか元気出てきた気がする。じゃあ、ちょっと走ってみようかな。」

渃嫣は笑顔と真剣な眼差しを浮かべながら、スタートラインへと向かっていった。

「ちゃんと見てるよ。」

葶驀は、渃嫣の背中に垂れる長い髪を見ながら呟いた。

葶驀は、渃嫣が走る前から諦めてしまわないよう、なんとか声をかけようとしていたのだ。

「うん。」

今回は、渃嫣も珍しく、それだけの返事をした。

スタートラインの後ろに立った渃嫣は、ポケットからヘアゴムを取り出し、髪を一つにまとめて簡単なポニーテールにした。

そして頬を軽く叩き、集中を高めるように身を整えた。

「位置について!」

「用意!――ドン!」

体育係の生徒の掛け声が飛ぶと、渃嫣は素早くスタートを切った。

葶驀はなぜか「頑張れ」と声を出すことができなかった。

普段は人目なんて気にしない自分なのに、なぜか今回だけは違った。

――きっと、誤解されたくなかったのだろう。

だからせめて、心の中でこっそりと応援しながら、目を離さずに渃嫣の走る姿を見守った。

もっと速く、まだ足りない、もっと――

渃嫣は、葶驀の視線を受け止めながら、ゴールへと駆け抜けていった……。