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 恋は人を変えるというのは、あながち間違いでもないのかもしれない。
 手を組んでいるカナデから近況報告された際、カナデは内気な彼女について少しばかり言及していた。彼女は前と比べて確実に明るくなっているようだ。他の人の前では大人しくなってしまうようだが、付き合っているカナデの前では笑うようになってくれたらしい。カナデに心を開いている証拠だと言っていいのではないか。信用してくれているのに最後に裏切るのはなかなか辛いものがありますね、などと心にもないであろうことを宣っていたが、とにかく、順調に進んでいるのなら何でも良かった。こちらもしっかりと冷却期間を置いた後にまた誰かを殺す時には、毎度のことながら、へまをしないように気をつけなければならない。
 二回目の警察沙汰になってから二週間が過ぎていた。その間はこれといって何事もなく平穏に仕事ができている。事件のことをどこかで知って、強盗の時と同じく心配してくれた客もいたようだ。夜は特に治安の悪いコンビニになりかけているが、全く客が来なくなった、ということはなかった。
 別の案件で二回も同じ場所で通報があることは、珍しいことなのか意外とよくあることなのか分からないが、事件が起きた当時、駆けつけた警察官は嫌な顔せずに変質者の対応をしてくれた。全裸の男は現行犯逮捕され、被害に遭った女性は事情聴取も兼ねて保護された。前回同様、彼と後輩にも警察は聴取をしたが、起きたことを正直に話しておけば怪しまれることはなかった。
 彼にとって最大の敵とも言える警察と二回も関わることになるとは思わなかったが、そのどちらも加害者ではないことが不幸中の幸いだった。被害者であり当事者なだけであるため、特にマークはされていないだろう。変わらず普通にしていればいい。
 どんな事件に巻き込まれようとも、日常は淡々と続いていく。今夜もまた、仕事である。シフトは店長と被っていた。後輩は休日で、彼女とデートするんすよ、と聞いてもいないのに予定を打ち明けてくれていた。つまり、そういうことのようだ。
 彼は店長と共に商品の整理や店内の清掃をしながら、時々訪れる客を手際よく捌き続けた。今のところ、イレギュラーは起きていない。このまま静かに仕事を終えたいが、強盗犯も全裸男も、何の前触れもなく突然現れた。後者についてはパニックに陥っていた女性が先ではあったが、その女性が来ることに関しても前兆は感じられなかった。警察を呼ばなければならないような危険人物の来店はお断りしたいものである。
 問題を引き起こすような人間は来ませんようにと願いながら作業をしていると、日付が変わって何人目かの客が来店した。顔を上げる。最初に目に飛び込んできたのは、腕や首元に彫られた刺青だった。ファッションなのかヤクザ関係者なのか、いずれにせよ、あまり近づきたくないタイプの人間だ。それでも客は客である。形だけの歓迎をしておいた。
 刺青の男は何かを探すように店内を一周し、彼と店長の姿を認めるなり舌を打った。何が気に入らないのか知らないが、失礼な男でしかない。
「おい、ここには女の店員はいねぇのかよ」
 高圧的に話しかけられた。店員を舐めていると一瞬で分かる口調だった。こういう客は嫌いだ。その太い首を絞めてやりたい衝動に駆られたが、ここで冷静さを失ってしまえば負けである。碌でもなさそうな人間を殺すこと自体は問題ないが、予定にないアドリブの殺人はしない主義である。何より今は、しがないコンビニ店員だ。
「今の時間、女性店員はおりません」
「ふざけやがって。男なんか見ても何も興奮しねぇし盛り上がんねぇだろうが」
「申し訳ありませんが、女性店員を一目見ることが目的でしたらお引き取り願えますか」
「お前客に向かって何て口聞いてんだ? こっちはわざわざ足を運んでやったんだぞ」
「それにつきましては感謝しております。何か商品をお探しでしたらご案内致しますが、お客様も当然ご存知の通り、残念ながら女性店員は商品ではございませんのでご案内することができません。それを踏まえた上でお尋ね致しますが、店内にあるもので何をお探しでしょうか」
 毅然とした態度を崩すことなく突っぱね、反社の可能性も捨てきれない刺青の男の目を見て強気に対応する。もし裏社会の人間だとしても、すぐ感情的になるような人間の階級は下の方だろう。チンピラである。上へ行くほど余裕や貫禄があるものだと彼は思っていた。この男からは何も感じない。刺青は自分を強く見せるためのただの装飾だろうか。苛立っている男を見るに、そんなような気がしてきた。こんな男がヤクザであるなど、その道で食っている本業の人たちが好い顔をしないのではないか。店員を前に自分が上だと無駄に威張っている刺青男は、ヤクザの下っ端ですらないただの可哀想な落ちこぼれか。
 男は不満を隠しもせずに舌を鳴らす。何も言い返してこない。返す言葉が見つからないのか。熱くなって我を失わないよう、男なりに必死に我慢しているのか。どちらであってもどうでもいい。とにかく早く帰ってほしいものである。ここでまた何か問題を起こされてしまっては堪ったものではない。余計なことで警察沙汰になるのはもう勘弁してほしかった。
「舐めやがって。気味の悪いクソ店員が」
 内に秘めることもなく罵声を浴びせた刺青男が、腹立たしげに彼を睥睨して出て行った。勝手に来店して勝手に不機嫌になって出て行ったのだ。
「ありがとうございました」
 男の背中を見ながら、暴言を飛ばされても傷つかない鋼のメンタルを持っている彼はコンビニ店員としての言葉を発する。脳内では徹底的に絞め殺しておいた。
 舐めてんのはお前だろ刺青野郎が。ごちゃごちゃ言ってないでAVでも見て吠えてろよ。
 外面と内面で、実際に人に中指を突き立てられるかられないかほどの差がある彼は、冷静沈着な分厚い仮面に依然として一切の罅を入れることなく仕事を再開した。
「大丈夫だった?」
 息を潜め、出るタイミングを窺っていたのだろう店長が彼に歩み寄り、心配そうに眉尻を下げて彼を見上げた。
「大丈夫です」
 彼は冷静に答える。刺青の男は、上司である店長に助けを求めるようなレベルのクレーマーですらなかった。ヤクザにもなりきれなければ上司を呼び寄せるほどの悪質なクレーマーにもなりきれない。中途半端な人間である。しかしながら、勝手にイライラしながらも事を大きくはせずに背中を見せてくれたことはありがたいことだった。
「間に入ってあげた方がいいかなと思ったんだけど、あんな刺青入ってる人に威圧的に来られてもいつも通り冷静だし、寧ろ僕の方がちょっと動揺してたから思わず任せちゃったよ。ごめんね」
 店長は申し訳なさそうな表情を浮かべた。その表情の片隅では、疲労を感じているようにも、逆に一安心しているようにも見える。店長の本音が垣間見えるようだった。
 動揺していたと言っているが、正直なところ、また警察を呼ぶ羽目になるかもしれないと気を揉んでいたのではないか。責任者である店長の心労は、何の肩書きもない彼には想像もできないことであった。現場にはいなかったはずの店長が一番、巻き込み事故を食らっているような気がしないでもない。
 それでも、店長の穏やかさは変わらない。全裸男のことで報告をした時も、被害者の女性含めまずは身の安全が確保できているかの確認をしてくれた。後輩が逃げようとした全裸男を捕らえて羽交い締めにしていることを伝えた時には、どうしてわざわざ追いかけるような危険な真似をしたのかと彼が叱責されてしまったが、最終的には現場へと駆けつけてくれたのだった。事が落ち着いてから、逃走を図った全裸男を取り押さえた張本人に店長が、危険な行動は取るなと注意したことは言うまでもないが、最後には労いの言葉をかけてあげていた。後輩の起こした行動を完全否定することはしていなかったのだ。人の気持ちをよく考えている店長は、電話口で声を荒げてしまったことを彼に謝るくらいには誠実で繊細な人であった。
 基本的にはのんびりとしているものの、いざという時はてきぱきと指示を出して動いてくれる。見かけによらず意外とリーダーシップが取れるところが、この店長が店長になれた所以だろうか。
「特に問題を起こさずに帰ってくれて良かったです」
「それはそうだね」
 店長が頷く。彼は刺青の男に気味悪がられてしまった調子のまま、止まっていた手を再度動かした。
 自分のことを気味の悪いクソ店員だと思っている人は、刺青の男以外にもいるのかもしれないと彼は思う。それでも気にすることはなかった。誰も彼もに好かれるなど無理な話である。寧ろ、人間的に好きか嫌いか分かれる方が、普通の人間っぽいのではないか。
 自分は普通になれている。普通に溶け込めている。周りの反応がそうしてくれている。その他大勢の一人になれている。どこにでもいる普通の人間としてこの場にいられている。
 男の言う気味の悪いクソ店員であっても、彼は淡々と仕事を続けた。その様子を見た店長も、別の売場で仕事の続きを始める。他の店員と比べてメンタルの強い彼にケアを施す必要はほとんどないのだった。
 刺青の男を捌いてから数十分が経った頃、扉が開閉されて新たな客が来店したかと思えば、やけに声量のある声に呼びかけられた。耳が勝手に覚えてしまった声だった。
「こんばんは、先輩。来ちゃったっす」
 言わずと知れた後輩である。彼は無言で顔を向けた。こちらへ駆け寄りながらにこにこと笑みを浮かべている後輩と、駆ける後輩の後を追っている金髪の女の姿が目に入った。後輩はオフの日で、彼女とデートをすると言っていたはずだ。つまりこの金髪の女が、後輩曰く超可愛い彼女なのだろうか。画像を見せられた時は近すぎてよく分からなかったため、後輩の彼女の姿は把握できていなかった。初見と言っても過言ではない。
「先輩に彼女紹介するって言ったんで、連れてきたんすよ。先輩に会うにはこの時間のこのコンビニしかないんで、先輩の仕事中になっちゃったんすけど」
 ノーリアクションでこちらが何も聞いていなくても勝手に語り始めるのが後輩であり、彼女など紹介しなくていいと言っても紹介してくるのがまた後輩である。
 求めてはいない彼女の紹介であったとしても、流石に何か口にしなければならないかと彼は金髪の女をじろじろ見ない程度に見た。負けん気の強そうな女だった。だからといって、負けん気の強そうな人ですね、とは言うべきではないだろう。彼は他の当たり障りのない要素を探したが、女が先に口を開いたことで彼の出番は消失した。構わなかった。
「この人がよく話題に上がってた先輩なの? やばすぎ、超かっこいいじゃん。思った以上に推せるんだけど」
「な、言った通りっしょ。かっこいいわけよ。中身もイケメンの最強の先輩だよ。同じ男だけど、俺も先輩のことはめちゃくちゃ推してるんだよな。一生ついていきたいくらい」
 後輩の評価が高すぎる気がしなくもないが、彼は否定も肯定もしなかった。喋るとギャルであることが判明した金髪の女には興味津々といったようにまじまじと見られ、あまり良い気分にはなれない。彼氏の前で他所の男を超かっこいいと言うのはどうかと思うが、その彼氏も他所の男をかっこいいだの中身もイケメンだの宣うのだから全くもって気分を害してはいないのだろう。共感してもらったことが嬉しくてたまらないといったようなことがその顔に書いてある。おまけにいつのまにか推されている。
「あれ、なんか聞き覚えのある声がすると思ったら」
「あ、店長、こんばんは」
「こんばんは。珍しいね、こんな時間にどうしたの?」
 後輩の声に導かれた店長が顔を出した。綺麗ではない歪な輪に自然と加わる。その瞬間、彼はそこから弾き出された。輪を歪ませていたのは未だ何も喋っていない彼であり、店長が来たことで歪だった輪が綺麗に完成した。
「先輩に彼女を紹介しに来たんです。先輩全然連絡先教えてくれないからここまで来るしかなくて」
「ああ、なるほど。なかなかガードが固いもんね」
「そうなんですよ。何回聞いても教えませんの一点張りで。俺嫌われてるんですかね」
「そんなことはないと思うよ」
「だといいんですけど」
 本人がいる前で話すような内容ではないと思ったが、それでも彼は無言を貫いた。ガードが固いと言われようが、嫌われているのかと思われようが、連絡先を教えるつもりはない。その意思が変わることはなかった。
 今のうちに、自分から意識が逸れている間に、彼はしれっとその場を離れようと画策したが、金髪のギャルにあっさりと見つかり動きを封じられてしまった。
 無視しても良かったが、そこまで態度が悪いのは逆効果かもしれない。自分の印象を可もなく不可もなくといった程度に保つためには、薄くても多少なりともリアクションを取っておいた方がいいだろう。
 そう思い直した彼は、三人の輪に片足の爪先だけを軽く突っ込んだ。
「ねぇ先輩、何か喋ってみてくれないですか? マジで声聞きたいんですけど」
 彼と会話のキャッチボールをしようとしているのか、ギャルが質問を投げかけてきた。
 プライベートに土足で踏み込んでくるような強引な距離の詰め方が後輩と似ている。声量も大きく、よく通る声をしている。だからこそ、後輩と気が合ったのだろうか。
 声の出る二人の会話はうるさそうだと思いながら、彼はその思考とは全く関係のない別の言葉を思わず吐露していた。
「俺はあなたの先輩ではありません」
 一番引っかかった箇所だった。当たり前のように先輩と呼んでいることが、妙に胸に引っかかってしまった。
 後輩が先輩先輩と呼んでいるために、彼女の方にまでそれが移っているのだろうことは想像に難くないが、同じ職場で働いている後輩はともかく、ほとんど関わることのないような金髪ギャルに馴れ馴れしく呼ばれるのは気持ちのいいものではない。
 彼は盛り上がりに水を差すような冷たい言葉を投げ返してしまったが、金髪ギャルは彼が投げたものを避けたり落としたりもせずに容易に受け取った。
「え、やば、喋ったじゃん。不意打ちすぎだし超イケボなんですけど。めちゃ好みの声してる。やばくない? 私この先輩本当に推せるんだけど」
 内容は何一つ聞いておらず、彼の声しか聞いていないと分かる返答だった。
 ギャルは隣の後輩の肩を叩き、やばいやばい、と興奮気味に繰り返している。やばいっしょ、やばいんだよ、と後輩も一緒になってテンションが上がっている。やばいとしか言っていない。
「モテモテだね」
 のんびりとしている店長が、ゆったりとした口調で他人事のように言葉を漏らす。実際他人事なのだろう。こちらとしてはモテても推されても困るが、そうは言わずに、よく分からない人たちですね、とよく分からない返事を適当に舌に乗せた。話を聞かずに声しか聞いていないギャルの相手をするのはやめにした。
 自分が後輩とギャルの何を刺したのか分からないが、どうせ刺すのなら物理的に刺したいものである。物理的に。
 彼は盛り上がっている眼前のカップルを刺し殺す想像を顔色一つ変えずに繰り広げた。ぐさぐさぐさぐさ刃物を突き刺して、突き刺して、突き刺して。若い男女の身体に無数の穴を空ける。刺して刺して刺しまくった後は、この場にいる店長も滅多刺しにする。店長は巻き込まれ体質である。彼の脳内で初めて、現場で巻き込まれたのだった。
 次に誰かを殺す時は、特に捻らず刺殺にするかと彼は漠然と思う。相手が自殺志願者である場合は希望に沿った殺し方をするつもりだが、そうでなければ刺殺する。遠方にいるカナデが捕らえた金蔓を刺し殺すのもいいかもしれない。とりあえず刺したい。殺したい。刺して殺したい。
「先輩に彼女を紹介できて良かったっす。先輩がやばいくらいかっこいい人だってことも彼女と共有できて良かったっす。好きな人と推しが被るのは最高っすね」
 終始嬉しそうで楽しそうな後輩の明朗な声で彼は我に返った。
 脳内で刺殺されたことなど知る由もない後輩の快活さは相変わらずで、隣の金髪ギャルと目を合わせては笑みを浮かべている。笑い合っている。彼は無表情でそれを眺めていたが、彼の隣の店長は微笑ましそうにしていた。
 店長くらいの年代になると、仲の良い若いカップルを見ると微笑ましくなるのだろうか。彼はいちゃつくカップルを見ても何も感じないのだった。
「せっかくコンビニまで来たんで、ちょっとだけ買い物して帰るっすね」
 彼女と身を寄せ合って店内を物色し始めた後輩は、自分の職場であっても恥ずかしがることなくゴムを購入した。二人はこれから家に帰ってベッドの上で絡まるようである。
 先輩また次のシフトよろしくっす、とにかにかと歯を見せて笑う後輩は知らない。マジのイケメンでイケボな先輩バイバイ、と大きく手を振って笑みを見せる彼女も知らない。身体を重ねることよりも享楽的な行為があることを。彼の中ではそれが殺人であることを。殺人に勝る快楽などないことを。