「まったく。また盛大に飲みましたね」
十分も歩くと、線路と海岸に挟まれた細い二車線の道路を進むことになる。昼間なら博多湾を一望できる風光明媚な道なのだけど、生憎、今の僕に見えるのは空との境も分からない真っ暗な海と、人気のない夜道を何故か自信満々で歩く朱里先輩だ。
「現役の頃だって、そんなに飲んでなかったでしょ」
「最近、こんな風に気を抜いて飲めることなかったから。ついはしゃいじゃった」
僕の一歩前を歩く朱里先輩がちらりと振り返って笑う。その弾みでバランスを軽く崩していて、なんだかとても危なっかしい。
「それに、会社だとほぼ一番下っ端だけど、陸上部ならみんな敬ってくれるからね」
「そりゃあ、今の一、二年生からしたら先輩は伝説みたいなものですからね」
推薦入部がいるわけでもなく、歴史と伝統くらいしかない国立大の陸上部。
そんなとこにいながら現役時代の朱里先輩は全国大会常連で、圧倒的な輝きを示していた。僕より下の後輩は、そんな朱里先輩の走りを見て進学や入部を決めた人も少なくない。
「優弥君はそんなに敬ってくれないけどね」
「僕だって、先輩が現役の頃は敬ってましたよ」
朱里先輩は一瞬ハッとした表情になったあと、にししと笑って前を向く。会話がやんで、姿の見えない波の音だけが辺りを包んだ。
朱里先輩を尊敬していたことは嘘じゃない。それくらい先輩の走りは僕らを惚れ惚れさせて、男女分け隔てなく僕らを引っ張っていく先輩は憧れだった。
だからこそ、言葉がトゲついてしまう。意地が悪い言葉を吐いていると自分でも気づいているのに。
「なんで、今もそんなに楽しそうなんですか」
波の音に混ざって、少し調子の外れた鼻歌が聞こえてきた。お酒が入っているにしても、終電で帰れなくなった──正確には力技で帰ろうとしている──人とはとても思えない。
「この道、懐かしいなって」
「今も街中に出る時にはいつも通ってるんじゃないですか?」
「そうじゃなくて。この道、よく朝練で優弥君と走ったでしょ」
朱里先輩の不意打ちのような言葉にひゅっと胸が苦しくなる。僕と朱里先輩は二つ学年が離れているけど、朝の自主練のジョギングコースがほぼ同じで、偶然出会って一緒に走ることも少なくなかった。
正確には、朱里先輩と出会えそうなジョギングコースや時間に調整していたのだけど。
「優弥君も気をつけたほうがいいよ。あの頃はなんでもなかったようなことが、後になってとても大切な時間だったって気がついたりするから」
なんでもないと思われていたと凹むべきか、大切な時間と言ってもらえたことを喜ぶべきか。僕は態度を決め兼ねたまま曖昧に頷いて返す。
朱里先輩は今もこうして僕のことを無邪気に振り回す。きっと先輩にその気はないんだろうけど。
「あ、実は優弥君、今は別の誰かと走ってたり? 女子部員、すごい増えたよね」
「まさか。先輩と走ってたのだって偶然ですよ」
なんで朱里先輩の頭では、僕が女子と一緒に走る前提になってるんだろう。無遠慮に聞かれたせいか、つい返事の口調がざらついてしまう。
「ふーん……。今もこのコース走ってるの?」
「去年から違うコース走ってます。この道、風景はいいけど細いし信号多いから走りにくいんですよ」
横並びで走ると歩道を埋めてしまうから、あの頃も先輩が前で僕が後ろだった。先輩が振り返らない限り、僕は先輩がどんな顔で走ってるかもわからない。先輩と一緒じゃなければ、とても走りたいと思えるような道ではなかった。
「そっか。そうなんだ。へえ、ふーん」
何故か何度も頷いた朱里先輩はやっぱり僕の前に立って前を向いているから、その表情はわからない。
わかるのは、朱里先輩の歩くピッチが早くなったことくらい。先輩の後ろ姿なら毎日のように見ていたから、走り方が変わったらすぐに気づくようなっていた。
──そうだ。あの時の僕は、先輩の走り方がおかしいことに気づいてたはずなのに。
「もう少ししたら夏合宿だよね。四年生って研究室が忙しい人も多いけど、優弥君は参加するの?」
くるりと話題を変えた朱里先輩が今になって僕のほうを振り返る。歩くペースはいつもの朱里先輩に戻っていた。
「僕の研究室はゼミの日程が変なだけでそこまでスパルタじゃないですし、行くつもりですよ」
「そうだよね。今年の駅伝は優弥君なしじゃ始まらないし」
朱里先輩の言葉に僕は反応できなかった。確かに、朱里先輩が卒業してからは僕が長距離のエースとして走ることが増えたけど、そういうことじゃなくて。
「合宿も駅伝も、今は結果が大事かもしれないけど、かけがえのない青春だから。無理はしないでね」
暗闇の夜の波の音がザブンと大きな音を立てる。
思わず立ち止まってしまった僕の気配に気づいたのか、小さく振り向いた朱里先輩は不思議そうな顔を浮かべていた。
朱里先輩と僕の間には壁がある。二年前に卒業した朱里先輩は選手であることをやめようとしていて。だけど、僕はまだその手を離したくなくて。
「社会人っていっても夏休みくらいありますよね? 一日でいいから練習顔出してもらえませんか?」
二年前の卒業式に約束した言葉を、改めて問いかけてみると朱里先輩は足を止めた。
夜を照らす古びた街灯の頼りない明かりの下で、寂しげに笑いながら僕に向き直る。
「卒業した先輩が来たって、みんな気をつかうでしょ?」
「今日の飲み会見てたらわかるでしょう? 誰も朱里先輩に気なんてつかいませんって」
「それはそれで傷つくなあ」
ちょっと抜けた声を出した朱里先輩がくすりと笑う。
みんな朱里先輩に憧れて、尊敬してはいるけど、気をつかうっていうのは何か違う。それくらい朱里先輩の存在は僕らにとって身近で。僕にとってはずっとすぐ傍を走っていた存在で。
「卒業式の日、約束してくれましたよね。これからも時々は一緒に走ろうって」
朱里先輩が最後にくれたその言葉は、先輩が卒業して欠けてしまったピースをどうにか埋めてくれた。だけど、その約束は果たされることのないまま、気がつけば埋めるものがなくなった傷跡はカピカピに乾燥していた。
向かい合った朱里先輩は、小さく開きかけた口をきゅっと結んで、何も答えてはくれなかった。
「仕事忙しいのはわかってるつもりです。でも、それだけとも思えなくて」
朱里先輩の瞳がどこか緊張したように僕を見つめている。
「最後の駅伝走れなかったこと、後悔してるんですか?」
二年前の冬、朱里先輩の大学生活の集大成として臨む駅伝のメンバー表に、朱里先輩の名前はなかった。
疲労骨折を初めとした故障が駅伝の一カ月前に見つかり──誤魔化せなくなって、最後の駅伝を走ることができなかった。
そして、過去最高順位となった男子とは裏腹に、女子は前年より大きく成績を落とす結果となった。そのことに朱里先輩が責任を感じて、練習に顔を出せなくなってるのだとしたら、僕らは誰も先輩のことを責めてないと伝えたい。
「違うよ」
だけど、朱里先輩はそんな言葉をポツリと漏らして寂しげに笑う。
「全く関係ないわけじゃないけど、それが理由じゃない。それなら、飲み会にも顔出せないでしょ?」
「じゃあ、単純に僕と一緒に走るのが嫌になったとかですか?」
ずっと聞くのが怖くて。だから、できるだけ冗談めかして尋ねるつもりだったのに、問い詰めるような声色になってしまう。
朱里先輩の視線が僕の顔と夜空を何度か行き来すると、ぎゅっと口を結んで僕に背を向けた。
「ほら、そろそろ行こう。まだ半分くらいしか進んでないよ」
ガタついた笑みでちらりと振り返った朱里先輩が放ったのは、僕の問いへの答えではなかった。
本当にそのまま歩き出した先輩の姿に、僕の中の負い目がギリギリと僕を締め付けてくる。
そんな痛みを息として一つ吐き出すと、少し距離の開いてしまった先輩の後を追う。
ちらりと真っ暗な海を見ると、半分ほど昇った下弦の月が、夜の海に歪んだ像を描いていた。
十分も歩くと、線路と海岸に挟まれた細い二車線の道路を進むことになる。昼間なら博多湾を一望できる風光明媚な道なのだけど、生憎、今の僕に見えるのは空との境も分からない真っ暗な海と、人気のない夜道を何故か自信満々で歩く朱里先輩だ。
「現役の頃だって、そんなに飲んでなかったでしょ」
「最近、こんな風に気を抜いて飲めることなかったから。ついはしゃいじゃった」
僕の一歩前を歩く朱里先輩がちらりと振り返って笑う。その弾みでバランスを軽く崩していて、なんだかとても危なっかしい。
「それに、会社だとほぼ一番下っ端だけど、陸上部ならみんな敬ってくれるからね」
「そりゃあ、今の一、二年生からしたら先輩は伝説みたいなものですからね」
推薦入部がいるわけでもなく、歴史と伝統くらいしかない国立大の陸上部。
そんなとこにいながら現役時代の朱里先輩は全国大会常連で、圧倒的な輝きを示していた。僕より下の後輩は、そんな朱里先輩の走りを見て進学や入部を決めた人も少なくない。
「優弥君はそんなに敬ってくれないけどね」
「僕だって、先輩が現役の頃は敬ってましたよ」
朱里先輩は一瞬ハッとした表情になったあと、にししと笑って前を向く。会話がやんで、姿の見えない波の音だけが辺りを包んだ。
朱里先輩を尊敬していたことは嘘じゃない。それくらい先輩の走りは僕らを惚れ惚れさせて、男女分け隔てなく僕らを引っ張っていく先輩は憧れだった。
だからこそ、言葉がトゲついてしまう。意地が悪い言葉を吐いていると自分でも気づいているのに。
「なんで、今もそんなに楽しそうなんですか」
波の音に混ざって、少し調子の外れた鼻歌が聞こえてきた。お酒が入っているにしても、終電で帰れなくなった──正確には力技で帰ろうとしている──人とはとても思えない。
「この道、懐かしいなって」
「今も街中に出る時にはいつも通ってるんじゃないですか?」
「そうじゃなくて。この道、よく朝練で優弥君と走ったでしょ」
朱里先輩の不意打ちのような言葉にひゅっと胸が苦しくなる。僕と朱里先輩は二つ学年が離れているけど、朝の自主練のジョギングコースがほぼ同じで、偶然出会って一緒に走ることも少なくなかった。
正確には、朱里先輩と出会えそうなジョギングコースや時間に調整していたのだけど。
「優弥君も気をつけたほうがいいよ。あの頃はなんでもなかったようなことが、後になってとても大切な時間だったって気がついたりするから」
なんでもないと思われていたと凹むべきか、大切な時間と言ってもらえたことを喜ぶべきか。僕は態度を決め兼ねたまま曖昧に頷いて返す。
朱里先輩は今もこうして僕のことを無邪気に振り回す。きっと先輩にその気はないんだろうけど。
「あ、実は優弥君、今は別の誰かと走ってたり? 女子部員、すごい増えたよね」
「まさか。先輩と走ってたのだって偶然ですよ」
なんで朱里先輩の頭では、僕が女子と一緒に走る前提になってるんだろう。無遠慮に聞かれたせいか、つい返事の口調がざらついてしまう。
「ふーん……。今もこのコース走ってるの?」
「去年から違うコース走ってます。この道、風景はいいけど細いし信号多いから走りにくいんですよ」
横並びで走ると歩道を埋めてしまうから、あの頃も先輩が前で僕が後ろだった。先輩が振り返らない限り、僕は先輩がどんな顔で走ってるかもわからない。先輩と一緒じゃなければ、とても走りたいと思えるような道ではなかった。
「そっか。そうなんだ。へえ、ふーん」
何故か何度も頷いた朱里先輩はやっぱり僕の前に立って前を向いているから、その表情はわからない。
わかるのは、朱里先輩の歩くピッチが早くなったことくらい。先輩の後ろ姿なら毎日のように見ていたから、走り方が変わったらすぐに気づくようなっていた。
──そうだ。あの時の僕は、先輩の走り方がおかしいことに気づいてたはずなのに。
「もう少ししたら夏合宿だよね。四年生って研究室が忙しい人も多いけど、優弥君は参加するの?」
くるりと話題を変えた朱里先輩が今になって僕のほうを振り返る。歩くペースはいつもの朱里先輩に戻っていた。
「僕の研究室はゼミの日程が変なだけでそこまでスパルタじゃないですし、行くつもりですよ」
「そうだよね。今年の駅伝は優弥君なしじゃ始まらないし」
朱里先輩の言葉に僕は反応できなかった。確かに、朱里先輩が卒業してからは僕が長距離のエースとして走ることが増えたけど、そういうことじゃなくて。
「合宿も駅伝も、今は結果が大事かもしれないけど、かけがえのない青春だから。無理はしないでね」
暗闇の夜の波の音がザブンと大きな音を立てる。
思わず立ち止まってしまった僕の気配に気づいたのか、小さく振り向いた朱里先輩は不思議そうな顔を浮かべていた。
朱里先輩と僕の間には壁がある。二年前に卒業した朱里先輩は選手であることをやめようとしていて。だけど、僕はまだその手を離したくなくて。
「社会人っていっても夏休みくらいありますよね? 一日でいいから練習顔出してもらえませんか?」
二年前の卒業式に約束した言葉を、改めて問いかけてみると朱里先輩は足を止めた。
夜を照らす古びた街灯の頼りない明かりの下で、寂しげに笑いながら僕に向き直る。
「卒業した先輩が来たって、みんな気をつかうでしょ?」
「今日の飲み会見てたらわかるでしょう? 誰も朱里先輩に気なんてつかいませんって」
「それはそれで傷つくなあ」
ちょっと抜けた声を出した朱里先輩がくすりと笑う。
みんな朱里先輩に憧れて、尊敬してはいるけど、気をつかうっていうのは何か違う。それくらい朱里先輩の存在は僕らにとって身近で。僕にとってはずっとすぐ傍を走っていた存在で。
「卒業式の日、約束してくれましたよね。これからも時々は一緒に走ろうって」
朱里先輩が最後にくれたその言葉は、先輩が卒業して欠けてしまったピースをどうにか埋めてくれた。だけど、その約束は果たされることのないまま、気がつけば埋めるものがなくなった傷跡はカピカピに乾燥していた。
向かい合った朱里先輩は、小さく開きかけた口をきゅっと結んで、何も答えてはくれなかった。
「仕事忙しいのはわかってるつもりです。でも、それだけとも思えなくて」
朱里先輩の瞳がどこか緊張したように僕を見つめている。
「最後の駅伝走れなかったこと、後悔してるんですか?」
二年前の冬、朱里先輩の大学生活の集大成として臨む駅伝のメンバー表に、朱里先輩の名前はなかった。
疲労骨折を初めとした故障が駅伝の一カ月前に見つかり──誤魔化せなくなって、最後の駅伝を走ることができなかった。
そして、過去最高順位となった男子とは裏腹に、女子は前年より大きく成績を落とす結果となった。そのことに朱里先輩が責任を感じて、練習に顔を出せなくなってるのだとしたら、僕らは誰も先輩のことを責めてないと伝えたい。
「違うよ」
だけど、朱里先輩はそんな言葉をポツリと漏らして寂しげに笑う。
「全く関係ないわけじゃないけど、それが理由じゃない。それなら、飲み会にも顔出せないでしょ?」
「じゃあ、単純に僕と一緒に走るのが嫌になったとかですか?」
ずっと聞くのが怖くて。だから、できるだけ冗談めかして尋ねるつもりだったのに、問い詰めるような声色になってしまう。
朱里先輩の視線が僕の顔と夜空を何度か行き来すると、ぎゅっと口を結んで僕に背を向けた。
「ほら、そろそろ行こう。まだ半分くらいしか進んでないよ」
ガタついた笑みでちらりと振り返った朱里先輩が放ったのは、僕の問いへの答えではなかった。
本当にそのまま歩き出した先輩の姿に、僕の中の負い目がギリギリと僕を締め付けてくる。
そんな痛みを息として一つ吐き出すと、少し距離の開いてしまった先輩の後を追う。
ちらりと真っ暗な海を見ると、半分ほど昇った下弦の月が、夜の海に歪んだ像を描いていた。



