◇
「こちら、ガソリン代です」
アパートから出てきたカナデが、彼の車の助手席に乗り込むや否や、脈略もなく茶封筒を差し出した。彼は視線を上げて、下げて、また上げて、カナデの言葉を淡白な声で繰り返した。
「ガソリン代ですか」
「ガソリン代です」
バタン、とドアが閉められる。室内灯がゆっくりと消えていく。カナデの顔も、手元も、よく見えなくなっていく。彼は灯りが消え切る前に手動でオンにし、車内を照らした。前に初めて会った時と変わらない胡散臭い表情が浮かんでいた。
「少ないかもしれませんが、遠慮せず受け取ってください」
まるでプレッシャーをかけるかのように見つめられる。
彼は数瞬思案した後、ひとまず礼を言ってカナデから茶封筒を受け取り、中を検めてみた。紙幣が十枚も入っている。全て一万円札だった。
これのどこが少ないというのか。大金を騙し取っている詐欺師の金銭感覚は狂っているとしか言いようがない。
「ガソリン代にしては多すぎますね。賄賂ですか」
「賄賂じゃないですよ。今日入れて二回も、わざわざここまで来てくださったんですから。その謝礼を含めた金額です。俺の純粋な気持ちです」
純粋とは言っているが、この金自体は人から奪ったものであるかもしれない。もしそうであれば汚い金である。純粋の欠片もない。
彼は薄く笑っているカナデと目を合わせ、金の出所を直球で聞いた。
「泡銭ですか」
「違いますよ」
即答される。本当かどうかは、嘘を吐くのが上手い詐欺師相手では判断できない。彼に嘘を見抜く力は備わっていないのだった。
「ミコトさんにお渡ししたのは、汗水流して稼いだ綺麗な金です。惚れている人に黒い金なんか渡しませんよ」
カナデの理屈ではそうらしい。初対面の時にも感じたが、カナデには随分と気に入られている。
彼は改めて茶封筒の中を確認した。間違いなく十万円が入っていた。ガソリン代と、謝礼金。カナデが選んだ金蔓をいずれ殺害することも含め、今後もカナデと会うことになるかもしれないことを考えれば、決して多くはない金額のように思えてきた。彼はカナデに自分の住所を教えておらず、またカナデから尋ねられることもなかったため、カナデがこちらに来ることはまずないと言っていい。カナデは住まいを一方的に知られている状態だが、本人は意に介していなかった。
「しっかり働いて得た金を、こんなに頂いてもいいんですか」
「どうぞ、貰ってください。またミコトさんに会いたくなって、呼び出してしまうかもしれませんから」
「俺を待っている間に口をよく温めてきたようですね」
「それはもう、待ち侘びて待ち侘びて、会いたくて会いたくて、口が冷えるくらい震えていたものですから」
「そうですか。震えは治まっているようで何よりです」
腹の中を探り合うような会話も程々にして、彼は持参していた財布に茶封筒を押し込んだ。荷物は非常に少なく、財布とスマホくらいである。カナデも身軽であった。
「そういえばミコトさん、今日は手袋してないんですね」
まるで思い出したようにカナデは口にした。彼の手元を見て気づいたかのようだった。
彼は今、手に何も身につけていない。指紋があちこちに残ってしまうが、今日は後ろめたいことをしに来たわけではないのだった。手袋を嵌めて出歩く季節でもないため、今回は身につけない方が得策である。その方が自然である。やましいことは何もない。
「今日は殺りに来たわけではないですから」
「それは嬉しい言葉です。俺と食事をするためだけに来てくれたってことですよね? 奢りますね」
「食事代くらい自分で払いますよ。それで、どこに行くんですか」
「車で十分くらいの場所にファミレスがあります。長時間滞在できますし、そこでいいですか?」
「構いません。道案内お願いします」
彼は室内灯を消し、ハンドルを握った。出入口を右です、とシートベルトを身につけながらナビするカナデに従い、アクセルを踏み込む。
カナデに食事に誘われ、今日を迎えるまでの期間は三週間程度空いていた。二人の休日が被らなかったり、強盗の被害に遭った後処理で慌ただしくしていたり、その際に打たれてできた傷、とりわけ口内の傷の治りが遅かったりで、なかなか都合がつかなかったのだ。
コンビニも数日は臨時休業となったが、今は通常通り営業している。強盗犯も、まだ全員ではないが、一人は捕まっている。長身の男である。自分を殴った男である。同性でも頭一つ分くらい飛び抜けている身長と茶色に染めている髪のせいで、他の強盗犯よりも目立つタイプの人間だったのかもしれない。防犯カメラに映った姿なども頼りに聞き込み捜査し、逮捕に繋がったようだった。逮捕された男の証言次第では、他の三人も芋蔓式に引っ張れるのではないか。
責任者として警察から話を聞いた店長によると、逮捕されたその男は、コンビニに来店したことのある男であるようだった。身長が高く体躯も良い若い男。小柄な店長からすると、多少なりとも威圧感を覚えてしまうような人である。それにより頭に濃く残っていたようだ。自分と一緒のシフトの時で、酎ハイをたくさん買ってくれた人だと目を合わせられたが、確かにそんなことがあったような気がするといった程度の頼りない朧げな記憶しか思い出せなかった。他人に興味関心がないせいだった。
一度は害のない客として来ていたらしい男が、一体何がどうなって、今度は強盗犯として来店してきたのか。男の中で光と闇がひっくり返ってしまうような事象でも起きたのか。疑問が浮かぶが、それも店長からの言葉であっという間に消え去った。
若い男はSNSで募集していたバイトに応募したようである。とどのつまり、闇バイトである。悪い友達に唆されてしまったのか。誘われてしまったのか。自らの意思で応募したのか。詳細までは聞かされなかったが、組織に所属する何者かにたたきをするよう指示され犯行に及んだと見て間違いないだろう。
泥濘に両足を突っ込んでしまった以上、簡単には抜け出せない。じたばたと踠けば踠くほどずぶずぶと沈んでいくことを知り、気づいた時には犯罪に手を染めるしかなくなっていた。やり遂げるしかなくなっていた。他の三人も似たようなものなのではないか。
闇バイトが問題になっていることは承知していたが、それがまさか自分の働いているコンビニを舞台にされるとは思っていなかった。治安が悪くなっているように思わないでもない。自分自身がそのような人種であるため、類は友を呼んでいるだけだろうか。
類は友を呼ぶ。その良い例なのが、現在車の助手席に座っているカナデである。普通であれば、人生で関わることはないような人だ。
彼もカナデも互いの素性を明かしている。殺人鬼と詐欺師。世間一般では犯罪者とされる二人だからこそ、誰にも見えないような暗い場所で不思議な関係が続いているのかもしれない。
「看板が見えますね。そこを右です」
己の存在を知らせる看板を確認し、彼はウィンカーを出した。直進車が一台通り過ぎていく。歩道には誰もいない。ハンドルを回した。
駐車場は空いている。人も車も少ない夜である。カナデと相談し、わざとその時間に調整していた。
彼は適当な場所に車を停め、エンジンを切った。シートベルトを外す。隣でカナデも同じようにしながら、何やら短い感想を述べ始めた。
「運転、凄く丁寧で上手いですね」
「そうですか」
「余裕があって安心できます。今度はドライブでもしませんか?」
「その流れから行くと、運転するのは俺ですか」
「そうなりますね」
簡単に言ってくれるものである。カナデは乗るだけで済むからだろうか。
一般的に考えて、運転をしない人がドライブに誘うというのもおかしな話だと彼は思ったが、そもそも二人揃って普通の人間に見えて普通の人間ではないのだ。いちいち突っ込むことはしなかった。
目的地を定めた上でする長時間の運転は苦ではないが、目的地を定めずにする行き当たりばったりの長時間走行は気が乗らない。カナデも本気で言っているのか、その場のノリで言っているのか。表情だけでは区別がつかない。
「暇な時にでも考えておきます」
「前向きにお願いします。また声かけますので」
ドライブはどうかという誘いを軽く躱し、彼は車から降りた。カナデも降車したことを確認し、鍵をかける。
数台しか車のない駐車場を抜け、カナデから先にファミレスへと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。二名様でしょうか?」
「はい」
「お好きな席にどうぞ」
溌剌とした店員に歓迎される。彼も接客業をしているが、ここまで明るい接客はできたことがない。しようと努力したこともない。最低限のことしかしていないため、テンションが低く愛想のない暗い店員だと思われているだろうが、今のところ大きなクレームには繋がっていなかった。嫌味を宣うクソ客が現れた時は、絞め殺して刺し殺して焼き殺してへし折ってぶん殴って徹底的にぶっ殺せばいい。想像上の話である。客からの印象など心底どうでもいいことではあるが、好き放題嫌味を言わせる代わりだ。彼は好きに殺していた。
「席はどこがいいですか?」
「カナデさんが決めていいですよ」
選択をカナデに押し付ける。カナデは通路を歩きながら視線を巡らせ、ここにしますね、と奥の壁側の、周りに他の客がいない席を選んで座った。彼はカナデの対面に腰を下ろす。店員が、おしぼりとお冷を持ってきてくれた。
店内にちらほらといる客は若者が多い印象だった。中には制服を着た学生のグループもいる。こんな夜遅くまで遊び呆けているのなら、隠れて非行でもしていそうだと偏見を抱いた。そのようなことをしていそうな派手な見た目でもあった。これもまた偏見であった。
メニュー表を開いてそれぞれ注文した後は、妙な沈黙が続いた。水をちまちまと飲んで場を繋ぐ。ただ食べるためだけに自分を誘ったわけではないだろうことは彼も察している。何か進展があったのではないかと踏んでいるが、こちらからそれを問うのは憚られた。
「ミコトさんも割と、自分から話そうとはしない人ですよね」
カナデが水を飲んだ。彼はその所作を目で追った。流れた沈黙は、自分を試していたものなのかと彼は唇を引き結んだまま思った。ミコトさんも割と、と誰かと同じであることを示すような言い方も引っかかる。
「俺が喋らなかったら、ずっと喋らなさそうです。でも、気まずさを感じているようには見えません。何か話さないといけないと焦っているわけでもないですね。それが、俺の新しい彼女との違いでしょうか」
新しい彼女。そのまま受け取れば、突拍子もない惚気話の前振りになるだろうが、利害の一致で手を組んでいる彼とカナデの場合は、そんな甘ったるい話ではないと断定できる。新しい彼女というのは、カナデなりに選択した隠語のようなものだろう。新しい金蔓を見つけて、繋がりを持った。そんなところだろうか。
カナデが直接そう言わないのは、ここが公共の場であるからに違いない。どこで誰に聞かれているか分からないため、婉曲的に表現することが重要だった。罪を犯していない一般人に溶け込むためには、怪しいと思われる会話やそれを彷彿とさせる単語を使用するのは厳禁である。
彼は言葉に注意しながら、カナデに合わせて取るに足らない雑談を装った。
「内気な彼女ができたんですね」
「なんとか無事にできました」
「ちゃんとゴールインできるよう応援しています」
「その時は真っ先に招待しますからね」
「楽しみにしています」
表面上はめでたい話のように聞こえるが、裏では真逆に近い情報が錯綜していた。ゴールインや招待がまさにそうだった。説明なしで本来の意味ではない別の意味が伝わるのは楽でいい。
飄々としているカナデと目を合わせた。カナデからは余裕が垣間見える。計画通りに事を運べているのだろう。金蔓はしっかり繋ぎ止めているようだ。その調子でしくじることさえしなければ、カナデの新しい彼女を手にかけることができる。彼自身もしくじらなければ次もあるかもしれないが、それを考えるのは全て終わってからでも遅くない。
注文した料理が二人分一緒に運ばれてきた。店員に礼を言い、それ以上の会話もなく二人は出来立ての料理に手をつける。かなり遅めの夕食だ。
食べている時はより一層無言になる。食べながらぺちゃくちゃ話すことは、彼よりも口数の多い目の前のカナデもしようとはしなかった。それには好感が持てる。食事中に、一言二言なら特に気にすることはないが、やたらと話しかけられるのは好きではない。生返事ばかりになる気しかしない。
店内は静かとは言えないが、彼とカナデの席に限っては、まるで息を潜めているかのように音数が少なかった。
黙々と料理を口に運び胃を満たしていると、ふとカナデの視線が席を外れたことに気づいた。何かあるのだろうかとその視線の先を追うよりも前に、ミコトさん、とカナデが考案した名を呼ばれる。
「ミコトさんから見て右斜め後ろの方の席にいる学生グループ、特に女子が、こちらをちらちらと窺っています」
カナデはさらりと言ってから、料理を口に運んだ。カナデは一瞬だけ学生グループの方に目を遣ったものの、気づいていないふりをしている。彼は振り返ろうとしたが、思い直し、カナデに合わせることにした。食べ物を放り込み、噛み砕き、飲み込む。
「カナデさんについて、何か気になることでもあるのかもしれませんね」
「俺ではなく、ミコトさんじゃないですか? ミコトさんは独特な雰囲気がありますから」
「それはカナデさんの方だと思いますが」
恋愛感情を利用する詐欺師なだけあって、カナデは異性の心を鷲掴みにしそうな容姿をしている。胡散臭さはあれど、標的の前ではその人物をコントロールしやすいキャラを演じているはずだ。人を騙すための仮面をいくつも持っているだろうが、今はそれを被っていないであろうほぼ素の詐欺師に、オーラがないとは言い難い。
「女子二人が席を立ちました。手に何か持ってます」
「実況しなくていいです」
「こちらに向かってきてます。どうしますか?」
「相手はカナデさんがしてください。俺は何も言いません」
「人任せですね」
コミュニケーション能力はカナデの方がある。学生たちが何を企んでいるのか知らないが、できるだけ未成年の相手はしたくない。関わらないのが一番いい。
彼は学生グループを一切振り返らずに、注文した料理を食べ続けた。何か話しかけられた場合、カナデが上手く遇ってくれるはずだ。
人の気配が近づいてくる。制服を着たその姿が視界の片隅に映り込んでも、彼は顔を上げようとはしない。
「あの、すみません」
頭上で緊張の混じったような女子の声がする。彼は平然と無視をした。聞こえていても平気で無視ができる人間だった。
スルーする彼の言った通りに、カナデが女子たちの相手をする。
「何か用ですか?」
妙に柔らかい声だった。明らかにキャラを作っている。未成年の女子たちを怖がらせないようにするためか、爽やかな好青年のキャラを選択して即座に演じてみせるのは流石としか言いようがない。小首を傾げる仕草も様になっている。
「これ、私たちの連絡先です。その、良かったら、交換してもらえませんか? それか、この後、時間ないですか?」
持っていた紙を手渡され、誘われる。カナデがちらりと目を合わせてきた。
どうしますか? どうもしませんよ。受け取りますか? 相手は未成年ですから、何かあった時に責任を問われるのはこちらです。それなら、断るのが正解ですね。
エスパーさながら一瞬で意思疎通を図り、断る選択を共有する。後から面倒なことになりそうな芽は潰しておく。そうでなくとも、学生に興味はない。十歳くらい離れた相手からナンパされても迷惑なだけである。
まだ成人していない自分たちの安直な行動が、相手を社会的に殺す可能性があることを学生たちは分かっていない。想像力が足りていない。関わってきたのはそちらなのに、何か問題があった時、未成年であることを利用して被害者面されると殺したくなる。何も知らないくせに、大人が悪いと決めつけ誹謗中傷をするような奴らも殺したくなる。最終的に胸糞悪くなるくらいなら、今の時点で徹底的に遮断する方がいい。こんな夜遊びをしているような学生に人生を狂わされたくはない。
「申し訳ないですが、お断りします。俺、彼女いますし、彼にもいるんですよ。それに、君たちまだ学生みたいですから。下手に関わるといろいろ問題があります。何より、年下に興味はないです。迷惑でしかありません。君たちと違って大人であるこちらの立場も理解していただけますか?」
興味はないだとか迷惑だとか、ストレートな言葉を放ちつつも、最後には理解してもらえないかと眉尻を下げて困ったような顔を浮かべるカナデ。傷つけないようにしながら、それでいて分かりやすくはっきりと断ってみせるカナデの話術は見事である。一点自分に関する嘘が気になるが、相手をしてくれている以上文句は言うまい。ここで否定するのもおかしな話である。
女子たちは返事を探るように数秒押し黙り、それから、上手くいかなかったことに沸々とした怒りが湧き上がってきたのか、苛立ったように感情的になった。
「はぁ? 何それ、だる」
「せっかくこっちが声かけてやったのに」
ナンパを断られたことで、プライドを傷つけられてしまったようだ。女子たちの口調が攻撃的なものとなり、態度も視線も物がひっくり返ったように豹変した。しかし、彼もカナデも冷静だった。
彼は手を動かして、静かに料理を食べ続ける。カナデの外面は困った表情のままである。怠いのはこちらであった。
「男二人で食事とかホモじゃん。彼女いるとか嘘でしょ」
「そっちの人なんかずっと喋んないし。どう見ても陰キャ、童貞」
「抱かせてやってもいいかなって思ったのに、間違いだった。顔だけのクソじゃん」
してやったのに。させてやってもよかったのに。先程から何様のつもりだ。クソガキあばずれ痴女共が。
彼は真顔を保ったまま、心の中で暴言を炸裂させる。そうしながら、女子たちの喉を掻っ捌いていた。無様に死ねばいい。
高圧的な態度を取る女子たちは完全にこちらを下に見ている。年上に対する敬意が一切感じられない。無視をして大人しくしているせいか。カナデが優男を演じてしまったからか。
「どこの馬の骨とも知れない君たちの不遜な問いに真面目に答えてあげたのに、そこまで貶される筋合いはないですよ」
カナデは丁重に誘いを断った時と同じ声音で再び相手をしてあげていた。どうにか傷をつけたい風の女子たちは、怒りと苛立ちで顔を赤くしている。自分たちを見ているであろう仲間の前で、恥をかきたくないのかもしれない。既にかいているのに。
暴言を内に秘めながらも、彼は我関せずと食事をし、最後の一口を食べ終えた。カナデの皿にはまだ食べ物が残っている。なかなか食べ進められていないため、そろそろ交代した方がいいだろうか。
自分は何も言わないとは言ったが、事態は少々面倒なことになっていた。ナンパは失敗したのだから大人しく退散してくれればいいものを、女子たちは何を意地になっているのか。迷惑極まりない。
喋る前に唇を湿らせようと、彼はコップに手を伸ばした。しかし、それをなぜか女子に奪い取られ、思い通りにいかないストレスを発散するかのように、飲もうとしていた水をぶっかけられた。
「こっち見ないの何なの? ムカつくんだけど」
女子は空になったコップを乱暴に机上に置き、主にカナデに向けていた矛先を彼へと向けた。此奴なら勝てると思ったのか。舐められたものである。
彼は女子と目を合わせようとはせず、濡れた衣服に視線を落とした。水を飲みたかったのに、これでは喉の渇きを潤せない。ナンパしてくるような面倒な人間が絡んできたせいだ。死ねばいいのに。
「大丈夫ですか? 店員さんにタオルあるか聞いてきますね」
女子二人を無視することに決めたのか、カナデが席を立とうとする。その行動を、彼は女子を挑発することで止めた。カナデのフォローはありがたいが、店員が来てしまうと有耶無耶になってしまいそうだ。彼は湿らせられなかった唇を開く。
「自分たちの誘いを断るなんてあり得ないと思っているみたいですが、それ、凄く痛いですよ」
「は? 何?」
「酷い八つ当たりもしてくれましたが、すっきりしましたか」
「いきなり何言ってんの?」
「終始上から目線の傲慢なその態度、将来苦労すると思いますから、今のうちに直しておいた方が身のためです」
煽られた女子が机を叩いた。一際大きな音が響き、嫌な沈黙が流れる。威嚇のつもりだろうか。自分の思い通りにいかなかったらすぐ感情を剥き出しにする堪え性のない厄介な女の誘いは断って大正解だった。そういうところがまだまだクソガキなのだ。
「その水、少し飲んでもいいですか」
彼はカナデのコップを指差した。どうぞ、とその場に留まってくれていたカナデは快く了承してくれる。
彼は水を一口飲んでから、徐に目を上げた。初めて女子二人の顔をしっかり見ると、見られた方は怖気付いたように一歩後退る。彼の視線は殺気を孕んでいた。
「いつまでそこにいるつもりですか。そろそろ戻った方がいいですよ。悪目立ちしてますから」
女子から顔を逸らした彼は、それ以上はいないものとして扱った。カナデも察したように座り直し、食べかけだった料理に手をつける。
「最近の学生は何がしたいのか分かりませんね」
「単純に構ってほしかっただけだと思います」
「だとしたら迷惑すぎますね」
カナデは口を閉じ、もぐもぐと咀嚼する。彼はまたしてもカナデの水を飲んでしまいそうになったが、思い止まり、口をつけることなくカナデの側にコップを戻した。
「何なの? ふざけやがって。死ね」
「本当にマジで腹立つ。死ねよ」
女子が揃って暴言を吐き、イライラを隠しもせずにその場を立ち去った。肝が据わっている彼とカナデはノーリアクションで、顔すら上げない。死ねと言われても、少しも傷はつかなかった。負け犬の遠吠えにしか聞こえなかったのだ。
学生に誘われ冷静に追い払った後であっても、二人はその場に居座り続けた。気まずさを感じることもなくちゃっかりデザートまで注文し、食べ終え、ファミレスを後にする。
ナンパに大失敗した女子二人を含む学生の集団は、一足先に姿を消していた。
「こちら、ガソリン代です」
アパートから出てきたカナデが、彼の車の助手席に乗り込むや否や、脈略もなく茶封筒を差し出した。彼は視線を上げて、下げて、また上げて、カナデの言葉を淡白な声で繰り返した。
「ガソリン代ですか」
「ガソリン代です」
バタン、とドアが閉められる。室内灯がゆっくりと消えていく。カナデの顔も、手元も、よく見えなくなっていく。彼は灯りが消え切る前に手動でオンにし、車内を照らした。前に初めて会った時と変わらない胡散臭い表情が浮かんでいた。
「少ないかもしれませんが、遠慮せず受け取ってください」
まるでプレッシャーをかけるかのように見つめられる。
彼は数瞬思案した後、ひとまず礼を言ってカナデから茶封筒を受け取り、中を検めてみた。紙幣が十枚も入っている。全て一万円札だった。
これのどこが少ないというのか。大金を騙し取っている詐欺師の金銭感覚は狂っているとしか言いようがない。
「ガソリン代にしては多すぎますね。賄賂ですか」
「賄賂じゃないですよ。今日入れて二回も、わざわざここまで来てくださったんですから。その謝礼を含めた金額です。俺の純粋な気持ちです」
純粋とは言っているが、この金自体は人から奪ったものであるかもしれない。もしそうであれば汚い金である。純粋の欠片もない。
彼は薄く笑っているカナデと目を合わせ、金の出所を直球で聞いた。
「泡銭ですか」
「違いますよ」
即答される。本当かどうかは、嘘を吐くのが上手い詐欺師相手では判断できない。彼に嘘を見抜く力は備わっていないのだった。
「ミコトさんにお渡ししたのは、汗水流して稼いだ綺麗な金です。惚れている人に黒い金なんか渡しませんよ」
カナデの理屈ではそうらしい。初対面の時にも感じたが、カナデには随分と気に入られている。
彼は改めて茶封筒の中を確認した。間違いなく十万円が入っていた。ガソリン代と、謝礼金。カナデが選んだ金蔓をいずれ殺害することも含め、今後もカナデと会うことになるかもしれないことを考えれば、決して多くはない金額のように思えてきた。彼はカナデに自分の住所を教えておらず、またカナデから尋ねられることもなかったため、カナデがこちらに来ることはまずないと言っていい。カナデは住まいを一方的に知られている状態だが、本人は意に介していなかった。
「しっかり働いて得た金を、こんなに頂いてもいいんですか」
「どうぞ、貰ってください。またミコトさんに会いたくなって、呼び出してしまうかもしれませんから」
「俺を待っている間に口をよく温めてきたようですね」
「それはもう、待ち侘びて待ち侘びて、会いたくて会いたくて、口が冷えるくらい震えていたものですから」
「そうですか。震えは治まっているようで何よりです」
腹の中を探り合うような会話も程々にして、彼は持参していた財布に茶封筒を押し込んだ。荷物は非常に少なく、財布とスマホくらいである。カナデも身軽であった。
「そういえばミコトさん、今日は手袋してないんですね」
まるで思い出したようにカナデは口にした。彼の手元を見て気づいたかのようだった。
彼は今、手に何も身につけていない。指紋があちこちに残ってしまうが、今日は後ろめたいことをしに来たわけではないのだった。手袋を嵌めて出歩く季節でもないため、今回は身につけない方が得策である。その方が自然である。やましいことは何もない。
「今日は殺りに来たわけではないですから」
「それは嬉しい言葉です。俺と食事をするためだけに来てくれたってことですよね? 奢りますね」
「食事代くらい自分で払いますよ。それで、どこに行くんですか」
「車で十分くらいの場所にファミレスがあります。長時間滞在できますし、そこでいいですか?」
「構いません。道案内お願いします」
彼は室内灯を消し、ハンドルを握った。出入口を右です、とシートベルトを身につけながらナビするカナデに従い、アクセルを踏み込む。
カナデに食事に誘われ、今日を迎えるまでの期間は三週間程度空いていた。二人の休日が被らなかったり、強盗の被害に遭った後処理で慌ただしくしていたり、その際に打たれてできた傷、とりわけ口内の傷の治りが遅かったりで、なかなか都合がつかなかったのだ。
コンビニも数日は臨時休業となったが、今は通常通り営業している。強盗犯も、まだ全員ではないが、一人は捕まっている。長身の男である。自分を殴った男である。同性でも頭一つ分くらい飛び抜けている身長と茶色に染めている髪のせいで、他の強盗犯よりも目立つタイプの人間だったのかもしれない。防犯カメラに映った姿なども頼りに聞き込み捜査し、逮捕に繋がったようだった。逮捕された男の証言次第では、他の三人も芋蔓式に引っ張れるのではないか。
責任者として警察から話を聞いた店長によると、逮捕されたその男は、コンビニに来店したことのある男であるようだった。身長が高く体躯も良い若い男。小柄な店長からすると、多少なりとも威圧感を覚えてしまうような人である。それにより頭に濃く残っていたようだ。自分と一緒のシフトの時で、酎ハイをたくさん買ってくれた人だと目を合わせられたが、確かにそんなことがあったような気がするといった程度の頼りない朧げな記憶しか思い出せなかった。他人に興味関心がないせいだった。
一度は害のない客として来ていたらしい男が、一体何がどうなって、今度は強盗犯として来店してきたのか。男の中で光と闇がひっくり返ってしまうような事象でも起きたのか。疑問が浮かぶが、それも店長からの言葉であっという間に消え去った。
若い男はSNSで募集していたバイトに応募したようである。とどのつまり、闇バイトである。悪い友達に唆されてしまったのか。誘われてしまったのか。自らの意思で応募したのか。詳細までは聞かされなかったが、組織に所属する何者かにたたきをするよう指示され犯行に及んだと見て間違いないだろう。
泥濘に両足を突っ込んでしまった以上、簡単には抜け出せない。じたばたと踠けば踠くほどずぶずぶと沈んでいくことを知り、気づいた時には犯罪に手を染めるしかなくなっていた。やり遂げるしかなくなっていた。他の三人も似たようなものなのではないか。
闇バイトが問題になっていることは承知していたが、それがまさか自分の働いているコンビニを舞台にされるとは思っていなかった。治安が悪くなっているように思わないでもない。自分自身がそのような人種であるため、類は友を呼んでいるだけだろうか。
類は友を呼ぶ。その良い例なのが、現在車の助手席に座っているカナデである。普通であれば、人生で関わることはないような人だ。
彼もカナデも互いの素性を明かしている。殺人鬼と詐欺師。世間一般では犯罪者とされる二人だからこそ、誰にも見えないような暗い場所で不思議な関係が続いているのかもしれない。
「看板が見えますね。そこを右です」
己の存在を知らせる看板を確認し、彼はウィンカーを出した。直進車が一台通り過ぎていく。歩道には誰もいない。ハンドルを回した。
駐車場は空いている。人も車も少ない夜である。カナデと相談し、わざとその時間に調整していた。
彼は適当な場所に車を停め、エンジンを切った。シートベルトを外す。隣でカナデも同じようにしながら、何やら短い感想を述べ始めた。
「運転、凄く丁寧で上手いですね」
「そうですか」
「余裕があって安心できます。今度はドライブでもしませんか?」
「その流れから行くと、運転するのは俺ですか」
「そうなりますね」
簡単に言ってくれるものである。カナデは乗るだけで済むからだろうか。
一般的に考えて、運転をしない人がドライブに誘うというのもおかしな話だと彼は思ったが、そもそも二人揃って普通の人間に見えて普通の人間ではないのだ。いちいち突っ込むことはしなかった。
目的地を定めた上でする長時間の運転は苦ではないが、目的地を定めずにする行き当たりばったりの長時間走行は気が乗らない。カナデも本気で言っているのか、その場のノリで言っているのか。表情だけでは区別がつかない。
「暇な時にでも考えておきます」
「前向きにお願いします。また声かけますので」
ドライブはどうかという誘いを軽く躱し、彼は車から降りた。カナデも降車したことを確認し、鍵をかける。
数台しか車のない駐車場を抜け、カナデから先にファミレスへと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。二名様でしょうか?」
「はい」
「お好きな席にどうぞ」
溌剌とした店員に歓迎される。彼も接客業をしているが、ここまで明るい接客はできたことがない。しようと努力したこともない。最低限のことしかしていないため、テンションが低く愛想のない暗い店員だと思われているだろうが、今のところ大きなクレームには繋がっていなかった。嫌味を宣うクソ客が現れた時は、絞め殺して刺し殺して焼き殺してへし折ってぶん殴って徹底的にぶっ殺せばいい。想像上の話である。客からの印象など心底どうでもいいことではあるが、好き放題嫌味を言わせる代わりだ。彼は好きに殺していた。
「席はどこがいいですか?」
「カナデさんが決めていいですよ」
選択をカナデに押し付ける。カナデは通路を歩きながら視線を巡らせ、ここにしますね、と奥の壁側の、周りに他の客がいない席を選んで座った。彼はカナデの対面に腰を下ろす。店員が、おしぼりとお冷を持ってきてくれた。
店内にちらほらといる客は若者が多い印象だった。中には制服を着た学生のグループもいる。こんな夜遅くまで遊び呆けているのなら、隠れて非行でもしていそうだと偏見を抱いた。そのようなことをしていそうな派手な見た目でもあった。これもまた偏見であった。
メニュー表を開いてそれぞれ注文した後は、妙な沈黙が続いた。水をちまちまと飲んで場を繋ぐ。ただ食べるためだけに自分を誘ったわけではないだろうことは彼も察している。何か進展があったのではないかと踏んでいるが、こちらからそれを問うのは憚られた。
「ミコトさんも割と、自分から話そうとはしない人ですよね」
カナデが水を飲んだ。彼はその所作を目で追った。流れた沈黙は、自分を試していたものなのかと彼は唇を引き結んだまま思った。ミコトさんも割と、と誰かと同じであることを示すような言い方も引っかかる。
「俺が喋らなかったら、ずっと喋らなさそうです。でも、気まずさを感じているようには見えません。何か話さないといけないと焦っているわけでもないですね。それが、俺の新しい彼女との違いでしょうか」
新しい彼女。そのまま受け取れば、突拍子もない惚気話の前振りになるだろうが、利害の一致で手を組んでいる彼とカナデの場合は、そんな甘ったるい話ではないと断定できる。新しい彼女というのは、カナデなりに選択した隠語のようなものだろう。新しい金蔓を見つけて、繋がりを持った。そんなところだろうか。
カナデが直接そう言わないのは、ここが公共の場であるからに違いない。どこで誰に聞かれているか分からないため、婉曲的に表現することが重要だった。罪を犯していない一般人に溶け込むためには、怪しいと思われる会話やそれを彷彿とさせる単語を使用するのは厳禁である。
彼は言葉に注意しながら、カナデに合わせて取るに足らない雑談を装った。
「内気な彼女ができたんですね」
「なんとか無事にできました」
「ちゃんとゴールインできるよう応援しています」
「その時は真っ先に招待しますからね」
「楽しみにしています」
表面上はめでたい話のように聞こえるが、裏では真逆に近い情報が錯綜していた。ゴールインや招待がまさにそうだった。説明なしで本来の意味ではない別の意味が伝わるのは楽でいい。
飄々としているカナデと目を合わせた。カナデからは余裕が垣間見える。計画通りに事を運べているのだろう。金蔓はしっかり繋ぎ止めているようだ。その調子でしくじることさえしなければ、カナデの新しい彼女を手にかけることができる。彼自身もしくじらなければ次もあるかもしれないが、それを考えるのは全て終わってからでも遅くない。
注文した料理が二人分一緒に運ばれてきた。店員に礼を言い、それ以上の会話もなく二人は出来立ての料理に手をつける。かなり遅めの夕食だ。
食べている時はより一層無言になる。食べながらぺちゃくちゃ話すことは、彼よりも口数の多い目の前のカナデもしようとはしなかった。それには好感が持てる。食事中に、一言二言なら特に気にすることはないが、やたらと話しかけられるのは好きではない。生返事ばかりになる気しかしない。
店内は静かとは言えないが、彼とカナデの席に限っては、まるで息を潜めているかのように音数が少なかった。
黙々と料理を口に運び胃を満たしていると、ふとカナデの視線が席を外れたことに気づいた。何かあるのだろうかとその視線の先を追うよりも前に、ミコトさん、とカナデが考案した名を呼ばれる。
「ミコトさんから見て右斜め後ろの方の席にいる学生グループ、特に女子が、こちらをちらちらと窺っています」
カナデはさらりと言ってから、料理を口に運んだ。カナデは一瞬だけ学生グループの方に目を遣ったものの、気づいていないふりをしている。彼は振り返ろうとしたが、思い直し、カナデに合わせることにした。食べ物を放り込み、噛み砕き、飲み込む。
「カナデさんについて、何か気になることでもあるのかもしれませんね」
「俺ではなく、ミコトさんじゃないですか? ミコトさんは独特な雰囲気がありますから」
「それはカナデさんの方だと思いますが」
恋愛感情を利用する詐欺師なだけあって、カナデは異性の心を鷲掴みにしそうな容姿をしている。胡散臭さはあれど、標的の前ではその人物をコントロールしやすいキャラを演じているはずだ。人を騙すための仮面をいくつも持っているだろうが、今はそれを被っていないであろうほぼ素の詐欺師に、オーラがないとは言い難い。
「女子二人が席を立ちました。手に何か持ってます」
「実況しなくていいです」
「こちらに向かってきてます。どうしますか?」
「相手はカナデさんがしてください。俺は何も言いません」
「人任せですね」
コミュニケーション能力はカナデの方がある。学生たちが何を企んでいるのか知らないが、できるだけ未成年の相手はしたくない。関わらないのが一番いい。
彼は学生グループを一切振り返らずに、注文した料理を食べ続けた。何か話しかけられた場合、カナデが上手く遇ってくれるはずだ。
人の気配が近づいてくる。制服を着たその姿が視界の片隅に映り込んでも、彼は顔を上げようとはしない。
「あの、すみません」
頭上で緊張の混じったような女子の声がする。彼は平然と無視をした。聞こえていても平気で無視ができる人間だった。
スルーする彼の言った通りに、カナデが女子たちの相手をする。
「何か用ですか?」
妙に柔らかい声だった。明らかにキャラを作っている。未成年の女子たちを怖がらせないようにするためか、爽やかな好青年のキャラを選択して即座に演じてみせるのは流石としか言いようがない。小首を傾げる仕草も様になっている。
「これ、私たちの連絡先です。その、良かったら、交換してもらえませんか? それか、この後、時間ないですか?」
持っていた紙を手渡され、誘われる。カナデがちらりと目を合わせてきた。
どうしますか? どうもしませんよ。受け取りますか? 相手は未成年ですから、何かあった時に責任を問われるのはこちらです。それなら、断るのが正解ですね。
エスパーさながら一瞬で意思疎通を図り、断る選択を共有する。後から面倒なことになりそうな芽は潰しておく。そうでなくとも、学生に興味はない。十歳くらい離れた相手からナンパされても迷惑なだけである。
まだ成人していない自分たちの安直な行動が、相手を社会的に殺す可能性があることを学生たちは分かっていない。想像力が足りていない。関わってきたのはそちらなのに、何か問題があった時、未成年であることを利用して被害者面されると殺したくなる。何も知らないくせに、大人が悪いと決めつけ誹謗中傷をするような奴らも殺したくなる。最終的に胸糞悪くなるくらいなら、今の時点で徹底的に遮断する方がいい。こんな夜遊びをしているような学生に人生を狂わされたくはない。
「申し訳ないですが、お断りします。俺、彼女いますし、彼にもいるんですよ。それに、君たちまだ学生みたいですから。下手に関わるといろいろ問題があります。何より、年下に興味はないです。迷惑でしかありません。君たちと違って大人であるこちらの立場も理解していただけますか?」
興味はないだとか迷惑だとか、ストレートな言葉を放ちつつも、最後には理解してもらえないかと眉尻を下げて困ったような顔を浮かべるカナデ。傷つけないようにしながら、それでいて分かりやすくはっきりと断ってみせるカナデの話術は見事である。一点自分に関する嘘が気になるが、相手をしてくれている以上文句は言うまい。ここで否定するのもおかしな話である。
女子たちは返事を探るように数秒押し黙り、それから、上手くいかなかったことに沸々とした怒りが湧き上がってきたのか、苛立ったように感情的になった。
「はぁ? 何それ、だる」
「せっかくこっちが声かけてやったのに」
ナンパを断られたことで、プライドを傷つけられてしまったようだ。女子たちの口調が攻撃的なものとなり、態度も視線も物がひっくり返ったように豹変した。しかし、彼もカナデも冷静だった。
彼は手を動かして、静かに料理を食べ続ける。カナデの外面は困った表情のままである。怠いのはこちらであった。
「男二人で食事とかホモじゃん。彼女いるとか嘘でしょ」
「そっちの人なんかずっと喋んないし。どう見ても陰キャ、童貞」
「抱かせてやってもいいかなって思ったのに、間違いだった。顔だけのクソじゃん」
してやったのに。させてやってもよかったのに。先程から何様のつもりだ。クソガキあばずれ痴女共が。
彼は真顔を保ったまま、心の中で暴言を炸裂させる。そうしながら、女子たちの喉を掻っ捌いていた。無様に死ねばいい。
高圧的な態度を取る女子たちは完全にこちらを下に見ている。年上に対する敬意が一切感じられない。無視をして大人しくしているせいか。カナデが優男を演じてしまったからか。
「どこの馬の骨とも知れない君たちの不遜な問いに真面目に答えてあげたのに、そこまで貶される筋合いはないですよ」
カナデは丁重に誘いを断った時と同じ声音で再び相手をしてあげていた。どうにか傷をつけたい風の女子たちは、怒りと苛立ちで顔を赤くしている。自分たちを見ているであろう仲間の前で、恥をかきたくないのかもしれない。既にかいているのに。
暴言を内に秘めながらも、彼は我関せずと食事をし、最後の一口を食べ終えた。カナデの皿にはまだ食べ物が残っている。なかなか食べ進められていないため、そろそろ交代した方がいいだろうか。
自分は何も言わないとは言ったが、事態は少々面倒なことになっていた。ナンパは失敗したのだから大人しく退散してくれればいいものを、女子たちは何を意地になっているのか。迷惑極まりない。
喋る前に唇を湿らせようと、彼はコップに手を伸ばした。しかし、それをなぜか女子に奪い取られ、思い通りにいかないストレスを発散するかのように、飲もうとしていた水をぶっかけられた。
「こっち見ないの何なの? ムカつくんだけど」
女子は空になったコップを乱暴に机上に置き、主にカナデに向けていた矛先を彼へと向けた。此奴なら勝てると思ったのか。舐められたものである。
彼は女子と目を合わせようとはせず、濡れた衣服に視線を落とした。水を飲みたかったのに、これでは喉の渇きを潤せない。ナンパしてくるような面倒な人間が絡んできたせいだ。死ねばいいのに。
「大丈夫ですか? 店員さんにタオルあるか聞いてきますね」
女子二人を無視することに決めたのか、カナデが席を立とうとする。その行動を、彼は女子を挑発することで止めた。カナデのフォローはありがたいが、店員が来てしまうと有耶無耶になってしまいそうだ。彼は湿らせられなかった唇を開く。
「自分たちの誘いを断るなんてあり得ないと思っているみたいですが、それ、凄く痛いですよ」
「は? 何?」
「酷い八つ当たりもしてくれましたが、すっきりしましたか」
「いきなり何言ってんの?」
「終始上から目線の傲慢なその態度、将来苦労すると思いますから、今のうちに直しておいた方が身のためです」
煽られた女子が机を叩いた。一際大きな音が響き、嫌な沈黙が流れる。威嚇のつもりだろうか。自分の思い通りにいかなかったらすぐ感情を剥き出しにする堪え性のない厄介な女の誘いは断って大正解だった。そういうところがまだまだクソガキなのだ。
「その水、少し飲んでもいいですか」
彼はカナデのコップを指差した。どうぞ、とその場に留まってくれていたカナデは快く了承してくれる。
彼は水を一口飲んでから、徐に目を上げた。初めて女子二人の顔をしっかり見ると、見られた方は怖気付いたように一歩後退る。彼の視線は殺気を孕んでいた。
「いつまでそこにいるつもりですか。そろそろ戻った方がいいですよ。悪目立ちしてますから」
女子から顔を逸らした彼は、それ以上はいないものとして扱った。カナデも察したように座り直し、食べかけだった料理に手をつける。
「最近の学生は何がしたいのか分かりませんね」
「単純に構ってほしかっただけだと思います」
「だとしたら迷惑すぎますね」
カナデは口を閉じ、もぐもぐと咀嚼する。彼はまたしてもカナデの水を飲んでしまいそうになったが、思い止まり、口をつけることなくカナデの側にコップを戻した。
「何なの? ふざけやがって。死ね」
「本当にマジで腹立つ。死ねよ」
女子が揃って暴言を吐き、イライラを隠しもせずにその場を立ち去った。肝が据わっている彼とカナデはノーリアクションで、顔すら上げない。死ねと言われても、少しも傷はつかなかった。負け犬の遠吠えにしか聞こえなかったのだ。
学生に誘われ冷静に追い払った後であっても、二人はその場に居座り続けた。気まずさを感じることもなくちゃっかりデザートまで注文し、食べ終え、ファミレスを後にする。
ナンパに大失敗した女子二人を含む学生の集団は、一足先に姿を消していた。
