「あら、もう起きたの?」
母さんがあくびをしながら部屋から出てきた僕に話しかけた。
夏休みならゆっくり寝てもおかしくないのに、学校に着くのと同じ時間に起きたから。
理由はそう、桜木華子のせいである。
*
つい昨日、彼女は僕の世界を見たいと言った。
あの純粋なキラキラした目で。
「ねえ、いいでしょ?夏休み一緒に出かけようよ!」
彼女といると本当に疲れる。
ただでさえ暑いのにその自分勝手さが何もしてないのに体力を使うみたいだった。
もちろんだが彼女の提案には乗りたくない。それが本心。
だけどまだ少ししか話したことがないのに彼女の大体の性格が分かってしまったからには、この先の出来事も大体分かってしまった。
断っても彼女の好奇心が疲れない限りは着いてくる。
だからあえて勝手にしておけば良い。
さすがにこんな変わった人間でも飽きたら離れていくだろう。
「勝手にしたら」
「え!?本当にいいの!?」
普段何考えてるか分からない彼女だが、表情にはよく出るみたいだ。
今僕を「ありえない」というような顔で見ている。
「やばい!ありがとう大智くん!」
「…どうも」
「それで?」
「なに。」
「いつ?いつ撮りにいくの?」
好奇心丸出しのキラキラしたその目、時々嫌になるよ。
「ほとんど毎日」
「毎日!?じゃあ明日も?」
「うん」
「じゃあ明日!」
「え?」
「明日8時30分、この公園集合ね!」
本当に突然、一瞬だった。
思考が追いつけないのに彼女は
「じゃ、私そろそろ行くね!また明日!」
と公園を去ってしまった。
*
そういう訳でこんな朝早くに起きたのだ。
勝手にしろとは言ったけどこう来るとは誰も思わないだろう。
家のキッチンからはコーヒーの苦い香りがする。
そんな中で母さんが慌ただしく冷蔵庫の中をガサゴソと漁っていた。
多分僕が早くに起きてきたからすぐに朝ご飯を用意しようとしているのだろう。
ダイニングテーブルの上には一人分の弁当が完成されている。
母さんはグレーのカジュアルなスーツを着ているし、多分もう仕事に行く時間は目の前のはず。
「僕朝ご飯要らないよ」
「え、でも少しくらい食べないと…」
「もう出かけるんだ。大丈夫。」
「今日も…カメラ…?」
「少しだけだよ、気にしないで」
集合時間の15分前、カメラを持って深くため息を吐きながら靴紐を結び家を出た。
*
公園に着くと当たり前にまだ彼女の姿はない。
朝ご飯を食べる時間の分早く来てしまったのだから別におかしくはない。
ぼーっと待ってると段々自分がおかしくなる。
昨日からどうも自分に違和感を感じて。
桜木さんといると疲れる。けどなんでか心が温まる時もある。
それは僕の”綺麗“を受け入れてくれたからだろうか、もしくは他の何かなのか。
本当に彼女には圧倒される。
彼女が変わってる人なのに僕がおかしいのかと考えさせらるのだから。
約束の8時30分近く、僕に歩み寄る足音が聞こえた。
視線を前に向けると、笑窪を深くさせて僕をまっすぐ見る彼女がいた。
なんだか新鮮と思ったら私服姿を見るのは初めてだった。
髪は相変わらず、こんな暑いのにふわふわと巻いた髪を下ろして。
「なーんだ、私の方が早いと思ったのに。」
「たまたま早く出ちゃったんだよ」
「ふーん。」
「なんだよ」
今度は意地悪に笑ってる。
「なんでもない!ね、どこで撮るの?」
「近所。」
「えぇなんで?見慣れてるでしょ。」
「うん、見慣れてるよ」
「じゃあなんで撮るの?もうどれだけ綺麗か分かってるでしょ?」
不思議そうに彼女は聞く。
「君には分からないよ」今日もそう言おうと思った。
だって僕だけが分かればいいと思っていたから。
けど今日はちゃんと話すことにした。
なんでそう思ったのかは自分でもさっぱりだけど、彼女なら分かってくれると1%くらいの期待をしている僕がいたから。
「同じものでも変化していくんだよ。
昨日桜木さん言ってたでしょ、ペンケースが綺麗に見えるかもって。」
「買った時はるんるんしてて、汚れに気づいたらガッカリするって話?」
「そう、はじめて買った時と使い古した時と感情は違う。それと一緒。
それに見慣れた場所だって歩いて見たら知らなかったことも多いし、新しく何か出来てることだってある。
見慣れたようだけどまだ全部を知らないから。」
「うわあ、なるほどね…。」
そう言って小さく頷いてすぐ、歩き出したと思えば振り返ってとてもワクワクして楽しそうな満面の笑みを僕に見せた。
そして高くて楽しそうに跳ねた声で僕にスタートの言葉をくれた。
「ねえ早く撮りに行こ!大智くんの”綺麗“!」
まただ。心が温かくなる。
彼女が僕の綺麗を理解してくれる度に温かくなる。
これでも苦手な相手なのに、褒められるなら誰だって言い訳じゃない。
じゃあなんで、僕はこんなにーー
「大智くん、撮るものあった?」
「えっ」
「あれは?電柱。」
「電柱は綺麗だと思わないよ、どう感情を関連させたらいいか分かんないし」
「んーあっち行く?」
「うん」
ボーっとしてた、だめだ。なぜか他のことを考えてしまう。
綺麗なものを撮ることに集中しよう、なにか綺麗なもの…
辺りを見回すと、コンクリートの地面に倒れた一本の青い傘を見つけた。
金属の部分が少し錆びている。
誰かが落として行ったのか。もしくは要らないと思ったのか。
カシャーー
シャッターの音に桜木さんが「見つけた!?」と無邪気に振り向いた。
「何撮ったの?」
「これ」
「傘?なんでこんなところに?」
「さあ。天気でも間違えて邪魔で置いてったのかもね。」
「邪魔でも傘くらい持って帰るでしょ」
「分かんないよ?この傘の持ち主が小学生だとしたら、帰り道に友達と遊びたいのにこの傘が片手の自由を奪うから邪魔だったのかも。
もしくはこの傘の色が気に入らなくて、この傘を無くせば新しく買って貰えると思ったのかもしれない。」
傘に近寄って、真上から撮ってみた。
遠くから撮るよりも落ちてる感じが強くてまた違った綺麗を連想させる。
錆びていて、寂しそうな傘の中に人の思い出も感情も詰め込まれている。
もしかしたら君を探しに来るかもよ。
人間としてこの傘にしてあげられる最低限のこととして、道角のコンクリートの塀に立てかけた。
「…綺麗?」
「うん、落とし物とかってちょっと人間味があってちょっと角度が違って、綺麗なんだ。」
普通の人がこれを見ればただの落とし物、汚れた傘と無視してこの道を歩くだろう。
けど僕にはこの傘が輝いて見える。
梅雨の6月が終わった7月の落とし物。
次を探そうと傘から視線を外すと、桜木さんが僕を見て微笑んでいた。
「大智くん、楽しそうだね。」
そう言って彼女は僕に背を向けて、坂道を上がって行く。
僕は動け無かった。理由もなく。
ただ何か、変に心がくすぐられた気がして。
先に進んでく彼女が止まった僕に気がついて振り向いた。
普通なら『早く』と言って僕を進ませるのに、彼女は何も言わず微笑んで先を進んだ。
本当に不思議だ。
僕は今、彼女を追いかけたい。
その一心で一歩を踏み出した。
彼女と歩きながら見慣れた場所の新しいものを見つける。
いつもはまだらな模様の野良猫が出てきたりするのに、今日は真っ黒な野良猫が現れたり、
アスファルトに咲く花が妙に元気で力強かったり。
僕が撮るものを見つけてシャッターを切る度、その音に勢いよく振り向く桜木さんが少し面白かった。
そしてどう綺麗なのかを聞かれて、話すとうんうんとまっすぐに聞いてくれる。
桜木さんは僕の世界を馬鹿にしたり否定したりしない。
彼女の目がそう語っていたのだ。純粋で、僕の綺麗だけを見つめてくれる、その目にきっと嘘はない。
だから本当は最初からその目に期待していたのかもしれない。
彼女が分かってくれるなら、少し、あともう少しだけ僕の“綺麗”を見せてあげようかと。
今日の空は雲一つ無い快晴だった。
雲の邪魔もなくまっすぐに太陽に光を刺して、全く悪気の無い眩しさ。
いつもならこの空に寂しさを感じるけど、今日はいいなと思った。
この快晴があの傘を見つけてくれるかもしれない、真っ黒な野良猫が夜の暗さに溶けないでいてくれるかもしれない、
アスファルトに咲く花の孤独を消してくれるかもしれない。
そうやってまた僕の綺麗に新しい感情が生まれた。
少し遠くまで歩いてきてしまった。
「そろそろ帰ろう」と彼女に言うと「もう?」と少し寂しそうに言う。
本当は僕ももう少しだけ撮りたかった。
けど忘れていたのだ、彼女の好奇心が消えていくとこうやって理解してくれたり共に歩いて写真を撮ることなんて無くなる。
僕の中の彼女への期待がまだ小さい内に、辞めた方がきっといいに決まってる。
帰り道、僕より少し先をゆっくりと歩く彼女が無邪気に話し出した。
「ねえ、いつもどんな所で撮るの?」
「どんな所…、こういう自然なものが多くて静かな所かな」
「田舎っぽいのが好きなの?」
「都会はうるさくて蝉の声なんて聞こえないし。
静かではっきりと蝉の声が聞こえる田舎の方が好き。」
「ふーん」と聞いといてつまらなさそうに空を見上げはじめる。
なんだよ、結局もう興味がなくなってたのか。
逆に良かったのかもしれないけど、心の奥底では少し残念がっている自分がいた。
いつのまにか彼女に対する苦手だという意識が薄れていた。
一緒にいるとポカポカと暖かくなる心が僕をそうさせたのか。
少しの沈黙の中蝉の声だけが響く。
それはうるさいはずなのに、静かに感じる。
その沈黙を破ったのは彼女だった。
「ねえ、行ってみようよ。」
「…どこに?」
「都会だよ!ここと真逆な場所。
大智くんまだ知らないのかもよ?都会に綺麗なものがあるって。」
彼女は僕を驚かせるのが得意みたいだ。
さっきは興味が無くなったように見えたのに、内側では思いつきもしない事を考えて。
「いいかもしれないけど、僕都会は嫌いだってば」
「いいかもって少しは思ったんでしょ?」
「いや、別にーー」
「『いいかもしれないけど』って言った!言ったってことは少しはいいんでしょ?
なら行こうよ。楽しいかもよ?」
「はあ」と深くため息をつく僕を彼女は楽しそうに見ている。
都会は人が多くて気楽に写真を撮ることができない。
他にも、人工的で人の気持ちがこもってないようなものが多くて好きになれないのだ。
だからさっきの「いいかもしれないけど」は本気で思ってない飾りのようなもの。
絶対どう見たって僕は乗り気じゃないのに、自分勝手な彼女の顔はずっと僕を期待の目で見ている。
少しは彼女に期待をしていたとしても、さすがにこれだけは彼女の自由さに呑まれてはいけない。
それでもやっぱり、僕は彼女の自由さに振り回される運命みたいだ。
「明日の12時、駅前で待ってるよ!大智くんが来なくても、絶対待ってるからねー!」
そう無邪気に笑窪を深くさせて前を歩いて行く。
最初から、彼女の中に拒否権なんてものは無かったみたいだ。
この悪気の無い無邪気な自由さが僕を暖かくしたり面倒だと思わせたり、僕にはまだ彼女が分からない。
けど今日はほんの少し、興味を持った。

