顔に当たる柔らかな光で目を覚ます。
 走りに行かなきゃと思って身を起こし、見慣れない部屋の天井にドキリとする。体にかけられていたであろうやわらかでふわふわなブランケットを拾い上げながら、朱里先輩を家まで送り届けてそのまま寝落ちしてしまったことを思い出した。
 成り行きとは言え、先輩の家に泊まってしまった。自分でも驚きの寝落ちっぷりだったけど、色々あり過ぎて心身ともに限界だったみたいだ。
 駅からここまで歩いてきた道のりを思い出して顔が熱くなる。やっぱり昨夜は酔っていた。自分らしくもないことを随分言ったと思うし、先輩もそうだったと思う。
 絶対、顔を合わせたら気まずくなる。電車ももう動いているだろうし、今日のところは先輩が目を覚ます前に出て行った方が──。

「お、流石。もう起きてたんだ」

 立ち上がろうとしたところで、寝室と思しき部屋のドアが開く。そこから姿を見せたのは、僕が見慣れた朱里先輩だった。

「先輩、その格好……」
「ん。久しぶりに走ってみようかなと思って」

 部屋から出てきた朱里先輩はトレーニングウェアを見に纏っている。スーツはもちろん私服より見慣れた先輩の姿。そういえば靴擦れは、と思って足元を見ると丁寧にパッドで保護されているようだった。
 肘や肩回りのストレッチをしている朱里先輩の姿にソワソワとする。この二年間、ずっと見たかった姿だった。本当は一緒に走りたいくらいだけど、生憎、飲み会帰りの僕はランニングシューズを履いてきたくらいで、ウェアも何も持っていない。

「それなら、僕はそろそろお暇しますね」
「えー。私、久しぶり過ぎてペースとかわからないからさ。ちょっと付き合ってよ」
「そうしたいのはやまやまですけど、ウェアとか持ってきてないですよ」
「ほうほう。ウェアがあれば付き合ってくれると」

 意味深な呟きと共に朱里先輩は寝室へと戻っていく。それより、先輩は無意識で使っているんだろうけど、「付き合う」というフレーズが出る度についドキリとしてしまう。
『好きな人相手にはなおさら、ね』
 背中越しに聞いた朱里先輩の言葉。反芻するように頭の中で繰り返しては、顔が熱くなる。その意味が僕と同じ意味を持っているのか、聞きたいような、聞くのが怖いような。
 ああ、ダメだな。一つ伝えられたと思ったら、また一つ新しい問題を抱えてしまった。

「あったあった。はい、これ」

 寝室から戻ってきた朱里先輩の手には丁寧に水色の紙で包装された袋が握られていた。手渡されてみると柔らかい。それに、随分と馴染みのある感じがした。開けて、と訴えてくる先輩の視線に促されるように袋を慎重に開いてみると、蒼を基調とした上下のランニングウェア。

「これって……」
「いつか、また一緒に走ってほしいってお願いするときに、渡そうと思ってたの」

 朱里先輩の言葉に、袋を握る手に力が籠る。もし先輩が許してくれるなら、これまでの後悔は全部捨てよう。
 それよりも今は、前を見て先輩の隣を一緒に走っていたい。そんな気持ちで胸がいっぱいだった。
 パッケージされたウェアを取り出して拡げてみる。サイズもぴったりそうだし、いつも使うメーカーで落ち着いた好みのデザイン。僕の為に用意してくれたことがはっきりわかる。
 ただ一つ、気になることがあるとすれば。
 
「これって、去年のデザインじゃなかったですっけ?」
「あ、いや。それは、その……」
 
 僕の指摘に朱里先輩は急にワタワタと狼狽えて、僕からすっと視線を逸らした。

「去年買ったんだけど、切り出すタイミングを考えてたらいつまでも渡せなくて……」
「もしかしてこれ、昨日の飲み会にも持ってきてました?」
「うっ。お酒飲んだらその勢いで渡せるかなと思って、あと一杯飲んだらって思ってるうちに……」

 飲みすぎちゃった、と恥ずかしそうに俯く朱里先輩の言葉に、つい包装された袋を片手に悩む先輩の姿を思い浮かべてしまう。
 その姿は、この二年間僕が繰り返してきたこととそっくりな感じがして。
 もしかしたら僕たちは同じ方向を向きながら、揃って反対方向に走っていたのかもしれない。そんな様子を想像して、思わず吹き出してしまった。

「あっ。笑うなんてひどい! それ返して!」
「すみません、先輩。僕たち、同じこと考えてたんだなって思ったら、つい」

 顔を真っ赤にして頬を膨らませる朱里先輩から、せっかく貰ったウェアを死守する。じゃれ合うように触れた朱里先輩の手がじんわりと熱い。勇気を出して、その手をそっと握りしめてみる。
 ピタッと動作を止めた朱里先輩の瞳を正面から覗き込む。今度はもう逃げないように。これからは、後ろから見つめるだけじゃなくて、真っすぐと向き合えるように。

「ありがとうございます、先輩。大切させてもらいますね」



「うー。久しぶりだから緊張するなあ」

 貰ったばかりのウェアに着替えてマンションの外に出ると、夏のつかの間の柔らかい朝日に包まれた。
 つい何時間か前まで真っ暗な夜道を歩いてきたのが嘘みたいに、世界は明るく、潮の匂いを微かに含んだ穏やかな風が吹き抜けていく。

「いつもそんなこと言いながら、次の瞬間には爆走していくじゃないですか」
「あっ、ひどっ。私のことそんな風に見てたの!?」

 だって、先輩はいつも僕の前を駆け抜けていくから。
 軽くステップを踏む様に走りだそうとする先輩の隣に並ぶ。

「大丈夫ですよ、先輩。ゆっくりいきましょう」

 一瞬ポカンとしてからくしゃりと笑う先輩と同じリズムで走り出す。
 今は無性にキラキラと朝日を受けた輝く海を先輩の隣で見てみたかった。