その空を明けるのは

 自分で言うのもおかしな話だが、俺は良い子だと思う。生まれてこのかた殴り合いの喧嘩というものをしたことはないし、対人関係も比較的良好。友だちは多いわけではないけれど信頼できる人はいる。勉強だって平均くらいはできるし、誰かに大きな迷惑をかけたこともない。

 人と少し違うところがあるとすれば好きな物くらいだ。それだって人に迷惑をかけるようなものではない。俺は特撮のヒーローが好きだった。毎週日曜日に放送されているかっこいいヒーロー番組。園児や小学校の低学年に人気のアレだ。

 俺もその例外ではなく、幼稚園児の頃初めて見たヒーローに心を奪われた。初めは変身のカッコよさに。そしていつしかそのストーリーの奥深さに。

 誰もが一度は通る道、最初に憧れる存在。でも、それと同時にきっと最初に好きが過去に変わってしまう存在だ。

 幼稚園にいた頃はそれはもう周りのみんなが大好きで、ごっこ遊びをする時は誰がレッドをやるのかでいつも揉めていた。俺はレッドをやれる自信がなくていつも人気のないグリーン役を務めていた。怪人役の先生を新聞紙で作った剣で戦って倒す。なんともヒーローと言い難い遊びだった。

 そうして、仮初とはいえ同じヒーローとして戦っていた彼らもいずれ夢から醒めていった。ごっこ遊びは所詮お遊戯に過ぎない。ヒーローなんてフィクションで怪人はこの世には存在しない。現実を知るタイミング。世間ではこれを卒業というらしい。月日が経つごとにみんなはどんどん卒業していき、小学校の高学年になる頃にはレッドは俺だけのものになっていた。それは少し寂しいことではあったけれど俺はそれでもよかった。周りのみんなが卒業しても相変わらず日曜の朝はやってくるから。

 俺だって現実くらいは分かっている。ヒーローも怪人もいないことも。だけど、変わらず彼らはかっこよかった。だから、好き。それだけのことだ。

 母親からは度々そろそろ卒業しなさい、と言われてきたがその度俺は適当な返事を返していた。卒業する気なんて更々ないけれど、どうせ説明したって分かってもらえないから。いつか、いつかとその日を先延ばしにしていた。分かってもらえなくたって別にいい、と心の中で呟いて。

 でも、そうではないと気づかされた。

 今日、家に帰ると俺はいつものように自室に向かった。大好きなヒーローに囲まれた自分だけの空間が好きだった。

 部屋を見渡すと本棚には昔から買っているヒーローの本、棚には変身アイテムやソフビ人形、壁に貼り付けたポスター。

「……あれ? ない」

 好きなものに満たされたその空間を眺めていると不意に視線がベッドで止まる。いつもと変わらない景色。でも、そこに小さな違和感。いつもそこにあったヒーローがプリントされた枕は少し大人っぽい紺色の低反発枕に変わっていた。

 俺は慌ててリビングにいた母親の元に向かった。

「ねぇ、枕どこやったの?」

「ん? あぁ、捨てたわよ。もう汚くなってたし。ほら、佑介(ゆうすけ)も年相応なああいう枕の方がいいでしょ」

 母はなんでないことのように悪びれる様子もなく言う。口ぶりからして、むしろ親切心だったのだろう。だからこそ余計にやるせなさが襲う。勝手に捨てられたことに怒りと悲しみが沸き上がってくる。

「……大切だったのに」

「そうだ、これをきっかけに卒業してもいいんじゃない? 章くんも龍ちゃんももう卒業してるんだし」

 俺の怒りも悲しみも理解できないようで、母は自分勝手な提案をする。いつもだったら愛想笑いで返せたかもしれない。そうだねって、言葉くらいは返せたかもしれない。でも、今日は出来なかった。

 たかが枕くらいで、と人は言うかもしれない。だけど、あの枕にプリントされていたのは俺が初めて好きになったヒーローで、当時両親に駄々をこねて買ってもらった物だった。仕方ないな、と苦笑しながら買ってもらったことは今でも覚えている。何年も使っているから汚れていたことは否定できない。だけど、一言くらい聞いてほしかった。

「……もういい。もういい!」

 反射的に俺は玄関に置いてあった財布を手に持って家を出た。どこでもいいから遠くへ行きたかった。理解されないことが堪らなく辛くて悲しい。家を出てすぐ、何度も電話が鳴っていたけれど鬱陶しくなって電源を切った。初めての反抗だった。