―今日もいつも通り何事もなく1日が終わると思っていた。

終業式を終えて、夏休みを明日に控えた教室内。
ホームルームが終わり、クラスメイトには半分程の生徒が教室に残り談笑している。特にここに留まる理由もない僕は帰るため準備を進めていた。
荷物をまとめ終わり教室を出ようとしたところ、目の前に近づいてきた1人のクラスメイトに声を掛けられた。
「蓮、ちょっと。」

突然のことに戸惑いながらゆっくり目線を上げると、幼馴染である高秋がこちらを見つめている。
「秋、どうかした?」
彼から話しかけてくるなんて珍しいなんて思いながら、彼はゆっくり口を開いた。
「…夏祭りの話、春陽お兄から聞いた?」
出来れば避けたかった話題を振られ思わず眉をひそめる。
乗り気では無い、という雰囲気が伝わったのだろう。
心配したような顔の彼は静かにこう言った。
「俺はいいけど…。春陽お兄に断るの面倒だと思う。」
確かにあの人に断れば、怒られはされないが長い時間詰められる様子しか思い付かない。

「ああ、分かったよ。行く。」
その言葉に、秋の口元が少しやわらぐ。
「偉い。じゃあ5日後に。」
そう言い残し、僕の元から去っていく後ろ姿を見送った。

長身で無口な秋はどこか怖い印象を持たれやすい。それでも時折見せる優しく包み込まれるような声と表情が昔から嫌いじゃなかった。
…やっぱり今からでも断れば良かったか。そんな考えを振り払うように、僕は教室をを抜け帰路に向かう。

この町は辺りが山や畑に囲まれた、いわゆる田舎で真夏日の今日は蝉の大合唱が響き渡っていた。どれだけ歩いてもほとんど変わらぬ景色を尻目にいつもの道をひたすら歩いていく。

―後悔、懺悔、未練。
蝉の鳴き声の中、意識を集中すれば自然とそれが聞こえてくる。
いろいろな感情が飛び交っていて、今日はやけに賑やかだった。

きっかけなんて分からず、ある日突然手に入れた。
ただ声が聞こえるだけ。手を差し伸べることも寄り添うことも出来ない自分の無力さを何度も思い知らされる。こんな力なんて1ミリも望んでいない。
望んでなんか、いないのに…
そんなどうしようもできないことを熟考してしまうのは今も耳に入り続ける声のせいか、それとも容赦なく襲いかかる暑さのせいか。

視界からじわじわと彩度が失われ、見ている全てが灰色に変えられていく感覚に襲われる。青い空や自然の緑、確かにそこにあったものたちが目の前から奪われていった。それはあの日を境に多くを奪われた僕そのものを表しているようだ。

自然と脚が止まった時だった。
風が後ろから吹き抜け頬をかすめた。僕を現実世界に引き戻す。
タッ、タッ、タッ
横を通り過ぎ追いていく足音に気付き、視線を上げると長い髪を揺らしながら走る女の子が目に入る。その姿が何故かとても鮮やかで目で追ってしまった。


必死に走る彼女だったがある場所で立ち止まった。
そこは呪われた地とされ立ち入ることを禁じられた神社への入口だった。
長い石段が続き、周りは草木が生い茂り、鳥居は年季が経ち元の綺麗な朱色とは程遠い。

ここに脚を踏み入れたら不幸が訪れると昔から言われている。
あの場所の近くは常にいろいろな声が耳に入ってくるため、噂はあながち間違ってはいないのではと思う。
立ち尽くしていた彼女は今にも石段に脚を伸ばそうとしていた。同い年くらいなのに制服を着ておらず、この辺に住んでいる人ではなさそう。

聞こえる者としてあそこに入るのはおすすめできない。
彼女の所へ急いで駆け寄り、思わず手首を掴んだ。
突然の出来事に驚いたようで、ビクッと肩をすくめ、張り詰めた表情で僕を見つめる。
2人の間に沈黙が続き、その間も冷淡な視線を送られる。
何か怒らせてしまったか。そう思い話し始めた。

「えっと、この先は神社になってて。途中で立ち入り禁止になってますよ。」
言い終えたところで、彼女が何かを言いかけた。
「でも、あの子が…いや…」
何か言いたげな様子な彼女は、言葉を濁し目を伏せる。
「ご、ごめんなさい。迷子になっちゃって」
何か隠し事をしているかのように視線が泳ぐ彼女。

この腕は離さない方がいい。
そう肌で感じた。
もし離してしまえば、彼女は一人危険な橋を渡っていってしまうような。そんな気がした。

あまり面倒なことに巻き込まれたくない。
はやくこの場から立ち去るべきだと彼女を連れて動き出そうとした瞬間。
焦りの表情から一変。
彼女は焦燥感に駆られた様子でいきなり腕を振り払い、逃げるように駆け出していった。
一瞬何が起きたのか理解出来ず立ち尽くす。
過ぎ去っていく後ろ姿は何故か目は離せなかった。

その日の夜、彼女の走り去る後ろ姿が脳裏に焼き付いたまま眠りについた。
心の奥底で何か変化が訪れたような、そんな音がした。