歩き続ける朱里先輩と僕の間に会話が生まれることはなかった。さっきまであれこれ話しながら歩いていたのが嘘のように、ただただ海岸沿いに漂う波の音だけを聞きながらさっきまでよりも一人分距離が離れた先輩の後を追う。
でも、不思議とそんな距離感は、僕にとって懐かしい雰囲気も纏っていた。
現役の頃、一緒にジョグをした時は、走ってるうちに僕も朱里先輩も口数が減っていって、そのうち、ただただ走ることに集中していた。無言の時間は苦痛ではなくて、むしろ、世界の音も色も遠ざかり、二人だけの世界を走っているような時間は心地よささえあった。
でも、今は当時よりも更に一人分の距離が開いている。僅か一歩の距離だけど、それだけで僕らはバラバラになってしまう。波の音が僕らの隙間に入り込んで、グチャグチャに心の中をかき回しているような感じがした。
そんな夜の漣が少しずつ遠ざかり、やがて海岸線が終わりを迎え、僕たちは街中に足を踏み入れる。朱里先輩の住む駅まで、あと二十分くらい。
一台も車が通らない交差点の信号で止まり、再び歩き出す。そんな朱里先輩の姿にふとした違和感があった。右足を地面につける時、左足よりも慎重に接地して、少しばかり引きずっているような。
「朱里先輩」
「……うん?」
「右足、見せてください」
振り向いた朱里先輩の瞳が逃げるように微かに泳ぐ。
「なんで?」
「いいですから」
今度はもう、逃がさない。見て見ぬふりもしない。
ちょうど見えてきたコンビニの駐車場のパイプ状の柵に腰掛けてもらい、慎重に靴を脱がせる。コンビニから漏れる明かりに照らされた先輩の右足は、革靴に直接触れていただろう部分が靴擦れを起こし、血が滲んでいた。これでは一歩歩くだけでも痛かったはずで。
陸上用のランニングシューズを履いている僕と違って、朱里先輩は長い距離を歩くのには向かなさそうな革靴だった。それで一時間半近く歩いてきて、靴擦れの一つや二つできない方がおかしかった。
「どうして言ってくれなかったんですか?」
「別に、これくらい平気だから」
「そんなわけないでしょう」
自然とため息が溢れてきた。このままあと二十分も歩いていたら、靴擦れは更に悪化していただろう。辛いことを隠して、我慢して。そんなところはあの頃から変わっていないようで、心配になってしまう。
コンビニで大きめの絆創膏を買って、応急処置として、見てる方がヒヤッとするくらい痛々しい靴擦れの上に貼り付ける。
とはいえ、革靴でこのまま歩くのは痛いことに変わりないだろうし、傷だって悪化しかねない。始発までにはまだ結構時間があるけど、もう少し歩けば朱里先輩の家まで着けるはずだ。
「はい、乗ってください」
だから、朱里先輩に背を向けてしゃがみ込む。
「お、大袈裟だって。これくらいなら歩けるから」
「二年前も、これくらいだったら走れるって言ってましたよね」
僕の言葉に朱里先輩が怯む気配を背中越しに感じた。
僕は卑怯だ。本当に責められるのは僕の方かもしれないのに、こうやって先輩を追い込む様に使っている。
「これは僕なりの罪滅ぼしでわがままなんです。だから、付き合ってくれませんか?」
先輩の鞄に入っていた水色の包装紙を思い出す。朱里先輩はきっと職場でも人気で、今さらこちらの世界に戻ってきてほしいなんて、手遅れなんだろうと思うけど。
「罪滅ぼし、って?」
「乗ってくれたら教えてあげますよ」
ハッと息を呑む音が聞こえて、しばらく無音が続く。波の音はもう遠くなり僕らの元には届かない。
やがて、背中に遠慮がちな重みが伝わってくる。立ち上がると、軽い。いつもみんなの前に立って走ってきた先輩は、それだけの努力をしてきたのだと改めて思い知らされる。
「やっぱり、走らなくなってちょっと大きくなったんじゃ……ぐえっ」
冗談でも言わないとその軽々とした存在感の大きさに包まれてしまいそうで。それで軽口を利いたら、思いっきり後ろから首を絞められた。
「まったく、いつからそんなに失礼になっちゃったの?」
「ついさっき、ですかね」
首に回された朱里先輩の腕が緩められて、再び僕たちは歩き出す。
西の方へと走って行く一台の車が僕らを追い抜いていくと、再び夜の世界は沈黙に包まれた。
さっきより一人分減った足音が時々思い出したように耳に届く。
「……それで、罪滅ぼしって?」
耳元で響く朱里先輩の声。その問いかけは仄かに熱を帯びていて、それでいて切実な焦りを含んでいるように感じた。
「二年前の夏、本当は気づいてたんです」
「気づいてたって?」
「先輩の走り方がいつもと何か違っていたことに。故障かな、って思いました」
初めは微かな違和感だった。僕の気のせいだと思ったし、たまたまその日は朱里先輩の調子が悪いのかと思った。だけど、日を重ねるにつれてその違和感は大きくなっていった。僕の知っている朱里先輩の走りとの誤差が日に日に広がっていった。
「でも、僕は気づかないふりをしてました。あの時の僕は、一日でも多く先輩と一緒に走りたいっていう気持ちを優先したんです」
先輩が大学を卒業したら、それまでの様に毎朝一緒に走るってことができなくなるのはわかってた。だから、そんな日を一日も無駄にしたくなくて。もし、故障してるのか聞いて、治療の為に一週間とか半月とか先輩が走らなくなることに恐怖さえ感じていた。
冷静になって考えるまでもなく、早いうちに治療した方が悪化してからより遥かに短時間で復帰できるとわかっていたはずなのに。
「あの頃、先輩と走る毎朝が特別で。一日一日が貴重なもので。そんな日が一日でも無くなることに僕は耐えられなかったんです」
ああ。今になってお酒が回ってきて来たのかもしれない。二年間、何度も伝えようとして、メッセージ一つ送ることができなかった言葉が、今は押し留めるのが大変なくらいに溢れだしてくる。
「もっと早く僕が先輩に違和感を伝えて、ちゃんと治療してたら。先輩は最後の駅伝だって走れたはずで。そのことを、ずっと後悔してました」
もちろん、僕が何も言わなくても朱里先輩は自分の足の異変に気付いていたのだろうから、僕が先輩に違和感のことを伝えても先輩は走り続けたのかもしれない。それでも、変えられる可能性があったのに、僕は自分勝手な願望でそれをしなかった。
「……ちなみに、優弥君が私の足の違和感に気づいたのって、いつ頃?」
「夏休みの初め頃でした」
後悔の度に微かに足を引きずる朱里先輩の走りが何度も頭の中を過っていた。だから、夏の朝の日差しを反射して海がキラキラと輝いていたことを今でもはっきりと覚えている。
「そっか」
何でもない様な相槌。だけど、心なしかその声が弾んでいるように感じた。
「私が足を痛めたかもって自分で気づいたのは夏休みの後半だったよ。優弥君は、私以上に私の走りのことを見てくれてたんだね」
僕が如何に朱里先輩の走りを見てきたかバレたようで恥ずかしい様な、それでいてどこか誇らしい様な。そんな気持ちがグルグルと回って、朱里先輩の言葉にどう答えればいいかわからかった。
ふふ、と小さな笑い声と共に、僕に掴まる朱里先輩の腕にきゅっと力が籠る。僕と朱里先輩の距離が更に近づいて、背中に先輩の熱を感じた。
「大事なことを教えてくれたお礼に、私も一つ教えてあげる」
「何をですか?」
「私が練習に顔を出せなくなった理由」
突然の言葉にぐっと胸が苦しくなった。ずっと聞きたかったこと。だけど、聞くのが怖かったこと。
朱里先輩の答えによっては、僕はもう走ることができなくなるかもしれない。それくらい、僕にとって朱里先輩の存在は大きくて。ずっと抱えてきた後悔を吐き出した今はなおさらだった。
あのね、という朱里先輩の息が耳をくすぐって、先輩を支える腕に力が籠った。
「引退して、自分がすっかり走れなくなった姿を見せるのが嫌だったんだ。好きな人相手にはなおさら、ね」
え。
全く予想してなかった答えに、頭の中が真っ白になる。
顔が熱い。息が苦しい。腕が震える。同時に色んな事が起こり過ぎて頭が処理できていない。
「好きな人、って」
僕のことでいいんですか。
そこまで言葉を吐き出す前に息が苦しくなって声が途切れてしまう。
言えなかった部分を継ぎ足すのも恥ずかしくて、そのまま朱里先輩の言葉を待つ。
だけど、返事はない。
「すぅ、すぅ……」
代わりに聞こえてきたのは、やりきって満足したかのような穏やかな寝息だった。
いや、正体なくすほど飲んで、そこから一時間半以上歩いてきて。足を止めたら眠くなるのはわかるんですけど。
だからって、それは生殺しすぎるんじゃないですかね。それに、いくらなんでも僕に身を預けすぎでしょう。
それは、男として思われてないってことじゃなくて、信頼されてるって勘違いしてもいいですか。
「勘違いじゃ、すみませんよ?」
返事がないのをわかって尋ねてみる。帰ってきたのはやっぱり寝息だけだった。
ふっと息をこぼしてみる。二年間、すっかり立ち止まってしまっていたんだ。今更焦る必要なんてないのかもしれない。
背中の温もりを支えながら、半分の月の光と頼りない街灯に照らされた道を歩いていく。まだ、夜が明ける気配はないけれど、行き先は不思議と明るく見えた。
一緒に走っていた頃の記憶を手繰って、朱里先輩の家へと向かう。随分歩いて、今は二人分の重さを支えているはずだけど、歩き始めた時より体は軽いくらいだった。
あの頃、朱里先輩と走っている時も同じだった。身体が軽くて、足に力が入って、どこまでだって走って行けるような。
駅前の交差点を曲がり、住宅街を更に進む。頭というよりは足が道筋を覚えていたようで、間もなく見覚えがあるマンションが姿を現わした。
「朱里先輩、着きましたよ」
エントランス手前のオートロックの前まで来たところ得、背中で寝たままの朱里先輩を揺らしてみると、「んー」と眠そうな声と共に鞄をゴソゴソと探る音がする。朱里先輩は僕の背中からそのまま鍵を差し込むと、オートロックのドアが開いた。
今日の僕の任務は果たした気がするけど、朱里先輩が僕の背中から降りる気配はなくて、そのままエレベーターへと向かう。
「何階ですか?」
「四階」
エレベーターを降りると、こっち、と指さす朱里先輩の案内に従って401号室というプレートの部屋の前までやってきた。
「ほら、いい加減降りてください」
「えー」
すっかり電車を降りたばかりの状態に戻った先輩は、そう言いながらも僕が姿勢を下げると背中から降りて部屋の鍵を開ける。
「じゃあ、僕はこれで」
「まだ電車動いてないよ」
「その辺で適当に時間つぶしますよ」
「この辺、時間つぶす場所なんてないし。ここまで連れてきてくれたお礼にお茶くらい飲んできなよ」
「え、いや、ちょっ。朱里先輩?」
問答無用といった形で朱里先輩は僕の腕を引いて部屋の中に入っていく。一緒に走っていた頃も、建物の前で見送るって感じだったから、部屋の中に入るのは初めてで。通されたリビングは物が少なくシンプルだったけど、部屋の一角には朱里先輩がこれまで掴んできたトロフィーがいくつか飾られていた。
「じゃあ、座ってちょっと待ってて」
今更逃げ帰るわけにもいかなくて、促されるままソファに腰掛ける。キッチンの方に向かった朱里先輩の背中を見送ると、途端に疲れがどっと溢れてきた。そりゃあ、散々飲んだ後に10キロ近く歩いてきたのだ。それも、終盤は先輩を背負った状態で。
待ってる間だけ、と思いながらソファにそのまま身体を投げ出すと、そのまま意識がフワフワと遠ざかっていく。カーテンが空いたままの窓から、空高く昇った半分の月が良く見えた。結局、引き分けってところだろうか。
帰る前に、眠る前に先輩が言ってた言葉の意味を聞けるだろうか。そんなことを考えているうちに、僕の意識はぷつりと途切れた。



