「待ってましたよ。どうぞ、上がってください」
玄関から顔を出したカナデが、彼の姿を認めるなり扉を全開にした。閉まらないように手で押さえ、通り道を作るようにして壁側に背中を向ける。
殺すつもりで訪れたわけではない彼は、促されるがままカナデのテリトリーに足を踏み入れた。靴を脱いで上がるその後ろでカナデが静かに扉を閉め、しっかりと鍵をかけた。
「何か飲みますか?」
「そうですね。いただきます」
部屋へと向かう短い道すがらで投げかけられ、彼は僅かにカナデを振り返って答えた。カナデは胡乱げに笑っていた。
「ミコトさんが遠慮しないのは珍しいですね」
「手を組んで共謀している時点で、遠慮するような関係ではなくなっていると思いますが」
「それは光栄です。心を開いてくれているとポジティブに受け取りますね」
カナデの解釈には何も反応を示すことなく部屋へと上がり、机の前に腰を下ろした。
台所に立って飲み物を用意してくれているカナデが出す音を除けば、室内は無音の状態であった。一度つければずっと音声が流れるテレビがついていないせいだ。彼が来たためにわざわざ消したのか、元々つけていなかったのか。画面は黒いままである。
「お待たせしました」
カップを二つ手にしたカナデが、一つを彼の前に、一つを彼の対面に置いた。カナデはその前に座り、早速飲み物を啜る。
彼は礼を言い、カップを引き寄せた。そこでふと気づく。中に入っている液体は、想像よりも色が薄かった。コーヒーの芳しい香りもしない。
彼はカナデを見遣った。カナデは途中から彼の様子を凝視していたのか、彼が口を開く前に先回りして言った。
「ミコトさんが好んでいるカフェオレです。まだまだ暑いのでアイスにしましたよ」
彼は返事の代わりに飲み物を口に含んだ。馴染みのある味がした。確かにカフェオレである。机上に置かれたカナデのカップの中を一瞥すると、中身は彼のものよりも濃い色をしていた。コーヒーの色合いだ。気分でカフェオレにしたわけではないことが窺えた。
「別で淹れてくれたんですか」
「ミコトさん用にカフェオレのスティックを箱で買っておいたんです。今日ようやく、最初の一本が空になりました」
カナデは平然と言ってのける。頻繁に会うわけでもない遠方にいる彼のために、もっと言えば、利害の一致で手を組んでいるだけの彼のために、自分が飲むわけでもないカフェオレのスティックを箱でストックしておくなど、少々変わっている男である。しかしながら、カフェオレを好む彼に損はないため、変に突っ込むことはしなかった。カナデが変わっていようとも、カフェオレの味に変わりはない。
「俺用に買うなんて気持ち悪いと思いましたか?」
カナデが彼の心境を代弁するかのように口にした。表情が胡散臭い。どう思われたか、不安を感じているわけではないようだ。
「気持ち悪いとは思いませんでしたが、変わっているとは思いました」
彼は誤魔化すことなく思ったままを伝えた。嘘を吐いたとてあっさりと見破られてしまうだろう。そんなことないです、などと気を遣う間柄ではなかった。
カナデは緩く微笑ったまま、正直に答えた彼を見つめ、やおら瞬きをして口を開いた。
「変わっている方法で尽くす男は嫌いですか?」
「いきなりで真意が読めませんが、嫌いと言えばどうなりますか」
「ショックでベランダから飛び降りて死ぬかもしれません」
「そうですか。ここは二階ですから、そう簡単には死ねないと思いますよ」
暫し目を合わせた。訳の分からない不穏な会話であった。ジョークであることは間違いないだろうが、カナデであれば本気で飛び降りそうである。死ぬのなら殺させてほしいと内心で思っていても、彼も焦って止めるようなことはしないだろう。
彼はカフェオレで唇を湿らせた。訳の分からない不穏な会話に付き合うことにした。
「逆に、好きと言えばどうなりますか」
「俺も好きと言います。付き合いませんか?」
「興味ないですし、それなら嫌いを選びます」
「酷い振り方しますね。死んでいいですか?」
「死ぬのに許可は必要ないですよ」
仄暗い冗談であり、面白くもない漫才であった。誰にもウケない。笑い上戸の人にも通用しない。陳腐な言葉の投げ合いだ。
カフェオレを啜った。カナデの様子を窺う。まだ本題に入るような気配はない。こちらから切り出した方がいいだろうか。
カナデが騙している金蔓について、顔を合わせて話をするために来ていた。言うなれば、簡単な作戦会議である。メッセージのやりとりでも可能ではあったが、互いの顔を見て話をした方が意思疎通はしやすいと踏み、予定を照らし合わせて会うことになったのだ。一人で行動しているわけではない。この件に関しては二人で協力している。些細なことでも齟齬が生じるとスムーズに実行できなくなる恐れがあった。それを予め防ぐための手段である。
カップをテーブルの上に置いた。ふと視線を感じて目を上げると、カナデに食い入るように見つめられていた。その口角は、やはり怪しげに持ち上がっていた。
そろそろ話し始めそうな予感がし、彼は目を逸らすことなく見つめ返した。視線を絡ませ続けても、彼もカナデも照れることはない。引き結ばれていたカナデの唇が開く。
「ミコトさんは、俺が死んだとしても悲しむようなことはなさそうですね」
彼の予想は見事に外れた。カナデから発せられた台詞は、まだ続いていた雑談であった。もう少し付き合う必要がありそうだ。彼は仕方なく会話を続けた。
「悲しまないのはカナデさんもじゃないですか」
「俺はめちゃくちゃ悲しみますよ。出会った時からずっとミコトさんに惚れてますので。惚れている相手が死んだら、俺もついていってしまうかもしれません。それくらい俺にはミコトさんが必要です。ミコトさん一筋なんですよ」
「すっかり口が温まってますね。カナデさんが飲んでいるのはホットコーヒーですか」
「とんでもないです。ミコトさんと同じアイスですよ。飲んでみますか?」
コーヒーの入ったカップを差し出された。彼は丁重に断り、カフェオレに口をつけた。
カナデは恐らく、嘘は言っていない。彼が死んだら悲しむことも、後追いすることも、事あるごとに口にする惚れたなんだの話も、冗談に聞こえるが内心は本気なのではないか。彼に詐欺を働く理由はないはずだ。
これでもし騙していたら、宣言通り殺せばいいだけである。甘言を弄する舌を引っこ抜いてぶっ殺せばいいだけである。引っこ抜いた舌は細切れにして口に流し込んでやればいいだけである。自分の血に溺れる姿を眺めた後に止めを刺してやればいいだけである。できれば、分厚い善人の皮を被らなくて済む貴重な人間にそのようなことはしたくないが、カナデが裏切った場合はやむを得ない。何が何でも殺すしかない。
カナデと違って、彼はカナデが死んだとて心が痛むことはなかった。悲しみに泣く自分の姿を想像できないのだった。感情はもう随分と前から壊れている。人を殺めることはやめられない。人の死に敏感な人間であれば、まず息をするように人を殺すことはしない。
「ミコトさん、来週の土曜日は休みですか?」
コーヒーを飲み、やけにゆっくりとカップを置いたカナデが、話題を切り替えるように口火を切った。途端に空気が変わった。カナデの口調に大きな変化はなかったが、場を取り巻いていた空気は確実に変わった。元々穏やかではなかったものが、更に穏やかではなくなった。カナデはぬるりと本題に入ったのだ。
彼はシフトを頭に思い浮かべた。休日は特に固定されていないが、回数として多いのは水曜日と土曜日であった。入院中の後輩のカバーのため、ところどころ変更はあったものの、来週の土曜日はオフのままだった。
「休みですね」
「良かったです。ミコトさんをお待たせしていますし、俺もあまりだらだら引き延ばしたくはないので、その日にしませんか?」
「いいですよ」
秒で決行日が確定する。雑談よりも遥かに短かったが、大事なのはここからである。どのようにして手を加えるのか。息の根を止めるのは彼の役目だとしても、ある程度の計画は熟考しておくべきだろう。行き当たりばったりで失敗したら洒落にならない。
以前のドライブの時、本来は予定になかったにも拘らず、カナデに煽られるがまま向かった先の心霊スポットで、偶然そこにいた四人を無事に殺せたのは、ただどちらかの運が良かっただけだと彼は思っていた。非常に快いひとときだったが、そう何度も上手くいくものでもあるまい。油断していると足を掬われる。殺しに行くのには慣れていても、彼は慎重に事を進めることを忘れなかった。慢心は、自分の首を絞める行為である。後輩を刺した男のように、感情的になることも、首を絞める行為である。殺すのなら冷静に殺した方がいいですよ、と逮捕された男に伝えたかったが、わざわざ口にする必要のない余計な一言であり、そのような発言をすることもまた、首を絞める行為であった。
「流れは決めていますか」
彼はカナデの顔を見て尋ねた。思い描いていることがあるのだろう、カナデは考える素振りも見せずに薄笑いを浮かべた。怪しげな顔であり悪い顔である。
「金蔓に連絡はせずに、ミコトさんと一緒に金蔓の家に行きます。突然来ても金蔓の性格上、追い返すことはないと思うので、家に上がり込むことはできるはずです。その後は、ミコトさんのタイミングで殺してください」
「俺と金蔓は面識がありませんよ。カナデさんは安全に家に上がることができても、金蔓にとっては知らない男でもある俺は怪しまれませんか」
「それは問題ないです。ミコトさんのことは、俺の唯一の親友として金蔓に話してありますから。前に話してた大事な親友だって言えば、ぎこちなくはなっても家には上げてくれると思います」
知らないところで勝手に親友にされているが、彼はいちいち突っ込みはしなかった。金蔓がカナデと一緒にいる見知らぬ彼と接触しても変に警戒しないように、予め手を打っていたのかもしれない。前もって親友のことを話しておけば、いざという時にこの人は親友だと紹介できる。カナデもいろいろと考えているようだが、それならそうと言ってほしかったものである。
「そうですか。家に上がることさえできれば何でもいいです。必ず殺りますので」
「俺も心霊スポットで殺した時みたいに協力します。何でも言ってください。ミコトさんは俺のかけがえのない親友ですから」
カフェオレとコーヒーを各々飲み、一旦話に区切りをつけた。来週の土曜日、カナデと共に金蔓を殺しに行く。カナデと出会ったその日に掲げた目的をようやく達成できそうで、今から当日が待ち遠しかった。彼は殺しの予定ができたことに胸がじわじわと熱くなり、溢れ出しそうになる欲望を冷たいカフェオレで飲み下した。
「俺とミコトさんは親友ってことなので、食い違いが起きないように、金蔓の前での俺の人物設定を今からざっとお伝えしますね」
カップから唇を離したカナデが再び喋り始める。どのような人物として金蔓と付き合っているのか、どこかのタイミングで彼に話す予定だったに違いない。彼は先を促すように頷いた。
「まず俺は、カナデではなく、アオイとして金蔓と関係を持っています。名前を呼ぶ時は気をつけてください。俺も気をつけますので」
「その言い方から察するに、俺もミコトじゃなくなってますか」
「なくなってますね。ミコトさんの名前はイツキにしておきました。アオイとイツキです。金蔓の前では呼び捨てで、敬語はなしでお願いします。親友ですからね」
アオイ、イツキ。彼は口の中で呟いた。アオイ、イツキ。新しい名前である。ミコトに続いて二つ目の名前を貰ってしまった。
カナデさんと呼んでいる普段の癖が出ないようにしなければならない。アオイと呼び捨てで呼ばなければならない。敬語もやめなければならない。自分はアオイの親友であるイツキを演じなければならない。
カナデが演じるアオイのことを聞いてから、アオイの親友のイツキのことを聞こうと、彼は頭の片隅に確認事項をメモした。本来の性格とは掛け離れた設定にはされていないことを密かに願った。
「アオイは、死んだ父親が残した多額の借金を背負っています。借金返済に苦労しながらも、実直に生きている優しい青年です。付き合い始めた年上の恋人と結婚の話になったのを機に、今まで隠していた借金のことを正直に打ち明けました。だから、結婚したくてもできないと断ります。借金を抱えている男など失望されるだろう、とアオイは自ら別れを切り出しますが、恋人が、自分が立て替えるからとアオイを引き止めました。引き止めてくれました。そのおかげで無事に、アオイは借金を全額返済できたのです。恋人には何度も感謝し、毎月少しずつでも返すことを約束して、今も結婚を前提に付き合っています」
本当にざっと一息に説明したカナデが、コーヒーを挟んだ。まるで他人事のような口振りからも、騙し続けていることに罪悪感はないことが窺える。彼が殺人をしても平然としていることと同じ心理だろうか。
カナデは恋愛詐欺師である。詐欺の手口としては王道のように思えた。金蔓が大枚を叩いてくれたのは、アオイとのことは本気で、アオイを完全に信じ切っているからだろう。信用できない人間に大金を渡すとは思えない。今も付き合っているということからも、アオイの正体が詐欺師であることには気づいていないのかもしれない。恋愛感情を利用して詐欺を働くカナデの技量が卓越しているのか、金蔓が他人に利用されやすいタイプなのか。カナデの話だけで判断するのは難しいものの、それでもカナデが人を欺瞞することに長けていることは間違いないようだ。
「次はアオイの親友のイツキについて簡単に説明しますね」
ひっそりとメモしたことをカナデに尋ねる必要もなく、カナデは彼が確認したかった次のステップへ進んだ。知らぬ間に与えられていた自分の役の解説が始まろうとしている。長々と話されるのは好きではないが、結託しているカナデとの会話には聞く耳を持たなければならないだろう。
彼はカフェオレで口内を湿らせ、アオイの親友のイツキの情報を得ようと耳を傾けた。全ては最終目標である金蔓の殺害を成功させるためだった。
「イツキは、ミコトさんに演じてもらう可能性があることを考慮していましたので、演技をする負担ができるだけかからないようミコトさんと似たような性格にしておきました。クールで寡黙な性格の持ち主です。アオイの借金のことも知っています。親身になって相談に乗ってくれました。見かけによらず優しい人ですが、例えどんな事情があっても人に金を貸したり借りたりということには前向きではないので、アオイとイツキの間に金の貸し借りはありません。恋人のおかげで返済できたことをイツキには伝えていますので、知らないふりをする必要はないです。ざっとこんな感じでイメージ湧きますか?」
淡々と言い終えたカナデが視線を絡ませてきた。彼は一旦情報を整理しようと思考を巡らせた。
できないと思うような無理難題は押し付けられていない。クールで寡黙なイツキはアオイの親友で、アオイの恋人とは面識はなくとも存在は知っている。アオイの借金のことも、その借金を恋人が立て替えてくれたことも知っている。知っていながら、相手が親友であっても決して金の貸借はしない、線引きがはっきりしている人でもあるようだ。
イツキという人物は、カナデが言ったように彼がモデルである。しかしながら全く同じではなく、そこから少し、親友の相談に乗るといったような優しさが追加されていた。
優しくなるのは難しそうだが、最終局面に入ってしまった今となっては、カナデの思い描く理想に合わせて優しくなるしか選択肢はない。当日までにどこかで優しさを手に入れたいものだと彼は一瞬でも本気で思った。すぐに打ち消した。
「なんとなくのイメージは湧きました」
「ではそのイメージでお願いします。ミコトさんの嫌いな長話をだらだらとしてしまいましたが、とりあえずミコトさんにしてほしいのは、アオイ呼びとタメ口です。それさえ意識してくだされば、敷居を跨ぐことは可能かと思います」
呼び捨て、タメ口。これは最も避けられないことである。殺すまで全く喋らないわけにはいかないだろう。
年齢性別殺しの相手関係なく敬語を使用し、いつしかそうすることが癖になっている彼からすると、誰かとタメ口で話すことはかなり意識しなければならなかった。誰にも見えない胸の内で、品性の欠片もない暴言を吐くのとは訳が違うのだ。
敬語をなくさなければならない。なくさなければならない。しなければならない。そう意識すればするほど、逆に不自然になってしまうかもしれない。不自然にならないように、やはり意識しなければならない。結局、何をするにしても、意識しなければならない。アオイ、俺ちょっと無理かも。クールで寡黙なイツキはそんなこと言わないだろうか。分かんねぇ。多分、これも違うような気がする。絶対違うだろ。
ふと穴ぼこだらけのパズルが一気に埋まったような心地がした。彼は一息つくなりカフェオレを飲んだ。すっかり温くなっていたが、それでも美味いと感じた。全て飲み干した。アオイは恋人と上手くいってんだな。多分、これは違わない。
「ミーティングもこの辺にして、ちょっと一杯飲みませんか?」
彼がカップを空にしたのを見計らったように、カナデが手で飲む仕草をした。カップの持ち方ではない。コーヒーやカフェオレではなく、酒を飲もうと誘われている。カナデもコーヒーを飲み干していた。
「飲むといっても、俺は車で来てますから飲めませんよ」
「うちに泊まれば無問題です。明日は仕事、何時からですか?」
「夜からなので、それまでゆっくりはできますが」
「ゆっくりできるのなら決まりですね。酎ハイですが持ってきます」
有無を言わせない食い気味の口調で言い、空になった二つのカップを回収したカナデが台所へと向かった。
カップを流しで手際よく洗ってから冷蔵庫を開け、二本の缶を取り出す。それから、ついでとばかりにつまみまで手にして戻ってくる。つまみはあたりめであった。
カナデに缶のパッケージを見せられた。どちらの味がいいか尋ねられ、パッと目が合ったものを選んだ。キウイだった。もう一つはぶどう。
「キウイ好きなんですか?」
「目が合ったので」
「俺も目が合うだけでミコトさんのものになれるような人生を歩みたかったです」
「コーヒーにアルコールでも含まれてましたか」
「こう見えてめちゃくちゃ素面ですよ」
言いながら、カナデが缶の蓋を開けた。軽快な音がした。しかしまだ口をつけることはしなかった。
彼はキウイの酎ハイに目を遣る。適当であったとしても自分の意思で受け取ってしまった以上、今更飲まないと断るのもおかしな話だ。金蔓の件に関して確認するべきことをしたらすぐに帰宅する予定だったが、この調子では無理そうだ。どうもカナデといると予定が変わってしまうことがある。予定通りにしようと思えばできるものの、そこまでして貫くほど重要なことではなかった。彼は手元でカナデと同じ軽快な音を響かせた。
「ミコトさん、飲む前に乾杯しませんか?」
「何の乾杯ですか」
「金蔓殺害の成功を祈願しての乾杯です」
「誰もしたことのないような乾杯ですね」
「俺とミコトさんだけの秘密ですよ。乾杯」
カナデがぶどうのパッケージの缶を掲げた。彼も乾杯と唇を動かし、カナデに倣った。缶同士を軽く触れ合わせてから酎ハイを口にしようとした直前で、彼ははたとあることに気づいた。二人の共通認識であるためか、彼もカナデも金蔓のことを当たり前のように金蔓金蔓と呼んでしまっているが、それなりに重要な金蔓の本当の名前を教えてもらっていない。彼は一足先にぶどうの酎ハイを飲んでいるカナデに尋ねた。
「カナデさん、金蔓の名前を教えてもらってもいいですか」
「ああ、俺まだ言ってなかったですね。すみません。金蔓の名前はユウコです」
彼は礼を言い、アオイやイツキと同様に、ユウコ、と口の中で呟いた。ユウコ。ユウコ。彼はユウコを殺しに行く。いくつもの穴ぼこを開けて殺す。ユウコの人生はもうすぐ終わる。
持ってきたあたりめを開封して早速つまみ始めているカナデを前に、彼は想像で作ったユウコの身体に無数の穴を開ける妄想をしながら酎ハイを喉に通した。今日はもう帰れなかった。
玄関から顔を出したカナデが、彼の姿を認めるなり扉を全開にした。閉まらないように手で押さえ、通り道を作るようにして壁側に背中を向ける。
殺すつもりで訪れたわけではない彼は、促されるがままカナデのテリトリーに足を踏み入れた。靴を脱いで上がるその後ろでカナデが静かに扉を閉め、しっかりと鍵をかけた。
「何か飲みますか?」
「そうですね。いただきます」
部屋へと向かう短い道すがらで投げかけられ、彼は僅かにカナデを振り返って答えた。カナデは胡乱げに笑っていた。
「ミコトさんが遠慮しないのは珍しいですね」
「手を組んで共謀している時点で、遠慮するような関係ではなくなっていると思いますが」
「それは光栄です。心を開いてくれているとポジティブに受け取りますね」
カナデの解釈には何も反応を示すことなく部屋へと上がり、机の前に腰を下ろした。
台所に立って飲み物を用意してくれているカナデが出す音を除けば、室内は無音の状態であった。一度つければずっと音声が流れるテレビがついていないせいだ。彼が来たためにわざわざ消したのか、元々つけていなかったのか。画面は黒いままである。
「お待たせしました」
カップを二つ手にしたカナデが、一つを彼の前に、一つを彼の対面に置いた。カナデはその前に座り、早速飲み物を啜る。
彼は礼を言い、カップを引き寄せた。そこでふと気づく。中に入っている液体は、想像よりも色が薄かった。コーヒーの芳しい香りもしない。
彼はカナデを見遣った。カナデは途中から彼の様子を凝視していたのか、彼が口を開く前に先回りして言った。
「ミコトさんが好んでいるカフェオレです。まだまだ暑いのでアイスにしましたよ」
彼は返事の代わりに飲み物を口に含んだ。馴染みのある味がした。確かにカフェオレである。机上に置かれたカナデのカップの中を一瞥すると、中身は彼のものよりも濃い色をしていた。コーヒーの色合いだ。気分でカフェオレにしたわけではないことが窺えた。
「別で淹れてくれたんですか」
「ミコトさん用にカフェオレのスティックを箱で買っておいたんです。今日ようやく、最初の一本が空になりました」
カナデは平然と言ってのける。頻繁に会うわけでもない遠方にいる彼のために、もっと言えば、利害の一致で手を組んでいるだけの彼のために、自分が飲むわけでもないカフェオレのスティックを箱でストックしておくなど、少々変わっている男である。しかしながら、カフェオレを好む彼に損はないため、変に突っ込むことはしなかった。カナデが変わっていようとも、カフェオレの味に変わりはない。
「俺用に買うなんて気持ち悪いと思いましたか?」
カナデが彼の心境を代弁するかのように口にした。表情が胡散臭い。どう思われたか、不安を感じているわけではないようだ。
「気持ち悪いとは思いませんでしたが、変わっているとは思いました」
彼は誤魔化すことなく思ったままを伝えた。嘘を吐いたとてあっさりと見破られてしまうだろう。そんなことないです、などと気を遣う間柄ではなかった。
カナデは緩く微笑ったまま、正直に答えた彼を見つめ、やおら瞬きをして口を開いた。
「変わっている方法で尽くす男は嫌いですか?」
「いきなりで真意が読めませんが、嫌いと言えばどうなりますか」
「ショックでベランダから飛び降りて死ぬかもしれません」
「そうですか。ここは二階ですから、そう簡単には死ねないと思いますよ」
暫し目を合わせた。訳の分からない不穏な会話であった。ジョークであることは間違いないだろうが、カナデであれば本気で飛び降りそうである。死ぬのなら殺させてほしいと内心で思っていても、彼も焦って止めるようなことはしないだろう。
彼はカフェオレで唇を湿らせた。訳の分からない不穏な会話に付き合うことにした。
「逆に、好きと言えばどうなりますか」
「俺も好きと言います。付き合いませんか?」
「興味ないですし、それなら嫌いを選びます」
「酷い振り方しますね。死んでいいですか?」
「死ぬのに許可は必要ないですよ」
仄暗い冗談であり、面白くもない漫才であった。誰にもウケない。笑い上戸の人にも通用しない。陳腐な言葉の投げ合いだ。
カフェオレを啜った。カナデの様子を窺う。まだ本題に入るような気配はない。こちらから切り出した方がいいだろうか。
カナデが騙している金蔓について、顔を合わせて話をするために来ていた。言うなれば、簡単な作戦会議である。メッセージのやりとりでも可能ではあったが、互いの顔を見て話をした方が意思疎通はしやすいと踏み、予定を照らし合わせて会うことになったのだ。一人で行動しているわけではない。この件に関しては二人で協力している。些細なことでも齟齬が生じるとスムーズに実行できなくなる恐れがあった。それを予め防ぐための手段である。
カップをテーブルの上に置いた。ふと視線を感じて目を上げると、カナデに食い入るように見つめられていた。その口角は、やはり怪しげに持ち上がっていた。
そろそろ話し始めそうな予感がし、彼は目を逸らすことなく見つめ返した。視線を絡ませ続けても、彼もカナデも照れることはない。引き結ばれていたカナデの唇が開く。
「ミコトさんは、俺が死んだとしても悲しむようなことはなさそうですね」
彼の予想は見事に外れた。カナデから発せられた台詞は、まだ続いていた雑談であった。もう少し付き合う必要がありそうだ。彼は仕方なく会話を続けた。
「悲しまないのはカナデさんもじゃないですか」
「俺はめちゃくちゃ悲しみますよ。出会った時からずっとミコトさんに惚れてますので。惚れている相手が死んだら、俺もついていってしまうかもしれません。それくらい俺にはミコトさんが必要です。ミコトさん一筋なんですよ」
「すっかり口が温まってますね。カナデさんが飲んでいるのはホットコーヒーですか」
「とんでもないです。ミコトさんと同じアイスですよ。飲んでみますか?」
コーヒーの入ったカップを差し出された。彼は丁重に断り、カフェオレに口をつけた。
カナデは恐らく、嘘は言っていない。彼が死んだら悲しむことも、後追いすることも、事あるごとに口にする惚れたなんだの話も、冗談に聞こえるが内心は本気なのではないか。彼に詐欺を働く理由はないはずだ。
これでもし騙していたら、宣言通り殺せばいいだけである。甘言を弄する舌を引っこ抜いてぶっ殺せばいいだけである。引っこ抜いた舌は細切れにして口に流し込んでやればいいだけである。自分の血に溺れる姿を眺めた後に止めを刺してやればいいだけである。できれば、分厚い善人の皮を被らなくて済む貴重な人間にそのようなことはしたくないが、カナデが裏切った場合はやむを得ない。何が何でも殺すしかない。
カナデと違って、彼はカナデが死んだとて心が痛むことはなかった。悲しみに泣く自分の姿を想像できないのだった。感情はもう随分と前から壊れている。人を殺めることはやめられない。人の死に敏感な人間であれば、まず息をするように人を殺すことはしない。
「ミコトさん、来週の土曜日は休みですか?」
コーヒーを飲み、やけにゆっくりとカップを置いたカナデが、話題を切り替えるように口火を切った。途端に空気が変わった。カナデの口調に大きな変化はなかったが、場を取り巻いていた空気は確実に変わった。元々穏やかではなかったものが、更に穏やかではなくなった。カナデはぬるりと本題に入ったのだ。
彼はシフトを頭に思い浮かべた。休日は特に固定されていないが、回数として多いのは水曜日と土曜日であった。入院中の後輩のカバーのため、ところどころ変更はあったものの、来週の土曜日はオフのままだった。
「休みですね」
「良かったです。ミコトさんをお待たせしていますし、俺もあまりだらだら引き延ばしたくはないので、その日にしませんか?」
「いいですよ」
秒で決行日が確定する。雑談よりも遥かに短かったが、大事なのはここからである。どのようにして手を加えるのか。息の根を止めるのは彼の役目だとしても、ある程度の計画は熟考しておくべきだろう。行き当たりばったりで失敗したら洒落にならない。
以前のドライブの時、本来は予定になかったにも拘らず、カナデに煽られるがまま向かった先の心霊スポットで、偶然そこにいた四人を無事に殺せたのは、ただどちらかの運が良かっただけだと彼は思っていた。非常に快いひとときだったが、そう何度も上手くいくものでもあるまい。油断していると足を掬われる。殺しに行くのには慣れていても、彼は慎重に事を進めることを忘れなかった。慢心は、自分の首を絞める行為である。後輩を刺した男のように、感情的になることも、首を絞める行為である。殺すのなら冷静に殺した方がいいですよ、と逮捕された男に伝えたかったが、わざわざ口にする必要のない余計な一言であり、そのような発言をすることもまた、首を絞める行為であった。
「流れは決めていますか」
彼はカナデの顔を見て尋ねた。思い描いていることがあるのだろう、カナデは考える素振りも見せずに薄笑いを浮かべた。怪しげな顔であり悪い顔である。
「金蔓に連絡はせずに、ミコトさんと一緒に金蔓の家に行きます。突然来ても金蔓の性格上、追い返すことはないと思うので、家に上がり込むことはできるはずです。その後は、ミコトさんのタイミングで殺してください」
「俺と金蔓は面識がありませんよ。カナデさんは安全に家に上がることができても、金蔓にとっては知らない男でもある俺は怪しまれませんか」
「それは問題ないです。ミコトさんのことは、俺の唯一の親友として金蔓に話してありますから。前に話してた大事な親友だって言えば、ぎこちなくはなっても家には上げてくれると思います」
知らないところで勝手に親友にされているが、彼はいちいち突っ込みはしなかった。金蔓がカナデと一緒にいる見知らぬ彼と接触しても変に警戒しないように、予め手を打っていたのかもしれない。前もって親友のことを話しておけば、いざという時にこの人は親友だと紹介できる。カナデもいろいろと考えているようだが、それならそうと言ってほしかったものである。
「そうですか。家に上がることさえできれば何でもいいです。必ず殺りますので」
「俺も心霊スポットで殺した時みたいに協力します。何でも言ってください。ミコトさんは俺のかけがえのない親友ですから」
カフェオレとコーヒーを各々飲み、一旦話に区切りをつけた。来週の土曜日、カナデと共に金蔓を殺しに行く。カナデと出会ったその日に掲げた目的をようやく達成できそうで、今から当日が待ち遠しかった。彼は殺しの予定ができたことに胸がじわじわと熱くなり、溢れ出しそうになる欲望を冷たいカフェオレで飲み下した。
「俺とミコトさんは親友ってことなので、食い違いが起きないように、金蔓の前での俺の人物設定を今からざっとお伝えしますね」
カップから唇を離したカナデが再び喋り始める。どのような人物として金蔓と付き合っているのか、どこかのタイミングで彼に話す予定だったに違いない。彼は先を促すように頷いた。
「まず俺は、カナデではなく、アオイとして金蔓と関係を持っています。名前を呼ぶ時は気をつけてください。俺も気をつけますので」
「その言い方から察するに、俺もミコトじゃなくなってますか」
「なくなってますね。ミコトさんの名前はイツキにしておきました。アオイとイツキです。金蔓の前では呼び捨てで、敬語はなしでお願いします。親友ですからね」
アオイ、イツキ。彼は口の中で呟いた。アオイ、イツキ。新しい名前である。ミコトに続いて二つ目の名前を貰ってしまった。
カナデさんと呼んでいる普段の癖が出ないようにしなければならない。アオイと呼び捨てで呼ばなければならない。敬語もやめなければならない。自分はアオイの親友であるイツキを演じなければならない。
カナデが演じるアオイのことを聞いてから、アオイの親友のイツキのことを聞こうと、彼は頭の片隅に確認事項をメモした。本来の性格とは掛け離れた設定にはされていないことを密かに願った。
「アオイは、死んだ父親が残した多額の借金を背負っています。借金返済に苦労しながらも、実直に生きている優しい青年です。付き合い始めた年上の恋人と結婚の話になったのを機に、今まで隠していた借金のことを正直に打ち明けました。だから、結婚したくてもできないと断ります。借金を抱えている男など失望されるだろう、とアオイは自ら別れを切り出しますが、恋人が、自分が立て替えるからとアオイを引き止めました。引き止めてくれました。そのおかげで無事に、アオイは借金を全額返済できたのです。恋人には何度も感謝し、毎月少しずつでも返すことを約束して、今も結婚を前提に付き合っています」
本当にざっと一息に説明したカナデが、コーヒーを挟んだ。まるで他人事のような口振りからも、騙し続けていることに罪悪感はないことが窺える。彼が殺人をしても平然としていることと同じ心理だろうか。
カナデは恋愛詐欺師である。詐欺の手口としては王道のように思えた。金蔓が大枚を叩いてくれたのは、アオイとのことは本気で、アオイを完全に信じ切っているからだろう。信用できない人間に大金を渡すとは思えない。今も付き合っているということからも、アオイの正体が詐欺師であることには気づいていないのかもしれない。恋愛感情を利用して詐欺を働くカナデの技量が卓越しているのか、金蔓が他人に利用されやすいタイプなのか。カナデの話だけで判断するのは難しいものの、それでもカナデが人を欺瞞することに長けていることは間違いないようだ。
「次はアオイの親友のイツキについて簡単に説明しますね」
ひっそりとメモしたことをカナデに尋ねる必要もなく、カナデは彼が確認したかった次のステップへ進んだ。知らぬ間に与えられていた自分の役の解説が始まろうとしている。長々と話されるのは好きではないが、結託しているカナデとの会話には聞く耳を持たなければならないだろう。
彼はカフェオレで口内を湿らせ、アオイの親友のイツキの情報を得ようと耳を傾けた。全ては最終目標である金蔓の殺害を成功させるためだった。
「イツキは、ミコトさんに演じてもらう可能性があることを考慮していましたので、演技をする負担ができるだけかからないようミコトさんと似たような性格にしておきました。クールで寡黙な性格の持ち主です。アオイの借金のことも知っています。親身になって相談に乗ってくれました。見かけによらず優しい人ですが、例えどんな事情があっても人に金を貸したり借りたりということには前向きではないので、アオイとイツキの間に金の貸し借りはありません。恋人のおかげで返済できたことをイツキには伝えていますので、知らないふりをする必要はないです。ざっとこんな感じでイメージ湧きますか?」
淡々と言い終えたカナデが視線を絡ませてきた。彼は一旦情報を整理しようと思考を巡らせた。
できないと思うような無理難題は押し付けられていない。クールで寡黙なイツキはアオイの親友で、アオイの恋人とは面識はなくとも存在は知っている。アオイの借金のことも、その借金を恋人が立て替えてくれたことも知っている。知っていながら、相手が親友であっても決して金の貸借はしない、線引きがはっきりしている人でもあるようだ。
イツキという人物は、カナデが言ったように彼がモデルである。しかしながら全く同じではなく、そこから少し、親友の相談に乗るといったような優しさが追加されていた。
優しくなるのは難しそうだが、最終局面に入ってしまった今となっては、カナデの思い描く理想に合わせて優しくなるしか選択肢はない。当日までにどこかで優しさを手に入れたいものだと彼は一瞬でも本気で思った。すぐに打ち消した。
「なんとなくのイメージは湧きました」
「ではそのイメージでお願いします。ミコトさんの嫌いな長話をだらだらとしてしまいましたが、とりあえずミコトさんにしてほしいのは、アオイ呼びとタメ口です。それさえ意識してくだされば、敷居を跨ぐことは可能かと思います」
呼び捨て、タメ口。これは最も避けられないことである。殺すまで全く喋らないわけにはいかないだろう。
年齢性別殺しの相手関係なく敬語を使用し、いつしかそうすることが癖になっている彼からすると、誰かとタメ口で話すことはかなり意識しなければならなかった。誰にも見えない胸の内で、品性の欠片もない暴言を吐くのとは訳が違うのだ。
敬語をなくさなければならない。なくさなければならない。しなければならない。そう意識すればするほど、逆に不自然になってしまうかもしれない。不自然にならないように、やはり意識しなければならない。結局、何をするにしても、意識しなければならない。アオイ、俺ちょっと無理かも。クールで寡黙なイツキはそんなこと言わないだろうか。分かんねぇ。多分、これも違うような気がする。絶対違うだろ。
ふと穴ぼこだらけのパズルが一気に埋まったような心地がした。彼は一息つくなりカフェオレを飲んだ。すっかり温くなっていたが、それでも美味いと感じた。全て飲み干した。アオイは恋人と上手くいってんだな。多分、これは違わない。
「ミーティングもこの辺にして、ちょっと一杯飲みませんか?」
彼がカップを空にしたのを見計らったように、カナデが手で飲む仕草をした。カップの持ち方ではない。コーヒーやカフェオレではなく、酒を飲もうと誘われている。カナデもコーヒーを飲み干していた。
「飲むといっても、俺は車で来てますから飲めませんよ」
「うちに泊まれば無問題です。明日は仕事、何時からですか?」
「夜からなので、それまでゆっくりはできますが」
「ゆっくりできるのなら決まりですね。酎ハイですが持ってきます」
有無を言わせない食い気味の口調で言い、空になった二つのカップを回収したカナデが台所へと向かった。
カップを流しで手際よく洗ってから冷蔵庫を開け、二本の缶を取り出す。それから、ついでとばかりにつまみまで手にして戻ってくる。つまみはあたりめであった。
カナデに缶のパッケージを見せられた。どちらの味がいいか尋ねられ、パッと目が合ったものを選んだ。キウイだった。もう一つはぶどう。
「キウイ好きなんですか?」
「目が合ったので」
「俺も目が合うだけでミコトさんのものになれるような人生を歩みたかったです」
「コーヒーにアルコールでも含まれてましたか」
「こう見えてめちゃくちゃ素面ですよ」
言いながら、カナデが缶の蓋を開けた。軽快な音がした。しかしまだ口をつけることはしなかった。
彼はキウイの酎ハイに目を遣る。適当であったとしても自分の意思で受け取ってしまった以上、今更飲まないと断るのもおかしな話だ。金蔓の件に関して確認するべきことをしたらすぐに帰宅する予定だったが、この調子では無理そうだ。どうもカナデといると予定が変わってしまうことがある。予定通りにしようと思えばできるものの、そこまでして貫くほど重要なことではなかった。彼は手元でカナデと同じ軽快な音を響かせた。
「ミコトさん、飲む前に乾杯しませんか?」
「何の乾杯ですか」
「金蔓殺害の成功を祈願しての乾杯です」
「誰もしたことのないような乾杯ですね」
「俺とミコトさんだけの秘密ですよ。乾杯」
カナデがぶどうのパッケージの缶を掲げた。彼も乾杯と唇を動かし、カナデに倣った。缶同士を軽く触れ合わせてから酎ハイを口にしようとした直前で、彼ははたとあることに気づいた。二人の共通認識であるためか、彼もカナデも金蔓のことを当たり前のように金蔓金蔓と呼んでしまっているが、それなりに重要な金蔓の本当の名前を教えてもらっていない。彼は一足先にぶどうの酎ハイを飲んでいるカナデに尋ねた。
「カナデさん、金蔓の名前を教えてもらってもいいですか」
「ああ、俺まだ言ってなかったですね。すみません。金蔓の名前はユウコです」
彼は礼を言い、アオイやイツキと同様に、ユウコ、と口の中で呟いた。ユウコ。ユウコ。彼はユウコを殺しに行く。いくつもの穴ぼこを開けて殺す。ユウコの人生はもうすぐ終わる。
持ってきたあたりめを開封して早速つまみ始めているカナデを前に、彼は想像で作ったユウコの身体に無数の穴を開ける妄想をしながら酎ハイを喉に通した。今日はもう帰れなかった。
