「ぼ、僕のことを、殺す前に、ひ、一つ、お願いがあります」
「何でしょうか」
 丁寧に尋ねながらも、彼は心中で舌を打った。吃りながら長々と語り尽くした後にこれである。お願いなど心底どうでも良かった。こっちは殺すためだけに来たのに。ようやく殺せると思ったのに。一体いつになったら殺せるのだ。
 彼の本音など知る由もない男は、分厚い肉で埋まっているように見えるほど小さい目で彼を見る。舐め回されているように感じ、反吐が出そうだった。それでも彼は、親身になっている風を装って男の話を聞いた。
「あ、あの、あの、その……、ぼ、僕に、あ、あなたのこと、その、あの……、だ、抱かせて、ほしいです」
 選んだ相手を失敗した。過去一の失敗だ。大失敗だ。SNS上では姿が見えない以上文面だけが頼りではあるが、これほどまでに気持ちの悪い人間を引き当ててしまったのは初めてだ。
 目の前の男は脂肪塗れであった。率直に言えばデブである。体重は彼の二倍以上あるのではないか。
 玄関から顔を出した巨漢の男の姿を見た瞬間に、いつも以上に体力を消耗する相手であることを彼は確信した。これだけ肉がついていると、刃物で刺し殺すにしても急所まで届かない可能性がある。男に希望があればその通りに殺すつもりではあるが、それがなければどうやって殺すのが楽だろうか。あまり接触はしたくない風貌だ。しかし、遠距離攻撃ができる拳銃などは所持していないため、触れずに殺すことは至難の業だ。久しぶりの殺人に気分は上がりはするが、今までよりも殺しにくそうな相手だった。今回は完全にハズレの自殺志願者だ。
 抱かせてほしい、とふざけたことを抜かした男は顔を真っ赤に染めており、しかしどこか興奮した様子で鼻息を荒くさせていた。死ぬ間際になってまで盛る様は見るに堪えない。性欲を自分に向けていることすら気色悪くて鳥肌ものである。
「申し訳ないですが、それは無理なお願いです」
「僕が、お、男だから、ですか……?」
「そういうわけではなく」
「だ、だったら、べ、別に、問題なんか……」
「俺はあなたを殺しに来ました。そういうことをしに来たわけではありません」
 発情している男の言葉を遮断する。このままでは埒が明かない。調子に乗らせるわけにもいかない。はっきり言わなければ、いつまで経っても殺すに至れない。
「そ、そうですよね……。じゃ、じゃあ、僕のこと、だ、抱いてから、殺して、ください……」
 人の話を聞けよデブ。きったねぇ豚野郎が。
 柄にもなく、非常に攻撃的な暴言が口を吐いて出そうになる。飲み込んだ。もう何ヶ月も人を殺せていないストレスが、希死念慮がある癖に性欲だけは強いデブを前に爆発してしまいそうになっていた。
 暴言を隠し持ちながらも彼は無表情を貫き通し、飼育のなっていない豚の対応を続けた。
「申し訳ないですが、それもできません」
「だ、抱くのも、抱かれるのも、だ、ダメなんですか……?」
 あなたのような汚くて醜いデブに抱かれたいと思う人も、逆に抱きたいと思う人もいるわけないですよ。鏡見たことないんですか。
 言いたくなったが、無闇な挑発はするべきではないだろう。一度本音を吐露してしまうと、そこから箍が外れて止まらなくなる。もう少しだけ堪えれば殺せるのだ。苦しみから解放されるのだ。彼は忍耐力を総動員する。
「そろそろ殺していいですか。殺され方の希望があれば教えてください。なければこちらで好きに殺します」
 男の問いをスルーして、彼は本来の業務に取り掛かった。手綱を強めに引かなければ、この男はすぐにどこかへ行こうとする。ふらふらふらふら蛇行されると殴り殺したくなってしまう。そうだ、殴り殺せばいい。決定だ。希望がなければ殴り殺す。希望があっても殴り殺す。人の話を聞かない人の話など聞く必要はない。
 欲は強いが気は強くはない男は、彼にはきはきとした物言いをされ、たじろぐ様子を見せた。小さな目を泳がせ、あ、とか、う、とか息だか声だか分からない音を口から漏らしている。
 全体的に不快な生物だ。だから死にたくなったのか。死にたくなるような目に遭ったのか。
 抱かせてほしいなどと血迷い発言をする前に、そのことについて男は辿々しいながらも一生懸命話をしていたが、冷酷な彼の頭にはやはり、全くと言っていいほど入っていなかった。興味のないことを聞き流してしまうのは、何も彼に限った話ではないだろう。
 汚い音を漏らしていた男が、汚い声でぼそぼそと喋り始める。一度気持ち悪いと思うと、何から何まで気持ち悪く感じて仕方がなかった。
「ぼ、僕、は、せ、性の、け、経験が、ないので、その、せめて、し、してから、死にたいんです……」
「そうですか」
「だから、あの、僕と、してから、こ、殺して、ください……」
「それは無理だとお伝えしたはずですが」
「ど、どうしてですか……?」
 その容姿で初対面の人と性に関することができると思っている方が不思議でならなかった。風俗嬢などであれば、それが仕事であるためどんなに嫌であっても相手をするだろうが、彼はただの殺人鬼である。抱くのも抱かれるのも御免だ。
 自分はなぜ、こんな面倒な男を殺しに来てしまったのだろう。時間を巻き戻せるのなら巻き戻してしまいたい。
 ファンタジーを求めるが、ここはファンタジーの世界などではない。願えば叶うようなこともなく、これまで通り何が何でも殺すしかない。毎回確認している後悔の有無も、この生物には通用しないだろう。いつまでも食い下がる気しかしないため、ここはもう強行突破だ。殺してしまえば静かになる。殺してしまえばストレスも発散できる。暴力的になってしまう思考も落ち着くはずである。
「希望がないようですので、こちらで好きに殺しますね」
 彼はまたもや男の問いを無視して立ち上がった。あたふたし始める男の胸倉を掴みに行き、躊躇なく顔面をぶん殴る。ぶん殴る。ぶん殴る。お気に入りの手袋はしっかり身につけていた。
 男は何かを訴えるように唇を動かしていたが、彼の耳には届かない。男の声が聞こえる前に殴っているからだ。殺されたくて自分と約束を取りつけたのだから、ここで文句を言われる筋合いはない。黙って殺されていればいい。黙って殺させてくれればいい。彼は真顔で拳を振るい続けた。
 男の手が顔を庇おうとし始めた。殺されたいはずだ。死にたいはずだ。抵抗されるのはおかしな話だ。
 彼は防御が疎かになっている首を不意打ちで殴りつける。潰れたカエルの鳴き声のような濁った音が男の喉から落ちた。手応えを感じ、繰り返し喉笛に暴行を加えるが、手袋がクッションとなり、骨が皮膚にぶつかる痛みや威力を軽減している恐れがあることに気づく。
 胸倉を掴んだまま、彼は目だけで辺りを見回した。雑多な机の上にテレビのリモコンを見つけた。これでいいか、と彼は手を伸ばしてリモコンを握り締める。角を利用し、勢いをつけて喉に叩き込みたかったが、今度は首を守るように身を捩っている男に邪魔をされた。ここまで抵抗を示す自殺志願者も珍しい。今になって後悔しているのだろうか。だとしても手は止めない。殺される運命は決まっている。
 首を守ることで、今は顔面が無防備になっていた。彼は慌てることなく狙いを変え、握ったリモコンを振り切ってこめかみを打った。男の米粒のような黒目が回ったように見えたが、この程度ではまだ死なない。彼はもう一度打った。更に打った。何度も打った。打った。打った。打った。
 長期間殺人欲求を我慢していた分だけ気が立っていた。リモコンが破損するほどに殴り続け、男の顔面が血塗れになっても殴り続け、男が口を開けて動かなくなっても殴り続けた。ハイになっていた。全身を突き抜けるような快感を覚えていた。
 暴力を振るっていた手が疲労を感じ始めたところで、彼は連続の殴打をやめる。凶器に使用したリモコンを捨てるように手放し、巨大な生物からもパッと手を離す。襟元が格好悪く伸びていた。
 霧が晴れたようにすっきりした気持ちで息をする。殴殺する前と比べて、胸の通りがとてもいい。人を殺した時の心地良さは何度経験してもいいものだ。癖になる。また味わいたいと彼は思う。
 それにしても、今回の殺し相手は気持ちの悪い変態だった。殺してしまえばただの肉塊に過ぎないが、その死に様も、死に顔も、不快なもので救いようがない。
 醜い姿を晒している男を見下ろす。胸が上下していないことを確認したが、異様な生命力を発揮されては都合が悪い。彼は丸太のように太い男の首を足で思い切り踏みつけた。骨を折るつもりで全体重をかける。念入りに殺すことは大事なことである。いくら気分が晴れたとしても、油断は禁物である。
 男は何をされても無反応ではあるが、徹底的に殺しておきたい彼は気の済むまで暴行を加え続けた。
 満足するまで殺り尽くと、無駄にエネルギーを消費してしまったのか、僅かな空腹を覚えた。この後はもう帰宅するだけだが、男の家もまた彼のアパートからは遠く離れている。運転を開始する前に何か胃に入れておきたい。彼は腹を摩りながら冷蔵庫に向けて歩みを進めた。扉を開けて中を物色するが、すぐに食べられそうなものは何もない。冷気を押し戻すように扉を閉め、続けて下の冷凍庫を開けてみる。アイスがあった。箱で販売している棒アイスだ。彼は箱から一本だけ抜き取り、開封しながら足で蹴るようにして冷凍庫を閉めた。
 仰向けで息絶えている男と机を挟んだ対面に腰を下ろした彼は、早速棒アイスに噛みつき、気休め程度の腹拵えをする。舐めて溶かしながら堪能するでもなく、彼は黙々と噛んで咀嚼し続けた。腹を満たすためだけに胃に送り込んでいるだけだった。
 早々にアイスを食べ終え、身包みを剥がされ裸になった棒を袋に戻す。まとめてゴミ箱に捨てた後、彼は男の死を今一度確認した。屍姦が性癖の犯罪者であっても、一瞬で萎えてしまうのではないかと思うほどに魅力のない、まるで汚物のような死体だった。
「無事に死ねて良かったですね」
 一区切りをつける際の彼の声は、食べたばかりのアイスのように冷たい響きを持っていたが、それが彼の通常運転であった。
 彼は部屋の電気を消灯し、死体となった男の家を後にする。
 久しぶりに行った殺人の対象は、害と害を組み合わせて作ったような失敗作だったが、溜まった欲求は問題なく吐き出せた。これでしばらくは心の平安を保てるだろう。また殺したくなったら殺せばいいだけだ。選んだ人間が失敗作だろうが何だろうが、殺してしまえば心のない肉塊となる。
 夜の闇に溶け込んでいる黒い車に乗り込み、エンジンをかけた。男の皮脂や血液が付着してしまっているであろう手袋を外し、ナビの目的地を自分のアパートに設定する。帰ったら手袋も衣服も身体もよく洗うことを決めた彼は、シートベルトを着用するなりすぐに車を出した。