◇

 途中から嫌な予感はしていた。気のせいだと思い込むことで自身を騙そうとしたが、全くもって騙し切れないほどにその症状は悪化していた。
「到着しました」
 目的地であるユウコの家、元より、金蔓の家の敷地内なのだろう広いスペースに車を停め、さっさとエンジンを切ったカナデが口を開いた。助手席に座っている彼はしばらく動く気になれず、痛む頭を押さえてじっとしていた。シートベルトを外すことすら億劫だった。
「ミコトさん、生きてますか?」
「……」
「完全に死んでますね」
 十数年ぶりの車酔いであった。大人になるにつれて酔うことはなくなったと思っていたが、それは自分で運転をするようになったからかもしれない。他人が運転する車では酷い有様である。単にカナデの運転が下手くそなだけなのかもしれないが、今その技術を詰ったところで意味はない。気力もない。余裕もない。吐くまではいかないものの、それでもひたすら気持ち悪くて仕方がない。よく乗り物酔いをしていた子供の頃の地味に辛い経験を、二十代後半でまた味わう羽目になるとは思わなかった。
 約束していた土曜日の午後に、カナデのアパートで落ち合うことになっていた。そこからカナデの車に乗り換え、無論カナデの運転で金蔓の家まで何時間もかけて移動した。結果、酔って死んだ。途中で休憩を挟みはしたものの気休めにしかならず、ほぼ酔った状態のまま何時間も車に揺られ続けるのは拷問でしかなかった。
「ミコトさんって車酔いするんですね。意外です。余裕なさそうなミコトさん見るの初めてで少しドキドキしてます。ミコトさんはよく俺を惚れ直させますね」
 計画上にはなかったであろう想定外なことが起きても、カナデの調子はいつも通りであった。彼自身も車酔いしてしまったことは想定外だったが、少しの間安静にしていれば次第に治まるものである。そのため、これからすることが全ておじゃんになってしまうのではないかといった焦燥感を抱くことはなかった。絶対に金蔓を殺すことは変わらない。
「ミコトさん、ちょっと妙案を思いつきました」
 閃いたとばかりに声を上げたカナデは、まだ酔っている彼を気遣うこともなくマイペースに事を進めようとする。視界がぐるぐると回っているような気持ち悪さを堪えながら、彼は黙って耳を傾けるだけ傾けた。下手に喋ると吐いてしまいそうだった。車に酔って吐いたことはないが、一瞬でも気を抜けば吐いてしまうんじゃないかと思うくらい気持ち悪かった。
「ミコトさんは今リアルに酔ってますので、それをそのまま、イツキが車に酔って体調が優れないことにしたら良いと思いませんか? ユウコはとても心の優しい人なので、見るからに顔色の悪い人を放っておくような真似はしないはずです。どうですか?」
 どうかと問われても頭が回らず、それが妙案なのか否か考えられない。答えられない。今はとにかく横になりたい。ミコトだろうがイツキだろうがこの瞬間だけはどちらでも構わなかった。演技をする余力はない。
 車酔いをした人間はその時だけ、まるで死んだようになってしまう。彼の蒼白な顔面がその証左であった。
 症状が治らなければ殺せるものも殺せない。殺すのなら集中して殺したい。思う存分楽しみながら殺したい。予定とは異なる形であっても何が何でも敷居を跨ぎ、何が何でも体調を回復させ、何が何でも金蔓を殺したい。
 経験上、いつまでも車に乗っていても仕方がないことを彼は知っている。車内の空気にも酔っている恐れがあるため、ひとまず降りた方がいいかもしれないと彼はようやくのろのろとシートベルトを外した。
 彼も彼でカナデを気遣うこともなく車から降り、自然の空気、それも夜の空気を吸い込んだ。ほんの僅か楽になったような気がしたが、所詮は気がしただけである。すぐに立っているのが辛くなってしまった。脳味噌が大きく揺れているような感覚だ。気持ち悪くてたまらない。
「あれこれ考えても意味ないですね。もうここまで来たら行くしかないので行きましょうか。イツキは車酔いしたことにします」
 彼の後に続いて車を降りたカナデが鍵をかけ、助手席側に回り込んだ。傍でカナデの気配や微かな息遣いを感じる。吐き気を催す不快感のせいではきはきと喋ることもきびきびと動くこともできないでいる彼の手首を、カナデは素早く掴むなり強制連行した。
「もうちょっとだけ頑張ろう、イツキ。ユウコに言えばゆっくり休ませてもらえるはずだから」
 カナデは恥ずかしげもなくアオイを演じ、違和感もなくタメ口を利いた。慣れていると分かる口調だった。雰囲気までもが変わっていた。
 アオイになったカナデに引っ張られながら、これに合わさなければならないのかと別の意味の頭痛が加わった。地面を踏む度に感じる微かな振動すら頭に響いており、最悪なコンディションだった。それこそ、無理やり歩かされなければ歩き出せないほどに。カナデの手が離れれば、暗い夜の中ではその姿を見失ってしまいそうなほどに。
「きもちわる」
 片手で口を押さえ、思わず小さく吐露してしまえば、そこから胃の中のものを吐き出してしまいそうになった。下手に喋るものではないと自重していたが、既にカナデがアオイになってしまった手前、彼もミコトからイツキにじわじわとでも切り替えなければならなかった。車に酔っただけのことで計画を失敗させるわけにはいかない。
「運転、下手くそ、すぎるだろ」
「ごめんね。俺イツキみたいに上手くなくてさ」
 イツキとしてカナデの運転技術を途切れ途切れに詰ると、アオイとしてカナデは謝った。すぐに返答をくれたことで、アオイの親友であるイツキのキャラはこれで間違っていないという気にさせられる。
 俯いて歩く彼を玄関前まで連れたカナデが、躊躇なくインターフォンを押した。改めての注意事項も何もない。そのままいけということか。もしもの時はそっちがフォローしろよ。
 カナデが押したインターフォンから微かな雑音がした後、約束もしていないのに夜に訪れた人間を不審がっているような警戒心丸出しの声がした。
『どちら様ですか……?』
「アオイだよ」
『え、アオイ? あれ、今日会う約束してた……?』
「してないよ。俺が急にユウコに会いたくなってさ。連絡もしないでごめんね。もし迷惑じゃなかったら開けてくれないかな」
『会いたくなったって。もう、しょうがないな。今玄関開けるから待ってて』
 ぷつ、と音が途切れた。ユウコの声は呆れているようにも喜んでいるようにも聞こえた。その事実だけで、二人は本当に上手くいっているのだと痛む頭でぼんやりと思った。ユウコは知らないカナデの白々しい台詞もしっかり感情が込められている。カナデは今、カナデではないのだった。
 金を騙し取るためだけにここまでユウコを信頼させたカナデの努力を、車酔い如きで無駄にするわけにはいかなかった。どんなに気持ち悪くても、ユウコを殺すまではアオイの親友のイツキでいる必要がある。カナデほど上手に騙せる自信はないため、回復したら即座に殺す。絶対殺す。
 彼は確かめるようにポケットに手を入れた。殺す時の最低限の必需品である手袋を突っ込んでいた。
 扉を挟んだ向こう側で、人の気配を感じた。直後に、ガチャ、と鍵の開けられる音。次いで扉が動き、中からユウコが現れた。黒縁の眼鏡をかけている。若干癖のついている髪の毛も黒い。その見た目から、というわけではないが、ユウコはあまり目立つことのなさそうな地味な女だった。
「お待たせ」
「ありがとう、ユウコ」
 カナデが柔らかく微笑んだ。胡散臭い薄笑いではなかった。ユウコはカナデの甘い微笑に、まるで初心な少女のように頬をほんのりと赤くさせた。カナデに夢中になっているユウコが照れくさそうにしながら目を逸らしたところでようやく、彼はユウコと目が合った。ユウコは見ず知らずの男の姿を見るなり分かりやすく顔を引き攣らせ、打って変わって不安げな視線をカナデへと向ける。
「アオイ、そちらの方は……?」
「ああ、俺の親友のイツキだよ」
「アオイが時々話してる……?」
「そうそう。イツキと遊んでる最中に急にユウコに会いたくてたまらなくなってさ。イツキを家に置いて来るの忘れてそのまま連れて来ちゃって。おかげでイツキ、車酔いして死にかけてるんだよね。ちょっとだけ休ませてあげてほしいんだけど、ごめんね、いいかな」
 ごめんねと謝っておきながら、拒否はさせないといった妙な圧を感じた。
 ユウコに会いたいあまり、一緒に遊んでいた親友を家に置き忘れてそのまま連れて来てしまった、というのは流石に無理があるのではないかと思ったが、結婚を前提に付き合っている恋人のことを全面的に信じているらしいユウコは、警戒心を解きつつ控えめに、しかし心配そうな顔つきで彼を見つめた。車酔いしていると聞いて、特に意識していなかったであろう彼の青白い顔がやけに際立って見え始めているのかもしれない。
 イツキは車酔いで死にかけていることにされたが、実際に車酔いで死にかけているため、気を張る必要もなくリアルを届けられるはずだ。何も喋らなくても、喋れないくらいに体調が悪いのだと言いように捉えてくれるだろう。それは何も間違っていない。
「あの、顔色が、凄く悪いので、ひとまず、うち、うちに、上がって、少し、横になられた方が、あの、いいかと思います」
 彼に話しかけるユウコの口振りは非常にぎこちなかった。すっかり信頼して心を開いているカナデとは普通に話せているものの、初対面の相手ではそうもいかないようだ。
 本来は内気な性格だという情報は既にカナデからそれとなく伝えられていたが、騙すことではなく殺すことが目的である彼からすると、与し易そうな性格かどうかは特に重要視するべき事柄ではなかった。どうせ殺すユウコと無理に打ち解ける必要はない。そのつもりもない。
「本当にありがとう、ユウコ。迷惑かけてごめんね。イツキ、とりあえず上がらせてもらおう」
 口を開かない彼に変わって答えたカナデに引っ張られた。彼は男二人を家に上げるユウコを一瞥し、抜け切らない不快感を覚えながらも、イツキとして会釈だけはしておいた。すみません。申し訳ないです。余計な気を遣わせてしまって。イツキらしくないかもしれないが、体調不良の人間は大抵らしくないことをするだろうと自ら納得させた。
 皮肉にも酔ったおかげで、それを利用したおかげで、彼は無事、ユウコの家に足を踏み入れることができた。一言も喋ることなく敷居を跨ぐことができた。後は本調子に戻るまで休んで、それから、徹底的にぶっ殺すだけだ。早く殺したいと気持ちが急いている部分はあるが、焦ってはならない。心はその気になっていても、酔って気持ち悪くなっている状態では体がついていかない。車酔いしたイツキとしてしばらく安静にすることが最優先事項だった。
 家に上がると、ユウコにリビングまで案内された。というよりも、未だ手首を掴んでいるカナデに連れられたと言った方が正しいかもしれない。カナデは何度もユウコの家を訪れているはずである。リビングの場所のみならず、この家の間取りは頭に入っているだろう。
 ユウコは実家暮らしである。しかし両親は既に他界しているため、実質一人暮らしだと、車に酔う前に追加情報として教えてもらっていた。確かに、大人の男二人が足を踏み入れても、それほど狭苦しさは感じないくらいの広さだった。家族で住んでいたと分かる家だった。
「あの、どうぞ、ソファーにでも、腰、腰を、下ろしてください。それか、布団、敷きましょうか……? 嫌じゃなければ、ですが……」
 リビングに三人が揃って早々、ユウコはどぎまぎしながら彼に提案した。眼鏡のレンズの向こう側にある目は、ソファーを見たり彼を見たりカナデを見たりしており落ち着きがなかった。
 いくら気分が悪くても、ずっと口を噤み続けるのは逆効果かもしれない。声を出せないわけではないため、何かは言うべきだろう。手にかけるまでは、決して疑われてはならないのだ。決して怪しまれてはならないのだ。自分は今、アオイの親友のイツキである。ミコトではない。彼は言い聞かせた。
「ソファーで、十分です。そこで少し、横になっても、いいですか」
 息が続かない。声を出すとやはり、胃の中のものが逆流しそうになる。唇を引き結んだ。いずれ症状がなくなるまでの辛抱だ。
「それは、どうぞ。い、居心地は、良くない、かも、しれませんが……」
「すみません。助かります。アオイ、俺、ちょっとだけ、寝させてもらう」
「うん。ゆっくり休んで、イツキ」
 するりと手を離される。引かれていた手綱を離されるような妙な心地がした。ここからは、いつどのタイミングでも殺していいですよ、とアオイの仮面を被ったカナデに言われたような気がした。
 吐き気を催すような気持ち悪さに苛まれながら、彼はソファーの上に体を横たえた。あらゆる情報を遮断するように目を閉じる。眠ってしまえば楽になる。楽になったらユウコを殺せる。
 唾を飲み込んだ。深呼吸を繰り返した。徐々に意識が低下していった。車に酔って死にかけだった彼は、死んだように眠りについた。夢も何も見なかった。
「ユウコには感謝してもしきれないよ」
「それはもういいって。何回も聞いたよ?」
「何回でも言わせてよ。多額の借金を肩代わりして俺を窮地から救ってくれたんだから。ユウコがいなかったら、今頃俺は死んでたかも」
「大袈裟だなぁ」
「全然大袈裟なんかじゃないよ。本当にありがとう。ユウコに出会えて良かった。心から愛してる」
 目が覚めると、カナデが何やら心にもないことをぺらぺらとくっちゃべっているところであった。
 窮地に立っていたわけでも死にそうになっていたわけでも愛しているわけでもないカナデの言葉は嘘八百である。感謝はしていたとしても、それは大枚を叩いてくれてありがとうの意味だ。出会えて良かったというのも、扱いやすい金蔓を引っ掛けられて良かったの意味だ。
 カナデはユウコに好意など抱いていない。ただの金蔓としか見ていない。しかしそれを全く悟らせることなく信じ込ませ、純粋で健気な青年に成り切る演技力には舌を巻かざるを得ない。詐欺師にとって人を騙すことなど朝飯前なのだろうか。彼が人を殺すことなど朝飯前であるように。
 彼は身を捩り、のそりと起き上がった。寝起き特有の気怠さに息を吐きながら顔を上げると、カナデに髪を梳かれ頬を撫でられ、恍惚とした表情を浮かべているユウコと目が合った。ユウコは眠りから覚めた彼を認識するや否や、正気を取り戻したようにカナデを押し退けた。甘ったるい雰囲気を誤魔化すように態とらしく声を上げる。
「あ、目、目、覚めたんですね。き、気分は、あの、どうですか……?」
「おかげさまで楽になりました」
「それは、良かったです……」
「ちょっとユウコ、いきなりびっくりしたよ」
「ごめん、アオイ。私少しトイレに行ってくるね」
 恋人に甘やかされ蕩けた姿を見られた気まずさからだろう、ユウコは慌ててリビングを出ていきトイレへ逃げ込んだ。
「タイミングが悪いよイツキ。もう少しでキスできそうだったのに」
「キスしたら止まらなくなるだろ。俺からすればタイミングが良かった」
 二人はイツキとアオイとして言葉を交わし、ミコトとカナデとして目を合わせた。
 彼が回復して早々、絶好のチャンスである。殺るならユウコがトイレから出てきたタイミングだ。家主がいない今なら、簡単に刃物も入手できる。次に殺す人間は、身体に多くの穴を空けると決めていた。
 彼はソファーから立ち上がった。頭はもう痛くない。気持ち悪くもない。すっかり本調子に戻っている。睡眠は最も手っ取り早い回復方法である。
 ポケットに突っ込んでいた手袋を引っ張り出し、両手に嵌めながら台所へ向かった。カナデは何も言わず、ユウコと一緒に嗜んでいたらしいコーヒーを優雅に飲んでいた。
 包丁を探して手に取ると、いよいよ殺せるのだと瞬く間に胸が弾み、体温が上がった。内心で高揚していても、彼はそれを噯にも出すことなくユウコを待ち構えた。絶対に殺す。絶対に仕留める。失敗は許されない。ぶっ殺す。ユウコは今夜、彼に殺される運命にある。
「イツキ」
「何、アオイ」
「イツキが寝てる時にユウコがね、イツキの体調が良くなったら一緒にプリンでも食べようって言ってたからさ、お言葉に甘えて後でプリン食べよう」
「分かった。プリンとか結構久しぶりに食べるな」
「久しぶりならめちゃくちゃ美味しく感じると思うよ」
 互いに目も合わさずに、適当に、静謐に、会話を重ねた。彼は包丁を触り、カナデはコーヒーを飲む。デザートはもう少し後であるが、その時にはもう生きたユウコはいないだろう。プリンでも食べようと提案したらしいユウコは、プリンを食べられないまま死んでいく。
 手袋を嵌めた時点で殺しのスイッチがオンになっている彼はリビングを移動した。トイレから微かに水の流れる音が聞こえる。包丁を握り直す。鍵が開錠されドアが開くのを見計らって歩みを進めた。
 用を足したユウコが無防備なままトイレから出てくる。ばちりと目が合った。瞬間、ユウコはまたしても動揺し、え、え、と困惑しきった声を漏らした。瞳を忙しなく動かすユウコの視線が何かを察知したように下がると、みるみるうちに、驚愕と恐怖が綯い交ぜになったような只事ではない顔色に変化した。
「え、え……、なんで……、え……、なに、なにもって……」
 彼は口を開くことなく無表情でユウコに迫った。いきなりのことであっても、本能的に身の危険を感じているのだろうユウコが唇を戦慄かせる。その場を後退したが、すぐにトイレの扉に背中をぶつけた。その中に籠もる、という選択肢に気づかれる前に、彼はユウコとの距離を詰めた。
「あ、アオイ……、アオイ……、ねぇ、アオイ、来て、来て……、助けて、アオイ……」
 恐怖で足が竦んでしまったのか、動けずにいるユウコがアオイの名前を呼んでいる。悲痛な声で助けを求めている。アオイ。助けて。アオイ。アオイ。助けて。アオイ。眼鏡の奥の両目を濡らし、身体をガタガタと震わせてアオイを呼び続けるが、無意味だった。アオイはアオイではない。アオイは助けには来ない。ここにユウコの味方はいない。
 ユウコはいつになったら騙されていたことに気づくのだろう。助けて。アオイ。殺されても気づかないだろうか。助けて。アオイ。それほどまでにアオイという男に心酔しているのだろうか。助けて。アオイ。アオイが化けの皮を剥いでカナデになるまで、ユウコは一生気づかないのかもしれない。助けて。アオイ。死んでも気づかないのかもしれない。助けて。アオイ。全く現実が見えていない女なのかもしれない。助けて。アオイ。助けて。アオイ。助けて。アオイ。アオイ。アオイ。うるさい黙れよ金蔓地味女。
 ユウコの混乱した叫声がだんだん耳障りになってきた彼は、怯えきっているユウコの首を乱暴に掴んで喧しい音を消した。ユウコの顔が歪む。ユウコの両手が彼の腕を掴む。ユウコの腹が無防備になる。無防備になった。彼は気づいた。これは僥倖である。彼は楽々とユウコの息の根を止めながら隙だらけの腹を刺そうとしたが、ふと思い止まり中断した。刺す際は、服を間に挟まない方がより効果があるのではないか。咄嗟に名案のようなものが浮かんだ彼は、ユウコの服を持ち上げ、その中に躊躇なく包丁を突っ込んだ。そして、彼は淡々と、息をするように容易に、剥き出しになった腹に包丁の切っ先を押し込んだ。瞬間、ユウコの目が見開かれ、半開きになっていた口から声にならない声が漏れた。
 腹を刺され専らパニックに陥り、ぐらぐらと頼りなく目を泳がせ苦しげに喘ぎ始めたユウコを見下ろす。恋人の親友であるはずの男に首を絞められ腹を刺され、とても心の優しいユウコは何を思っているのだろう。彼には分からない。分かろうともしていない。額に脂汗のようなものが浮いていることに気づいて大変に思い、黒縁の眼鏡が少しズレていることに気づいて滑稽に思い、口の端から涎が垂れていることに気づいて不快に思う。それだけである。痛みも苦しみも、彼には理解できない。共感できない。ただ、人を殺したくてたまらない。
 彼は密かに興奮していた。包丁が皮膚を突き破った確かな感触を手のひらに感じ、密かに興奮していた。表面上は至って冷静でありながら、密かに興奮していた。もう一度味わいたい。鮮明に味わいたい。想像では決して得られなかった手応えに、途方もないほどの快感を覚えた。気持ちよかった。やはり殺人は、気持ちのいいものだった。やめられるはずがなかった。やめるつもりもなかった。
 彼は虫の息となっているユウコの腹から包丁を引き抜いた。傷口から血が大量に噴出する。着ている服に飛び散ったが、例に及ばず全身は黒で統一している。血液はそれほど目立たなかった。
 彼は抜いた包丁を再び刺した。皮膚を突き破る感触に興奮した。すぐさま抜いた。更に位置を変えて刺した。穴が空く感触に興奮した。すかさず抜いた。新たな箇所を刺した。気分が高揚した。勢いよく抜いた。また刺した。夢中になった。また抜いた。また刺した。気持ちよかった。また抜いた。また刺した。たまらなかった。また抜いた。刺した。癖になりそうだった。抜いた。刺した。まだまだ刺したかった。抜いた。刺した。抜いた。刺した。抜いた。刺した。抜いた。刺した。
 ユウコの両手がだらんと落ちた。何気なく見ると、泳いでいた目に光が失くなっていた。口端からは唾液のみならず、泡か何か得体の知れない液体が垂れていた。ユウコは死んだようである。しかしながら、念入りに殺しておきたい彼は、首を絞めたままの手を離すことなく更に力を込めようとしたところで、その必要もないほどに指先が皮膚に食い込んでいることに気づいた。腹を繰り返し刺しているうちに、首を絞めている手にも意図せず力が入ってしまったようだ。確かに手が少し疲れている。
 彼は死んだユウコからその手を離した。突き刺した包丁も引き抜いた。支えをなくしたユウコは、重たく鈍い音を響かせて床に倒れた。彼は足でユウコの死体を仰向けにするなり屈んだ。血溜まりに足を突っ込んでいても気に留めず、身体に包丁を突き刺すことを再開する。腹は散々刺した。穴と穴が繋がり一つの大きな穴となった箇所からは、血液と一緒に臓物が顔を出しているように見えた。後で引っ張り出してみるという楽しみを取っておき、彼は続いて胸の辺りを傷つけた。腹と同じように何度も何度も刺し、遺体を損壊し続けた。首も顔も傷をつけた。上半身が済むと、次は下半身である。太腿から足裏まで満遍なく刺す。刺す。刺す。刃が入りにくいこともあったが、刺すことに意味がある。刺して、刺して、刺して、気の済むまで刺して、彼は予め決めていたことを無事に成し遂げた。
 胸のもやもやが晴れたような達成感に息を吐き、楽しみに取っておいた臓物らしきものを引っ張り出そうと手を伸ばしたところで、ふと視線を感じて彼は振り返った。リビングの出入り口の前にカナデが立っていた。薄笑いを浮かべた胡散臭いその表情は、アオイではなくカナデであった。ユウコは死んでいる。もう演技をする必要はなかった。彼に至っては、殺す前から既にミコトのようなものだった。
「今回もえげつないですね。でも俺、ミコトさんが残酷に人を殺してるの見るの、結構好きかもしれません」
「悪趣味ですね」
「それはお互い様ですよ」
 仮にも付き合っていたユウコが惨殺されても平然としているカナデは、全くユウコに思い入れなどないようである。ただ本当に、金を奪うためだけに近づいたのだ。金さえ手に入れば、相手がどうなろうと何とも思わない。カナデはそういう人間だ。犯罪行為が異なるだけで、彼と大して変わらない。だからこそ、行動を共にできているのだろうと彼は思う。
 カナデから顔を逸らした彼は、ユウコの腹から飛び出しているものに触れた。ぶよぶよしている。意外と悪くない触り心地だった。
「それ、内臓ですか?」
 先程よりも近くで声が聞こえた。あまり首を動かさずに視線を巡らせると、こちらに寄ってきたカナデが隣でしゃがむところだった。彼の持っている、小腸か大腸か定かではないグロテスクな臓物を見つめている。
「内臓です」
 彼は短く答え、触れているそれを引っ張り出してみた。糸を垂らすように腕を高く上げても途切れることはなかった。
「太さ的に小腸でしょうか。人の腸は何メートルもあるとどこかで聞いたことがあります」
「そうですね。俺もどこかで聞いたことがあるような気がします」
 腸はとても長い。これほど長いものが狭い腹に収まっているのかと、人体について一つ学んだ記憶が漠然と頭に残っていた。ユウコの腸を見る限り、確かに長そうである。全てを引っ張り出して検証してみても良かったが、何度も包丁を突き刺したことでそれなりに満足していたこともあり、面白そうな案が脳裏にちらついてもすぐに消し去った。
 彼は引き出した内臓をしまおうと腹の中に無理やり押し込んだ。そうして戻そうとしたが、不思議と入りきらない。体積は変わっていないはずなのに、押し込んでも押し込んでも隙間から溢れてしまう。
 暫し悪戦苦闘していたが、粘っても仕方がないと早々に諦めた彼は、片せなかった臓物を軽く丸めてそのままにした。腹の辺りがこんもりと盛り上がっている。彼はなんとはなしに包丁を突き立てた。仕上げの一撃だった。彼は徐に腰を上げた。
「少し腹が減りました。プリン食べませんか」
「ちょうど今、それを言おうとしてたんですよ。やっぱりミコトさんとは気が合いますね。そろそろ付き合いませんか?」
「付き合いませんよ」
 相変わらずのカナデの台詞を受け流し、トイレを出た先にある洗面所に立った。水を出し、血液を吸った手袋を外して手を洗う。目の前の鏡を見ると、顔にも返り血が飛んでいることに気づいた。よく洗い落としてから、指紋をつけないように水を止めた。
 改めて手袋を身につけようとしたが、あまりにも汚れすぎている。その手でプリンを食べるのも気が引けた。できるだけ物に触らないように注意しつつ、触らなければ食べられないプリンの容器は持ち帰ってどこかに捨ててしまえばいいか、と暫し思考を巡らせた彼は、汚れた手袋をポケットに押し込んだ。内臓と違って溢れることはなかった。
 トイレの前で血塗れの穴だらけになって死んでいるユウコを一切振り返ることもなくリビングに戻ると、カナデが冷蔵庫からプリンを二つ取り出しているところであった。
「ミコトさんの分です」
 扉を閉めてテーブルの前に移動したカナデが、角を挟んで隣同士にプリンを置きながら言った。蓋の上にはプラスチックの小さなスプーンが乗せられていた。
 カナデはソファーのある側に腰を下ろす。彼はいつものように対面に座ろうかと思ったが、わざわざプリンを移動させるほどその位置に拘っているわけでもないため、大人しくプリンに合わせて腰を落ち着けた。
「お疲れ様でした。ミコトさんのおかげで、せっかく貰った金を毎月返す必要がなくなりました」
 人を殺した彼を労い、カナデはプリンの蓋を開けた。スプーンで中身を掬って口に運ぶ。彼も蓋を開け、一仕事終えた後の褒美のように甘いスイーツを食した。リビングの外や彼の服は血生臭いままだが、それでも、久しぶりのプリンは確かに美味かった。
 二人は暫し無言で食べ続け、カナデが最初に容器を空にした。遅れて彼も食べ終える。テーブルの上に空の容器が二つ置かれた。それを見計らったように、カナデが徐に唇を開いた。
「ミコトさん、次もまた、お願いしていいですか?」
 主語はなかったが、なくても伝わった。次もまた、金蔓を殺してくれないか。カナデはそう言っている。彼が人を殺すことをやめるつもりがないように、カナデもまた、人を騙すことをやめるつもりはないようだ。生粋の極悪人同士であった。
 彼はカナデと視線を絡ませた。お願いしていいかと尋ねておきながら、胡乱げなカナデの表情からは拒否はさせないといった圧を感じた。
 殺せなくなるまで殺していたい彼からすれば、殺す人間を探す手間が一つ省けるのはありがたいことである。その分、カナデが金を騙し取るまで待たなければならないが、冷却期間をしっかり設けることができると考えればメリットとなる。既に返事は決まっている。彼は息を吸った。
「構いません」
「良かったです。ミコトさんと今後も繋がっていられますね。ミコトさん用に買ったカフェオレのスティックも、無事に減ってくれそうです」
「あれから飲んでないんですか」
「ミコトさんのですから飲むわけないですよ。まだ一本しか減ってません」
 彼のために買ったというカフェオレのスティックを、カナデが飲むことは決してないだろう。彼が飲まなければ一生減らないが、少なくなったらなったで補充をしそうであった。カナデの部屋に常備されてしまいそうだと思ったが、思うだけである。カナデが勝手にし始めたことだ。彼は一つも頼んでいない。
「すみません、これからもミコトさんと関係を続けられると思って安心したら、急にトイレに行きたくなってしまいました。ちょっと行ってきます」
 彼に一言断ったカナデが立ち上がる。トイレの前には、ということが頭から完全に抜け落ちているのか、カナデはあまりにも普通すぎていた。
 用を足すために彼の後ろを通ってリビングを出た直後、あ、とそれを見てようやく思い出したようにカナデは声を上げた。
「トイレの前に金蔓の死体があること、すっかり忘れてました」
「やっぱり忘れてましたか」
「ミコトさんの前で恥ずかしいですね」
「全然恥ずかしがっているようには見えませんが」
 あっけらかんと会話を繰り広げる二人の中に、後ろめたさは微塵もなかった。
 人の命を奪っても、人の金を奪っても、良心の呵責に苛まれることのない極悪非道な彼らの夜は、長かった。


END