早く大人になりたいと思ったのは、君に出会ってからだった。
不安に押しつぶされそうになっている君をいつだって迎えにいけるように。
近いようで遠いその距離が、もどかしかった。
夜の関門海峡を眺めて思い出すのは、君のことばかり。
もっともっと話したいことはたくさんあった。
聞いてほしいことも山ほどあった。
一緒に行きたい場所だって、あったのに。
最終電車を見送ったとき、あれは俺たちの分岐点だとわかっていたはずなのに、俺は自らその手を放してしまったのだ。
きっと、何度だって思い出す。あの日々のことを。
◇
「セイは本当によく食べるのね」
長いまつげをぱちぱち上下させてこちらを覗き込んでいる彼女の大きな黒目には、うさん臭い笑顔を作った自分の姿が映っていた。
徐々に暑くなってきた海辺のベンチに座って、俺たちはいつものように他愛もない会話を繰り返していた。
「全然太らないのに」
ぐっと距離を詰められ、こういう動作が無防備なのだと教えてあげたいけど、分厚い鉄壁のような警戒心が解かれた今、そんなことを軽々しく口にはできないため、そんなときこそ笑顔を作ることを覚えた。
「帰ってからも食べるけど」
「え? そうなの?」
「ばあちゃんが準備してくれてるから」
「い、胃袋ブラックホール!」
白いパーカーを羽織ったマミちゃんの肩からまっすぐな黒髪が流れる。
ショートパンツからのびるどこまでも白くて長い足を視界に入れないように意識する。
マミちゃんは背が高く、ただそこに存在するだけで人の視線を集めるくらい美人で大人びた印象を持っているけど、時折かわいらしい一面を見せてくる。
彼女の育った環境が彼女を大人にせざるを得なかったのだろうけど、かわいらしい方が本当のマミちゃんなんだろうと思っている。
マミちゃんとは、高校一年生の秋に出会った。
本当は、夏休みにモデルのような子が下関駅にいたと聞いたことがあったから、下関市と北九州市を繋ぐ海底トンネル『関門トンネル』の近くで初めて見かけたときは驚いたけど、まったくこの場に馴染めていない様子からこの子がそうなんだろうなとすぐに思った。
海に向かって大きな声で不満をぶちまけていて、見てはいけないと思いつつも気づいたら、彼女に話しかけていた。
東京から引っ越してきたばかりだった彼女は慣れないこの町で疎外感を感じ、不安でいっぱいになっていたのだろう。今にも泣きそうなのを必死にこらえていて、見ているだけでも胸が痛くなった。
テレビの中で聞くような洗礼された都会の言葉を操り、どこかクラスの女子たちとは違った印象と大人びた横顔はいつも遠くを見ていて、近くにいるのにとても遠くにいるように感じさせられた。それなのに、
「み、見てだっちゃ!」
「え……」
たまにわけのわからない言葉を使って攻撃もしてくる。
「セイ、あ、あれ!」
「あ、うん……大きいけど、観光船かな」
多分、こっちの方言を使おうとしたのだろう。
使い方が間違えていることがほとんどで、どこかのアニメで聞いたセリフのようで笑ってしまいそうになるけど、困ったようにうつむいて瞳をさまよわせている様子がかわいいから言わない。
最初のころは、この街もこの街の言葉も好きではないと憤っていたのに、今では新しいものを見つけるとすぐ話したそうにするし、言葉だって歩み寄ろうとしているように見える。
マミちゃんは見た目だけではわからない、見た目以上に魅力的な内面も兼ね備えている。
木曜日は彼女と過ごす唯一のひととき。
このことは誰も知らないため、彼女のことを言葉にする機会はないのだけど。
◇
「ほっし~、やけに楽しそうに帰ってくけど彼女でもできたん?」
「え、あ……いや、そうっちゃないけど」
待ちに待った木曜日。
ホームルームが終わってすぐに席を立とうとするとクラスの女子たちにからかわれた。
彼女……と言われてあのきれいな横顔を思い出したけど、マミちゃんからしたら通りすがりで最近話すようになったただの同級生くらいにしか思っていないんだろうなと思ったら乾いた笑いしか浮かんでこなかった。
マミちゃんは俺に興味がない。
こちらに対して質問をしてくることもないから言うタイミングをなくしてしまって、あとで出た会話で『そうだったの?』と言われることが多い。
こちらでの生活に思い出を作る気はないのか、人から距離を取っているようにも見える。
交友関係は少なく、前の学校のひとつ上の先輩と連絡を取っているみたいだったけど、他に彼女ができたのだと聞いたのは先日のこと。
そのときこそマミちゃんの心理状態は極限に荒れていたし、うまい言葉が見つからなかった。
勝手な印象だけど、こういったことは都会ではよくあることで、俺にとっては顔も知らない先輩だったけどマミちゃんとよくお似合いの青春ドラマに出てきそうなかっこいい人だったんだろうなとぼんやり思ったことはあった。
マミちゃんもいつかは東京へ戻っていく人だ。
友達はいらないと言っているし、ここでのわずかな思い出なんて彼女にとっては不要なのだろう。だから、俺も自分のことは極力話さなくなった。
「急に自転車で学校来るようになったし」
「それはトレーニングもかねて……」
「絶対嘘!」
「本当のこと言ってよ~」
女子たちにぎゃーぎゃー言われて、憐れむ様子でこちらを見ている友人達も助けようとはしてくれない。こっちはこっちであとでまたからかってくるのだろう。
彼女たちのほんの一部でも見習ってマミちゃんが俺に興味を持ってくれたらここでもちょっと話は膨らんだかもしれないけど、一方的な片思いでマミちゃんをこれ以上苦しめるのも本望ではなく、とてもじゃないけど言えなかった。
『セイ!』
こちらの姿を見つけると、ぎこちなく頬を緩める。
長い髪を風に揺らし、近づいてくるその姿を見るだけで今は十分だった。
とにかく彼女はよく目立つ。
たまにマミちゃんの目撃情報があってギクッとしたことはあったけど、誰にも言わずに木曜日の大切なひとときのことは守り抜いたつもりだ。
高校生になってから一気にみんな背伸びをし始め、好きだ、愛だ、恋人だと言い出したけど、どれだけ女子たちから呼び出されることが増えても、いつも遠くを見ている女の子のことが脳裏をよぎり、謝罪の言葉以外見つからなくなった。
窮屈な毎日だったけど、彼女の隣に座ると少しずつ浄化されていく。そんな気がしたんだ。
◇
「セイ、聞いてる?」
「聞いてる。続けて」
「うん、それでね……」
大丈夫だと自分に言い聞かせて努めて笑顔を作ると、彼女は安心したようにまたおしゃべりを始める。
これだけ話すのが好きな子なのだ。
学校でももっと話したいのだろうなと思うことはある。
マミちゃんはいつもひとりだと言っていたけど、まわりには彼女と話したい子もいるのだと思う。彼女は家庭環境の影響で自分を過小評価するところがあって自虐的だけど、彼女があまりにも美人だから近づきにくいのだろうなとは想像はつく。
話せばとてもいい子なのにと思う反面、誰かに呼び出されている姿を想像すると複雑な心境が何度も矛盾を繰り返して心の奥でぐるぐると回っていた。
「セイって絶対に賢いよね」
「普通だよ」
「ノートが賢い人の書き方だよ」
中身のない漠然とした話はするけど深いことは聞いてこない。
一緒に過ごすうえで、なんとなくマミちゃんの独自のルールがわかる気がした。
人との距離感を、彼女なりに見極めているのだ。
ギリギリのところまで踏み込まないように。
こんなにも近くにいるのに、彼女と俺の間には凄く大きな溝があった。
木曜日はだいたい四時半頃にみもすそ川公園の近くに到着するとベンチに腰掛けたマミちゃんが立ち上がって近づいてくる。
壇ノ浦の戦いの跡地であるこの場所は、かつては血の色に染まったであろう決戦の地だったというのに、マミちゃんがそこにいるだけでぱっと明るく花が咲いたように見え、歴史は移ろい、新しい時代の訪れを感じる……などと自分でも頭のおかしなことを考えることが増えたくらいだ。
最初のころはほんの少し会話をするくらいだったけど、少しずつ時間が伸びていき、気づいたら関門トンネルが閉鎖されるギリギリの時間まで彼女と過ごすことが増えた。
リミットは午後十時。
他愛もない会話をして、少し離れたコンビニまで夕食を買いに行ったり、それぞれの課題をしたり。日が落ちてしまうと真っ暗になってしまうため大半は話していることが多かったけど、長いようであっという間に時間は過ぎていった。
下関市から九州にある門司港に続く関門トンネルを通って俺が住む門司港レトロ地区に向かう間の数分間、その日の余韻に浸ったりもするけど、山口県から福岡県に続く県境の表記が見えてくると少しずつ冷静になっていく自分がいた。
もちろん彼女と会っていない日はほとんど部活動に専念している。
本当は木曜日以外も自転車を使い、関門トンネルを通って(トンネル内は下車して歩くのだけど)みもすそ川公園付近から学校まで向かっている。
でも、このことは話していない。
一度雨の日に行き違いがあったため、連絡先も教えたしマミちゃんからも聞いてはいるけど、彼女が一瞬戸惑いを見せたため連絡もしていない。
この関係は木曜日という枠から、絶対にはみ出してはいけないのだ。
「七夕の日も今日くらい晴れたらいいのに」
空を眺めて口角を上げる彼女に、いつしか自然に笑うようになったなと思う。
しかしながら、天は見方をしてくれない。
「セイの言うとおりずっと雨模様のままだったね」
木曜日は試合の日と同じくらい天気予報をチェックしている。
ちょうど木曜日と被った今年の七夕も例外ではない。
「大丈夫。てるてる坊主を作っておくから」
「セイは大丈夫しか言わない」
そう言いながら少しずつここではないどこかを眺めるマミちゃんの姿が目に入り、口をつぐむ。
いつも現実的な話し方をするマミちゃんが珍しく神話を口にするのは、七夕の物語のように遠く離れた東京の先輩のことでも思い出したのだろうか。
「遠くへ行きたい」
「うん」
天の川を渡って、ここではないどこかへ。
そう聞こえた気がした。
「涼しくなったら門司港に遊びに行ってみようかな」
「……え?」
「きらきらしてて、すっごくきれい」
マミちゃんの瞳は、いつの間にか海の向こうでぼんやり光る明かりをとらえていた。
「わたしは電車でしか行けないけど」
ちらっと関門トンネルに視線を向け、苦笑するマミちゃん。
初めて俺についてトンネルの中まで見に来たとき、狭いところが苦手だと怖がっていたのを思い出す。
「だ……」
言っている意味をしっかり理解してはっとなる。
「大丈夫。門司駅で一回乗り換えはあるけど、下関駅から三十分くらいで着くから」
マミちゃんにとっての乗車時間の三十分はどんな感覚なのかわからないけど、ここ最近何度か関門トンネルの最終時間に間に合わず、やむを得ず下関駅に移動して電車で帰ることが続いたため、意外と行きやすい距離にあるということを伝えたかった。
「あ、唐戸市場から船も出てるけど」
「そうなの?」
船には乗ったことがないからなぁ、と言いつつ瞳に光を宿しているマミちゃんは今まで見た彼女と少し違って見えた。
「案内するよ」
「え?」
距離感を間違えていないかドキドキしたけど、思わず口にしてしまったからには仕方がない。
「あ、マミちゃんがよかったら、だけど」
「いいの?」
「門司港は庭みたいなものだし」
不自然なほど早口になりそうなのをぐっと抑え、笑顔を作る。
断られたら、また適当に流せば……
「ありがとう!」
「う、うん」
予想外の反応に驚きながらもできるだけ平静を装うよう努力する。
一歩……少しずつだけどまた一歩だけ、彼女が自身の殻を破って前に進んでいるように感じられた。
「迎えにくるから!」
セイの木曜日が都合いいのよね、と自身のスマホを眺める彼女に思わず声を荒げてしまった。
「楽しみ」
驚いたように大きく瞳を見開いてから、花が咲いたように笑った。
迎えに行くよ。
遠くに行きたいと願った景色があの海の先なのであれば。
雨が降ったって、波があったって、君が望むのなら迎えに行くから。
そのとき、本気でそう誓ったのだった。
◇
「おいおいおい、急展開すぎる」
「正気か、ほっし~」
言葉にしたらなんとなくうまくいきそうな気がして、そんな願掛けのつもりで親友たちにだけ『好きな子ができたため告白する』と宣言すると、ふたりとも椅子から転げ落ちそうなほど驚いて見せた。
長かった夏休みが終わって、マミちゃんから再びその話題はでなかったけど、彼女が門司港へ遊びに来てくれた時、勇気を出して思いを告げようと思った。
わずかだけど近づいてきてくれているように思う彼女にもっと近づきたくなった。
「ちょ、相手は誰? 別のクラスの子?」
「いや、それはまだ言えないけど」
ここまで言っておいてそれはないだろ、と苦言する友人たち。
「万が一のことがあって相手に迷惑かけたくないし」
「ほっし~に告られて嬉しくないやつなんていないだろ!」
「そうだといいけど……」
そうだといいけど、それが通用しないのがマミちゃんである。
万が一のことなんて考えたくないけど、マミちゃんが困るのはもっと嫌だ。
困らせるのは嫌だ。それでももっと近づきたい。ここ数日、そんな矛盾の繰り返しである。
土曜日の試合帰りに下関駅でマミちゃんを見かけた。
すらっと背が高く美人なマミちゃんはよく目立つ。
みんなが気づくのより早く気付いたつもりだった。
声をかけたかったけど、かけられなかった。
まわりの人間のように、素直にかわいいとも言えない。
そんな関係がもどかしくて、進展したいと望んでしまった。
彼女のことを考えているようで自分勝手な考えでいっぱいである。
ともに過ごす日々の中で、自分の気持ちだけが少しずつ少しずつ深く深く、海底へ沈んでいくような心境だった。
陸にいる彼女に近づきたいと必死にもがき始めたのは、長い夏が終わったころからだった。
近くにいるのに、遠い。
それがとても苦しかった。
◇
真っ暗なみもすそ川公園の前で自転車を止めると同時に虫の音が聞こえ、彼女と出会って二度目の秋がやってきたことを悟った。
近くにいるのに、遠く遠くにいる大切な人。
何かの偶然で姿を現さないかな……なんて、この地に来るたびに考えるようになってしまった自分は結構重症に思う。
いつも彼女が座っているベンチを眺め、そこにあるはずのない残像を追う。
木曜日になればまた会えるけど、一週間はとても長い。
ぼんやり考えを巡らせて、また関門トンネルの閉館時間間近であることに気づき、慌てて人道入口へ向かう。
入口付近の箱へ通行料である二十円を入れ、地下へと続くエレベーターに乗り込む。
夏場は何度か入り損ね、結局下関駅まで向かってそこから電車で帰ることとなった。
門司港から下関へ来るより、下関から門司港へ行く方が最終電車は遅いのだなと意識したのは、そのときだった。
あのときから、彼女を案内する日を夢見てしまった。
『この人道は、夜十時を持って閉鎖いたします』
ここを通るときはいつも閉門のアナウンスに背中を押され、駆け足で自転車を押す。
閉鎖三十分くらい前から繰り返されるその音声には慣れたものの、そろそろ閉鎖ぎりぎりに現れる要注意人物としてマークされてないだろうなと想像して、ひとりで苦笑した。
今度、マミちゃんに会ったとき、そんな話をしたいなと思ったのだ。
長いトンネルの先に門司という表記を確認して、自分の街へ戻ってきたことを実感する。
誰もいなくなった関門トンネルはただただ静かで、閉鎖を告げるアナウンスだけが永遠と繰り返されていた。
いつものようにエレベーターに乗り、地上に上がる。
海を隔てて先ほどまでいた下関の明かりが遠くに見えた。それだけ門司港側の人道入口は真っ暗である。
彼女と出会わなければ、こんなにも名残惜しく海の向こうを眺めることなんてなかったのに、としみじみ思いながらも振り返った先にうずくまる人物の姿に気づき、息をのんだ。
「マミ……ちゃん……」
彼女の通う高校の制服だったためつい口にしてしまい、しまった、と思うも力なく顔を上げた彼女が会いたいと願ったマミちゃんその人で、気付いたら足が動いていた。
倒れた自転車を気遣う余裕すらなかった。
「セイ……」
「マミちゃん、なんで」
なんで、こんなところに。
「セイこそ……どうして……」
都合のいい夢かと思った。
ずっと会いたいと思っていたから幻でも見ているのではないか。
「今日は部員たちと寄り道して……って、時間!」
なぜ彼女がここにいるのかという疑問でいっぱいになりながらももう一方で冷静な自分が関門トンネルの閉鎖時刻を告げてくる。
彼女が渡らねばならない先は十時に閉ざされたら朝まで開かない。
「大丈夫、頼めば渡りきるまで待っててくれるはず……」
「……やっ」
落ち着かせようと試みるも、突然怯えた形相で首を振るマミちゃんは『戻りたくない』と繰り返すように呟く。
「もう、嫌だ……」
呼吸は乱れていて、息をしているのか声を発しているのかわからないくらいだ。
「自由に、なりたい」
まさに悲痛の叫びだった。
「……出てきたの?」
家から。
答えるかわりに大きな瞳から涙をポロポロこぼしたマミちゃんにこれ以上、何も言えなくなった。
自由になりたい、それがマミちゃんの願いなのだろう。
きっと近いうちにこの街から出ていくであろう彼女の。
「……大丈夫」
彼女の背をさすりながら、精一杯の笑顔を浮かべる。
「大丈夫」
そんな未来がくることは予測できていたのに、ずっと一緒にいられるようなそんな気がしていた。
わかっていた。わかっていたのに。
「よかったら、俺の街を見てってよ」
関門トンネルは閉鎖を告げる。
それでもこれが最後なら、このひとときだけでも共に過ごしたいと、心から願ってしまった。
「あれが観光列車の線路」
「ここからが浜町アート通り」
真っ暗な夜道をマミちゃんを背に自転車を走らせる。
少しずつ暖色の外套の明かりが見えてきたところで彼女がこの地に遊びに来たら伝えたいと思っていた言葉を並べる。
俺の背にしがみつくマミちゃんがこの景色を見ているかどうかはわからない。
それでも今がその絶好のタイミングで、完全に今日この日の出来事は過去に変わるであろうと本能が悟っていた。
「ここが門司港レトロ地区」
自転車を止め、振り返ると光をいっぱい瞳に集めたマミちゃんが大きく目を見開いたのがわかった。
「マミちゃん、おいでませ!」
やっぱり彼女には笑っていてほしいから、この瞬間が最後となっても全力を尽くしたいと思った。
「ちょっと回ろうか」
右から左へと眺めては両手で口を覆い、小さな声を出したマミちゃんにこちらも嬉しくなり、再びペダルに足をかける。
見慣れた光景なのに彼女がいるだけで別世界に感じられた。
「このあたりはバナナの叩き売りの発祥地なんだよ」
「バナナ?」
「休日はたまに実演もしてる」
「そ、そうなの?」
「あとは、焼きカレーが有名かな」
観光地とはいえ、十時を過ぎれば店もほとんど締まり、外套の明かりと海の音色が切ない雰囲気を演出してくる。
この地の名物である焼きカレーをカレーが好きであろうマミちゃんに食べてほしかったのに。
慣れ親しんだ街を走りながら、いろいろな感情がいっぱいになっていた。
さりげなく目を向けた腕時計を眺めて焦る気持ちを抑えた。
もうすぐ、彼女の乗らなければならない電車の最終時間が近づいてきていた。
「ここが、門司港駅。電車で登校するときに使っている駅で、あっちは船。マミちゃんの通学路にある唐戸市場まで続いてる。だいたい五分くらいかな」
どうしたらいいのか、ずっと考えていた。
「マミちゃん、何があったか、電車で聞いてもいい?」
そして、出した結果がこれだった。
「え……」
これが一番いい結論だと思ったのに、それは違った。
マミちゃんの表情がみるみるうちに曇っていく。
嫌なのだろうとすぐにわかった。
そんな俺だって、このままこの時間が永遠に続いてほしい。
でも、それではなにも解決しない。
だからこそ、この答えを選んだ。
彼女がひとりで帰れないならば、自分が送り届け、ともに怒られようと覚悟も決めている。
どちらにせよ、このまま逃げていてもマミちゃんの願いは叶わないのだから。
「十一時半くらいが下関駅に着く最終電車だと思う」
マミちゃんの家庭環境は軽くだけど聞いたことがある。会話の節々にもよく出てきていた。
父親と離れて母親とマミちゃんはふたりで過ごしているのだという。
癇癪を起しがちで病的に娘を管理したがる母親に対してマミちゃんが不服を漏らすことが幾度となくあった。
きっとまたうまくいかなかったのだろう。
よく考えたらもっといい案はあったかもしれないのに、このときの俺にはそう判断するのが精一杯で、知らず知らずのうちに彼女をさらに傷つけていたことに気付けずにいた。
いかに甘えた環境にいたかを知るのはあとのことになる。
「俺も一緒についていって、一緒に謝るから」
第三者も交えて理由を説明し、誠意をもって謝ればなんとかなると本気で思っていた。
「か、帰れない……」
「え?」
蒼白は表情を浮かべ、マミちゃんは大きく首を振った。
「わ、わたしは悪いことなんてしていない。わた、わたし……」
胸元で握られた指先は震え、その姿は全身全霊で拒絶体制に入っていた。
「セイ、ごめん……、でも、わたし……」
怯えるように視線をあげた彼女にこれ以上何も言えない。
「マミちゃん」
気づいたら、彼女を抱き寄せていた。
プルプルと肩を震わせる彼女は小さく、ずいぶんもろく感じられた。
「落ち着いて。大丈夫だから」
大丈夫、と心の中で連呼する。
彼女が少しでも落ち着きますようにと願いながら。
「大丈夫」
ゆっくり引き寄せると、彼女は黙ったまま胸に頭をよせてくる。
少しずつ呼吸を整えた彼女が再びこちらを見上げた時、初めて自分の大胆な行動に気づいて飛び上がりかけたけど、全力で平静を装う。それでも、
「だ、大丈夫なの? すっごい大きな音がしているけど」
ぐっと腕を回され、さらに胸に耳を押し当て俺の鼓動に耳を傾けようとした彼女に穴があったら入りたくなったくらいだ。
「ま、マミちゃん!」
「セイもそんな顔することあるんだ」
「え、どんな顔?」
「ふふ、そんな顔はそんな顔よ」
目と目が合い、力なく笑おうとした彼女に、すべての音がやんだように感じられた。
「……ま、いっか」
葛藤は、続いている。
このままでいいのか、どうかって。
それでも頭の中の天秤が予期せぬ方向へと傾き始めていた。
「今帰っても朝帰ってもどうせ怒られるだろうし」
絶対にそういうことではないとわかっていたのに、いつの間にか都合のいい言い訳を探していた。
終電が走り出す時間まで、あと二十分弱。
間違いなく今引き返せば、乗ることができる。
でも、後戻りはできなかった。
自転車にまたがり、乗るよう伝えれば、彼女が素直にまた後部に腰掛け、再度腹部に手をまわしてきたからだ。
このまま逃げてしまいたいと思ってしまった。
彼女を救えるのは自分だけなのだと、錯覚までしたほどだ。
普段何気なく見ていた景色が、色を変えて見えた。
ギリギリまで肯定と後悔を繰り返しながら、結局向かった先は自宅だった。
ペダルを漕ぎながら葛藤は続く。
今なら間に合う。
まだ間に合うのだと何度も何度ももう一人の自分が脳裏の向こうで叫んでいた。
それでも悪魔を宿した自分自身が走行速度をあげ、その声を遠く遠くへ流していった。
角を曲がったところ見える『STAR LIGHT』と書かれた喫茶店の前で自転車を止める。祖父母が営んでいる店だ。
「しょぼいけど、野宿よりはいいだろ」
その言葉はほとんど自分へ言い聞かせていた。
「こっち」
自室のある方向を指差し、振り返るとはっとしたように頷き、マミちゃんはついてきた。
建物の裏側にある自室へと続く通路を通っている間もずっと矛盾した感情は葛藤を繰り返していた。
(今ならまだ……)
腕時計どころか、スマホさえ見られなかった。
「こっちはじいちゃんたちが住んでいて、俺はこっち」
裏庭にポツンと建てられた離れの前で、ここが自室だと告げると、すごい!と彼女は小さく呟いた。
一生懸命混乱した脳内を落ち着かせようとする俺とは裏腹に、興味津々に今まで見たこともない表情であたりを見渡すマミちゃん。
とても静かな夜だった。
真っ暗な庭先で、月明かりだけに照らされた彼女がここにいるのが都合のよい幻覚のように思えた。
後戻りができないと感じられたのは、入口の戸を開いてすぐに見えた時計の針がもうすぐ十一時半を指そうとしているのが見えたからだ。
もう、間に合わない。
とにかく、朝のままだった室内を慌てて片付け、締め切っていた窓を豪快に開ける。
夜風が心地の良い季節で良かったと思う。
『どうぞ』というと『お邪魔します』と彼女がおずおずと入室してきた。
マミちゃんがあまりにもこのお粗末な部屋とは似つかわしくなくて、まるで夢を見ているような不思議な心境だった。
いや、普段にはない光景に少しずつ落ち着かなくなってきていた。
こんなところにつれてきて、どうするつもりなのか、冷静なもうひとりの自分が俺自身の頭に冷水をぶっかけてきた気分だった。
わからなくはない。でも、脳内が混乱している。
目が合って小さく笑った彼女に手を伸ばしたくなるのをぐっとこらえる。
(いやいやいやいや、ちょっと待て!)
思考回路がまるで自分の物ではないみたいだった。
彼女に対して、もっともしたくなかった想像が脳内をよぎり始め、必死に頭を振る。
いつもとは違う、夜の魔物に心を乗っ取られそうだ。
「あ、変な本が置いてあっても平気だよ」
「……いや、ないし」
こちらの気も知らないでじっと見つめてくるマミちゃんに『あんまり見ないで』と力なく告げた。
言葉ひとつひとつに敏感になっていて、どの言葉が引き金になるかわからず自分でも怖くなった。
嫌な感情はどんどんどんどん大きくなる。
ふふっと瞳を細めて笑う彼女から視線が離せない。
(マミちゃん……)
セイ、ともう一度呼んでほしい。
少しずつ、夜の魔物に支配されていく。
このまま手を引いて、もう一度抱きしめたら、きっと彼女は抵抗しないだろう。抱きしめて、キスをして、そのまま押し倒しても……
「あ……」
視線を上げた彼女は一瞬表情を無にし、ぐっと唇を引き結んだ。大きな瞳から一縷の涙が流れ落ちる。
時間が、最後の電車を連れて行ったのだろう。見なくてもわかった。
伸ばした手で、軽く彼女の手に触れた。
このくらいなら許してほしい。
「セイ、ありがと……」
言葉とともに顔をくしゃっとさせた。
まるで緊張の糸が切れたように。
「……っ」
泣いていた。
マミちゃんは小さく声をあげて泣いていた。
それでも、ポロポロと涙をこぼしながらも彼女の瞳は光を宿していて、先ほどとは違ってどこか満足げな表情をしているように見えた。
わかっている。
こんなにも弱っている彼女に何かできるはずなんてなかったのだ。
俺は無力だ。
苦しんでいる問題から彼女を救い出してやることもできない。
せいぜいこんな小さなところに閉じ込めるのが精一杯だ。
肝心なときに、大丈夫とも言えない。
遠くに連れていくと言いながら、何一つ叶えてあげられることができない。
肩を震わせる彼女に寄り添うしかできない自分がひどくもどかしかった。
「マミちゃん」
思い出には変えたくない。でも、
「ここ、自由に使って。俺は向こうに行ってるから」
俺にはもう無理だった。
好きな人を救えないどころか、傷つけることしかできない自分がひどく嫌だ。
「セイ……」
必死に感情を隠し、立ち上がろうとしたとき、困惑した表情のマミちゃんに腕をつかまれた。
そんなかわいいしぐさでさえ、今は身の毒でしかない。
「大丈夫。俺はじいちゃんちで休むから」
何が大丈夫なのかわからないけど、想像している以上に混乱していたのは確かだ。
油断をするとこのいつもとは違う雰囲気に飲み込まれそうになる。
「セイもいて」
「いや、でも……」
絶対にダメだ。それだけは脳内が危険信号を出している。
「セイ、ごめん。でも……」
ダメだ。でも離れたくない。いや、やっぱりダメだ。
「マミちゃん」
自分でも驚くほど低い声を出していた。
「……えっと、俺も一応健全な男子高生なわけで、マミちゃんに嫌われることはしたくない」
脳内で、ヘタレ……ともう一人の自分が繰り返した。
きっといつか思い出したときに苦しくなる日は来るだろう。
「せ、セイがすることだったら嫌いにならない」
きっと、思い出して、この日を悔いる日が来るだろう。
だけど、こんなにも壊れてしまいそうな彼女に何かするなんて、絶対にできなかった。
「明日の朝、迎えにくるから」
力いっぱい振り払ったときの彼女の顔は二度と忘れることはないだろう。
最終電車を見送ったあの時間が、俺たちの分岐点だった。
でも、俺はその手を取ることを拒んだ。
彼女を連れて、天の川の向こうへ渡ることができなかった。
そのあとは、眠ることなんてできなかった。
玄関に座り込み、そのまま横になり、気づいたら太陽の光と鳥の声が朝を連れてきた。
ヘタレヘタレヘタレと、自分自身を何度も罵った。
それでも時間は戻らない。
始発の時間を確認し、彼女のいる自室へ向かうと、ノックと同時に扉が開き、彼女も寝ていないのかひどい顔をしていたのが目に入る。
謝りたかったのに、謝ることができなかった。
無言で歩く俺の後ろを彼女はついてきて、黙って乗り込んだ自転車の後ろに彼女の熱を感じた。
黙々とただ自転車をこぎ、静かな街を越え、門司港駅に向かう。
昨日とは打って変わって灰色の世界に感じられた。
どれだけ時間があっても足りなかったのに、いつも何を話していたのさえわからなくなっていた。
マミちゃんが好きだった。
でも、そんなことさえ言う資格はない。
不甲斐なかった。
不甲斐ないけど彼女を家まで送り届けて、この街から出られるようにできることをしよう。そう身勝手なことばかり考え、自己正当化して、始発の電車に乗り込んだ。
このまま時が止まればいいのにと切に願っていた。
そのあとはひどいものだった。
下関駅からバスで向かったマミちゃんの家の付近にはパトカーが止まっていて、ひどく取り乱したマミちゃんのお母さんらしい人が飛び出してきたのが目に入った。
その光景に、自分の考えの甘さを深く実感させられることになる。
あの表情は、たまに夢にも見ることはある。
大人たちに両肩をつかまれ動きを止められながらも恐ろしいほどの金切り声が聞こえた。
誰かを罵る言葉が繰り返される。
無我夢中で頭を下げた。
すみません、と彼女の言葉を聞くよりも先に謝り続けた。
マミちゃんをひとりでここに残していくことが正解だったのか、とっさにいろいろと考えたものの彼女の祖父と名乗る人物がここは大丈夫だから帰りなさいと言ってくれた。
でも、と食い下がってはみたものの自分には何もできないのはわかっていたし、あとは僕らが何とかするからと言われて、頷くしかなかった。
そのやりとりを、マミちゃんはずっと背を向けて聞いていた。
そのあとの帰り道のことは、よく覚えていない。
関門トンネルを歩いて帰ったはずだ。
『セイ』
聞こえるはずのない声に何度か振り返る。
『セイ』
その声に呼ばれるのが好きだった。
『セイ』
もう二度と呼ばれることはないのに、何度だって期待をしてしまうのだ。
山口県から福岡県へと続く県境の表記が見え、足を止める。
(ああ……)
終わってしまった。
そんな風に感傷に浸るなんて、独りよがりもいいところだ。
自ら彼女を傷つけて、手を放してしまったのに。
「……っ」
頬を伝う涙に気づき、思わず口元を覆う。
「マミちゃ……」
うそだ。夢であってほしいと心から願う。
「ごめ……」
もっともっと話したいことはたくさんあった。
聞いてほしいことも山ほどあった。
「マミちゃ……ごめ……」
一緒に行きたい場所だって、あったのに。
最終電車を見送ったとき、あれは俺たちの分岐点だとわかっていたはずなのに、俺は自らその手を放してしまったのだ。
『セイ』
その澄んだ声は長い髪をなびかせ、俺を呼ぶ。
『セイ』
好きだった。
ずっとずっと好きだったんだ。
好きだったのに。
「わぁ、すごい! 壇ノ浦の戦いの跡地だって!」
「え? どんな戦いだっけ?」
関門トンネルを渡ってきたであろう観光客たちが様々な感想を口にする様子を横目に自転車を止める。
受験生になって塾へ通うようになり、自転車での移動が減ったものの、あれから数えきれないほどこの地にやってきて、変わらぬ景色を眺める。
繰り返すように日々が過ぎた。
冬が来て春が来て、そしてまた暑い夏が来た。
真っ青な空に入道雲がかかる。
四時を超えるというのに、いまだに蒸し暑いこの地で暑い暑いと言いながら、夜風が心地よくなるまで話し合った夜のことを思い出す。
「今年の七夕は、晴れるらしいよ」
ぼそっとつぶやいた言葉に反応してくれる人はいない。
『晴れるの? よかったね』
空を見上げて彼女が笑う姿が目に浮かぶ。
彼女は、彼女が願った場所へたどり着いたのだろうか。
俺が手を差し出せなかった場所まで。
「あー、くそ!」
悔しいな、といつものように声に出し、現実を受け入れる。
選択をするということは後悔を選ぶことだ。
どちらかを選んだとしても、きっともう一つの選択肢を選べばよかったと思うだろう。
選ばなかった結末など、知ることはないというのに、永遠に選ぶこともない結論に希望を見出す。
それなら自分がそのときの直感で選んだ道が正しかったのだと思いたい。
どうせどちらを選んでも後悔をするのなら。
「はぁ」
もどかしさを受け入れ、自分に言い聞かせるまでがセットである。
ここに来ると思い出す。
思い出すたびに、苦しくなる。
それでもやっぱり、来てしまう。
『セイ』
あの日からずっと、もうここにはいない彼女の姿を探している。
もう会うことがないであろう彼女の姿を。
ずっとずっと思い出す。
指折り数えて待った、あの日々とともに。
不安に押しつぶされそうになっている君をいつだって迎えにいけるように。
近いようで遠いその距離が、もどかしかった。
夜の関門海峡を眺めて思い出すのは、君のことばかり。
もっともっと話したいことはたくさんあった。
聞いてほしいことも山ほどあった。
一緒に行きたい場所だって、あったのに。
最終電車を見送ったとき、あれは俺たちの分岐点だとわかっていたはずなのに、俺は自らその手を放してしまったのだ。
きっと、何度だって思い出す。あの日々のことを。
◇
「セイは本当によく食べるのね」
長いまつげをぱちぱち上下させてこちらを覗き込んでいる彼女の大きな黒目には、うさん臭い笑顔を作った自分の姿が映っていた。
徐々に暑くなってきた海辺のベンチに座って、俺たちはいつものように他愛もない会話を繰り返していた。
「全然太らないのに」
ぐっと距離を詰められ、こういう動作が無防備なのだと教えてあげたいけど、分厚い鉄壁のような警戒心が解かれた今、そんなことを軽々しく口にはできないため、そんなときこそ笑顔を作ることを覚えた。
「帰ってからも食べるけど」
「え? そうなの?」
「ばあちゃんが準備してくれてるから」
「い、胃袋ブラックホール!」
白いパーカーを羽織ったマミちゃんの肩からまっすぐな黒髪が流れる。
ショートパンツからのびるどこまでも白くて長い足を視界に入れないように意識する。
マミちゃんは背が高く、ただそこに存在するだけで人の視線を集めるくらい美人で大人びた印象を持っているけど、時折かわいらしい一面を見せてくる。
彼女の育った環境が彼女を大人にせざるを得なかったのだろうけど、かわいらしい方が本当のマミちゃんなんだろうと思っている。
マミちゃんとは、高校一年生の秋に出会った。
本当は、夏休みにモデルのような子が下関駅にいたと聞いたことがあったから、下関市と北九州市を繋ぐ海底トンネル『関門トンネル』の近くで初めて見かけたときは驚いたけど、まったくこの場に馴染めていない様子からこの子がそうなんだろうなとすぐに思った。
海に向かって大きな声で不満をぶちまけていて、見てはいけないと思いつつも気づいたら、彼女に話しかけていた。
東京から引っ越してきたばかりだった彼女は慣れないこの町で疎外感を感じ、不安でいっぱいになっていたのだろう。今にも泣きそうなのを必死にこらえていて、見ているだけでも胸が痛くなった。
テレビの中で聞くような洗礼された都会の言葉を操り、どこかクラスの女子たちとは違った印象と大人びた横顔はいつも遠くを見ていて、近くにいるのにとても遠くにいるように感じさせられた。それなのに、
「み、見てだっちゃ!」
「え……」
たまにわけのわからない言葉を使って攻撃もしてくる。
「セイ、あ、あれ!」
「あ、うん……大きいけど、観光船かな」
多分、こっちの方言を使おうとしたのだろう。
使い方が間違えていることがほとんどで、どこかのアニメで聞いたセリフのようで笑ってしまいそうになるけど、困ったようにうつむいて瞳をさまよわせている様子がかわいいから言わない。
最初のころは、この街もこの街の言葉も好きではないと憤っていたのに、今では新しいものを見つけるとすぐ話したそうにするし、言葉だって歩み寄ろうとしているように見える。
マミちゃんは見た目だけではわからない、見た目以上に魅力的な内面も兼ね備えている。
木曜日は彼女と過ごす唯一のひととき。
このことは誰も知らないため、彼女のことを言葉にする機会はないのだけど。
◇
「ほっし~、やけに楽しそうに帰ってくけど彼女でもできたん?」
「え、あ……いや、そうっちゃないけど」
待ちに待った木曜日。
ホームルームが終わってすぐに席を立とうとするとクラスの女子たちにからかわれた。
彼女……と言われてあのきれいな横顔を思い出したけど、マミちゃんからしたら通りすがりで最近話すようになったただの同級生くらいにしか思っていないんだろうなと思ったら乾いた笑いしか浮かんでこなかった。
マミちゃんは俺に興味がない。
こちらに対して質問をしてくることもないから言うタイミングをなくしてしまって、あとで出た会話で『そうだったの?』と言われることが多い。
こちらでの生活に思い出を作る気はないのか、人から距離を取っているようにも見える。
交友関係は少なく、前の学校のひとつ上の先輩と連絡を取っているみたいだったけど、他に彼女ができたのだと聞いたのは先日のこと。
そのときこそマミちゃんの心理状態は極限に荒れていたし、うまい言葉が見つからなかった。
勝手な印象だけど、こういったことは都会ではよくあることで、俺にとっては顔も知らない先輩だったけどマミちゃんとよくお似合いの青春ドラマに出てきそうなかっこいい人だったんだろうなとぼんやり思ったことはあった。
マミちゃんもいつかは東京へ戻っていく人だ。
友達はいらないと言っているし、ここでのわずかな思い出なんて彼女にとっては不要なのだろう。だから、俺も自分のことは極力話さなくなった。
「急に自転車で学校来るようになったし」
「それはトレーニングもかねて……」
「絶対嘘!」
「本当のこと言ってよ~」
女子たちにぎゃーぎゃー言われて、憐れむ様子でこちらを見ている友人達も助けようとはしてくれない。こっちはこっちであとでまたからかってくるのだろう。
彼女たちのほんの一部でも見習ってマミちゃんが俺に興味を持ってくれたらここでもちょっと話は膨らんだかもしれないけど、一方的な片思いでマミちゃんをこれ以上苦しめるのも本望ではなく、とてもじゃないけど言えなかった。
『セイ!』
こちらの姿を見つけると、ぎこちなく頬を緩める。
長い髪を風に揺らし、近づいてくるその姿を見るだけで今は十分だった。
とにかく彼女はよく目立つ。
たまにマミちゃんの目撃情報があってギクッとしたことはあったけど、誰にも言わずに木曜日の大切なひとときのことは守り抜いたつもりだ。
高校生になってから一気にみんな背伸びをし始め、好きだ、愛だ、恋人だと言い出したけど、どれだけ女子たちから呼び出されることが増えても、いつも遠くを見ている女の子のことが脳裏をよぎり、謝罪の言葉以外見つからなくなった。
窮屈な毎日だったけど、彼女の隣に座ると少しずつ浄化されていく。そんな気がしたんだ。
◇
「セイ、聞いてる?」
「聞いてる。続けて」
「うん、それでね……」
大丈夫だと自分に言い聞かせて努めて笑顔を作ると、彼女は安心したようにまたおしゃべりを始める。
これだけ話すのが好きな子なのだ。
学校でももっと話したいのだろうなと思うことはある。
マミちゃんはいつもひとりだと言っていたけど、まわりには彼女と話したい子もいるのだと思う。彼女は家庭環境の影響で自分を過小評価するところがあって自虐的だけど、彼女があまりにも美人だから近づきにくいのだろうなとは想像はつく。
話せばとてもいい子なのにと思う反面、誰かに呼び出されている姿を想像すると複雑な心境が何度も矛盾を繰り返して心の奥でぐるぐると回っていた。
「セイって絶対に賢いよね」
「普通だよ」
「ノートが賢い人の書き方だよ」
中身のない漠然とした話はするけど深いことは聞いてこない。
一緒に過ごすうえで、なんとなくマミちゃんの独自のルールがわかる気がした。
人との距離感を、彼女なりに見極めているのだ。
ギリギリのところまで踏み込まないように。
こんなにも近くにいるのに、彼女と俺の間には凄く大きな溝があった。
木曜日はだいたい四時半頃にみもすそ川公園の近くに到着するとベンチに腰掛けたマミちゃんが立ち上がって近づいてくる。
壇ノ浦の戦いの跡地であるこの場所は、かつては血の色に染まったであろう決戦の地だったというのに、マミちゃんがそこにいるだけでぱっと明るく花が咲いたように見え、歴史は移ろい、新しい時代の訪れを感じる……などと自分でも頭のおかしなことを考えることが増えたくらいだ。
最初のころはほんの少し会話をするくらいだったけど、少しずつ時間が伸びていき、気づいたら関門トンネルが閉鎖されるギリギリの時間まで彼女と過ごすことが増えた。
リミットは午後十時。
他愛もない会話をして、少し離れたコンビニまで夕食を買いに行ったり、それぞれの課題をしたり。日が落ちてしまうと真っ暗になってしまうため大半は話していることが多かったけど、長いようであっという間に時間は過ぎていった。
下関市から九州にある門司港に続く関門トンネルを通って俺が住む門司港レトロ地区に向かう間の数分間、その日の余韻に浸ったりもするけど、山口県から福岡県に続く県境の表記が見えてくると少しずつ冷静になっていく自分がいた。
もちろん彼女と会っていない日はほとんど部活動に専念している。
本当は木曜日以外も自転車を使い、関門トンネルを通って(トンネル内は下車して歩くのだけど)みもすそ川公園付近から学校まで向かっている。
でも、このことは話していない。
一度雨の日に行き違いがあったため、連絡先も教えたしマミちゃんからも聞いてはいるけど、彼女が一瞬戸惑いを見せたため連絡もしていない。
この関係は木曜日という枠から、絶対にはみ出してはいけないのだ。
「七夕の日も今日くらい晴れたらいいのに」
空を眺めて口角を上げる彼女に、いつしか自然に笑うようになったなと思う。
しかしながら、天は見方をしてくれない。
「セイの言うとおりずっと雨模様のままだったね」
木曜日は試合の日と同じくらい天気予報をチェックしている。
ちょうど木曜日と被った今年の七夕も例外ではない。
「大丈夫。てるてる坊主を作っておくから」
「セイは大丈夫しか言わない」
そう言いながら少しずつここではないどこかを眺めるマミちゃんの姿が目に入り、口をつぐむ。
いつも現実的な話し方をするマミちゃんが珍しく神話を口にするのは、七夕の物語のように遠く離れた東京の先輩のことでも思い出したのだろうか。
「遠くへ行きたい」
「うん」
天の川を渡って、ここではないどこかへ。
そう聞こえた気がした。
「涼しくなったら門司港に遊びに行ってみようかな」
「……え?」
「きらきらしてて、すっごくきれい」
マミちゃんの瞳は、いつの間にか海の向こうでぼんやり光る明かりをとらえていた。
「わたしは電車でしか行けないけど」
ちらっと関門トンネルに視線を向け、苦笑するマミちゃん。
初めて俺についてトンネルの中まで見に来たとき、狭いところが苦手だと怖がっていたのを思い出す。
「だ……」
言っている意味をしっかり理解してはっとなる。
「大丈夫。門司駅で一回乗り換えはあるけど、下関駅から三十分くらいで着くから」
マミちゃんにとっての乗車時間の三十分はどんな感覚なのかわからないけど、ここ最近何度か関門トンネルの最終時間に間に合わず、やむを得ず下関駅に移動して電車で帰ることが続いたため、意外と行きやすい距離にあるということを伝えたかった。
「あ、唐戸市場から船も出てるけど」
「そうなの?」
船には乗ったことがないからなぁ、と言いつつ瞳に光を宿しているマミちゃんは今まで見た彼女と少し違って見えた。
「案内するよ」
「え?」
距離感を間違えていないかドキドキしたけど、思わず口にしてしまったからには仕方がない。
「あ、マミちゃんがよかったら、だけど」
「いいの?」
「門司港は庭みたいなものだし」
不自然なほど早口になりそうなのをぐっと抑え、笑顔を作る。
断られたら、また適当に流せば……
「ありがとう!」
「う、うん」
予想外の反応に驚きながらもできるだけ平静を装うよう努力する。
一歩……少しずつだけどまた一歩だけ、彼女が自身の殻を破って前に進んでいるように感じられた。
「迎えにくるから!」
セイの木曜日が都合いいのよね、と自身のスマホを眺める彼女に思わず声を荒げてしまった。
「楽しみ」
驚いたように大きく瞳を見開いてから、花が咲いたように笑った。
迎えに行くよ。
遠くに行きたいと願った景色があの海の先なのであれば。
雨が降ったって、波があったって、君が望むのなら迎えに行くから。
そのとき、本気でそう誓ったのだった。
◇
「おいおいおい、急展開すぎる」
「正気か、ほっし~」
言葉にしたらなんとなくうまくいきそうな気がして、そんな願掛けのつもりで親友たちにだけ『好きな子ができたため告白する』と宣言すると、ふたりとも椅子から転げ落ちそうなほど驚いて見せた。
長かった夏休みが終わって、マミちゃんから再びその話題はでなかったけど、彼女が門司港へ遊びに来てくれた時、勇気を出して思いを告げようと思った。
わずかだけど近づいてきてくれているように思う彼女にもっと近づきたくなった。
「ちょ、相手は誰? 別のクラスの子?」
「いや、それはまだ言えないけど」
ここまで言っておいてそれはないだろ、と苦言する友人たち。
「万が一のことがあって相手に迷惑かけたくないし」
「ほっし~に告られて嬉しくないやつなんていないだろ!」
「そうだといいけど……」
そうだといいけど、それが通用しないのがマミちゃんである。
万が一のことなんて考えたくないけど、マミちゃんが困るのはもっと嫌だ。
困らせるのは嫌だ。それでももっと近づきたい。ここ数日、そんな矛盾の繰り返しである。
土曜日の試合帰りに下関駅でマミちゃんを見かけた。
すらっと背が高く美人なマミちゃんはよく目立つ。
みんなが気づくのより早く気付いたつもりだった。
声をかけたかったけど、かけられなかった。
まわりの人間のように、素直にかわいいとも言えない。
そんな関係がもどかしくて、進展したいと望んでしまった。
彼女のことを考えているようで自分勝手な考えでいっぱいである。
ともに過ごす日々の中で、自分の気持ちだけが少しずつ少しずつ深く深く、海底へ沈んでいくような心境だった。
陸にいる彼女に近づきたいと必死にもがき始めたのは、長い夏が終わったころからだった。
近くにいるのに、遠い。
それがとても苦しかった。
◇
真っ暗なみもすそ川公園の前で自転車を止めると同時に虫の音が聞こえ、彼女と出会って二度目の秋がやってきたことを悟った。
近くにいるのに、遠く遠くにいる大切な人。
何かの偶然で姿を現さないかな……なんて、この地に来るたびに考えるようになってしまった自分は結構重症に思う。
いつも彼女が座っているベンチを眺め、そこにあるはずのない残像を追う。
木曜日になればまた会えるけど、一週間はとても長い。
ぼんやり考えを巡らせて、また関門トンネルの閉館時間間近であることに気づき、慌てて人道入口へ向かう。
入口付近の箱へ通行料である二十円を入れ、地下へと続くエレベーターに乗り込む。
夏場は何度か入り損ね、結局下関駅まで向かってそこから電車で帰ることとなった。
門司港から下関へ来るより、下関から門司港へ行く方が最終電車は遅いのだなと意識したのは、そのときだった。
あのときから、彼女を案内する日を夢見てしまった。
『この人道は、夜十時を持って閉鎖いたします』
ここを通るときはいつも閉門のアナウンスに背中を押され、駆け足で自転車を押す。
閉鎖三十分くらい前から繰り返されるその音声には慣れたものの、そろそろ閉鎖ぎりぎりに現れる要注意人物としてマークされてないだろうなと想像して、ひとりで苦笑した。
今度、マミちゃんに会ったとき、そんな話をしたいなと思ったのだ。
長いトンネルの先に門司という表記を確認して、自分の街へ戻ってきたことを実感する。
誰もいなくなった関門トンネルはただただ静かで、閉鎖を告げるアナウンスだけが永遠と繰り返されていた。
いつものようにエレベーターに乗り、地上に上がる。
海を隔てて先ほどまでいた下関の明かりが遠くに見えた。それだけ門司港側の人道入口は真っ暗である。
彼女と出会わなければ、こんなにも名残惜しく海の向こうを眺めることなんてなかったのに、としみじみ思いながらも振り返った先にうずくまる人物の姿に気づき、息をのんだ。
「マミ……ちゃん……」
彼女の通う高校の制服だったためつい口にしてしまい、しまった、と思うも力なく顔を上げた彼女が会いたいと願ったマミちゃんその人で、気付いたら足が動いていた。
倒れた自転車を気遣う余裕すらなかった。
「セイ……」
「マミちゃん、なんで」
なんで、こんなところに。
「セイこそ……どうして……」
都合のいい夢かと思った。
ずっと会いたいと思っていたから幻でも見ているのではないか。
「今日は部員たちと寄り道して……って、時間!」
なぜ彼女がここにいるのかという疑問でいっぱいになりながらももう一方で冷静な自分が関門トンネルの閉鎖時刻を告げてくる。
彼女が渡らねばならない先は十時に閉ざされたら朝まで開かない。
「大丈夫、頼めば渡りきるまで待っててくれるはず……」
「……やっ」
落ち着かせようと試みるも、突然怯えた形相で首を振るマミちゃんは『戻りたくない』と繰り返すように呟く。
「もう、嫌だ……」
呼吸は乱れていて、息をしているのか声を発しているのかわからないくらいだ。
「自由に、なりたい」
まさに悲痛の叫びだった。
「……出てきたの?」
家から。
答えるかわりに大きな瞳から涙をポロポロこぼしたマミちゃんにこれ以上、何も言えなくなった。
自由になりたい、それがマミちゃんの願いなのだろう。
きっと近いうちにこの街から出ていくであろう彼女の。
「……大丈夫」
彼女の背をさすりながら、精一杯の笑顔を浮かべる。
「大丈夫」
そんな未来がくることは予測できていたのに、ずっと一緒にいられるようなそんな気がしていた。
わかっていた。わかっていたのに。
「よかったら、俺の街を見てってよ」
関門トンネルは閉鎖を告げる。
それでもこれが最後なら、このひとときだけでも共に過ごしたいと、心から願ってしまった。
「あれが観光列車の線路」
「ここからが浜町アート通り」
真っ暗な夜道をマミちゃんを背に自転車を走らせる。
少しずつ暖色の外套の明かりが見えてきたところで彼女がこの地に遊びに来たら伝えたいと思っていた言葉を並べる。
俺の背にしがみつくマミちゃんがこの景色を見ているかどうかはわからない。
それでも今がその絶好のタイミングで、完全に今日この日の出来事は過去に変わるであろうと本能が悟っていた。
「ここが門司港レトロ地区」
自転車を止め、振り返ると光をいっぱい瞳に集めたマミちゃんが大きく目を見開いたのがわかった。
「マミちゃん、おいでませ!」
やっぱり彼女には笑っていてほしいから、この瞬間が最後となっても全力を尽くしたいと思った。
「ちょっと回ろうか」
右から左へと眺めては両手で口を覆い、小さな声を出したマミちゃんにこちらも嬉しくなり、再びペダルに足をかける。
見慣れた光景なのに彼女がいるだけで別世界に感じられた。
「このあたりはバナナの叩き売りの発祥地なんだよ」
「バナナ?」
「休日はたまに実演もしてる」
「そ、そうなの?」
「あとは、焼きカレーが有名かな」
観光地とはいえ、十時を過ぎれば店もほとんど締まり、外套の明かりと海の音色が切ない雰囲気を演出してくる。
この地の名物である焼きカレーをカレーが好きであろうマミちゃんに食べてほしかったのに。
慣れ親しんだ街を走りながら、いろいろな感情がいっぱいになっていた。
さりげなく目を向けた腕時計を眺めて焦る気持ちを抑えた。
もうすぐ、彼女の乗らなければならない電車の最終時間が近づいてきていた。
「ここが、門司港駅。電車で登校するときに使っている駅で、あっちは船。マミちゃんの通学路にある唐戸市場まで続いてる。だいたい五分くらいかな」
どうしたらいいのか、ずっと考えていた。
「マミちゃん、何があったか、電車で聞いてもいい?」
そして、出した結果がこれだった。
「え……」
これが一番いい結論だと思ったのに、それは違った。
マミちゃんの表情がみるみるうちに曇っていく。
嫌なのだろうとすぐにわかった。
そんな俺だって、このままこの時間が永遠に続いてほしい。
でも、それではなにも解決しない。
だからこそ、この答えを選んだ。
彼女がひとりで帰れないならば、自分が送り届け、ともに怒られようと覚悟も決めている。
どちらにせよ、このまま逃げていてもマミちゃんの願いは叶わないのだから。
「十一時半くらいが下関駅に着く最終電車だと思う」
マミちゃんの家庭環境は軽くだけど聞いたことがある。会話の節々にもよく出てきていた。
父親と離れて母親とマミちゃんはふたりで過ごしているのだという。
癇癪を起しがちで病的に娘を管理したがる母親に対してマミちゃんが不服を漏らすことが幾度となくあった。
きっとまたうまくいかなかったのだろう。
よく考えたらもっといい案はあったかもしれないのに、このときの俺にはそう判断するのが精一杯で、知らず知らずのうちに彼女をさらに傷つけていたことに気付けずにいた。
いかに甘えた環境にいたかを知るのはあとのことになる。
「俺も一緒についていって、一緒に謝るから」
第三者も交えて理由を説明し、誠意をもって謝ればなんとかなると本気で思っていた。
「か、帰れない……」
「え?」
蒼白は表情を浮かべ、マミちゃんは大きく首を振った。
「わ、わたしは悪いことなんてしていない。わた、わたし……」
胸元で握られた指先は震え、その姿は全身全霊で拒絶体制に入っていた。
「セイ、ごめん……、でも、わたし……」
怯えるように視線をあげた彼女にこれ以上何も言えない。
「マミちゃん」
気づいたら、彼女を抱き寄せていた。
プルプルと肩を震わせる彼女は小さく、ずいぶんもろく感じられた。
「落ち着いて。大丈夫だから」
大丈夫、と心の中で連呼する。
彼女が少しでも落ち着きますようにと願いながら。
「大丈夫」
ゆっくり引き寄せると、彼女は黙ったまま胸に頭をよせてくる。
少しずつ呼吸を整えた彼女が再びこちらを見上げた時、初めて自分の大胆な行動に気づいて飛び上がりかけたけど、全力で平静を装う。それでも、
「だ、大丈夫なの? すっごい大きな音がしているけど」
ぐっと腕を回され、さらに胸に耳を押し当て俺の鼓動に耳を傾けようとした彼女に穴があったら入りたくなったくらいだ。
「ま、マミちゃん!」
「セイもそんな顔することあるんだ」
「え、どんな顔?」
「ふふ、そんな顔はそんな顔よ」
目と目が合い、力なく笑おうとした彼女に、すべての音がやんだように感じられた。
「……ま、いっか」
葛藤は、続いている。
このままでいいのか、どうかって。
それでも頭の中の天秤が予期せぬ方向へと傾き始めていた。
「今帰っても朝帰ってもどうせ怒られるだろうし」
絶対にそういうことではないとわかっていたのに、いつの間にか都合のいい言い訳を探していた。
終電が走り出す時間まで、あと二十分弱。
間違いなく今引き返せば、乗ることができる。
でも、後戻りはできなかった。
自転車にまたがり、乗るよう伝えれば、彼女が素直にまた後部に腰掛け、再度腹部に手をまわしてきたからだ。
このまま逃げてしまいたいと思ってしまった。
彼女を救えるのは自分だけなのだと、錯覚までしたほどだ。
普段何気なく見ていた景色が、色を変えて見えた。
ギリギリまで肯定と後悔を繰り返しながら、結局向かった先は自宅だった。
ペダルを漕ぎながら葛藤は続く。
今なら間に合う。
まだ間に合うのだと何度も何度ももう一人の自分が脳裏の向こうで叫んでいた。
それでも悪魔を宿した自分自身が走行速度をあげ、その声を遠く遠くへ流していった。
角を曲がったところ見える『STAR LIGHT』と書かれた喫茶店の前で自転車を止める。祖父母が営んでいる店だ。
「しょぼいけど、野宿よりはいいだろ」
その言葉はほとんど自分へ言い聞かせていた。
「こっち」
自室のある方向を指差し、振り返るとはっとしたように頷き、マミちゃんはついてきた。
建物の裏側にある自室へと続く通路を通っている間もずっと矛盾した感情は葛藤を繰り返していた。
(今ならまだ……)
腕時計どころか、スマホさえ見られなかった。
「こっちはじいちゃんたちが住んでいて、俺はこっち」
裏庭にポツンと建てられた離れの前で、ここが自室だと告げると、すごい!と彼女は小さく呟いた。
一生懸命混乱した脳内を落ち着かせようとする俺とは裏腹に、興味津々に今まで見たこともない表情であたりを見渡すマミちゃん。
とても静かな夜だった。
真っ暗な庭先で、月明かりだけに照らされた彼女がここにいるのが都合のよい幻覚のように思えた。
後戻りができないと感じられたのは、入口の戸を開いてすぐに見えた時計の針がもうすぐ十一時半を指そうとしているのが見えたからだ。
もう、間に合わない。
とにかく、朝のままだった室内を慌てて片付け、締め切っていた窓を豪快に開ける。
夜風が心地の良い季節で良かったと思う。
『どうぞ』というと『お邪魔します』と彼女がおずおずと入室してきた。
マミちゃんがあまりにもこのお粗末な部屋とは似つかわしくなくて、まるで夢を見ているような不思議な心境だった。
いや、普段にはない光景に少しずつ落ち着かなくなってきていた。
こんなところにつれてきて、どうするつもりなのか、冷静なもうひとりの自分が俺自身の頭に冷水をぶっかけてきた気分だった。
わからなくはない。でも、脳内が混乱している。
目が合って小さく笑った彼女に手を伸ばしたくなるのをぐっとこらえる。
(いやいやいやいや、ちょっと待て!)
思考回路がまるで自分の物ではないみたいだった。
彼女に対して、もっともしたくなかった想像が脳内をよぎり始め、必死に頭を振る。
いつもとは違う、夜の魔物に心を乗っ取られそうだ。
「あ、変な本が置いてあっても平気だよ」
「……いや、ないし」
こちらの気も知らないでじっと見つめてくるマミちゃんに『あんまり見ないで』と力なく告げた。
言葉ひとつひとつに敏感になっていて、どの言葉が引き金になるかわからず自分でも怖くなった。
嫌な感情はどんどんどんどん大きくなる。
ふふっと瞳を細めて笑う彼女から視線が離せない。
(マミちゃん……)
セイ、ともう一度呼んでほしい。
少しずつ、夜の魔物に支配されていく。
このまま手を引いて、もう一度抱きしめたら、きっと彼女は抵抗しないだろう。抱きしめて、キスをして、そのまま押し倒しても……
「あ……」
視線を上げた彼女は一瞬表情を無にし、ぐっと唇を引き結んだ。大きな瞳から一縷の涙が流れ落ちる。
時間が、最後の電車を連れて行ったのだろう。見なくてもわかった。
伸ばした手で、軽く彼女の手に触れた。
このくらいなら許してほしい。
「セイ、ありがと……」
言葉とともに顔をくしゃっとさせた。
まるで緊張の糸が切れたように。
「……っ」
泣いていた。
マミちゃんは小さく声をあげて泣いていた。
それでも、ポロポロと涙をこぼしながらも彼女の瞳は光を宿していて、先ほどとは違ってどこか満足げな表情をしているように見えた。
わかっている。
こんなにも弱っている彼女に何かできるはずなんてなかったのだ。
俺は無力だ。
苦しんでいる問題から彼女を救い出してやることもできない。
せいぜいこんな小さなところに閉じ込めるのが精一杯だ。
肝心なときに、大丈夫とも言えない。
遠くに連れていくと言いながら、何一つ叶えてあげられることができない。
肩を震わせる彼女に寄り添うしかできない自分がひどくもどかしかった。
「マミちゃん」
思い出には変えたくない。でも、
「ここ、自由に使って。俺は向こうに行ってるから」
俺にはもう無理だった。
好きな人を救えないどころか、傷つけることしかできない自分がひどく嫌だ。
「セイ……」
必死に感情を隠し、立ち上がろうとしたとき、困惑した表情のマミちゃんに腕をつかまれた。
そんなかわいいしぐさでさえ、今は身の毒でしかない。
「大丈夫。俺はじいちゃんちで休むから」
何が大丈夫なのかわからないけど、想像している以上に混乱していたのは確かだ。
油断をするとこのいつもとは違う雰囲気に飲み込まれそうになる。
「セイもいて」
「いや、でも……」
絶対にダメだ。それだけは脳内が危険信号を出している。
「セイ、ごめん。でも……」
ダメだ。でも離れたくない。いや、やっぱりダメだ。
「マミちゃん」
自分でも驚くほど低い声を出していた。
「……えっと、俺も一応健全な男子高生なわけで、マミちゃんに嫌われることはしたくない」
脳内で、ヘタレ……ともう一人の自分が繰り返した。
きっといつか思い出したときに苦しくなる日は来るだろう。
「せ、セイがすることだったら嫌いにならない」
きっと、思い出して、この日を悔いる日が来るだろう。
だけど、こんなにも壊れてしまいそうな彼女に何かするなんて、絶対にできなかった。
「明日の朝、迎えにくるから」
力いっぱい振り払ったときの彼女の顔は二度と忘れることはないだろう。
最終電車を見送ったあの時間が、俺たちの分岐点だった。
でも、俺はその手を取ることを拒んだ。
彼女を連れて、天の川の向こうへ渡ることができなかった。
そのあとは、眠ることなんてできなかった。
玄関に座り込み、そのまま横になり、気づいたら太陽の光と鳥の声が朝を連れてきた。
ヘタレヘタレヘタレと、自分自身を何度も罵った。
それでも時間は戻らない。
始発の時間を確認し、彼女のいる自室へ向かうと、ノックと同時に扉が開き、彼女も寝ていないのかひどい顔をしていたのが目に入る。
謝りたかったのに、謝ることができなかった。
無言で歩く俺の後ろを彼女はついてきて、黙って乗り込んだ自転車の後ろに彼女の熱を感じた。
黙々とただ自転車をこぎ、静かな街を越え、門司港駅に向かう。
昨日とは打って変わって灰色の世界に感じられた。
どれだけ時間があっても足りなかったのに、いつも何を話していたのさえわからなくなっていた。
マミちゃんが好きだった。
でも、そんなことさえ言う資格はない。
不甲斐なかった。
不甲斐ないけど彼女を家まで送り届けて、この街から出られるようにできることをしよう。そう身勝手なことばかり考え、自己正当化して、始発の電車に乗り込んだ。
このまま時が止まればいいのにと切に願っていた。
そのあとはひどいものだった。
下関駅からバスで向かったマミちゃんの家の付近にはパトカーが止まっていて、ひどく取り乱したマミちゃんのお母さんらしい人が飛び出してきたのが目に入った。
その光景に、自分の考えの甘さを深く実感させられることになる。
あの表情は、たまに夢にも見ることはある。
大人たちに両肩をつかまれ動きを止められながらも恐ろしいほどの金切り声が聞こえた。
誰かを罵る言葉が繰り返される。
無我夢中で頭を下げた。
すみません、と彼女の言葉を聞くよりも先に謝り続けた。
マミちゃんをひとりでここに残していくことが正解だったのか、とっさにいろいろと考えたものの彼女の祖父と名乗る人物がここは大丈夫だから帰りなさいと言ってくれた。
でも、と食い下がってはみたものの自分には何もできないのはわかっていたし、あとは僕らが何とかするからと言われて、頷くしかなかった。
そのやりとりを、マミちゃんはずっと背を向けて聞いていた。
そのあとの帰り道のことは、よく覚えていない。
関門トンネルを歩いて帰ったはずだ。
『セイ』
聞こえるはずのない声に何度か振り返る。
『セイ』
その声に呼ばれるのが好きだった。
『セイ』
もう二度と呼ばれることはないのに、何度だって期待をしてしまうのだ。
山口県から福岡県へと続く県境の表記が見え、足を止める。
(ああ……)
終わってしまった。
そんな風に感傷に浸るなんて、独りよがりもいいところだ。
自ら彼女を傷つけて、手を放してしまったのに。
「……っ」
頬を伝う涙に気づき、思わず口元を覆う。
「マミちゃ……」
うそだ。夢であってほしいと心から願う。
「ごめ……」
もっともっと話したいことはたくさんあった。
聞いてほしいことも山ほどあった。
「マミちゃ……ごめ……」
一緒に行きたい場所だって、あったのに。
最終電車を見送ったとき、あれは俺たちの分岐点だとわかっていたはずなのに、俺は自らその手を放してしまったのだ。
『セイ』
その澄んだ声は長い髪をなびかせ、俺を呼ぶ。
『セイ』
好きだった。
ずっとずっと好きだったんだ。
好きだったのに。
「わぁ、すごい! 壇ノ浦の戦いの跡地だって!」
「え? どんな戦いだっけ?」
関門トンネルを渡ってきたであろう観光客たちが様々な感想を口にする様子を横目に自転車を止める。
受験生になって塾へ通うようになり、自転車での移動が減ったものの、あれから数えきれないほどこの地にやってきて、変わらぬ景色を眺める。
繰り返すように日々が過ぎた。
冬が来て春が来て、そしてまた暑い夏が来た。
真っ青な空に入道雲がかかる。
四時を超えるというのに、いまだに蒸し暑いこの地で暑い暑いと言いながら、夜風が心地よくなるまで話し合った夜のことを思い出す。
「今年の七夕は、晴れるらしいよ」
ぼそっとつぶやいた言葉に反応してくれる人はいない。
『晴れるの? よかったね』
空を見上げて彼女が笑う姿が目に浮かぶ。
彼女は、彼女が願った場所へたどり着いたのだろうか。
俺が手を差し出せなかった場所まで。
「あー、くそ!」
悔しいな、といつものように声に出し、現実を受け入れる。
選択をするということは後悔を選ぶことだ。
どちらかを選んだとしても、きっともう一つの選択肢を選べばよかったと思うだろう。
選ばなかった結末など、知ることはないというのに、永遠に選ぶこともない結論に希望を見出す。
それなら自分がそのときの直感で選んだ道が正しかったのだと思いたい。
どうせどちらを選んでも後悔をするのなら。
「はぁ」
もどかしさを受け入れ、自分に言い聞かせるまでがセットである。
ここに来ると思い出す。
思い出すたびに、苦しくなる。
それでもやっぱり、来てしまう。
『セイ』
あの日からずっと、もうここにはいない彼女の姿を探している。
もう会うことがないであろう彼女の姿を。
ずっとずっと思い出す。
指折り数えて待った、あの日々とともに。



