ガタンと電車が揺れて、隣の席に座る朱里先輩の体の重みがぎゅっと伝わってくる。
いくら何でも油断しすぎでしょう。そんな言葉の代わりに、何度目かになるため息を吐き出して隣の様子を伺う。顔に赤みを残した朱里先輩は、少し窮屈そうなスーツ姿ですやすやと寝息を立てていた。
陸上部のOGである朱里先輩は、長距離パートの飲み会に仕事終わりにそのまま駆けつけて、盛大に飲み明かしていった。
「先輩、そろそろですよ」
「んー」
起きているのか寝ているのか曖昧なむにゃむにゃとした返事。大きく開いた鞄からは職場でもらってきたのか、水色の包装紙で丁寧に包装された何かが見えた。
誰から貰ったんだろうと考えて、小さく胸がキリリと痛む。
「明日休みだからって、飲み過ぎなんですよ」
明日は日曜だからと他の部員は終電を気にせず飲み続けているけど、僕は休日にも関わらず開催される研究室のゼミに出なきゃいけないからと切り上げることにした。そして、会場を出ようとしたところで、うとうとしていたはずの朱里先輩が「私も帰る」と言い出して、そのまま僕が途中まで送ることになったのだけど。
厄介ごとを押し付けられたと思うべきか、役得と捉えるべきか。
『間もなく、姪ノ浦ー、姪ノ浦、終点です』
電車がガタゴトとスピードを緩めていき、周囲で朱里先輩と同じように眠りこけてた人たちがむくりと起き出す。一方で、朱里先輩の瞳は閉じられたままだ。まあ、そうなるよなってくらい、今日の朱里先輩はヤケっぱちな飲みっぷりだった。
「ほら、朱里先輩。降りますよ」
「んー、眠い」
「だから、飲みすぎなんですよ。社会人なんだからちょっとは自制してください」
「だって、楽しかったから」
小さく肩を叩くと朱里先輩は目を覚ましてくれたけど、まだどこかフニャフニャしていて、僕が知ってる姉御肌の朱里先輩は影も形もなかった。
終点のドアが開き、朱里先輩の肩を抱えるようにしてホームに降りる。夏の夜の空気は湿気を含んでいて生温い。
朱里先輩には一度ベンチに座ってもらってから、自販機で水を買って手渡すと、先輩は二回くらい失敗してからボトルのキャップを空けた。
「朱里先輩の家、波多駅の辺りでしたよね?」
朱里先輩は僕の問いかけに水を飲みながら器用に頷いて見せる。波多駅はここから四駅くらいだけど、今夜の電車は僕らが乗ってきた電車──今は回送の表示になっている──が最終だった。
「タクシー、呼びましょうか?」
「えー。お金ない」
「先輩、もう社会人でしょ」
「優弥君。社会人二年目の安月給を舐めちゃダメだよ」
「はあ、夢も希望もないですね」
残念ながら僕だって年が明けて四月になれば、大学を卒業して社会人になる。
朱里先輩のことはこれでも尊敬しているつもりだ。だけど、社会人としての朱里先輩は、見本にはしたくないと思った。
そんな風にしばらく話していると、ホームの見回りに来たと思しき駅員さんからの視線を感じる頻度が増えていった。ちょうど朱里先輩が水を飲み終えたようなので、ボトルを受け取り、そのまま手を引いて立ち上がってもらう。
改札を出て駅前のロータリーに出ると、ちょうど待機していたタクシーが客を乗せて出て行くところだった。念のためバス停の看板も見てみるけど、当然終バスは終わっている。
「それで、ここからどうやって帰るんです?」
僕の家はここから歩いて十分程のところにある。そのことは朱里先輩も知っているはずで。
平静を装いながら尋ねてみると、電車の中よりはいくばくか調子を取り戻した朱里先輩は、ニッと笑いながらビジネスバッグを肩に担いだ。
「決まってるでしょ。歩いてよ」
当然のように言い放たれた朱里先輩の言葉を、僕は一瞬理解することができなかった。
「まだ酔っぱらってるんですか? 波多駅まで歩くって、10キロはありますよ?」
「だいたい二時間くらいでしょ。学生の時に同じ感じで何度か歩いたことあるし」
確かに、ハーフマラソンを男子顔負けの記録で走っていた朱里先輩なら10キロくらい大したことないかもしれない。とはいえ、今の朱里先輩は既に陸上を”引退”していて、更には多少マシになったとはいえ、さっきまでアルコールでフラフラだったわけで。
「本気ですか?」
「もちろん」
朱里先輩は胸を張るとそのまま歩き出してしまう。
まったく、なんなんだこの先輩は。でも、その感情が今は何だか懐かしい。朱里先輩が現役の頃は練習でもそれ以外でもこんな風に振り回されることが多かった。
明日のゼミは午後からだから、始発で家に帰って準備すれば何とか間に合うだろう。やけくそ気味の目算を立てて朱里先輩の隣に並ぶ。
「優弥君、明日ゼミって言ってなかった?」
「ほんとですよ。何のために早めに飲み会抜け出したのか、わけわかんなくなりそうです」
「私、一人でも大丈夫だよ? 優弥君、家近いでしょ」
やっぱり知ってたんだ。僕の家を当てにされないのは、朱里先輩が後輩に迷惑を掛けまいと思っているのか、あるいは僕が信頼されていないのか。
「一歩間違ったら海に飛び込んじゃいそうな先輩、放っておけるわけないでしょ」
先輩の考えがどちらかはわからなかったけど、「それなら、うちに来ますか」なんて聞くことはできなかった。
僕の言葉に朱里先輩は目をパチクリさせて、それからにへらっと笑う。
「それじゃあ、出発進行っ!」
「先輩、方向が逆です」
いきなり先行きは不安だったけど、小さく空を見上げると半分に欠けた月が東の空から顔を見せているのが見えた。あの月が天頂に昇るのと、先輩を家に送り届けるのと、どちらが早いか競走になりそうだ。
レースなら僕も先輩も慣れてる。今の先輩はどうかわからないけど、少しだけ気が楽になって、右に左に歩き方がまだまだちょっと危なっかしい朱里先輩を追いかけた。
いくら何でも油断しすぎでしょう。そんな言葉の代わりに、何度目かになるため息を吐き出して隣の様子を伺う。顔に赤みを残した朱里先輩は、少し窮屈そうなスーツ姿ですやすやと寝息を立てていた。
陸上部のOGである朱里先輩は、長距離パートの飲み会に仕事終わりにそのまま駆けつけて、盛大に飲み明かしていった。
「先輩、そろそろですよ」
「んー」
起きているのか寝ているのか曖昧なむにゃむにゃとした返事。大きく開いた鞄からは職場でもらってきたのか、水色の包装紙で丁寧に包装された何かが見えた。
誰から貰ったんだろうと考えて、小さく胸がキリリと痛む。
「明日休みだからって、飲み過ぎなんですよ」
明日は日曜だからと他の部員は終電を気にせず飲み続けているけど、僕は休日にも関わらず開催される研究室のゼミに出なきゃいけないからと切り上げることにした。そして、会場を出ようとしたところで、うとうとしていたはずの朱里先輩が「私も帰る」と言い出して、そのまま僕が途中まで送ることになったのだけど。
厄介ごとを押し付けられたと思うべきか、役得と捉えるべきか。
『間もなく、姪ノ浦ー、姪ノ浦、終点です』
電車がガタゴトとスピードを緩めていき、周囲で朱里先輩と同じように眠りこけてた人たちがむくりと起き出す。一方で、朱里先輩の瞳は閉じられたままだ。まあ、そうなるよなってくらい、今日の朱里先輩はヤケっぱちな飲みっぷりだった。
「ほら、朱里先輩。降りますよ」
「んー、眠い」
「だから、飲みすぎなんですよ。社会人なんだからちょっとは自制してください」
「だって、楽しかったから」
小さく肩を叩くと朱里先輩は目を覚ましてくれたけど、まだどこかフニャフニャしていて、僕が知ってる姉御肌の朱里先輩は影も形もなかった。
終点のドアが開き、朱里先輩の肩を抱えるようにしてホームに降りる。夏の夜の空気は湿気を含んでいて生温い。
朱里先輩には一度ベンチに座ってもらってから、自販機で水を買って手渡すと、先輩は二回くらい失敗してからボトルのキャップを空けた。
「朱里先輩の家、波多駅の辺りでしたよね?」
朱里先輩は僕の問いかけに水を飲みながら器用に頷いて見せる。波多駅はここから四駅くらいだけど、今夜の電車は僕らが乗ってきた電車──今は回送の表示になっている──が最終だった。
「タクシー、呼びましょうか?」
「えー。お金ない」
「先輩、もう社会人でしょ」
「優弥君。社会人二年目の安月給を舐めちゃダメだよ」
「はあ、夢も希望もないですね」
残念ながら僕だって年が明けて四月になれば、大学を卒業して社会人になる。
朱里先輩のことはこれでも尊敬しているつもりだ。だけど、社会人としての朱里先輩は、見本にはしたくないと思った。
そんな風にしばらく話していると、ホームの見回りに来たと思しき駅員さんからの視線を感じる頻度が増えていった。ちょうど朱里先輩が水を飲み終えたようなので、ボトルを受け取り、そのまま手を引いて立ち上がってもらう。
改札を出て駅前のロータリーに出ると、ちょうど待機していたタクシーが客を乗せて出て行くところだった。念のためバス停の看板も見てみるけど、当然終バスは終わっている。
「それで、ここからどうやって帰るんです?」
僕の家はここから歩いて十分程のところにある。そのことは朱里先輩も知っているはずで。
平静を装いながら尋ねてみると、電車の中よりはいくばくか調子を取り戻した朱里先輩は、ニッと笑いながらビジネスバッグを肩に担いだ。
「決まってるでしょ。歩いてよ」
当然のように言い放たれた朱里先輩の言葉を、僕は一瞬理解することができなかった。
「まだ酔っぱらってるんですか? 波多駅まで歩くって、10キロはありますよ?」
「だいたい二時間くらいでしょ。学生の時に同じ感じで何度か歩いたことあるし」
確かに、ハーフマラソンを男子顔負けの記録で走っていた朱里先輩なら10キロくらい大したことないかもしれない。とはいえ、今の朱里先輩は既に陸上を”引退”していて、更には多少マシになったとはいえ、さっきまでアルコールでフラフラだったわけで。
「本気ですか?」
「もちろん」
朱里先輩は胸を張るとそのまま歩き出してしまう。
まったく、なんなんだこの先輩は。でも、その感情が今は何だか懐かしい。朱里先輩が現役の頃は練習でもそれ以外でもこんな風に振り回されることが多かった。
明日のゼミは午後からだから、始発で家に帰って準備すれば何とか間に合うだろう。やけくそ気味の目算を立てて朱里先輩の隣に並ぶ。
「優弥君、明日ゼミって言ってなかった?」
「ほんとですよ。何のために早めに飲み会抜け出したのか、わけわかんなくなりそうです」
「私、一人でも大丈夫だよ? 優弥君、家近いでしょ」
やっぱり知ってたんだ。僕の家を当てにされないのは、朱里先輩が後輩に迷惑を掛けまいと思っているのか、あるいは僕が信頼されていないのか。
「一歩間違ったら海に飛び込んじゃいそうな先輩、放っておけるわけないでしょ」
先輩の考えがどちらかはわからなかったけど、「それなら、うちに来ますか」なんて聞くことはできなかった。
僕の言葉に朱里先輩は目をパチクリさせて、それからにへらっと笑う。
「それじゃあ、出発進行っ!」
「先輩、方向が逆です」
いきなり先行きは不安だったけど、小さく空を見上げると半分に欠けた月が東の空から顔を見せているのが見えた。あの月が天頂に昇るのと、先輩を家に送り届けるのと、どちらが早いか競走になりそうだ。
レースなら僕も先輩も慣れてる。今の先輩はどうかわからないけど、少しだけ気が楽になって、右に左に歩き方がまだまだちょっと危なっかしい朱里先輩を追いかけた。



