最終電車に乗り遅れてしまった人たちを背に足早に改札を出た私の視線の先には数十分前に解散した彼氏の姿があった。切符売り場の横の壁に背中を預けている。ただ立っているだけなのに絵になるのずるいな。美術館に大きく飾りたいくらいだ。彼氏である紫音くんと目が合う。合ってしまった。射抜かれてしまった。

 うう、と胸を押さえながら「お待たせしました」と苦しそうな顔をする。

「なに、心臓痛いの?」
「紫音くんのビジュが相変わらず強すぎて…」
「あー、否めないね」
「潔く認めるところもいいなぁ」
「いいなぁ?」
「…す、すき、だなぁ、ですね」
「はは、そうですね」

 紫音くんの、ふにゃ、と目尻がやわらかくなる笑顔がとてもすき。だいすき。心の中ではたくさん言えるのに本人を前にするとセーブをかけてしまう。言いたくないわけじゃない。言うと歯止めが効かなくなりそうで、そういうの、付き合っていても、いやだなって思う人は一定数いるから。でも紫音くんに関してはたぶん言ってもいい。もうひとつ言い訳。シンプルに私が恥ずかしいだけです。それなのに、今日、自分から大胆な行動をとってしまったの。

 ——今日、やっぱり、帰りたくない

 おひるから夜までデートを楽しんだ私は紫音くんにこんなメッセージを送っていた。我ながらがんばった方だと思うし、文字を打つ手は震えていた。でも、後悔はない。これが正解だ。



「さくちゃんは、わるいこだな」
「わるいこ、かなあ」

 紫音くんの右手と私の左手がぴったりと合わさる。恋人繋ぎ。指と指の隙間はちゃんと埋まってる。

「うん。帰りたくないとか、そんなのどこで覚えたの」
「うーん」
「俺は教えてないよ」
「帰りたくないのはデートのとき毎回思ってるよ?」
「ふうん、じゃあ今までは言葉に出さなかっただけか」
「そういうことです」
「やっぱわるいこじゃん、あーこわいこわい」
「こわくないじゃん、かわいいじゃん」
「あーかわいいかわいいこわいこわい」
「ねえ〜〜」

 紫音くんとの会話は七割こんな感じ、いや八割かな?くだらない会話が特別で宝物。頭の片隅にしか残せないの悲しいね。ぜんぶ形にして残しておきたいのに。

「あ、ねえ、紫音くんのマンションの近くにコンビニある?その、下着とか、買いたくて、ですね」
「あるよ。寄ろうね」
「うん。ありがとう」
「パジャマは俺のでもいい?」
「もちろん!ていうか着せてくれるんですか?」
「着てくれるとうれしいです」

 彼パジャマってやつだ。わあ、うれしいうれしい!




「お邪魔しまーす」
「はーい、どうぞ」

 紫音くんの住むマンションは駅から歩いて十分ほどのところにあった。三階建ての綺麗なマンション。私は実家暮らしだから一人暮らしに憧れている。住む予定もないのに不動産屋のサイトを開いて、ああでもないこうでもない、あれいいなこれいいなって言ってる。いつか一人暮らしをして紫音くんを招きたいな。

 どこもかしこも紫音くんの匂いがする。突然でも人を招いて大丈夫な部屋なのすごくない?普段からちゃんと掃除をして清潔を保っている証拠だよね。

 ほとんど私の買ったものが入ったコンビニ袋をローテーブルの上に置いた紫音くんは「先にパジャマ用意するね」とクローゼットを開けて服を物色し始めた。あの服大学で見たことあるな、とか初めてのデートのときに着てきたよねって、たのしい。

「さくちゃんが着たら絶対かわいいからこれ着て」

 そう言って渡されたビッグシルエットのクリーム色のTシャツ。胸元にソフトクリームのワッペンがクリーム色に馴染むように付けられている。

「紫音くんは着たことあるの?」
「あるけど色味が似合わんかったんだよね」
「えーそうかな?」

 そう言ってTシャツを広げて紫音くんの体の前にかざす。似合わないことはないだろうけど紫音くんはブルベ系だから黒とか白だね。これはこれでかわいいけど。

「これさくちゃんにあげる、さくちゃん専用にする」
「えっ」
「うちに来たとき、すぐ着れるようにしとく」
「私専用なんていいの?」
「さくちゃんは彼女だからね」
「ぐはっ、またそうやって乙女の心を…っ」
「ははは」

 心臓を押さえる私を見た紫音くんは「ほんとかわいいね、さくちゃんは」と少し低めのトーンでかわいいを紡ぐ。体感で十秒ぐらい。目が合う。

「…紫音、くん?」

 呼びかけにハッとした表情を浮かべて、慌てたように私から離れる紫音くん。私の頬に垂れる横髪を掬うゆびが微かに震えていた。


 シャワーを浴びたあと、私専用になったTシャツに袖をとおす。大きい。裾がちょうど太ももあたりにあって少し丈の短いワンピースみたいだ。Tシャツと一緒に借りたスウェットズボンをちらり見やる。

「……よし、決めた」

 Tシャツの裾を掴む手に力が入る。



「紫音くん」
「ん?あ、Tシャツ似合うね、さすがさくちゃ——」

 紫音くんの言葉が詰まる。何度か瞬きをして、視線が下がり、そしてなぜか両手で顔を覆った。

「…さくちゃん、ズボンどうしたの」
「ズボンなくてもシャツワンピみたいな感じでいいかなって思って、どうかな?」
「うん、かわいい、かわいいよ、でもね、その、履いた方がいいと思う。いや、履いて、お願いだから」
「なんで?かわいいなら、このままでもよくない?」
「よくない、かわいいけど、よくない」
「もう!私のことちゃんと見てよー!」

 ソファーに座っている紫音くんと同じ目線になるようにしゃがむ。顔を覆っている指をなぞると「ズボン履いた?」と確認してきたので「うん」と返せば「さくちゃんウソはだめだよ」と怒られた。しょぼんです。

 紫音くんと付き合って一ヶ月とちょっと、私たちはまだ手を繋ぐ以上のことを経験していない。時間と雰囲気さえ整っていればいつでもできたと思う。すべてはタイミングの問題。だけど紫音くんはいつも言うの。私のことが大切だって。それは身に沁みて感じているし、紫音くんの私を大切だと思う気持ちを私も大切にしたいって思ってるよ。でもね、私、紫音くんのことが好きすぎるから、手を繋ぐ以上のこともしてみたいって思った。これが今日わざと終電に乗らなかった理由だよ。


「ねえ、紫音くん。私たち、ステップアップしようよ」



 指の隙間から目が合う。

「すきだよ、紫音くん」

 だめだ、溢れてしまう。

「すき、」

 心の中のつもりに積もった〝すき〟が溢れ出してしまう。

「俺も好きだよ、さくちゃんのこと」
「うん」
「大切なんだよ」
「ちゃんと伝わってるよ」

 ころりと宝石みたいな瞳がうるうると揺れる。

「男はね、みんなおおかみって知ってた?」
「そうなの?でも、紫音くんには長くて鋭い爪も歯もないじゃん、大きな耳もない、形のいい耳はあるけど」

 紫音くんのほんのり赤くなった耳朶に触れる。

「なんか、こう、ガブっとね」

 顔を覆っていた手で爪を立てる仕草を見せてくる。

「やっと顔見れた」
「すっぴん、かわい」

 ふにゃ、と目尻がやわらかい線を(えが)く。

「すっぴん恥ずかしいなぁ」
「かわいい、メイクしてるのも好きだけど、こっちもすき。え、かわいいね、さくちゃん」

 改まって言われると、照れる。

「あ、ありがとう」

 照れ隠しのように前髪に触れていると、ふう、と深く深呼吸をした紫音くんの視線が顔から膝に向けられた。そして裾をグッと伸ばす。

「裾、伸びちゃうよ?」
「伸ばさないと、見えそうだったし」
「紫音くんになら見られてもいいんだけど」
「はあ」
「溜息つかないで」
「ごめん、違う、落ち着かせてるだけ」
「動揺してるんだね」
「さくちゃん、やっぱりわるい子じゃん」
「したいこと言ってもいい?」
「……」
「紫音くんとキスしたい」 
「……したら止まんないと思う」
「い、いいよ!」
「さくちゃんを怖がらせたくない」
「怖がらないよ、だって好きだもん」
「ほんとはさっきキスしそうになった」
「えっ、そうなの?いつ?」
「Tシャツ渡したとき、反応がかわいくて、つい」

 あっ、あのときか。たしかにいつもとは違う雰囲気を一瞬醸し出した気がしたんだよね。低い声と真剣な眼差し。髪を掬う優しいゆびさき。私の知らない紫音くんに胸がときめいた。

「私たち、同じ気持ちだったんだね」

 その事実が嬉しくて涙が出そうになった。前に進みたいと思う気持ちが私だけのものじゃなくてよかった。ちゃんと二人の気持ちだった。

「もし、ちょっとでも嫌だなとかきもちわるいなって思ったらビンタして、すぐやめるから」
「どっちも思わないし、ビンタもしないよ」

 その言葉で覚悟が決まったのか、床に片腕をつき、重心をそちらにもっていく。紫音くんの伏し目がちな顔が目の前にある。心臓がばくばくとうるさい。

「止められなかったら、ごめんね」

 そう言い残し、角度を少し傾けて、そのまま私のくちびると重ねた。

 え、えっと、えっとこのあと、どうするんだっけ。どうしたらいいの。ていうか息してもいいのかな。紫音くんに鼻息必死なのバレたくない。でも苦しい。酸素を求めてくちびるを開ける。だけどそれは紫音くんの理性を煽ることになってしまった。

「ん、」

 ことはゆっくりと進む。それなのにえらく大胆だ。息がどうとか、鼻息がどうとか、そんなの考えられないくらいにはどろどろに溶かされている。

「さくちゃん、しんどくない?」
「っ、なんか脳内がパンクしそう」
「いっぱいいっぱいになってるね」

 よしよし、と頭を撫でてくれる。

「でも大丈夫だよ、まだ、したいな」
「奇遇だね、俺も、まだしたい」
 
 もう少し、このしあわせを感じていたくて、私たちは時間の許す限り、何度もくちづけをかわした。


 カーテンの隙間から溢れるひかりが朝を告げる。昨日あれからスウェットのズボンを履いて寝た。紫音くんがどうしても履いてと言うから。理性がどうとかぶつぶつ言っていた気がする。私は彼Tシャツだけでもよかったんだけどね、紫音くんの気持ちを尊重しようって思ったんだ。

 隣には大好きな人が気持ちよさそうに寝息を立てて眠っている。初めて紫音くんの寝顔を見た。写真撮りたいな。起こさないように枕のそばに置いてあるスマホに手を伸ばしたとき「あったかい」と少し掠れた声と共におなかに腕がまわった。布団の中で抱きしめられている。

 写真、もういいや。

 うつらうつらしている紫音くんが微笑む。寝ぼけてるのかな。それとも実はまだ夢の中だったり?どっちでもいいけどさ、ほんとかっこいいね。寝てても絵になるってもはやこわいまである。ひとりじめしたい。してもいいよね、私、彼女だし。はあ、すきだな。

「ふっ」
「あ、また笑った」
「さくちゃん、俺のこと見過ぎだよ」
「あ、バレてた。だって、かっこいいんだもん」
「寝起きの顔がかっこいいわけないじゃん」
「かっこいいよ、異論は認めません!」

 曲げない私に、紫音くんは呆れたように笑う。

 昨日、キスをした。人生ではじめてのキスは息の仕方がわからなかった。唇の表面があたたかくて、ふわふわした。お互いの呼吸と心臓の音が聴こえた。

 とても、しあわせだった。

 こんなの覚えてしまったら、あとには戻れないねって笑い合って、何度も唇を重ねた。

『これ以上は、もう、だめだから、寝よう』
『そうだね、また明日しよう?』
『うん、しようね』
『おやすみ、紫音くん』
『おやすみ、さくちゃん』



「紫音くん、朝です、キス、しませんか」
「俺も思ってた、したいなって」

 私はきみと、スーパーしあわせな朝をむかえる。