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 俺とバディのようなものになったからといって、ミコトさんの私生活を変える必要は全くありません。ミコトさんはミコトさんの生活を送ってください。従来通り人を殺す殺さないもミコトさんの自由です。俺はミコトさんの殺人のスキルを貸してほしいだけなので、金蔓を処分する時が来たら連絡するようにしますね。俺との記憶が薄れた頃になるかもしれませんが、気長に待っていてくださるとありがたいです。
【ミコトさん、今度俺と休日が被ったらどこかで食事でもしませんか?】
 カナデが時折連絡を寄越してくる限り、記憶が薄れることはなさそうだと彼は思った。
 カナデと初対面した日の別れ際、特に私生活を変える必要はないと言われ、後に続けられた弁からも、業務連絡以外はしないようだと彼は踏んでいた。だが、蓋を開けてみれば想像と違っている。記憶が薄れた頃という話は、それくらい時間がかかるという比喩に過ぎないのかもしれない。
 カナデは詐欺師である。言わずと知れたことだが、その詐欺にも種類があった。オレオレ詐欺、架空料金請求詐欺、還付金詐欺、融資保証金詐欺など、誰もが知っているようなものからあまり知られていないようなものまで、その数は多岐に渡る。金を騙し取る手口は様々で、件のカナデは人の好意を利用して金を奪う恋愛詐欺を働いているのだった。
 ターゲットを選び、あの手この手で好意を抱かせることから始め、最終的には大金を出させるほどに信用させる。金銭を搾り取った後は、容赦なく切り捨て姿を消す。相手が騙されていたと気づいた時には連絡が取れなくなっている。言葉にすると簡単そうに聞こえるが、一日二日で成し遂げられることではない。恋人関係になってからが本番のようなものであるため、すぐには結果が出にくい長期戦の詐欺であった。だからこそ、気長に待っていてほしいと言ったのだろう。
 恋愛詐欺を働くカナデにも、カナデの生活がある。普通の人間としてコンビニで仕事をしている彼と同じように、カナデもまた、社会の片隅で細々と働いている。工場勤務だと言っていた。
 彼もカナデも、手を組むことにしたとて生活は何も変わっていない。平然と働きながら裏では犯罪行為を繰り返し、または繰り返そうとしている極悪人であることも、変わっていない。
 コンビニ店員に扮する時間が今夜も訪れた。彼はカナデからのメッセージの返信を後回しにして仕事へと向かう。
 この日のシフトは、最近新しく入ってきたばかりの後輩と一緒だった。転職するまでの繋ぎでバイトをしていた人が辞め、その穴埋めとして採用された若い男である。
「分からないことがあったらじゃんじゃん聞いちゃってもいいっすか?」
 若い男であり、チャラい男である。ありとあらゆるやんちゃをしていそうな男である。それでも無事に採用されたということは、面接で見えた人間性は決して悪くはないということか。
「分からないことがないことを願っています」
「入ってきたばっかの人間にそれはきついっすよ」
 人に何かを教えるのは好きではない。この後輩のように、やたらと声が大きくてテンションの高い人も好きではない。だが、今は仕事中である。自分の苦手なタイプの人間だからといって、他の人と違った態度を取るわけにはいかない。悪目立ちしないように。害のないように。彼は誰に対しても同じような、温度のない返答をする。熱がこもっていないのが彼であり、年齢性別関係なく敬語で話すのが彼であり、職場にいる誰もが周知していることであった。
「俺はレジしてればいいっすか?」
「売場の整理や清掃もしてください」
「分っかりました。めちゃくちゃ綺麗にしますんで」
 後輩は機敏な動きで敬礼をする。言動は軽いが、やる気はあるようだ。そのやる気を買われたのだろうか。
 後輩は出入口側の雑誌コーナーから順に見て回り、乱れている商品を整えていく。見かけによらず几帳面なのか、丁寧な所作だった。チャラチャラしている上に、仕事への意欲はあっても中身が伴っていない新人だった場合、今後はできるだけペアになりたくないと思っていたが、それは杞憂に終わりそうである。チャラチャラしていることに関しては、ひとまず目を瞑ることにした。
 彼は後輩のいる反対側の食品コーナーの整理から始めた。手前のものが売れたことで奥に残っている商品を前出しし、見栄えを良くしていく。誰にでもできる作業だが、誰かがしなければならない作業だった。単純なことでも、仕事の一つである。
「いらっしゃいませ」
 聞き慣れた音楽と共に、後輩の元気のいい溌剌とした声がした。彼も遅れて同じ言葉を発するが、温度差は歴然である。後輩が明るすぎるのだ。接客業に向きすぎている。仕事だと割り切って全力なのかもしれないが、全員が全員できることではないだろう。実際、彼にはできない。接客業の最低限のルールを、合格ラインギリギリで守っているだけの彼にはできない。
 後輩に大歓迎された客は女性だった。酸いも甘いも噛み分けたような中年の女性。手に何か持っている。じろじろ見ないようにして流し見た。煙草の箱のようだ。
 考えられる展開が脳内を駆け巡る。購入したばかりの煙草で何か問題があったのか。いつも吸っている銘柄とは異なるものを誤って購入してしまったために、返品交換のお願いをしに来たのか。持ってきたものと同じ煙草を買いに来たのか。
 同じ銘柄を求めてやってきた展開であればいいが、いずれにせよ女性は店員に声をかけるだろう。近くにいる後輩の元へ向かっている。
「すみません」
 案の定、女性は作業をしていた後輩に声をかけた。後輩は手を止め、はい、と明るい返事をする。愛想の良い店員だ。
「これと同じ煙草を買いたいのですが」
 女性は手にしていた煙草の箱を後輩に見せた。ひとまず、嫌でも自分が出なければならないような幕ではなくなる。
 後輩は女性に一言断ってから箱を受け取り、レジに入って同銘柄の煙草を指で追って探し始めた。
 彼は後輩の様子を気にしつつも、止めていた作業を再開した。まだフォローにはいかない。店長や勤続年数の長いベテラン社員に一通りは教わっているはずだ。困り果てていたら手を貸すくらいでいいだろう。深夜は客がほとんどいない。列ができることも滅多にない。せっかちではない穏やかな客であれば、ゆっくりでも多少は待ってくれる。女性はその部類のように見える。
「あ、ありました。こちらでよろしいでしょうか?」
「そうです。ありがとうございます」
 流石に客の前では舐めたような語尾を封印していた。なんすか、どれっすか、これっすか、間違いないっすか、などとすかすか言われてしまうとこちらがひやひやしてしまう。クレームにも繋がりかねない。クレームの対応は面倒臭いのだ。今この場で気難しい客に鉢合わせてしまったら、相手をしなければならないのは後輩の先輩である自分である。何事もなく仕事を終えたい。
「ありがとうございました」
 スローペースではあったが、後輩は問題なく一人で客を捌いてくれた。スピードは慣れれば自然と上がっていく。それまでは、覚束なくても丁寧に処理していく方が、客を嫌な気分にさせることもないだろう。
「先輩、どうっすか、今の。問題ないっすか?」
「ないです。その調子でレジお願いします」
 語尾が気になってしまうが、自分から話を広げる気にならない彼は、問題ないことだけを告げて唇を引き結んだ。
 彼が必要最低限の会話しかしないのは、何も後輩に対してだけではない。これも、彼の平常運転である。
 仕事中に関わらず、あまり人と深い仲にはなりたくなかった。距離の近さが原因となり、隠している重大な秘密がバレてしまったら水の泡である。一巻の終わりである。
「なんか、全然喋んないっすね」
 レジから出てきた後輩が歩きながら声を上げ、会話を続けようとする。先程の女性を最後に客はまたいなくなってしまったため、後輩と二人きりだった。整理整頓の続きをしないのかと思わないでもないが、彼は何も指摘せずに手を動かし続ける。自分も隠れて仕事に関係ないことをしてしまうことがある上に、店のトップである店長ですら深夜はぼんやりしていることがあるのだから、注意できる立場にはいなかった。
「喋るのはあまり好きではないですから」
「そうなんすね。いや、第一印象からクールな人だとは思ってたんすけど、クールはクールでも超がつくほどクールっすね。めちゃくちゃモテそうっす。彼女いるんすか?」
 プライベートに土足で踏み込んでくるようなこのいらない積極性は何なのか。喋るのは好きではないと言っているのにくだらない質問をして喋らせようとするのは甚だ疑問である。仕事の内容であればそんなことは思わなかっただろうが、彼女の有無など仕事に関係なさすぎる問いでしかない。
 此奴は面倒臭い新人だ。すかすかすねすねうるさいちゃらんぽらんなのも好かない。殺してやろうか。
 殺そうと思えば今すぐにでも殺せるが、監視カメラがしっかり見張っている。それがなくとも、真っ先に怪しまれるのはシフトが被っていた自分である。通り魔的な殺人は自分の首を絞めるだけだ。
 彼は先輩としての広い心と余裕を持って、舐め腐った口調の後輩の相手をしてやった。
「俺にそんな人はいません」
「マジっすか。じゃあ今フリーなんすね」
「そうですね」
「実は俺もフリーなんすよ。彼女ほしくないっすか?」
「俺は別にほしくないです」
 見栄でも何でもなく、本当にほしくなかった。必要なかった。いらなかった。恋愛にすら興味が湧かないのだから、彼女がほしいほしくない以前の問題である。故に後輩の言葉も、例の自殺志願者の言葉と同様でほとんど頭に入っていなかった。耳から耳へとするすると抜けている。後輩の恋愛事情にも全く持って興味はない。
「珍しいっすね。男だったら女といろいろしたくないっすか? 俺は早く彼女作って甘やかしてやりたいんすよね。ベッドの上で」
 作業をしながら、後輩を一瞥する。何を想像しているのか、顔が情けなく緩んでいる。
 エロガキが。自分の股間でも甘やかしてろ。
 咄嗟に湧いた暴言を身体の内側に隠しつつ彼は思う。前回殺したデブの男も性欲に塗れていた。この後輩も性欲がたっぷりあるようだ。それが男として普通なのか。殺人をすることでしか発散できないのが異常なのか。
 淫らに腰を振って射精する行為よりも、暴力を振るって息の根を止める行為の方が遥かに気持ちいい。その気持ちよさを知らない方が、その気持ちよさが分からない方がおかしい。殺人欲求がある彼からすれば、そのような感覚だった。
「そうですか。それは頑張ってください」
「先輩マジずっと感情こもってなさすぎっす。面白いっすね」
 後輩マジずっと迷惑すぎっす。殺していいっすか。どうっすか。いいっすよね。
 馬鹿にするように後輩の口調に合わせてみれば、自分の知能レベルが一気にダウンしてしまったように思えた。これは本当に馬鹿丸出しの口調だ。鼻で笑ってしまいそうになる。恥ずかしくないのか。
 真顔のまま心中で暴言を吐きまくる彼の前で、後輩は深夜テンションの如くへらへらと笑っている。何がそんなに楽しくて面白いのか、彼には微塵も想像できない。
「俺、先輩ともっと仲良くなりたいんすけど、連絡先とか教えてくれないっすか?」
 男にナンパをされているような気分だった。いくら冷たく雑に遇っても、後輩の機嫌は悪くなるどころか良くなっているような気さえする。自分から距離を置こうともしない。後輩の周りに自分のような人種はいないのか、物珍しがるように面白い人だと思われてしまっているのは嫌な傾向だ。
 彼は後輩と仲良くなるつもりはなかった。仕事以外でもこのような絡みをされるのは堪えられそうにない。よって、連絡先は教えない。
「教えません」
 悩む素振りも見せずに切り捨てて、場所を移動する。彼の手の届く範囲にあった商品は、もう整理のしようがないほどに綺麗に陳列されていた。
「マジっすか? 教えてくれないんすか? そりゃないっすよ」
 嘆く後輩を無視して、彼は別のコーナーの整理を始める。
 したくもない馴れ合いはしない。積極的に来られてたじろぎ、嫌なのに断れずに何でも教えてしまうような控えめでお人好しな人間とは違うのだった。
 これだけ拒絶を示せば、流石の後輩も関わろうとするのを諦めてくれるかと思ったが、残念ながらすかすかすねすねといった語尾は離れない。彼は治安悪く舌を鳴らしてしまいそうになった。一体どういうメンタルをしているのか。
「ちょっと壁が分厚すぎじゃないっすか? 全然心開いてくれる気がしないっすね。あ、お客さん来たっす。いらっしゃいま……、ん? あれ? なんか、物凄い勢いでこっち来てんすけど、え、やば、やば、先輩やばいっす、やばいっす、先輩、うわ、うわ」
 突然、後輩の唇が忙しなくなった。人の足音と気配も忙しなくなった。客が来たのは確かなようだが、思ったことを全部口にして実況してくれているような後輩の慌てぶりから、何やら様子が変であることを彼は悟る。作業していた手を止め顔を上げた。視界に映った異様な光景を、彼はすぐには飲み込めなかった。
 後輩が、マスクを身につけ、フードを目深に被った黒ずくめの男たちに襲われていた。殴られていた。暴力を行使する男たちは明らかに、客ではなかった。
 一方的な暴力によって後輩の身体は棚にぶつかり、綺麗にしたばかりの商品がどんどん床に落下していく。後輩もずるずると床にへたり込んでいく。鼻からは血が出ていた。それでも、後輩はやり返そうとはしない。驚愕のあまり、身体が萎縮してしまっているのか。見た目に反して、人を殴ったことがないのか。
「おい、お前はあそこの店員を早くやれ。絶対逃すなよ。逃したら計画がおじゃんだからな」
 一人の男がもう一人の男に指示を出す。命令された男が黙って突っ立っている彼を認め、なぜか一瞬躊躇うような素振りを見せた後、意を決したように駆け出した。今この場にいる人の中で一番の長身であり、体格のいい男だった。フードの隙間からは、茶色に染めているのであろう髪が覗いていた。
 このまま何もしなければ、自分も後輩のように鼻血を出してへたり込むだろう。どうするのが正解か。どうするのがコンビニ店員らしいか。男たちを順に殺ろうと思えば殺れるはずだ。しかし今は、しがないコンビニ店員である。やはり、後輩のように鼻血を流すのが正しいだろうか。逃げるにしても、そう簡単に逃げ切れるとは思えない。このような異常事態が発生した時に押す非常ボタンはレジにある。深夜で客もおらず、二人揃ってレジから離れていたせいで押せなかった。そのレジも、別の男たちに占拠されている。袋に金を詰めているように見えなくもない。
 決定だった。マスクとフードでできるだけ顔を晒さないようにしている男たちは、間違いなく強盗犯だった。
 彼は無駄な抵抗はせずに、大人しく殴られることにした。恰幅のいい男の大きな手に頬を打たれ、ぐらりと重心が傾き、そのまま棚に身体をぶつける。前出ししたばかりの商品が飛び出して落下する。彼は商品には目もくれず、確かめるように鼻を押さえた。その手のひらを見た。血は出ていなかった。
 一度殴ったことで妙な自信がついたのか、胸倉を掴んできた男に彼は再び殴打された。暴力の一線を踏み越えてしまったことで、箍が外れてしまったようにも見えた。この男は、後輩を捕らえてはいたが殴ってはいなかったのだ。
 彼は歯止めが効かなくなっている男に殴られながら横目で後輩の様子を窺う。後輩もまた、リーダーと思しき男に殴られ続けている。先程まで自分に絡んでいたチャラい男とは思えないほどに弱っていた。無抵抗だ。後輩は最初から、抵抗一つしていない。もう手を出さなくても、逃げも隠れもしないはずだ。店員の動きを封じ、金を奪うことが目的であるのなら、それ以上暴力を振るう必要はない。
 舌が鉄の味を感じ取った。口内が切れてしまったようだ。視界もぐらぐらと揺れていて、乗り物酔いをしているみたいに気分が悪い。子供の頃以来の、久しぶりの気持ち悪さだ。
 欲求を満たすためにデブの男を殺した時と逆の立場になっている彼は、自衛をしようともせずにひたすら顔面を殴られた。殴られた。殴られた。口の中に血が溜まっていく。殴られることで唇の隙間から血が漏れ出ていく。一度は堪えた鼻の粘膜も遂には傷ついてしまったようで、気づけば鼻からも出血していた。喉に血が流れていく。気持ち悪い。思わず咳き込んだ。タイミング悪く殴られた。舌を噛む。血が飛ぶ。新たな出血箇所ができてしまった。彼の顔の下半分は無残な状況となっている。だが、後輩のように極端に気力を失うことはなかった。強盗犯に襲われていようとも、少しの恐怖も感じていないからだった。いつまで殴られなければならないのか。だんだん腹が立ってくる。強盗犯全員に腹が立ってくる。
 さっさと金を盗めよグズが。お前らがちんたらしているせいでこっちは血みどろだ。
 レジでもたもたしている男二人に心の中で悪態を吐く。今日が初めての強盗なのか何なのか、要領も手際も悪すぎる。殺してやりたくなる。自分と後輩を殴っている男たちも含めて全員。しかし、しがないコンビニ店員は普通、そんなことなどしない。殺すことはしない。それならば、殺さずに叩きのめせばいいのか。出血するほどに暴力を振るわれているのだ。正当防衛が成り立たないはずがない。
「終わりました、終わりました」
 反撃を開始しようとした時、レジの方から叫ぶ声がした。それを合図に、暴行に徹していた男二人が彼と後輩からパッと手を離し、こちらを見向きもせずに出入り口へ向かって駆けていく。嵐が過ぎ去ったように、一気に音の数が減った。
 彼は胸倉を掴まれたことで乱れた服を整えながら、手の甲で口元の血を拭い鼻を押さえた。
 やり返せなかった。いや、やり返せなくて良かったのかもしれない。これで完全なる被害者になれるのだから。
 強盗の被害に遭ったことを警察に通報して、その次は店長に連絡か。顔を合わせたくない警察とこんな形で関わることになろうとは。だが、自分は被害者だ。変に怪しまれることはないだろう。何をされたのか、事実を正直に述べるだけでいい。下手に嘘を吐く方が却って疑われる。普通に働いていただけで、何一つ悪いことはしていないのだから、そもそも嘘を吐く必要もない。
 床に散らばっている商品と、ところどころに飛び散っている血液。彼と後輩の血塗れの顔。被害がどのようなものだったのか、想像に難くない惨状のはずである。十分な証拠となり得るものであった。
 彼よりも酷い暴行を加えられた後輩は、ほぼ瀕死の重傷を負っていた。鼻血が全く止まらないのか、力なく押さえている手が真っ赤に染まっている。どうにか処置をしようとしている後輩は顎を上げてしまっており、それでは誤嚥や窒息の原因となってしまう恐れがあった。
 彼は歩みを進め、顔面蒼白になっている後輩の前を通り過ぎながら、さりげなく口にする。
「鼻血の時は上を向かない方がいいです」
 舌が動かしにくかった。殴られ盛大に噛んでしまったせいだろう。鉄の味も続いている。口内の傷は長引いてしまいそうだった。
 後輩に助言した彼は一旦バックヤードへ行き、社員で共有しているティッシュ箱を手にして店内へ戻った。上げていた顎を下げている素直な後輩に、持ってきたティッシュ箱を丸ごと渡す。
 業務のように淡々と、やるべきことを一つ一つ消化していく彼は、自身の止血は程々にして電話をかけることにした。レジに置いてある子機を手に取り、血がつくのも構わず、三桁の番号を押して警察を呼ぶ。事情を話せば救急車も呼んでくれるだろうか。まだ少し酔っているような気分の悪さが残っているものの、ふらつくことなく歩けてはいる自分はともかく、立ち上がれもせず、止血も間に合っていない後輩は診てもらった方がいいだろう。
『はい、警察です。事件ですか? 事故ですか?』
 すぐに応答した警察官に、彼は依然として冷静な調子で緊急案件を述べた。
「事件です。コンビニで強盗に遭いました。犯人は四人組で、レジの現金を奪って逃走中です。暴行も加えられ、自分ともう一人が負傷しています」
 喋っている途中で血が絡んだ。時折咳き込んでしまいながらも掻い摘んで説明し、警察から尋ねられたことにも答えていく。最終的には、要請してくれた救急車と共に現場に急行してもらうことになった。その過程で、自分の名前や電話番号などの個人情報を尋ねられ思わず渋ってしまいそうになったが、こればかりはやむを得ない。やましいことがあるのかと猜疑の目を向けられてしまうくらいなら、潔く答えてしまった方がいい。
 素直に話した彼は警察との電話を切り、その手で今度は店長にかけた。コールが続く。日付が変わった深夜である。もう寝ているだろうか。
 緊急であるため、少し長めに鳴らしたが、出ない。一度切るかと耳から電話を離しかけると、プツと呼出音が途切れた。耳に再度押し当てる。
『もしもし? どうしたの? 何かあった?』
 夜も遅い。こんな時間に直接電話をかけてくるなどよっぽどのことがあったに違いないと察しているような、緊張感のある店長の声だった。いつもは穏やかな人だが、それでも店長になれた人なのだから、いざという時はしっかり部下を導いてくれる。
「遅くに申し訳ないです」
『それは大丈夫。用件は?』
「先程、強盗に遭いました。犯人はレジの現金を奪って逃走しています。警察には通報済みです」
『強盗? 怪我はしてない?』
「二人とも負傷していますが、警察にかけた際に救急車を呼んでもらいましたので、今は到着を待っている状況です」
 外の様子を窺い、耳を澄ます。まだサイレンの音は聞こえない。
『分かった。僕もすぐにそっちに行くから。警察や救急の方が先に来られたらその指示に従って。連絡ありがとう』
 電話を切り、子機を元の位置に戻す。血が付着している。事が済んだら拭き取ろうと思いながら、彼は後輩を振り返った。その場をじっと動かず、鼻を押さえて安静にしている姿を捉える。血を吸ったティッシュが後輩の手元に溜まっていた。
「警察と救急車と、あと店長も来てくれます」
 後輩に伝えると、後輩は徐に顔を上げた。静かに見つめられる。その双眸からは混乱は見て取れず、真っ青だった顔色も大分良くなっていた。呼吸も落ち着いている。何やら発言しそうな雰囲気すらある。後輩の目が、物を言っていた。
「先輩、一つ、いいっすか?」
「何ですか」
 予想通り話し始める後輩と目を合わせたまま、彼は強盗の被害に遭う前とほぼ変わらない声色で答える。後輩は自分と同じように喋りにくそうではあったが、声の調子も悪くはない印象だった。
「なんか、あの、めっちゃ、冷静っすね」
「そうですか」
「そうっすよ。こんな大惨事が起きたのに、俺と違って全く動揺してないじゃないっすか。でも、あれっすよ、あれ。慌てずにてきぱき動く先輩見てたら、不思議と凄く安心したんすよ、俺。先輩ってやばいっすね。男も惚れる男っすよ、マジで。かっこいいっす。先輩に一生ついて行きたいんで、俺にも連絡先教えてくれないっすか?」
「教えません」
「やっぱそうっすよね」
 即答する彼に、後輩は落胆の色を見せる。何度お願いされても、教える気にはならない。大袈裟に褒めちぎられて口説かれても、他人に情が湧かない彼が絆されることはない。自分の言動で相手の顔色が曇ろうと、心底どうでもいいのだった。申し訳ないことをした、という罪悪感のようなものを抱く気持ちにもならないのだった。
 相変わらずの語尾で喋り散らかした後輩の声量は落ちていたが、これだけ口を動かせるのなら、少しの間に随分と回復していると言える。鼻血が無事に止まったからだろうか。救急車も必要なかったかもしれないが、彼も後輩も、顔面を何発も殴られた事実は変わらない。骨にまで影響はしていないだろうが、それも医師に診てもらわなければ判断できなかった。
「……あの、先輩」
 唐突に、改まった声で呼ばれた。彼は眉一つ動かさずに後輩に目を向ける。先程とは打って変わって真剣な声色となった後輩は、赤く汚れた多数のティッシュを硬く丸めながら立ち上がっていた。床には商品が落下し、血液すらポツポツと飛び散っている。どこをどう見ても綺麗ではない状態だ。どうせ清掃をすることになるのに、決して床にゴミを置くことはしないその行動から、後輩の人柄が垣間見えるようだった。
「先輩も殴られて怪我してるのに、何から何までしてくださって、ありがとうございました」
 後輩はゴミを抱えたまま、彼に向かって頭を下げた。彼は無表情のまま、人間性は悪くないのだろう後輩の旋毛を見つめた。返事はしなかった。チャラさを隠しきれない語尾を封印してみせた後輩も、彼からの返事を求めなかった。
 遠くの方で、サイレンの音が聞こえ始める。彼と後輩は揃って外へ顔を向け、暗い夜だとより一層目立っている赤色灯を確認した。
「来たっすね」
 口調があっという間に戻っている。後輩は赤が白を侵食している塊を、レジに置いているゴミ箱に捨てた。
 強盗に襲われるというイレギュラー中のイレギュラーが起きた、いつもよりも明らかに慌ただしい夜が、駆け抜けていく。