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【ちょうどミコトさんに、近々招待ができそうなことをお伝えしようと思っていたところなんですよ。連絡を取ろうとするタイミングが重なるなんて気が合いますね】
 カナデに進捗具合を尋ね、また時期が来たら言いますね、お願いします、と画面上でのやりとりを締めてから一週間が経っていた。殺しと殺しの間に十分な冷却期間を設けたい彼は、金蔓との間には何も挟めそうにないことをカナデの返信で察知する。下手に動こうとせず、大人しく連絡を待つことに徹した。
 彼はすっかり住み慣れたアパートで、市販のスティックと牛乳で簡単に作れるアイスカフェオレをちまちまと飲んでいた。今日は休日である。本来であればシフトが入っていたが、見知らぬ男に刃物で刺突され、数週間の入院を余儀なくされた後輩の穴埋めをするためにシフトを再調整した結果、休日が変更になったのだ。元の休みの日に予定はなかった。
 責任者として警察や後輩の家族への対応に走り回る店長は、可哀想なくらい疲れ切っていた。当事者である彼も店長任せにはせずに動いたが、それでもフォローはできていないのか店長の疲労は酷いままである。後輩を刺した犯人のせいで、決まっていたシフトも変更せざるを得なくなり、後輩の代わりを担うことを了承してくれた部下には申し訳ないと眉尻を下げて回っていた。店長に落ち度はないにも拘らず、申し訳なさそうな表情は抜けない。彼にも同様の態度であったが、一つ異なることがあるとすれば、事件が起きた時の対処について称賛はされなくとも感謝はされたことだろうか。
 事件を起こした犯人は駆けつけた警察によって現行犯逮捕された。犯人はもぬけの殻のようになっており、抵抗は見せなかった。社会に対する不満をぶつけるように人を刺し、彼に横っ面を引っ叩かれて我に返った後の衝撃は凄まじいものだったようだ。
 暴走した犯人の頬を叩いたことは、今回であれば正しい判断だったと言えるが、所詮は結果論である。一般市民がするべき行動ではない。手を出したことで更に興奮させ、犯人自身も制御できないくらいの暴行に遭っていた恐れもあるのだ。本来は気弱なのだろう犯人の性格に助けられたと言っても過言ではなかった。反撃されていたら、勢い余って殺してしまっていたかもしれない。後輩も、出血多量で死んでしまっていたかもしれない。しかし、そうはならずに済んだ。誰も死なずに済んだ。彼も殺さずに済んだ。結果オーライである。だからこそ、店長は彼に感謝したのだ。
 彼に礼を述べたのは、何も店長だけではなかった。後輩の両親もである。両親はわざわざ深夜のコンビニにまで顔を出し、後輩から聞いていたのだろう彼の姿を発見するなり深々と頭を下げた。先日は刺された息子を助けてくださり本当にありがとうございました。また人の旋毛を目にした。三回目である。警察沙汰になった回数と同じである。
 両親が、担当した医師から聞いた話によると、後輩が一命を取り留めたのは、刃物が抜去されていなかったことが大きな理由だったという。刺さった刃物が大量出血を防ぐ役割になっていたようだ。オペレーターの指示通りに彼が応急処置を施したことも功を奏したようである。
 息子が会いたがっていました。ご都合のよろしい時にでも会ってやってください。帰り際に両親はそう言っていたが、彼は見舞いにはまだ一度も行っていない。ご都合のよろしい時はないことにした。休みであっても、人を殺しに行ったりカナデと会ったりする以外でほとんど外出することのない彼に時間がないわけではなかったが、気分は乗らず腰は重く全く持ち上がらなかった。彼が顔を見せなくても、後輩が本気で文句を言うとは思えない。先輩全然来てくれなかったじゃないっすか。寂しかったっすよマジで。会いたかったんすよマジで。復帰してから被ったシフトでそんなようなことを口走りながら、相変わらずの距離の近さで迫ってくる後輩の姿が容易に想像できた。
 後輩みたいな、尻尾を振って走り回る犬のような人間はもう一人いた。後輩の彼女、金髪ギャルである。金髪ギャルもまた、深夜のコンビニに訪れていた。刺された彼氏から先輩が助けてくれたって聞いたので、お礼を言いに来たんですけど、あ、うわ、なんか、やばい、久しぶりに見た推しがはちゃめちゃにかっこよすぎて目的を忘れそう。眩しい。輝いてる。イケメンすぎる。先輩、いろいろ、マジで、助かります。ありがとうございます。刃物持った男に立ち向かった先輩かっこよすぎ。めちゃくちゃ命の恩人じゃん。彼氏も先輩のこと命の恩人だって感謝してました。私たちの推しはやっぱり最強でしかない。息つく暇もなく一方的に喋り、嵐のように去って行った金髪ギャル。後輩や金髪ギャルの中で、彼は不覚にも恩人にレベルアップしていたようだった。
 後輩の両親や彼女など、人からどんなに感謝されようとも、彼の心は動かない。鼻高々にもならない。彼は至っていつも通りに、まるで刺傷事件など起きていないかのように、淡々と仕事をこなす日々を送っていた。そうしながら、人を刺殺する妄想を繰り広げていた。後輩の代わりにシフトに入った相方の店員も、治安の悪いと言わざるを得ない深夜に来店してきた客も、わざわざ礼を伝えにきた後輩の両親も彼女も、ひとまず全員刺し殺し、欲求をちまちまと満たした。
 ただ流しているだけのテレビを眺めながら、彼はアイスカフェオレに度々口をつける。恋愛ドラマが放送されていた。興味はなかった。何一つ惹きつけられなかった。
 喉が渇く。アイスカフェオレを飲む。頭がクリアになる。体の内側が冷えていく。また一口飲む。伏せた目を上げる。綺麗になった脳内で、映っている芸能人をぶっ殺す。鮮血が噴き出し、舞台が真っ赤に染まる。気分が良くなる。恍惚とした心境で、その他のエキストラも片っ端からぶっ殺す。舞台はあっという間に血に染まる。アイスカフェオレを飲む。殺人は快楽である。唇の内側を舐める。早くカナデの金蔓をぶっ殺したい。
 テレビを見ながら思う存分大量虐殺を続けていると、カサカサと何かが蠢くような耳につく雑音が割り込んだ。壁に気配を感じ、彼は目を向けた。息を潜めるように動きを止めた一匹の大きなクモがいた。
 暫しの間、彼は壁に張りついたまま静止するクモと睨み合った。クモがこちらを見ているかは知らないが、彼は慌てることなく凝視した。芸能人やエキストラを殺害したように、想像上でクモもしっかり退治した。
 室内に現れるクモの多くは、害虫を捕食してくれる益虫である。ムカデや蚊のように無闇に殺す必要はない。故に、彼はのんびりと構え、アイスカフェオレをまた口に含んだ。ごくりと飲み込む。飲み慣れた味が舌に広がる。流している恋愛ドラマは中盤に差し掛かっている。主演はもう何度も彼に殺されている。画面に映る度に殺されている。
 手にしていたカップを机上に置くと、彼は不意に気が変わった。常備しているティッシュ箱を出し抜けに掴み取り、壁にくっついているクモに向かってぶん投げた。クモは驚いたようにカサカサと音を立てて壁の隅の方にまで移動する。飛ばしたティッシュ箱が、逃げ足の速いクモに命中することはなかった。
 壁に当たってひっくり返ったティッシュ箱をそのままに、彼は再び恋愛ドラマを無表情で見つめた。全く持って、心が動かされないドラマだった。
 依然として、暇を潰すように殺戮を繰り返したが、同じ顔ばかりで飽きが生じた。リモコンに手を伸ばしてチャンネルを変える。バラエティー番組が流れ始める。ガヤガヤとうるさい中、彼はアイスカフェオレに口をつける。
 テレビに映る新たな顔ぶれを殺しながら飲んで、飲みながら殺す。殺しながら飲んで、飲みながら殺す。殺しながら飲んで、飲みながら殺す。殺しながら飲んで、飲みながら殺す。飲みながら殺す。飲みながら殺す。飲みながら殺す。殺す。殺す。殺す。次から次へと殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。ぶっ殺す。
 アイスカフェオレがなくなった。唇を舐めた。息が漏れた。妄想でいくら殺しても、殺しまくっても、実際に手にかけた時に抱く、心からすっきりするような満足感は得られなかった。刺激も快感も弱かった。足りなかった。
 空になったカップを手放す。徐に顔を上げ、何気なく視線を巡らせた。彼の攻撃から逃げるようにして壁の端に身を潜めていたクモは、いつの間にか姿を消していた。