……ちゃん、はすみちゃん……。これ、だいじにする。わたし、だいじにするからね。
 あたしもうれしい。うなずく。
 はすみちゃん、そんな怖い夢、見るの? はすみちゃん、これ……どうしよう。わたし、こわい……。まもってね。やくそくだよ。
 ……、だからね。電車に……。
ゆびきり、げんまん。

 ああ、またこの夢だ。

「あ、あのぅ……」

 段々大きくなって、体がゆさゆさ、揺らされる。ごうん。お次は……駅、お降りの際は……。駅名が聞き取れない。
 あたしを呼ぶ声が混ざる。急に、風の匂い。
 あの、あのぅ……。繰り返す音。ゆさゆさ。とんとん。ぱちり。

「あのぅ……大丈夫、ですか? うん。心配で。さっきからずぅっと。ね、大丈夫ですかぁ?」

 黒い髪がふんわりとなびいていた。どこか見覚えがある。そうだ、飲み会にいた……誰だっけ。
 うっ。手で口を覆うと、「あ、ユメです。サルカワユメ。忘れちゃいました?」膨れながら、ユメちゃんがペットボトルを差し出した。SARU-WATER……ピースしたサル。……変なラベル。

「飲めます? 吐きそうだったり?」
「へーき……」

 にこって笑うピンクの唇から、白い八重歯。左の口元、小さなホクロ。白くてもちもちしたほっぺたはじゅわってしたピンクで、かわいい。こんな子だったらいいのに。あたしも。
 でも、見てるくらいがちょうどいい。あたしには似合わない。ガラじゃない。

「ていうかぁ、先輩私の名前忘れちゃいました? さっきの飲みだって一緒でしたよぅ」
「あ、ほんと? ごめ……」

 波が来て、慌てて口に流し込む。少し温い液体はなんか、違う味がする。鉄、みたいな。ユメちゃんを見る。あたしに気付いてにこぉって笑っていた。

 最近、ずっと疲れている。付き合ってた子とは自然消滅。友だちとも予定が合わない。センパイが「飲もう!」ってあたしたちを連れ出した。
 結果が出ない課題、考え始めたい就活、卒論。もやもやまるごとぜーんぶ飲んで、吐いて。
 そうだ。電車に乗って、降りて、ベンチでぶっ倒れたんだ。

「二次会、しちゃいます? 焼肉とか好きです?」
「あんまり」
「ん~、じゃあ活け造りは?」

 ぐにゃぐにゃした肉の感覚を思い出す。ちょっとした生臭さの混ざった味。嚙みきれないし、飲み込めない。

「ナマモノ嫌いなんだよね」
「お揃いだぁ。しょっちゅう出るから私、飽きちゃったんです。先輩も?」
「そんな感じ……」

 ようやく頭が回り始める。
 頬を撫でる風に混じって、鼻歌。……ニチアサのヤツ。あたしも昔、歌ってた。

「……てか、ここどこ」
「梅見駅ですねぇ」
「ホント、どこ!?」

 聞き覚えないけど絶対遠い。

「しゅーてん、でーす」

 にひひ。ぐっとユメちゃんの体が寄った。下からあたしの顔を覗き込む。小さく開いた口。なにかが光って見えて、瞬く。

「終電、なくなっちゃったね、なぁんて。すっごくやらしー響きじゃありません? 下心丸出しで作られた感じがする」

 あ、やっぱりなくなってた。まぁいいか。

「穿ちすぎでしょ」
「試します?」

 長い睫毛に、きりりとした目。ひんやりした手が頬を撫でて、近付く顔。

「せんぱぁい、終電、」

 なんとなく、懐かしい匂いがした。厚手の服越しでもわかる体のやわらかさに心臓からヘンな音。
 つつつ……。指先が唇を撫でて、押して、耳元に熱。

「なくなっちゃった、ね?」

 息がかかって、くらくら、り。軋みひとつなく立ちあがって、あたしの手を取る。

「あ、そうだ。先輩実はぁ、私の家ここから近いんですぅとか、ありません?」
「ないない」

 歩いてどんだけかかるのか考えようとして、やめた。足がふらつく。

「ここずっといても駄目ですし」

 あたしを支えて、ユメちゃんはまた、囁いた。

「酔い覚まし、しーましょ?」
「ん、そうだね。あ、待って」

 今日、絶対帰れない。明日一限からなのに。ホテルとか取らなきゃ、まずい。そういえば。ごそごそ。カバンには財布もちゃんと残っていた。目当てのものを取りだして、

「あ」
「どうしたんですかぁ?」

 圏外。詰み過ぎている。充電もない。ウソでしょ。そういや、こんなに遅くなるはずじゃなかった。

「ユメちゃんスマホある?」
「え? ないです。すぐ壊れちゃうから」
「まじか」
「そんなことより、公園で遊んでいきましょ! ふたりっきりですよぉ。遊具ひっとりじめ、ずっとしたくってぇ」

 こっち、こっち! ユメちゃんが手を引く。夜というだけで、びっくりするくらいに静かだった。消えかけた白熱灯がじじ……、って音を立てる。ちゃんとした方が良いと思う。
 あ。そうだ。見なきゃ。案内板。目を細める。……暗くて、よく見えない。
 時刻表の隣には、手配書だ。こっちも掠れてて見えにくい。なんだろう。
 若い女の子だ。この顔を見かけたら114……。誤植? ちょっと短い髪の女の子と、その隣。女の子の口から覗くちいさな……。

「はやく、いきましょ?」

 両手であたしの目を覆って、にひひと笑う声がした。



 ユメちゃんはしれっとあたしの右隣を歩く。細い道は暗い。車も通らないから、余計に。
 空は星ひとつないのに、なんでかふたつ、月が浮いていた。……目頭をよく揉んで擦る。「どしたんですかぁ」ユメちゃんの視線。
 見れば見るほど、かわいい子だ。ロングコートに制服っぽい感じの黒のワンピース。ぺたんこの靴。意外と、背が高い。
 中途半端に開いたままのカバンから、かしゃり。いけない。

「先輩それ」
「ん?」
「かわいいキーホルダーですねぇ」
「そお?」

 子供の時から、大事に持ってたクローバーの指輪。ボールチェーンに透して、そのまま使っている。剥げてぼろぼろなのに、まだ捨てられない。

「鍵これしかないから落としたらやばいの」
「じゃあその鍵、私にくーださい」
「ヤダ」
「えー」
「一人のが気楽だもん、ダーメ」

 ちぇっと膨らんだ頬に、一瞬揺らぎそうになる。いつのまにか繋いだままの手。温度はちっとも移らない。
 思ったより小さい手。指を絡ませたら、すっぽり隠れてしまう。爪も短い。
 それにしても、夜遅いとこんなにひともいないんだ。遠くで、なんだか鳥の鳴き声がしていた。ぎゃっとか、そんな感じの。
 聞き覚えのあるようなないような。そんな声はどんどん近付いている。なんだっけ。鳥、というか。

「サルですねぇ。オサルさん」
「サルゥ?」
「この辺まだ出るんですよぅ。あ、実はユメちゃんこの辺り住んでまして」
「先に言ってよ」
「田舎出身ってちょっとあれかなぁって」
「あたしの地元もこんな感じだよ」

 なーんもなくて、足音だけ響いて、夜には虫の声。みんな顔見知りで、夜なんて出歩けない。

「そうなんですかぁ?」
「そうそう、サルキジイヌ出まくり」
「桃はぁ?」
「名産じゃないから出ませーん」
「話盛ってません?」
「まっさかぁ」

 頭の奥が重い。やっぱり、飲み過ぎた気がする。さっき貰ったペットボトルの蓋を開ける。まずい水が喉の奥に通っていった。なんか、クセになる。
 この場所、至る所にサルのモチーフがある。……地元から出た一番の理由を思い出した。うへぇ。
 せんぱぁい? ほんの少し眉を寄せるユメちゃん。平気だよ。首を振ったら、ようやく笑った。ここですよって指さし。どこか懐かしい公園だった。

「先輩っ?」

 心臓の音がする。耳の奥で、どくどくって。違う。絶対、違う。目を擦ってみる。どこにでもある公園。

「ここぉ、サルもいるんですよねえ。今の時間寝てると思うけど」
「うっわ……」
「あれ、サル嫌いです?」
「ん~……ちょっとね」

 大した理由じゃない。

「エンガイもありますし、先輩嫌なら私がえいって追い払ってあげますね」
「頼もしい」
「好きになっちゃった?」
「調子乗るなって」

 ああ、なんだろう。ずっと前からこうやって話していた気がした。もう、ずっとずっと前、に……。
 ブランコに乗る背中を押して、滑り台を滑って。今のあたしにこの公園の遊具はすごく小さい。
 ウンテイなんて手を伸ばしたら届いちゃいそうだ。
 ユメちゃんの体が踊るみたいにくるくる。あっちの遊具、こっちの遊具。ブランコ。シーソー。
 こっちこっち。待って待って。仕方ないなぁって追いかける。

 ――はすみちゃん……!

「先輩?」

 まただ。誰かの顔が重なって、体が固まった。ぐいっ。引かれた体が傾いて、抱きとめられる。

「おままごとしーましょ?」

 その言葉に、頷いちゃう。差し出された水をもう一回飲む。三回目になると、むしろおいしい。
 旦那役を仰せつかって、ただいまってふざけてコンクリートのドームに入った。滑り台の下に、丸い空間。
 暗いと一層ひんやりとして、少し湿った臭い。
 
「そういえば先輩、別れちゃったんでしょ? なんでです?」
「ん~……」
「はい、あーん」

 開いた口に、丸い何かが入ってくる。サイダーの飴だ。昔好きだったヤツ。あたしもこうやって食べさせてあげた、ような。
 転がしても、なくならない。仕方なく、そのまま話す。お行儀、悪い。

「夢、見るんだよね」
「夢?」
「そ。夢」

 遠くの方でまた、ぎゃって声がした。何かを焼いてるみたいなぱちぱちって音も。気になって顔を出すと遠くの方で煙が見える。かぁんかんかんかん……。消防車? わからない。

「蓮見ちゃん、話して」
「えとね」

 ……あれ。あたし、この子に言ってない。名前なんて言ってない。ていうか。飲み会にこんな子、いなかった。だって。
 ――センパイとあたしと、もうひとりしか、残ってなかった。何人か合流したかもしれないけど、こんな子、絶対いない。
 だって、いくら酔ってても。あたし、こんな子、忘れたりしない。絶対見たら覚えてる。

「そうだ。私のお家、実はこの近くなんです。一緒に帰りましょ?」

 絡んだ指先のその冷たさがまるで、まるで。振り払う。
 ――思い出した。この公園。似ている。夢で見るあの場所に、すごく、似ている。
 あたしを呼ぶ声も、あたしを見る顔も、なにもかも。

「蓮、見ちゃん……?」

 ユメちゃんは大きく目を見開いていた。一歩下がる。ギャッ、ギャッ。声がしている。サルの声だ。その中に混ざって笑い声と、悲鳴。
 震える手で開くペットボトル。零れた水。黒いだけの地面が赤く、変わって。
 じり。じりり。
 一歩。また、一歩。ユメちゃんは動かない。胸に手をあてて、あたしを見ている。

「待って、蓮見ちゃん! 待ってぇ!」

 背中を向けて走り出す。誰かの声が重なる。蓮見ちゃん! 転んだ小さい体。追いつかれたくなくって必死に逃げるあたしの体。
 振り向いたとき、その子の顔は泣きそうで、でも、笑っていて、あの子は、だれだったっけ。

「きゃぁ!」

 振り返る。近付こうとした体。顔をあげたユメちゃん。口が笑顔に歪んだ。真っ黒な穴の中で、クローバーのピアスだけが輝く。

「蓮見ちゃん、」
「いや」
「ね、お話きい、」
「いや……!」
「蓮見ちゃん!」

 目茶苦茶な音。でたらめに走りだす。駅ってどっち。気がついたらこんな場所、いられない。いたくない。
 公園を出る。外壁の至るところ。貼られた、手配書。あたしの顔。それと、……誰かの顔。目があたしの方を見た気がした。
 なにこれ。なに、これ! 頬を抓る。……痛いだけ。
 起きろ。いっつもこれで目が覚める、の、に。

 りーん、ごーん。
 がーん、ごーん。

 こんなに遅い時間なのに、チャイムが聞こえる。町内放送だ。
 NNN放送から……、本日、お迎えに上がる方を放送いたします……。
 ざらっとした、ノイズ。途切れ途切れな放送。ネットニュースで、みた……。
 茶髪の癖毛で、先程この駅に迷い込んだ……。ざっ、ざざざっ、ざー……。
 サルと目が合う。
 とっくに酔いは覚めていた。喉奥からこみ上げてきたものが咳と一緒に零れ落ちる。
 もう、充分走った。走ったはずだ。なのに一歩も進んでない気分。環状線を、ぐるぐる。
 ああ、そう。あたし、電車もずっと嫌いだった。嫌いなものと怖いものばっか。
 前だけを見て、来た道を走る。
 はぁ、はぁ、はぁ……。
 喉の奥が痛い。ひゅうひゅうって音がする。昔、誰かに言われた。思い出した。夜、電車にひとりで乗ったらダメ。次はない。はすみちゃん。また、重なる。
 駅が見えた。明るい。もうないはずの電車。その灯りが見える。もうちょっと、もうちょっとで、ここから。

 くんって、袖が引かれた。

 後ろを見る。あたしの服を掴むサル。わらわらと、手に、足に、そうして、体に……。
 「迷惑行為はお控えください」声と一緒に、びしゃって何かがかかる。ころころ……。サルがいた場所。見覚えのある指輪。元カノ、の……。なんで。

「え」
「蓮見ちゃん……」

 ユメちゃんははらはらと泣いていた。ぽいって捨ててぐちゃって音。ごしごしと右手で目を擦って近付いてくる。

「蓮見ちゃぁん……」

 開いた上着から、ネックレスが見えた。見覚えのある、クローバーのかたち。
 昔、あたし。ずっと一緒にいようって、あげた。そうだ。

「今日、NNN放送でいってたから。だから、蓮見ちゃん、きちゃうって思って」

 ユメちゃんの泣き顔は誰かに似ている。でも、その誰かがわからない。

「私、帰したくて、でも、っ、会ったら、もうね、もうね」

 体が動かない。だって、ユメちゃんは今。泣いてるのに、笑ってる。

「でも、っ、だめなの。私、蓮見ちゃん、もう、もう……」

 ユメちゃんの上着は、駅員さんの制服に似ているんだ。そんなことをぼんやりと思い出す。左手にはなにかが握られていた。血がしたたる……。ユメちゃんが頭を抑えて、唇を噛む、から。
 弾かれるみたいに立ちあがって、駅構内へ走り込む。エンム線、……行……。ああ、やっぱり肝心のところが聞こえない。

「待って、蓮見ちゃん。待って、それ……」

 悲鳴が聞こえる。

「それに乗ったら、――!」

 ぐにゃりとユメちゃんの手が歪む。大きく開いた口。ピアスだ。クローバーの。
 ごくん。飲む、音。

 ぐわんって、浮上した。

 がたんがたん、がたんがたん――。
 光がまぶしすぎて、目を擦る。体を見る。……きれいだ。服も汚れてない。変な夢を見て、た? 早く帰らなきゃ。
 次はサルカワ駅です。お降りの方は……。いけない。慌てて立ち上がる。
 始発になるなんて思ってもみなかった。駅のホームでスマホを見る。充電切れ。モバイルバッテリーもない。
 早く帰らなきゃ。心配させてる。……なにか引っかかって、すぐ消えた。
 青々した空は、春の気配を少しだけ混ぜて心地が良い。ふたつの太陽があたしを見た。すぅっと切れ長の目に似ている。ぱちぱち、瞬き。
 意外なことに、誰とも擦れ違わない。こんなに早いから、それもそうか。くぁっと欠伸をして、伸びをする。よく寝た。
 家から駅まで、近い。
 カバンをあさって、血の気が引く。鍵、ない。忘れたっけ。怒られちゃう。インターフォンを鳴らそうか迷って、気付いた。
 そういえば。

「ただいま~」

 案の定、鍵はかかっていなかった。靴を脱ぎ捨てて、部屋に入る。いい匂い。ごはん、作ってくれてたんだ。
 机の上にはかわいいメモ。もしかして、もう帰っちゃった?

「鍵持ってったならいってくれたらいいのに」

 キーホルダー。その隣には、ネックレス。同じ、クローバーの指輪。この部屋、せまい。そろそろ引っ越し考えないと。
 ……またもやもや。大事なことを忘れてる気がする。
 でも今、すごく眠い。頬を抓ろうとして、やめた。
 ベッドに体を乗せる。ぱりっとしたシーツに、ぐわんと揺れる感覚。
 隣の部屋の扉が開いた。軋む床。長い黒髪に、じゅわっとしたピンクの頬に、すこぉし尖った八重歯。
 ちいさいちいさい手にちいさな体。とてとてと近付く音。
 撫でる指、声。小さな指同士が絡んだ。涙がぽろぽろこぼれて止まらない。
 なにもこわくないよ。ゆびきりげんまん。その声があんまりにもやさしい。

「おかえりなさい。……おやすみ、蓮見ちゃん」

 うん、そうだね、おやすみ……。