◇
嬉々として話をしている相手が人殺しだと知ったら、一体どのようなリアクションを取るのだろう、と彼は仕事の相方である後輩を雑に扱いながら思った。
わざわざ人を殺したことがあることをひけらかすような真似をすることはないが、そのうち知られてしまう可能性がないわけではない。捕まらないことが一番だが、こればかりは彼も自信を持って、自分は捕まらない、とは言えなかった。いつどうなるか分からないものの、人を殺せるうちは殺していたい。あの快感は、何物にも代えがたいものなのだ。
殺害した人数が一気に四人増えたとしても、彼の日常に大きな変化はなかった。後輩も店長も、その他の仕事仲間も、彼を見る目は変わらない。深夜に訪れる客も同様だった。
「ありがとうございました」
目当ての商品がなかったのか、何も買わずに出て行った客を、後輩が元気な声で送り出した。後に続いた彼の声とは温度差があり、まるで真逆である。
後輩のような明朗な店員に対応される方が客も気分が良いだろう。声のかけやすさも、寡黙な彼よりも口数の多い後輩の方が遥かに上であることは間違いない。それでも彼も店員だ。話しかけられることが全くないわけではなかった。
冷やかしに来ただけの客がいなくなり、店員である彼と後輩だけがコンビニ内に残される。深夜に訪れる客は元々多くはないものの、今夜は一段と店内の空気がのんびりとしていた。
「なんか、平和っすね」
隣にいる人間が殺人鬼であることも知らずに平和だと口にする後輩は、彼をただの先輩だと信じ切っているようだった。警戒心は感じられない。後輩含め誰も、自分のすぐ隣に犯罪者がいると思うはずもない。
裏で複数の人間を殺していたとしても、表で危険人物だと思われていなければ、その他大勢の中に溶け込めてしまえる。彼はどこにでもいる大人の男である。それは詐欺を働いているカナデも同じだろう。詐欺で得た金以外にも、真っ当に働いて得た金をカナデも持っている。彼らは極悪人でありながらも、きちんとした職場で働き、義務となっている納税をし、社会に貢献しているのだった。
「平和なことは良いことだと思いますが」
彼は誰でも思いつきそうなそれっぽい言葉で後輩の相手をする。そうなんすけど、と何か言い分があるらしい後輩は続けた。
「先輩と一緒の時って、何か特殊なことが起きる確率が他の人と比べて高い気がするんで、平和すぎるとなんか逆に落ち着かないんすよね」
特殊なことと聞いて、強盗と全裸男の件が頭に浮かんだ。確かにどちらも後輩と同じシフトの時だった。女性店員目的で来店してきた男もいた覚えがある。その時は後輩ではなく店長と一緒であったが、いずれにせよ、特殊なことが起きた全ての当事者でもあるのは彼のみだった。
面倒事に巻き込まれることなく平和に仕事を終えられるのならそれに越したことはないだろうに、何も起きなさすぎて落ち着かないとイレギュラーを欲しがっているような後輩の独特な感性は理解に苦しむ。
そんなに刺激を求めているのなら殺してやらなくもないと血迷いそうになったが、善人の仮面の下に留めて脳内で雑に殺しておいた。後輩は合計で二回死んだ。
どんなに殺しても、現実の後輩は死なない。殺されていることも知らない。彼は生きている後輩を横目で見遣った。
「落ち着くようなことが起きなくても落ち着いてください。そわそわされると目障りですから」
「目障りっすか? いきなり毒吐き無慈悲な先輩のお出ましじゃないっすか。流石に傷つくっすよ」
「傷ついた人間がそんなリズム良くいきなり毒吐き無慈悲な先輩とか言わないと思いますが」
「うわ、なんか今ドキッとしたっす。流石、男が惚れる男っすね。俺の言葉復唱してくれた先輩は貴重っす」
後輩は口角を上げ、目尻を下げ、嬉しそうに破顔する。人懐っこそうな笑顔を見せる後輩を見ながら、今の発言のどこに胸が跳ね相好を崩すような要素があったのだろうと彼は首を傾げてしまいたくなった。
「先輩って本当にかっこいいっすよね。彼女もずっと推してるんすよ。もちろん俺も推してるっす。おまけに俺は惚れてもいるんすよ、マジで。俺みたいに先輩に惚れてる人は結構いそうっすけど、心当たりとかないんすか?」
積極的で暑苦しい後輩のテンションが上がっている。この状態が長く続くと疲れてしまう未来が見えた。後輩が喋れば喋るほど、彼の気力はじわじわと奪われていく。
彼女持ちでありながら彼女以外の誰かに惚れているとはにかむこともなく自信を持って言ってみせる後輩と、初対面で惚れた後から事あるごとに惚れ直しているという掴みどころのないカナデとが微妙に合わさったが、性格が不一致すぎるあまり同極を突き合わせた磁石のように即座に弾かれた。
後輩とカナデなら、カナデといる時の方が害のない人間を演じなくて済む分、気が楽なことに彼は今になって実感した。どちらかを殺すような状況に陥ったら、迷わず後輩を殺すかもしれない。
「心当たりはありません」
カナデのことを思い出していたが、彼は完全否定した。馬鹿正直に答える気はない。カナデの存在を後輩に打ち明けると後々面倒そうである。計画に支障をきたすような真似はできなかった。
「ないんすか? じゃあ先輩が気づいてないだけかもしれないっすね」
心当たりがあったところで自分で心当たりがあると肯定するのもいかがなものかと彼は思った。ナルシストのような自己に陶酔しがちな人間であればよくぞ聞いてくれたとばかりに自信満々に答えるのかもしれないが、彼は自分にも他人にもそれほど関心がない冷酷な人間でしかなかった。
「彼女含め俺を推すとか惚れているとか変わってますね」
「変わってるなんてそんなことないっすよ。先輩自己肯定感低すぎじゃないっすか? 先輩は本当にマジでめちゃくちゃ魅力的な人なんで、もっと自信持っていいと思うんすよね」
「そうですか。あまり興味はないですね」
彼は後輩を冷たく流し、しばらくサボっていた仕事を再開しようとレジを離れた。情に熱い後輩との会話を強制的に終わらせる手段でもあった。
「そういう素っ気ないところも魅力の一つっすからね、先輩」
無駄に大声で呼びかける後輩を無視して売場の整理を始める。冷淡な対応をされても後輩は反発することも不機嫌になることもなく、寧ろ犬のように尻尾を振って楽しそうに笑っていた。
いくら冷たく突き放しても、後輩は他の仕事仲間と違ってめげずに駆け寄ってくる。未だに連絡先を知りたがるくらいには諦めが悪くしつこかった。親しくなれば教えてくれると希望を抱いているのかもしれないが、そもそも彼は後輩と親しくなりたいわけではない。一定の距離感がほしいところである。後輩はその距離感を遠慮もなく詰めてくるのだから考えものであった。
一回懲らしめてやろうかと思ったことがないわけではないが、そこまでする熱量は彼にはない。殺す予定でもない相手に熱くなるのは柄ではない上に、その労力が無駄に思えてならなかったのだ。余計な体力を使いたくなかった。寄ってくる後輩には心を開くことなく遇い続け、このまま仕事での人間関係を上手く調整するしかない。
隣にいると何かと喋りかけてくる後輩から逃れた彼は、レジは後輩に任せ、隅から隅まで売場を綺麗にすることに集中した。
後輩はもうレジ業務に慣れている。彼が教えることは何もない。近くにいなくても、見ていなくても、全く問題はなかった。
呼ばれたら行く。呼ばれなかったら行かない。基本的なことではあるが、できるだけ呼ばれないことを彼は願った。強盗犯や露出狂の男といった、罪の重さにギャグかそうじゃないかほどの差があるような犯罪者の来店がまたしてもあっても、呼ばれたくはない。犯罪者の来店を心配するのもおかしな話ではあるが。
一度でもイレギュラーな出来事が起きたら、またそのようなことが起こるかもしれないと懸念するのは当然のことだった。実際に二回目があった。三回目はまだないが、この場合の三度目の正直など不要である。
これ以上治安の悪い夜のコンビニと化してしまうのは避けたい。三回も警察沙汰になってしまったら、いよいよ顔を覚えられてしまうかもしれなかった。裏で人を殺しまくっている彼にとっては、それが一番の懸念事項である。変にマークされるわけにはいかない。殺す予定の人間を殺せずに手錠をかけられるなど冗談ではない。もう人を殺せなくなるのも冗談ではない。自分はまだ、人を殺したい。彼はまだ、人を殺したいのだった。
そのような外道じみた欲求を真顔のままふわふわと脳裏に浮かばせながら、彼はお菓子コーナーへ手をつけた。何度も人を殺した汚れたその手で、整理をするために食品を触った。しかしこれを客が購入したとて、客は気づきもしない。思いもしない。自分の身近に殺人鬼がいると誰が疑うのか。この近辺で殺人事件が起きていて、犯人が逮捕されていないのならともかく、ここで人が殺されるような血生臭い事件は起きていない。殺人鬼が潜んでいるなど、普通に生活をしているなど、誰も思わない。客の目から見れば、彼はただのコンビニ店員である。そこで働いているだけの人間である。
「いらっしゃいませ」
客が来店した。レジにいる後輩が明るい声で出迎えている。遅れて彼も、仕事だと割り切って同じ言葉を放つ。後輩と比べるとやはり、声は低めだった。
お菓子コーナーはレジの近くで、入ってきた客がレジに直行する姿が見えた。中年の女性であり、深夜によく煙草を買いに来る女性である。人に興味のない彼であっても、常連客の顔は嫌でも覚えてしまうのだった。女性は今日も煙草が目的だろう。
「煙草を買いに来たんですが、いつも持ってきている空箱を誤って捨ててしまって。番号言いますので、ちょっとだけ見させてください」
少しだけ前のめりになった女性が、レジ奥にずらりと並んでいる煙草の番号を目で探り始める。女性が目当ての銘柄を見つける前に、後輩の手が先に動いた。
「いつも購入していただいているのはこちらだったでしょうか?」
「あ、そうです。すみません、ありがとうございます。まさか覚えてくださっているとは、お恥ずかしい限りです」
恐縮する女性は腰が低かった。相手が年下であっても店員でありまた他人でもあるからだろう、敬意を払っているのがよく分かる。年下で若い店員だからとタメ口で気さくに話しかけてくる客もいるが、女性はそのような親しみを込めて話すタイプの客ではないようだった。どんな人間とも一定の距離を保ちたい彼にとっては、敬語を使わない客よりも使ってくれる客の方が不満はない。店員との距離が近くないこの女性は良客だと言えた。
深夜の常連客である女性がどの銘柄の煙草を購入しているのか覚えていた後輩は、にこにこと愛想の良い笑顔を見せながら女性客の対応をする。
後輩はよく笑う人間だった。表情も感情も豊かで、暗い雰囲気は一切ない。そのため、彼と並ぶと明暗がはっきりしてしまうのだった。
彼はもう何年も笑っていない。最後に笑ったのはいつだったか、それすらも思い出せない。
笑い方を忘れてしまいそうなほどに笑っていなかったが、だからどうしたというわけでもない。笑わないのが彼である。それを周りの人間も知っている。おかしなことは何もない。彼は感情を決して顔に出さないクールな人間であるだけだった。
煙草一箱のみの会計を済ませ、会釈をしながら礼を言って帰っていく女性を、後輩はまた元気よく送り出した。彼も口を開いた。心が籠もっているかいないかで言えば、それほど籠もってはおらず、マニュアルを読んでいるだけかのような淡々とした声だった。
女性客が店内を後にし、後輩と二人だけの時間が再び訪れた。彼は作業する手を止めない。商品の整理が終わったら清掃でもするかと次の仕事のことを考えながら、乱れている商品を黙々と整えていった。
レジにいた後輩が売場に出た。突っ立っているわけにはいかないと思ったのだろう、後輩も仕事に着手し始める。
口数の多いちゃらんぽらんな男だが、著しく仕事に不熱心というわけではなかった。ヤンキーや不良とは異なる属性で、決して悪い人間ではない。後輩は善人であるため、悪人を許すこともきっとない。強盗犯からの暴力には屈してしまったが、逃走を図った全裸男に関しては体を張って捕らえた実績を持っている。正義感や責任感が強くなければ、逃げた犯罪者を咄嗟に追いかけて捕まえるという危険な行為はできないだろう。強盗の被害に遭った際に何もできなかったことを悔いた上での深追いだったのかもしれないが、理由は何であれ、後輩は人のために動ける人間だ。どこからどう見ても、彼とは正反対の人間だった。
真人間である後輩が慕う先輩に扮する彼は、唇を真一文字に引き結び、流れ作業のように淡々と簡単な仕事をこなし続けた。
商品であるお菓子を前出ししている最中、どこからともなくふわふわと飛んでやってきた小さな黒い物体が視界に映り込んだ。彼は目で追う。今の時期になると非常に鬱陶しい蚊だった。女性客が扉を開閉した際に侵入してきたのかもしれない。
人よりもムカデよりも遥かに極小な蚊であっても、吸血しようとしてくる時点で殺す以外の選択肢はない。
彼は蚊を刺激しないように緩慢な動作で両手を広げた。タイミングを見計らい、挟み込むようにして叩き殺す。狙いは命中し、潰された蚊が真っ逆様に落ちていく。一発で仕留められたことに気分よくなりながら、彼は床に落下した蚊を摘んでゴミ箱に捨てに行った。
「叩くような音したっすけど、なんかあったんすか?」
「蚊がいたので殺しただけです」
「蚊っすか? 一発で仕留めたんすね。流石っす」
「手洗ってきます」
「了解っす」
話が長くならないよう、早めに後輩に断ってからバックヤードへと向かった。まっすぐ休憩室へ入り、手洗い場の蛇口を捻る。落ちる水の中に手を入れて洗いながら、近いうちにまた人を殺したいという願望の芽が花開いた。蚊如きで満足できるはずもなく、中途半端に刺激された欲求が目を覚まし、むくりと起き上がってしまったのだった。
殺す予約をしているカナデの金蔓は、いつになったら殺せるだろうか。カナデからの吉報はまだない。
間に別の殺しを挟めるか否か確認するためにもこちらから連絡をしてみるか、と仕事が終わってからすることを決めた彼は蛇口を閉めた。手を振って水気を切り、自然乾燥させる。ハンカチの類を持参しているような男ではなかった。
店内に戻ると、後輩がレジに立っていた。彼がいない少しの間に来店した客を捌いたばかりのようだが、後輩は不意にしゃがみ込み何やら床を見回し始めた。物探しをしているような顔つきであり、時折首を傾げている。見て見ぬ振りをする手もあったが、些細な出来事が後で大きな問題に繋がることもないわけではない。そうなった場合に咎められたくない彼は、困っている様子の後輩に近づいた。
「どうしたんですか」
「あ、先輩。いや、さっきちょっと受け取ったお金を落としちゃったんすよ。一枚だけ、どこに転がっていったのか分からなくて、全然見つからないんすよね」
「何円ですか」
「五十円すね」
決して騒ぎ立てるような金額ではないが、精算をする際、一円でも五円でも合わなければ違算として処理されてしまう。金銭を取り扱う以上、そこはしっかりしておかなければならなかった。
彼は探すのを協力し、後輩と一緒になって床を見下ろした。金を落としてしまった時、まさかと思う所にまで転がっていることがある。そこにはないだろうと期待できないような所にまで目を向けてみると、床にぽつんと取り残されている五十円玉にピントが合った。レジの外にまで転がっていた。彼は蚊を摘んだ所作と同じ所作で硬貨を摘んだ。
「ありました」
「え、秒で見つかったじゃないっすか。どこにあったんすか?」
「レジの外です」
「まさかすぎてそこまで見てなかったっす。ありがとうございます」
目を見開き、次いで笑みを見せる素直な後輩は、彼から五十円玉を受け取り、自動釣銭機の投入口に入れた。機械が作動し、五十円玉を飲み込んだ。
すぐに発見できる場所に倒れてくれていて良かったと彼は思う。いくら探しても見つけられず、まるで神隠しにでもあったかのように行方不明となる不思議な現象が起きたこともあったため、そうはならずに済んだことに安堵した。店員も客も含め、誤って小銭をばら撒いてしまった時に探し出せなかった金は、今もどこかに放置されているだろう。見つかっても誰のものか分からないため、募金にされる確率が高かった。
「それにしても、今日は本当に静かで平和っすね。嵐の前の静けさみたいな感じじゃないっすか?」
「だとしたら不穏すぎますね」
彼は冷静に突っ込んだ。後輩が金を落としたことも、嵐の前の静けさという言葉が出てくることも、考えようによっては不穏そのものである。警察沙汰になるような大事なことは何も起きなくていい。起きてほしくはない。
後輩が感じている不吉な予感から目を背け、彼は蚊を殺した売場へ戻ろうと歩みを進める。彼の後を追うように後輩もレジから出たちょうどその時、出入口の扉が勢いよく開いた。
「いらっしゃいま……、え……」
いち早く反応した後輩の声が不自然に途切れ、困惑したような揺れた息が漏れた。その瞬間、和やかだったはずの空気が一転し、張り詰めたものに変わった。透明な水の中に黒くて害のある異物が混入したかのようだった。いや、確実に混入していた。来店してきた、見るからに小汚くて息の荒い人間は、こちらに鋭利な刃物を突きつけていたのだ。
舌を打ちたくなった。不要な三度目の正直であり、早すぎるフラグ回収であった。ぶっ殺したくなる。叩き潰したくなる。
買い物が目的じゃないなら来るな。回れ右してとっとと帰れ。こっちは警察沙汰になりたくないのに。
内心で不満を漏らす彼のことなど露知らず、刃物を持った男を前に顔を引き攣らせる後輩は、できるだけ男を刺激しないようにじりじりと後退する。対して肝っ玉の大きい彼は、いつ爆発するかも知れない爆弾のような男を目の当たりにしても物怖じせずに前進する。しかし、目を血走らせた男の方が二人よりも初動が早かった。男は出入口から一番近くにいた後輩に目をつけ、弱気な心を打ち消すかのように汚い咆哮をあげて突進する。あまりの剣幕にたじろぐ後輩は逃げ遅れ、男の攻撃を許してしまった。来た道を戻っていた彼も間に合わなかったが、少しも焦ってなどいなかった。
刃物が後輩の腹部に突き刺さる。後輩は顔を歪ませる。バランスを崩し、突進してきた男に押し倒される。刃物が更に深く突き刺さる。刺された箇所から溢れ出る血液が衣服を赤く濡らしていく。
「はぁ、はぁ、はぁ」
荒い呼吸が耳をついた。彼でも後輩でもない。突然後輩を刺した男のものだ。人を刺したことで理性の箍が外れ、ハイになっている様子である。自棄を起こしていると言っても過言ではない。
怨恨か、無差別か。その答えは、男が次に彼を標的にするような充血した目を向けたことで明らかとなった。無差別だ。男の顔に覚えはない。後輩も、男と面識がある風ではなかった。八つ当たりの犯行である。
後輩が刺されようとも人が人を刺そうとも、全くパニックになることなく、彼は二人の元へ近づいていた。もう一人の店員を刺すために後輩の腹部から刃物を引き抜こうとした男の手を、恐怖心もなく掴んで止める。凶器がなければ強くなれない男は遮二無二引き抜こうとするが、彼の力の方が強かった。
「じっとしてください。顔に蚊が止まってますので」
止まっていない。付近に蚊すらいない。平然と嘘を吐いた彼は、蚊を殺すためだと暗に仄めかし、男の頬を加減も躊躇もなく引っ叩いた。男が反射的に頬を押さえる。刃物の柄から手が離れた。
「逃げられてしまいました。でも蚊に感謝ですね。平手打ちで目が覚めたようですので、早く救急車を呼んでくれませんか」
「あ、あ、ぼ、ぼく……、ぼく、ぼくは、なんてことを……」
頬を叩かれたことで我に返った男は、よろよろと後輩の上から退き青ざめた顔でわなわなと唇を震わせた。彼の声は届いていない。専ら自分のした行動に恐れを抱くのみである。
使えないと瞬時に見切りをつけた彼は、声も出せないほどの激痛に脂汗を流す後輩に、刃物は抜こうとしないでください、と落ち着いた口調で告げた。
レジにある子機を取りに行き、救急車を呼ぶ。状況や後輩の容態を説明し、結局、警察にも来てもらうことになった。人が刺されてしまった以上、警察の介入は避けられない事案である。犯人は頭を抱え、戦意喪失している。逃走することはないだろう。
救急車が来るまで、彼はオペレーターに指示された通りに応急手当を施し、出血を防いだ。後輩の意識はまだある。
善人であるコンビニ店員として後輩の命を繋ぎながらも、どうしてこうも大なり小なり事件の被害に遭ってしまうのだろうと彼は溜息を吐きたくなった。
事件を携えて来た、今はもう意気消沈している犯人の男を脳内で刺し殺す。滅多刺しにして殺す。次に誰かを殺す時は、手順はどうであれ、絶対に身体に無数の穴を空けることを彼は密かに決意した。
嬉々として話をしている相手が人殺しだと知ったら、一体どのようなリアクションを取るのだろう、と彼は仕事の相方である後輩を雑に扱いながら思った。
わざわざ人を殺したことがあることをひけらかすような真似をすることはないが、そのうち知られてしまう可能性がないわけではない。捕まらないことが一番だが、こればかりは彼も自信を持って、自分は捕まらない、とは言えなかった。いつどうなるか分からないものの、人を殺せるうちは殺していたい。あの快感は、何物にも代えがたいものなのだ。
殺害した人数が一気に四人増えたとしても、彼の日常に大きな変化はなかった。後輩も店長も、その他の仕事仲間も、彼を見る目は変わらない。深夜に訪れる客も同様だった。
「ありがとうございました」
目当ての商品がなかったのか、何も買わずに出て行った客を、後輩が元気な声で送り出した。後に続いた彼の声とは温度差があり、まるで真逆である。
後輩のような明朗な店員に対応される方が客も気分が良いだろう。声のかけやすさも、寡黙な彼よりも口数の多い後輩の方が遥かに上であることは間違いない。それでも彼も店員だ。話しかけられることが全くないわけではなかった。
冷やかしに来ただけの客がいなくなり、店員である彼と後輩だけがコンビニ内に残される。深夜に訪れる客は元々多くはないものの、今夜は一段と店内の空気がのんびりとしていた。
「なんか、平和っすね」
隣にいる人間が殺人鬼であることも知らずに平和だと口にする後輩は、彼をただの先輩だと信じ切っているようだった。警戒心は感じられない。後輩含め誰も、自分のすぐ隣に犯罪者がいると思うはずもない。
裏で複数の人間を殺していたとしても、表で危険人物だと思われていなければ、その他大勢の中に溶け込めてしまえる。彼はどこにでもいる大人の男である。それは詐欺を働いているカナデも同じだろう。詐欺で得た金以外にも、真っ当に働いて得た金をカナデも持っている。彼らは極悪人でありながらも、きちんとした職場で働き、義務となっている納税をし、社会に貢献しているのだった。
「平和なことは良いことだと思いますが」
彼は誰でも思いつきそうなそれっぽい言葉で後輩の相手をする。そうなんすけど、と何か言い分があるらしい後輩は続けた。
「先輩と一緒の時って、何か特殊なことが起きる確率が他の人と比べて高い気がするんで、平和すぎるとなんか逆に落ち着かないんすよね」
特殊なことと聞いて、強盗と全裸男の件が頭に浮かんだ。確かにどちらも後輩と同じシフトの時だった。女性店員目的で来店してきた男もいた覚えがある。その時は後輩ではなく店長と一緒であったが、いずれにせよ、特殊なことが起きた全ての当事者でもあるのは彼のみだった。
面倒事に巻き込まれることなく平和に仕事を終えられるのならそれに越したことはないだろうに、何も起きなさすぎて落ち着かないとイレギュラーを欲しがっているような後輩の独特な感性は理解に苦しむ。
そんなに刺激を求めているのなら殺してやらなくもないと血迷いそうになったが、善人の仮面の下に留めて脳内で雑に殺しておいた。後輩は合計で二回死んだ。
どんなに殺しても、現実の後輩は死なない。殺されていることも知らない。彼は生きている後輩を横目で見遣った。
「落ち着くようなことが起きなくても落ち着いてください。そわそわされると目障りですから」
「目障りっすか? いきなり毒吐き無慈悲な先輩のお出ましじゃないっすか。流石に傷つくっすよ」
「傷ついた人間がそんなリズム良くいきなり毒吐き無慈悲な先輩とか言わないと思いますが」
「うわ、なんか今ドキッとしたっす。流石、男が惚れる男っすね。俺の言葉復唱してくれた先輩は貴重っす」
後輩は口角を上げ、目尻を下げ、嬉しそうに破顔する。人懐っこそうな笑顔を見せる後輩を見ながら、今の発言のどこに胸が跳ね相好を崩すような要素があったのだろうと彼は首を傾げてしまいたくなった。
「先輩って本当にかっこいいっすよね。彼女もずっと推してるんすよ。もちろん俺も推してるっす。おまけに俺は惚れてもいるんすよ、マジで。俺みたいに先輩に惚れてる人は結構いそうっすけど、心当たりとかないんすか?」
積極的で暑苦しい後輩のテンションが上がっている。この状態が長く続くと疲れてしまう未来が見えた。後輩が喋れば喋るほど、彼の気力はじわじわと奪われていく。
彼女持ちでありながら彼女以外の誰かに惚れているとはにかむこともなく自信を持って言ってみせる後輩と、初対面で惚れた後から事あるごとに惚れ直しているという掴みどころのないカナデとが微妙に合わさったが、性格が不一致すぎるあまり同極を突き合わせた磁石のように即座に弾かれた。
後輩とカナデなら、カナデといる時の方が害のない人間を演じなくて済む分、気が楽なことに彼は今になって実感した。どちらかを殺すような状況に陥ったら、迷わず後輩を殺すかもしれない。
「心当たりはありません」
カナデのことを思い出していたが、彼は完全否定した。馬鹿正直に答える気はない。カナデの存在を後輩に打ち明けると後々面倒そうである。計画に支障をきたすような真似はできなかった。
「ないんすか? じゃあ先輩が気づいてないだけかもしれないっすね」
心当たりがあったところで自分で心当たりがあると肯定するのもいかがなものかと彼は思った。ナルシストのような自己に陶酔しがちな人間であればよくぞ聞いてくれたとばかりに自信満々に答えるのかもしれないが、彼は自分にも他人にもそれほど関心がない冷酷な人間でしかなかった。
「彼女含め俺を推すとか惚れているとか変わってますね」
「変わってるなんてそんなことないっすよ。先輩自己肯定感低すぎじゃないっすか? 先輩は本当にマジでめちゃくちゃ魅力的な人なんで、もっと自信持っていいと思うんすよね」
「そうですか。あまり興味はないですね」
彼は後輩を冷たく流し、しばらくサボっていた仕事を再開しようとレジを離れた。情に熱い後輩との会話を強制的に終わらせる手段でもあった。
「そういう素っ気ないところも魅力の一つっすからね、先輩」
無駄に大声で呼びかける後輩を無視して売場の整理を始める。冷淡な対応をされても後輩は反発することも不機嫌になることもなく、寧ろ犬のように尻尾を振って楽しそうに笑っていた。
いくら冷たく突き放しても、後輩は他の仕事仲間と違ってめげずに駆け寄ってくる。未だに連絡先を知りたがるくらいには諦めが悪くしつこかった。親しくなれば教えてくれると希望を抱いているのかもしれないが、そもそも彼は後輩と親しくなりたいわけではない。一定の距離感がほしいところである。後輩はその距離感を遠慮もなく詰めてくるのだから考えものであった。
一回懲らしめてやろうかと思ったことがないわけではないが、そこまでする熱量は彼にはない。殺す予定でもない相手に熱くなるのは柄ではない上に、その労力が無駄に思えてならなかったのだ。余計な体力を使いたくなかった。寄ってくる後輩には心を開くことなく遇い続け、このまま仕事での人間関係を上手く調整するしかない。
隣にいると何かと喋りかけてくる後輩から逃れた彼は、レジは後輩に任せ、隅から隅まで売場を綺麗にすることに集中した。
後輩はもうレジ業務に慣れている。彼が教えることは何もない。近くにいなくても、見ていなくても、全く問題はなかった。
呼ばれたら行く。呼ばれなかったら行かない。基本的なことではあるが、できるだけ呼ばれないことを彼は願った。強盗犯や露出狂の男といった、罪の重さにギャグかそうじゃないかほどの差があるような犯罪者の来店がまたしてもあっても、呼ばれたくはない。犯罪者の来店を心配するのもおかしな話ではあるが。
一度でもイレギュラーな出来事が起きたら、またそのようなことが起こるかもしれないと懸念するのは当然のことだった。実際に二回目があった。三回目はまだないが、この場合の三度目の正直など不要である。
これ以上治安の悪い夜のコンビニと化してしまうのは避けたい。三回も警察沙汰になってしまったら、いよいよ顔を覚えられてしまうかもしれなかった。裏で人を殺しまくっている彼にとっては、それが一番の懸念事項である。変にマークされるわけにはいかない。殺す予定の人間を殺せずに手錠をかけられるなど冗談ではない。もう人を殺せなくなるのも冗談ではない。自分はまだ、人を殺したい。彼はまだ、人を殺したいのだった。
そのような外道じみた欲求を真顔のままふわふわと脳裏に浮かばせながら、彼はお菓子コーナーへ手をつけた。何度も人を殺した汚れたその手で、整理をするために食品を触った。しかしこれを客が購入したとて、客は気づきもしない。思いもしない。自分の身近に殺人鬼がいると誰が疑うのか。この近辺で殺人事件が起きていて、犯人が逮捕されていないのならともかく、ここで人が殺されるような血生臭い事件は起きていない。殺人鬼が潜んでいるなど、普通に生活をしているなど、誰も思わない。客の目から見れば、彼はただのコンビニ店員である。そこで働いているだけの人間である。
「いらっしゃいませ」
客が来店した。レジにいる後輩が明るい声で出迎えている。遅れて彼も、仕事だと割り切って同じ言葉を放つ。後輩と比べるとやはり、声は低めだった。
お菓子コーナーはレジの近くで、入ってきた客がレジに直行する姿が見えた。中年の女性であり、深夜によく煙草を買いに来る女性である。人に興味のない彼であっても、常連客の顔は嫌でも覚えてしまうのだった。女性は今日も煙草が目的だろう。
「煙草を買いに来たんですが、いつも持ってきている空箱を誤って捨ててしまって。番号言いますので、ちょっとだけ見させてください」
少しだけ前のめりになった女性が、レジ奥にずらりと並んでいる煙草の番号を目で探り始める。女性が目当ての銘柄を見つける前に、後輩の手が先に動いた。
「いつも購入していただいているのはこちらだったでしょうか?」
「あ、そうです。すみません、ありがとうございます。まさか覚えてくださっているとは、お恥ずかしい限りです」
恐縮する女性は腰が低かった。相手が年下であっても店員でありまた他人でもあるからだろう、敬意を払っているのがよく分かる。年下で若い店員だからとタメ口で気さくに話しかけてくる客もいるが、女性はそのような親しみを込めて話すタイプの客ではないようだった。どんな人間とも一定の距離を保ちたい彼にとっては、敬語を使わない客よりも使ってくれる客の方が不満はない。店員との距離が近くないこの女性は良客だと言えた。
深夜の常連客である女性がどの銘柄の煙草を購入しているのか覚えていた後輩は、にこにこと愛想の良い笑顔を見せながら女性客の対応をする。
後輩はよく笑う人間だった。表情も感情も豊かで、暗い雰囲気は一切ない。そのため、彼と並ぶと明暗がはっきりしてしまうのだった。
彼はもう何年も笑っていない。最後に笑ったのはいつだったか、それすらも思い出せない。
笑い方を忘れてしまいそうなほどに笑っていなかったが、だからどうしたというわけでもない。笑わないのが彼である。それを周りの人間も知っている。おかしなことは何もない。彼は感情を決して顔に出さないクールな人間であるだけだった。
煙草一箱のみの会計を済ませ、会釈をしながら礼を言って帰っていく女性を、後輩はまた元気よく送り出した。彼も口を開いた。心が籠もっているかいないかで言えば、それほど籠もってはおらず、マニュアルを読んでいるだけかのような淡々とした声だった。
女性客が店内を後にし、後輩と二人だけの時間が再び訪れた。彼は作業する手を止めない。商品の整理が終わったら清掃でもするかと次の仕事のことを考えながら、乱れている商品を黙々と整えていった。
レジにいた後輩が売場に出た。突っ立っているわけにはいかないと思ったのだろう、後輩も仕事に着手し始める。
口数の多いちゃらんぽらんな男だが、著しく仕事に不熱心というわけではなかった。ヤンキーや不良とは異なる属性で、決して悪い人間ではない。後輩は善人であるため、悪人を許すこともきっとない。強盗犯からの暴力には屈してしまったが、逃走を図った全裸男に関しては体を張って捕らえた実績を持っている。正義感や責任感が強くなければ、逃げた犯罪者を咄嗟に追いかけて捕まえるという危険な行為はできないだろう。強盗の被害に遭った際に何もできなかったことを悔いた上での深追いだったのかもしれないが、理由は何であれ、後輩は人のために動ける人間だ。どこからどう見ても、彼とは正反対の人間だった。
真人間である後輩が慕う先輩に扮する彼は、唇を真一文字に引き結び、流れ作業のように淡々と簡単な仕事をこなし続けた。
商品であるお菓子を前出ししている最中、どこからともなくふわふわと飛んでやってきた小さな黒い物体が視界に映り込んだ。彼は目で追う。今の時期になると非常に鬱陶しい蚊だった。女性客が扉を開閉した際に侵入してきたのかもしれない。
人よりもムカデよりも遥かに極小な蚊であっても、吸血しようとしてくる時点で殺す以外の選択肢はない。
彼は蚊を刺激しないように緩慢な動作で両手を広げた。タイミングを見計らい、挟み込むようにして叩き殺す。狙いは命中し、潰された蚊が真っ逆様に落ちていく。一発で仕留められたことに気分よくなりながら、彼は床に落下した蚊を摘んでゴミ箱に捨てに行った。
「叩くような音したっすけど、なんかあったんすか?」
「蚊がいたので殺しただけです」
「蚊っすか? 一発で仕留めたんすね。流石っす」
「手洗ってきます」
「了解っす」
話が長くならないよう、早めに後輩に断ってからバックヤードへと向かった。まっすぐ休憩室へ入り、手洗い場の蛇口を捻る。落ちる水の中に手を入れて洗いながら、近いうちにまた人を殺したいという願望の芽が花開いた。蚊如きで満足できるはずもなく、中途半端に刺激された欲求が目を覚まし、むくりと起き上がってしまったのだった。
殺す予約をしているカナデの金蔓は、いつになったら殺せるだろうか。カナデからの吉報はまだない。
間に別の殺しを挟めるか否か確認するためにもこちらから連絡をしてみるか、と仕事が終わってからすることを決めた彼は蛇口を閉めた。手を振って水気を切り、自然乾燥させる。ハンカチの類を持参しているような男ではなかった。
店内に戻ると、後輩がレジに立っていた。彼がいない少しの間に来店した客を捌いたばかりのようだが、後輩は不意にしゃがみ込み何やら床を見回し始めた。物探しをしているような顔つきであり、時折首を傾げている。見て見ぬ振りをする手もあったが、些細な出来事が後で大きな問題に繋がることもないわけではない。そうなった場合に咎められたくない彼は、困っている様子の後輩に近づいた。
「どうしたんですか」
「あ、先輩。いや、さっきちょっと受け取ったお金を落としちゃったんすよ。一枚だけ、どこに転がっていったのか分からなくて、全然見つからないんすよね」
「何円ですか」
「五十円すね」
決して騒ぎ立てるような金額ではないが、精算をする際、一円でも五円でも合わなければ違算として処理されてしまう。金銭を取り扱う以上、そこはしっかりしておかなければならなかった。
彼は探すのを協力し、後輩と一緒になって床を見下ろした。金を落としてしまった時、まさかと思う所にまで転がっていることがある。そこにはないだろうと期待できないような所にまで目を向けてみると、床にぽつんと取り残されている五十円玉にピントが合った。レジの外にまで転がっていた。彼は蚊を摘んだ所作と同じ所作で硬貨を摘んだ。
「ありました」
「え、秒で見つかったじゃないっすか。どこにあったんすか?」
「レジの外です」
「まさかすぎてそこまで見てなかったっす。ありがとうございます」
目を見開き、次いで笑みを見せる素直な後輩は、彼から五十円玉を受け取り、自動釣銭機の投入口に入れた。機械が作動し、五十円玉を飲み込んだ。
すぐに発見できる場所に倒れてくれていて良かったと彼は思う。いくら探しても見つけられず、まるで神隠しにでもあったかのように行方不明となる不思議な現象が起きたこともあったため、そうはならずに済んだことに安堵した。店員も客も含め、誤って小銭をばら撒いてしまった時に探し出せなかった金は、今もどこかに放置されているだろう。見つかっても誰のものか分からないため、募金にされる確率が高かった。
「それにしても、今日は本当に静かで平和っすね。嵐の前の静けさみたいな感じじゃないっすか?」
「だとしたら不穏すぎますね」
彼は冷静に突っ込んだ。後輩が金を落としたことも、嵐の前の静けさという言葉が出てくることも、考えようによっては不穏そのものである。警察沙汰になるような大事なことは何も起きなくていい。起きてほしくはない。
後輩が感じている不吉な予感から目を背け、彼は蚊を殺した売場へ戻ろうと歩みを進める。彼の後を追うように後輩もレジから出たちょうどその時、出入口の扉が勢いよく開いた。
「いらっしゃいま……、え……」
いち早く反応した後輩の声が不自然に途切れ、困惑したような揺れた息が漏れた。その瞬間、和やかだったはずの空気が一転し、張り詰めたものに変わった。透明な水の中に黒くて害のある異物が混入したかのようだった。いや、確実に混入していた。来店してきた、見るからに小汚くて息の荒い人間は、こちらに鋭利な刃物を突きつけていたのだ。
舌を打ちたくなった。不要な三度目の正直であり、早すぎるフラグ回収であった。ぶっ殺したくなる。叩き潰したくなる。
買い物が目的じゃないなら来るな。回れ右してとっとと帰れ。こっちは警察沙汰になりたくないのに。
内心で不満を漏らす彼のことなど露知らず、刃物を持った男を前に顔を引き攣らせる後輩は、できるだけ男を刺激しないようにじりじりと後退する。対して肝っ玉の大きい彼は、いつ爆発するかも知れない爆弾のような男を目の当たりにしても物怖じせずに前進する。しかし、目を血走らせた男の方が二人よりも初動が早かった。男は出入口から一番近くにいた後輩に目をつけ、弱気な心を打ち消すかのように汚い咆哮をあげて突進する。あまりの剣幕にたじろぐ後輩は逃げ遅れ、男の攻撃を許してしまった。来た道を戻っていた彼も間に合わなかったが、少しも焦ってなどいなかった。
刃物が後輩の腹部に突き刺さる。後輩は顔を歪ませる。バランスを崩し、突進してきた男に押し倒される。刃物が更に深く突き刺さる。刺された箇所から溢れ出る血液が衣服を赤く濡らしていく。
「はぁ、はぁ、はぁ」
荒い呼吸が耳をついた。彼でも後輩でもない。突然後輩を刺した男のものだ。人を刺したことで理性の箍が外れ、ハイになっている様子である。自棄を起こしていると言っても過言ではない。
怨恨か、無差別か。その答えは、男が次に彼を標的にするような充血した目を向けたことで明らかとなった。無差別だ。男の顔に覚えはない。後輩も、男と面識がある風ではなかった。八つ当たりの犯行である。
後輩が刺されようとも人が人を刺そうとも、全くパニックになることなく、彼は二人の元へ近づいていた。もう一人の店員を刺すために後輩の腹部から刃物を引き抜こうとした男の手を、恐怖心もなく掴んで止める。凶器がなければ強くなれない男は遮二無二引き抜こうとするが、彼の力の方が強かった。
「じっとしてください。顔に蚊が止まってますので」
止まっていない。付近に蚊すらいない。平然と嘘を吐いた彼は、蚊を殺すためだと暗に仄めかし、男の頬を加減も躊躇もなく引っ叩いた。男が反射的に頬を押さえる。刃物の柄から手が離れた。
「逃げられてしまいました。でも蚊に感謝ですね。平手打ちで目が覚めたようですので、早く救急車を呼んでくれませんか」
「あ、あ、ぼ、ぼく……、ぼく、ぼくは、なんてことを……」
頬を叩かれたことで我に返った男は、よろよろと後輩の上から退き青ざめた顔でわなわなと唇を震わせた。彼の声は届いていない。専ら自分のした行動に恐れを抱くのみである。
使えないと瞬時に見切りをつけた彼は、声も出せないほどの激痛に脂汗を流す後輩に、刃物は抜こうとしないでください、と落ち着いた口調で告げた。
レジにある子機を取りに行き、救急車を呼ぶ。状況や後輩の容態を説明し、結局、警察にも来てもらうことになった。人が刺されてしまった以上、警察の介入は避けられない事案である。犯人は頭を抱え、戦意喪失している。逃走することはないだろう。
救急車が来るまで、彼はオペレーターに指示された通りに応急手当を施し、出血を防いだ。後輩の意識はまだある。
善人であるコンビニ店員として後輩の命を繋ぎながらも、どうしてこうも大なり小なり事件の被害に遭ってしまうのだろうと彼は溜息を吐きたくなった。
事件を携えて来た、今はもう意気消沈している犯人の男を脳内で刺し殺す。滅多刺しにして殺す。次に誰かを殺す時は、手順はどうであれ、絶対に身体に無数の穴を空けることを彼は密かに決意した。
