◇
「聞いてくださいよ先輩。俺ついに、彼女ができちゃったんすよ」
客がいない店内で、二人して番人のようにレジにいる中、後輩がグッと距離を縮めて興奮気味に話しかけてきた。既に日付は変わっている。
彼は深夜テンションに入りつつあるような後輩を一瞥し、そうですか、と素っ気ない返事をして秒で口を閉じた。彼のリアクションが冷たいことにはすっかり慣れてしまったのか、後輩は気分を害すこともなく嬉々として続けた。
「そうなんすよ。やばくないっすか?」
何がどうやばいのか分からないが、後輩の中では彼女ができたことはやばいことらしいため、彼は顔も見ずに適当にやばいと共感し、雑に遇った。
「やばいですね」
「やばいんすよ本当に。毎日幸せすぎっす」
「それはやばいですね」
やばいやばい、それはやばい。彼女できたのやばい。やばすぎる。めちゃくちゃやばい。後輩の語彙に合わせてしまうと、途端に馬鹿っぽく思えてしまった。
「ちょっと先輩、流石に返事が適当すぎじゃないっすか? でもなんすかね、それでこそ先輩っすよね。氷のようにクールな先輩にオーバーリアクションされる方が調子狂っちゃいますし、何より気持ち悪いっす」
気持ち悪い。後輩もなかなか言うようになってきたが、確かに反応が大袈裟な自分を想像すると気持ち悪すぎた。しかし逆に考えれば、その気持ち悪いと思われる行動を取れば、後輩は自ら自分を避けるようになってくれるのだろうか。
強盗事件に巻き込まれてしまった日から、後輩には変に懐かれてしまっていた。どれほど雑に扱っても全く手応えがない。寧ろ雑なその対応をいじられているような気さえする。何を言われても何も言わないことが逆効果になっているのか。喜怒哀楽を見せないことで、無表情で無感情の怖い人というよりも、好き放題発言しても怒らない人だと思われているのかもしれない。とどのつまり、舐められているのだ。自分は年下に舐められてしまうタイプのようだが、言い換えれば、それだけ人畜無害であり、隠したいことを隠せているということだ。怪しい人間に積極的に近づこうとする物好きな人などそうそういるものではない。後輩の対応をするのは面倒ではあるが、変に思われていないのならこのままにしておく方が得策か。
彼は頭を働かせる。真顔のまま、この後輩への今後の対応を思案したが、下手に態度を一変させるよりも現状をキープした方がいいという結論に至った。他人にマークされない、誰の記憶にも残らない、影の薄い人間であり続けることが重要だ。今はコンビニ店員の皮を被っているのだから、コンビニ店員でなければならない。それに後輩に舐められている先輩という設定が追加される。彼は非常にしがないコンビニ店員なのだ。
「それで先輩、どうっすか? 俺の彼女見たくないっすか?」
うずうず、うずうず。顔面からも態度からも、見せたくて見せたくてたまらないといった感情が迸っていた。いつ何時も面倒臭い男である。
「別に見なくていいです」
「そうっすよね。先輩だったら絶対そう言うと思ったんで、もうこっちから見せるっすね」
何が何でも彼女を見せるつもりだったようで、後輩はポケットからスマホを取り出してさらさらと操作し始めた。
勤務中にスマホを触るのは好ましくないが、注意できる立場にはいないため、彼は黙って目を瞑ることにした。彼女を見るまできっとこの話は終わらない。しつこい男は嫌われると思うが、それについてはどういう考えでいるのだろう。
「この子っす。俺の彼女」
目と鼻の先に画面を突きつけられた。近すぎて視界がぼやけ、彼女とやらがどういった風貌なのか全くもって分からない。
これだけ近くで見せられると、いくら見てもほとんど何も認識できず、いつまで経っても輪郭すらはっきりしなかった。此奴は多分想像力が足りないのだろうと、彼は視界の半分以上を占めているスマホを見るともなく見ながら冷静に思う。
言動から何から、見てほしい気持ちが溢れすぎている。その熱量に後輩の彼女は覆い隠されている。こちらがわざわざその霧を掻き分けなければならないのか。面倒だ。そんなことをするつもりはない。後輩の彼女に興味はない。
「この人が彼女なんですね」
よく見えてもいない中、彼は当たり障りのないリアクションをして流した。興奮して熱くなっているからか距離感が馬鹿になっている後輩は、そうなんすよ、やばいっすよね、と素直に彼の返事を受け止め、スマホの画面を改めて確認する。彼女を見つめて愛おしそうに顔を綻ばせた。
満足してくれたようだ。後輩は彼女の姿を見せた気になっているようだが、彼の方は、確かに見せられたは見せられたものの、言うまでもなくちゃんと見られてはいないのだった。見ようともしていなかったのだった。よって、後輩の彼女がどんな容姿をしているのか、情報はほぼ皆無である。そのような内容の話題になってしまうと何かと問題があるが、適当に返事をしても、そもそも返事をしなくても、それでこそ先輩っすよね、という後輩自らが編み出してくれた魔法のような言葉がある。それでこそ後輩の先輩なのである。
「そうだ、今度先輩に、さっき見せた彼女のことを紹介してもいいっすか?」
「しなくていいです」
食い気味に即答する。スマホをポケットにしまった後輩が、妙案を思いついたとばかりに手を打ったが、彼は一秒たりとも考えずにその案を清々しいほど即座に切り捨てたのだった。
「そんなこと言わないでくださいよ。俺たちの仲じゃないっすか」
「そんな仲になった覚えはありませんが」
「そりゃないっすよ先輩」
そりゃないのは後輩である。後輩の彼女を紹介されるような親密な関係になった覚えはない。
後輩からは未だ懲りずに連絡先を聞かれることがあるが、ずっと断り続けていた。彼は自分に繋がる手段となり得るものを死守し続けているのだ。心を開かれていないと思うのが普通ではないのか。
どんなに冷たく遇っても人懐っこい犬のように尻尾を振って駆け寄ってくる後輩は、いくらなんでもポジティブがすぎる。疲れてしまう。
「俺はどうしても先輩に彼女を紹介したいんで、そのうち連れて来るっす。先輩の都合とかも知りたいんで、連絡先を教えてくれないっすか?」
「教えません」
「マジっすか? まだ教えてくれないんすか? いつになったら教えてくれるんすか?」
「教える気はありません」
「そんなぁ、マジ辛いっすよ先輩」
不覚にも、それは二人の中で定番のやりとりになっていた。連絡先を聞かれても断るのが当たり前で、連絡先を聞いても断られるのが当たり前。
後輩は百発百中でぶった斬られているのに、しぶとく足を掴んでくる。いつになったら諦めてくれるのか。最早こちらが、諦めてくれることを諦めかけているところまで来ていた。それでも折れるつもりはない。連絡先は絶対に教えない。一瞬の気の迷いが命取りとなるのだ。押しに負けて教えたら後悔する。一度でも使用したら人生が狂う薬物と同じである。
「とにかく何が何でも紹介しますんで、楽しみにしていてほしいっす。画像で見るより実物の方がそれはもう超可愛いんで。先輩のことだから大丈夫だって信じてますけど、絶対に惚れたらダメっすよ。マジで」
惚気る後輩の話に耳を傾けることもなく聞き流していると、久々に客が来店した。切り替えの早い後輩が、いらっしゃいませ、と我先に発するが、その言葉尻が不自然に萎む。彼はそもそも口を開けなかった。そうなるのも無理はない。来店してきた若い女性客はなぜか顔面蒼白で、息は酷く切れており、恐怖に怯えた様子でしきりに背後を気にしていたのだ。明らかに様子がおかしかった。
女性客はレジにいる男二人を認めると、あの、あの、と必死に何かを伝えようと声を上げた。しかし、パニックに陥っているのか全く要領を得ない。女性を見るにただならぬ雰囲気であることは確かだが、それくらいしかまだこちらには情報がなく、何を訴えているのか彼にも後輩にも分からなかった。
「ど、どうしたんすか? え、え、な、何事? 何事っすかこれ」
「あの、あの、あれ、あれが、あの、あれ、あの、お、おとこが、あの」
「あれ? おとこ? お、おとこって、男? ど、どういうことっすか?」
「ど、どういうこと、どういうこと、え、えと、あの、お、おとこが、おとこが」
「ちょっと落ち着いてくれませんか。そっちは一緒にパニックになってどうするんですか」
混乱している女性に引っ張られ後輩まで動揺していた。これでは何も分からない。話も進まない。パニックになっている人間にパニックで返したところで逆効果である。
強盗事件然り、また何かよくない事象に巻き込まれてしまいそうな気配を彼は密かに感じていた。どう見ても客として来たわけではなさそうな女性の相手をするのは気が進まないが、この場合、コンビニ店員か否かは関係なく、普通の人間だったら無視はしないだろう。一般社会に溶け込むために、彼は冷静な口調で女性の上がった心拍数をゆっくり下げさせた。
「説明は後でいいです。まず何をしてほしいのか、結論を先に言ってください」
目が泳いでいる女性を見つめ、簡単な質問を投げかける。錯乱している人間に何があったのかを聞いたところで、しっかりした返答が為されるとは思えない。説明をさせるのは、諸々が落ち着いた後でも遅くはないだろう。
女性は出入り口をちらちらと気にしながらも、彼の質問に答えようと、意識して息を吸って、吐いた。
「あ、あの、えと、その、た、たすけて、あ、そ、そう、そうです。あの、たすけてください。ぜ、ぜんらのおとこに、あ、あの、お、おいかけられて」
女性が言ってすぐ新たな客が来店し、三人は出入り口に顔を向けた。その瞬間、女性が悲鳴を上げ半狂乱に陥り、あろうことかレジカウンターを乗り越えようと身を乗り出してきた。入って来た全裸の人間を見た後では無闇に追い返すこともできない。女性はそのままレジ内に転がり込み、近くにいた彼を盾にしてガタガタと震えた。
「おい女、何逃げてんだよ。俺の身体をもっと見ろって言ってんだろ。ほら、ちゃんと見ろ」
「ちょ、先輩、超やばい奴来たんすけどどうすんすかこれ、やばいっすよ超やばい」
「あ、あの男に、し、しつこく、あの、追いかけられて、た、たすけて、たすけてください」
「お前が逃げるからだろうが。お前のせいで俺の足裏は傷だらけだ。ほら、見てみろ」
「やばい、やばい、めちゃくちゃやばい奴じゃないっすか。こんなやばい奴俺初めて見たっすよ」
突っ込みどころが多すぎる。何から処理していけばいいのか分からなくなってしまいそうなほどにカオスな状況だった。
しかしながら、どこからどう見ても不審者でしかない、布切れ一つ身につけていない男を追い出して捉えつつ警察に通報することが何よりも先であることは間違いない。強盗の時と同様、この件についても店長に報告する必要もあるだろう。
店長に伝えるのはともかく、また警察沙汰になってしまうのかと溜息が漏れそうになる。裏で人を殺している以上、自分が加害者ではなくとも警察と接触することは避けたいのに、公共の場を全裸でうろつき回り、おまけに女性を追いかけ回すようなとち狂った変態男のせいで避けたくても避けられなかった。
直近で殺したあの性犯罪者の父親のものを片したように、恥ずかしげもなく披露してくれている大事なものを踏み潰してぶった斬って食わせてやりたくなったが、普通のコンビニ店員はそんな暴力的なことはしない。
彼は全裸の男にも、自分を盾にする女性にも動じることなく口を開いた。
「やばいやばい言ってないで警察に通報してくれるとありがたいんですが」
「え、俺っすか?」
「やばいやばい言ってるのは一人しかいませんよ」
「警察だと? 俺は何も悪いことしてねぇだろ」
「自分が全裸なこと忘れてるんですか。そんな姿で反論されても説得力なんて皆無ですよ」
異常事態であるはずなのに、どことなく緊張感の感じられない異常事態だった。全裸の男が攻撃的ではないからだろうか。
彼もなぜ自分が、男たちのボケとも言えないようなボケに突っ込んでいるのか分からなくなりかけていた。見るに堪えないコントでも始まっているのか。
「男の店員と話しても仕方がねぇ。俺はそこの女に、俺のこの身体を見てほしいだけなんだよ」
どこも隠そうともせず胸を張る男はレスポンスの早い彼と口論をしても勝ち目がないと踏んだのか、彼の後ろを隠れ場所にしている女性に目をつけた。
再度目をつけられた女性は短い悲鳴を上げる。目の前の全裸の人間と同性である彼と後輩はともかく、性別の異なる女性、それも狙われている女性からすればこの状況は正真正銘の異常事態に他ならない。底知れない恐怖を感じているからだろうが、見ず知らずのコンビニ店員に縋りついてしまうほどに。
「あ、すみません。あの、コンビニに、全裸の男が来店してきて、すぐ来てほしいんですけど」
「あ、おい、何通報してんだ」
「はい、はい、暴れ回ってる、とかではなく、あ、でも、コンビニに逃げ込んできた女性をずっと追いかけ回してたみたいで。はい、今も、ちょっと、女性が狙われてるんです」
「狙ってねぇ。俺はただ見てほしいだけだって言ってんだろ」
「女性と全裸の男の間には先輩、いや、先輩じゃ分からないですよね。あの、もう一人の店員が入ってくれていて。はい、はい、あ、来てくれるんですか? ありがとうございます。はい、はい、俺の名前ですね。俺の名前は」
強盗の件で彼が通報した時と同じように、後輩も名前や連絡先などの個人情報を聞かれていた。たじろぐことなく答えてみせる後輩には何も後ろめたいことなどないのだろう。
男の訴えには全く耳を傾けなかった後輩が子機を置く。その態度から、後輩は全裸の男を、嫌な気分にさせない程度に揶揄してもよさそうなタイプの人間だと判断したことが窺えた。確かにこの全裸の人間は、犯罪者の中でも多くの人に愚弄され軽蔑されそうな雑魚のように思えなくもない。全裸を晒して興奮するような露出狂の変態雑魚男。
「クソが。通報しやがって。おい女、お前が俺の身体を見ずに逃げ回ったせいだからな。覚えておけよ」
「あ、なんすか、逃げる気っすか。絶対逃さないっすよ」
捨て台詞を吐き、今更逃走を図る全裸の男を、咄嗟にレジを飛び出した後輩が追いかける。扉が激しく開閉され、異常な男と正常な男二人が外を疾走した。後輩の印象が強盗に殴られた時と偉く違うのは、自分にとってとても大事な人で、守るべき人ができたからだろうか。
後ろで震えながら息を詰める女性を見遣る。この女性を自分の彼女と重ね合わせたのだとしたら、後輩の中に突如として芽生えた闘志にもそれとなく納得がいった。恋は人を変える。絶対に逃すわけがない。
全裸男は後輩に任せ、彼はひとまず女性を椅子に座らせた。問題の人間がいなくなり、多少は落ち着きを取り戻したようだが、それでもまだ震えているように見えなくもない。
「もうすぐ警察が来ます」
抑揚なく告げた後、彼は外に目を向けた。薄らとだが、後輩が男をとっ捕まえて羽交い締めにしている様子が見えた。相手は全裸で裸足である。コンクリートの上を走ると痛みが伴うはずだ。思うようにスピードを出せるとは思えない上に、おっさんと呼べそうな見た目でもあった。決して若くはない。そんな人間が、まだ二十代の若い男、当然ながら全裸でも裸足でもない男から逃げ切れるはずがなかった。
「あ、あの」
怯えていた女性に声をかけられた彼は、外で一悶着している男二人から目を逸らして首を動かした。女性は何か言いたそうに唇を開いたり閉じたりしている。
なぜ自分がこんな目に遭ったのか、といった心底どうでもいい身の上話でも始めるつもりだろうか。長話は嫌いである。女性に関するなぜも、あの全裸の男に関するなぜも、彼にはこれっぽっちも興味がない。死を求める人間が、なぜそれを切望するようになったのかに関心を示さないように。だからこそ彼は、女性に何も聞かなかったのだ。
女性は椅子からゆっくりと立ち上がった。これから言うことは、立って言うべきこと。それが最低限の礼儀だとでも言わんばかりに。
どうやら、彼の懸念は杞憂だったらしい。身の上話する雰囲気ではなさそうだ。彼は真顔で女性を眺めた。
「め、迷惑かけて、すみませんでした。た、助けて、くださって、あ、ありがとう、ございました」
腰を折って深く頭を下げられる。人の旋毛を、上から見下ろすような角度で見るのは二回目である。
遠くの方でパトカーのサイレンが聞こえ始めた。彼は女性には何も言わずその場を移動し、後輩が警察に通報する際に使用した子機に手を伸ばす。もうじき警察が現着する。外で必死に裸の男を押さえ込んでいる後輩にも加勢が入るだろう。自分が男二人や女性から目を離して別のことをしても問題ないはずだ。
強盗犯に全裸男。彼自身は連続殺人鬼。ここは意外と治安が悪いようだ。自分が犯罪者であるがために、自分と同じ犯罪者たちが自然と引き寄せられてしまうのだろうか。
そんなスピリチュアルにも似た馬鹿げたことを思いながら、彼は深夜であっても構うことなく、自宅で休んでいるであろう店長に電話をかけた。
「聞いてくださいよ先輩。俺ついに、彼女ができちゃったんすよ」
客がいない店内で、二人して番人のようにレジにいる中、後輩がグッと距離を縮めて興奮気味に話しかけてきた。既に日付は変わっている。
彼は深夜テンションに入りつつあるような後輩を一瞥し、そうですか、と素っ気ない返事をして秒で口を閉じた。彼のリアクションが冷たいことにはすっかり慣れてしまったのか、後輩は気分を害すこともなく嬉々として続けた。
「そうなんすよ。やばくないっすか?」
何がどうやばいのか分からないが、後輩の中では彼女ができたことはやばいことらしいため、彼は顔も見ずに適当にやばいと共感し、雑に遇った。
「やばいですね」
「やばいんすよ本当に。毎日幸せすぎっす」
「それはやばいですね」
やばいやばい、それはやばい。彼女できたのやばい。やばすぎる。めちゃくちゃやばい。後輩の語彙に合わせてしまうと、途端に馬鹿っぽく思えてしまった。
「ちょっと先輩、流石に返事が適当すぎじゃないっすか? でもなんすかね、それでこそ先輩っすよね。氷のようにクールな先輩にオーバーリアクションされる方が調子狂っちゃいますし、何より気持ち悪いっす」
気持ち悪い。後輩もなかなか言うようになってきたが、確かに反応が大袈裟な自分を想像すると気持ち悪すぎた。しかし逆に考えれば、その気持ち悪いと思われる行動を取れば、後輩は自ら自分を避けるようになってくれるのだろうか。
強盗事件に巻き込まれてしまった日から、後輩には変に懐かれてしまっていた。どれほど雑に扱っても全く手応えがない。寧ろ雑なその対応をいじられているような気さえする。何を言われても何も言わないことが逆効果になっているのか。喜怒哀楽を見せないことで、無表情で無感情の怖い人というよりも、好き放題発言しても怒らない人だと思われているのかもしれない。とどのつまり、舐められているのだ。自分は年下に舐められてしまうタイプのようだが、言い換えれば、それだけ人畜無害であり、隠したいことを隠せているということだ。怪しい人間に積極的に近づこうとする物好きな人などそうそういるものではない。後輩の対応をするのは面倒ではあるが、変に思われていないのならこのままにしておく方が得策か。
彼は頭を働かせる。真顔のまま、この後輩への今後の対応を思案したが、下手に態度を一変させるよりも現状をキープした方がいいという結論に至った。他人にマークされない、誰の記憶にも残らない、影の薄い人間であり続けることが重要だ。今はコンビニ店員の皮を被っているのだから、コンビニ店員でなければならない。それに後輩に舐められている先輩という設定が追加される。彼は非常にしがないコンビニ店員なのだ。
「それで先輩、どうっすか? 俺の彼女見たくないっすか?」
うずうず、うずうず。顔面からも態度からも、見せたくて見せたくてたまらないといった感情が迸っていた。いつ何時も面倒臭い男である。
「別に見なくていいです」
「そうっすよね。先輩だったら絶対そう言うと思ったんで、もうこっちから見せるっすね」
何が何でも彼女を見せるつもりだったようで、後輩はポケットからスマホを取り出してさらさらと操作し始めた。
勤務中にスマホを触るのは好ましくないが、注意できる立場にはいないため、彼は黙って目を瞑ることにした。彼女を見るまできっとこの話は終わらない。しつこい男は嫌われると思うが、それについてはどういう考えでいるのだろう。
「この子っす。俺の彼女」
目と鼻の先に画面を突きつけられた。近すぎて視界がぼやけ、彼女とやらがどういった風貌なのか全くもって分からない。
これだけ近くで見せられると、いくら見てもほとんど何も認識できず、いつまで経っても輪郭すらはっきりしなかった。此奴は多分想像力が足りないのだろうと、彼は視界の半分以上を占めているスマホを見るともなく見ながら冷静に思う。
言動から何から、見てほしい気持ちが溢れすぎている。その熱量に後輩の彼女は覆い隠されている。こちらがわざわざその霧を掻き分けなければならないのか。面倒だ。そんなことをするつもりはない。後輩の彼女に興味はない。
「この人が彼女なんですね」
よく見えてもいない中、彼は当たり障りのないリアクションをして流した。興奮して熱くなっているからか距離感が馬鹿になっている後輩は、そうなんすよ、やばいっすよね、と素直に彼の返事を受け止め、スマホの画面を改めて確認する。彼女を見つめて愛おしそうに顔を綻ばせた。
満足してくれたようだ。後輩は彼女の姿を見せた気になっているようだが、彼の方は、確かに見せられたは見せられたものの、言うまでもなくちゃんと見られてはいないのだった。見ようともしていなかったのだった。よって、後輩の彼女がどんな容姿をしているのか、情報はほぼ皆無である。そのような内容の話題になってしまうと何かと問題があるが、適当に返事をしても、そもそも返事をしなくても、それでこそ先輩っすよね、という後輩自らが編み出してくれた魔法のような言葉がある。それでこそ後輩の先輩なのである。
「そうだ、今度先輩に、さっき見せた彼女のことを紹介してもいいっすか?」
「しなくていいです」
食い気味に即答する。スマホをポケットにしまった後輩が、妙案を思いついたとばかりに手を打ったが、彼は一秒たりとも考えずにその案を清々しいほど即座に切り捨てたのだった。
「そんなこと言わないでくださいよ。俺たちの仲じゃないっすか」
「そんな仲になった覚えはありませんが」
「そりゃないっすよ先輩」
そりゃないのは後輩である。後輩の彼女を紹介されるような親密な関係になった覚えはない。
後輩からは未だ懲りずに連絡先を聞かれることがあるが、ずっと断り続けていた。彼は自分に繋がる手段となり得るものを死守し続けているのだ。心を開かれていないと思うのが普通ではないのか。
どんなに冷たく遇っても人懐っこい犬のように尻尾を振って駆け寄ってくる後輩は、いくらなんでもポジティブがすぎる。疲れてしまう。
「俺はどうしても先輩に彼女を紹介したいんで、そのうち連れて来るっす。先輩の都合とかも知りたいんで、連絡先を教えてくれないっすか?」
「教えません」
「マジっすか? まだ教えてくれないんすか? いつになったら教えてくれるんすか?」
「教える気はありません」
「そんなぁ、マジ辛いっすよ先輩」
不覚にも、それは二人の中で定番のやりとりになっていた。連絡先を聞かれても断るのが当たり前で、連絡先を聞いても断られるのが当たり前。
後輩は百発百中でぶった斬られているのに、しぶとく足を掴んでくる。いつになったら諦めてくれるのか。最早こちらが、諦めてくれることを諦めかけているところまで来ていた。それでも折れるつもりはない。連絡先は絶対に教えない。一瞬の気の迷いが命取りとなるのだ。押しに負けて教えたら後悔する。一度でも使用したら人生が狂う薬物と同じである。
「とにかく何が何でも紹介しますんで、楽しみにしていてほしいっす。画像で見るより実物の方がそれはもう超可愛いんで。先輩のことだから大丈夫だって信じてますけど、絶対に惚れたらダメっすよ。マジで」
惚気る後輩の話に耳を傾けることもなく聞き流していると、久々に客が来店した。切り替えの早い後輩が、いらっしゃいませ、と我先に発するが、その言葉尻が不自然に萎む。彼はそもそも口を開けなかった。そうなるのも無理はない。来店してきた若い女性客はなぜか顔面蒼白で、息は酷く切れており、恐怖に怯えた様子でしきりに背後を気にしていたのだ。明らかに様子がおかしかった。
女性客はレジにいる男二人を認めると、あの、あの、と必死に何かを伝えようと声を上げた。しかし、パニックに陥っているのか全く要領を得ない。女性を見るにただならぬ雰囲気であることは確かだが、それくらいしかまだこちらには情報がなく、何を訴えているのか彼にも後輩にも分からなかった。
「ど、どうしたんすか? え、え、な、何事? 何事っすかこれ」
「あの、あの、あれ、あれが、あの、あれ、あの、お、おとこが、あの」
「あれ? おとこ? お、おとこって、男? ど、どういうことっすか?」
「ど、どういうこと、どういうこと、え、えと、あの、お、おとこが、おとこが」
「ちょっと落ち着いてくれませんか。そっちは一緒にパニックになってどうするんですか」
混乱している女性に引っ張られ後輩まで動揺していた。これでは何も分からない。話も進まない。パニックになっている人間にパニックで返したところで逆効果である。
強盗事件然り、また何かよくない事象に巻き込まれてしまいそうな気配を彼は密かに感じていた。どう見ても客として来たわけではなさそうな女性の相手をするのは気が進まないが、この場合、コンビニ店員か否かは関係なく、普通の人間だったら無視はしないだろう。一般社会に溶け込むために、彼は冷静な口調で女性の上がった心拍数をゆっくり下げさせた。
「説明は後でいいです。まず何をしてほしいのか、結論を先に言ってください」
目が泳いでいる女性を見つめ、簡単な質問を投げかける。錯乱している人間に何があったのかを聞いたところで、しっかりした返答が為されるとは思えない。説明をさせるのは、諸々が落ち着いた後でも遅くはないだろう。
女性は出入り口をちらちらと気にしながらも、彼の質問に答えようと、意識して息を吸って、吐いた。
「あ、あの、えと、その、た、たすけて、あ、そ、そう、そうです。あの、たすけてください。ぜ、ぜんらのおとこに、あ、あの、お、おいかけられて」
女性が言ってすぐ新たな客が来店し、三人は出入り口に顔を向けた。その瞬間、女性が悲鳴を上げ半狂乱に陥り、あろうことかレジカウンターを乗り越えようと身を乗り出してきた。入って来た全裸の人間を見た後では無闇に追い返すこともできない。女性はそのままレジ内に転がり込み、近くにいた彼を盾にしてガタガタと震えた。
「おい女、何逃げてんだよ。俺の身体をもっと見ろって言ってんだろ。ほら、ちゃんと見ろ」
「ちょ、先輩、超やばい奴来たんすけどどうすんすかこれ、やばいっすよ超やばい」
「あ、あの男に、し、しつこく、あの、追いかけられて、た、たすけて、たすけてください」
「お前が逃げるからだろうが。お前のせいで俺の足裏は傷だらけだ。ほら、見てみろ」
「やばい、やばい、めちゃくちゃやばい奴じゃないっすか。こんなやばい奴俺初めて見たっすよ」
突っ込みどころが多すぎる。何から処理していけばいいのか分からなくなってしまいそうなほどにカオスな状況だった。
しかしながら、どこからどう見ても不審者でしかない、布切れ一つ身につけていない男を追い出して捉えつつ警察に通報することが何よりも先であることは間違いない。強盗の時と同様、この件についても店長に報告する必要もあるだろう。
店長に伝えるのはともかく、また警察沙汰になってしまうのかと溜息が漏れそうになる。裏で人を殺している以上、自分が加害者ではなくとも警察と接触することは避けたいのに、公共の場を全裸でうろつき回り、おまけに女性を追いかけ回すようなとち狂った変態男のせいで避けたくても避けられなかった。
直近で殺したあの性犯罪者の父親のものを片したように、恥ずかしげもなく披露してくれている大事なものを踏み潰してぶった斬って食わせてやりたくなったが、普通のコンビニ店員はそんな暴力的なことはしない。
彼は全裸の男にも、自分を盾にする女性にも動じることなく口を開いた。
「やばいやばい言ってないで警察に通報してくれるとありがたいんですが」
「え、俺っすか?」
「やばいやばい言ってるのは一人しかいませんよ」
「警察だと? 俺は何も悪いことしてねぇだろ」
「自分が全裸なこと忘れてるんですか。そんな姿で反論されても説得力なんて皆無ですよ」
異常事態であるはずなのに、どことなく緊張感の感じられない異常事態だった。全裸の男が攻撃的ではないからだろうか。
彼もなぜ自分が、男たちのボケとも言えないようなボケに突っ込んでいるのか分からなくなりかけていた。見るに堪えないコントでも始まっているのか。
「男の店員と話しても仕方がねぇ。俺はそこの女に、俺のこの身体を見てほしいだけなんだよ」
どこも隠そうともせず胸を張る男はレスポンスの早い彼と口論をしても勝ち目がないと踏んだのか、彼の後ろを隠れ場所にしている女性に目をつけた。
再度目をつけられた女性は短い悲鳴を上げる。目の前の全裸の人間と同性である彼と後輩はともかく、性別の異なる女性、それも狙われている女性からすればこの状況は正真正銘の異常事態に他ならない。底知れない恐怖を感じているからだろうが、見ず知らずのコンビニ店員に縋りついてしまうほどに。
「あ、すみません。あの、コンビニに、全裸の男が来店してきて、すぐ来てほしいんですけど」
「あ、おい、何通報してんだ」
「はい、はい、暴れ回ってる、とかではなく、あ、でも、コンビニに逃げ込んできた女性をずっと追いかけ回してたみたいで。はい、今も、ちょっと、女性が狙われてるんです」
「狙ってねぇ。俺はただ見てほしいだけだって言ってんだろ」
「女性と全裸の男の間には先輩、いや、先輩じゃ分からないですよね。あの、もう一人の店員が入ってくれていて。はい、はい、あ、来てくれるんですか? ありがとうございます。はい、はい、俺の名前ですね。俺の名前は」
強盗の件で彼が通報した時と同じように、後輩も名前や連絡先などの個人情報を聞かれていた。たじろぐことなく答えてみせる後輩には何も後ろめたいことなどないのだろう。
男の訴えには全く耳を傾けなかった後輩が子機を置く。その態度から、後輩は全裸の男を、嫌な気分にさせない程度に揶揄してもよさそうなタイプの人間だと判断したことが窺えた。確かにこの全裸の人間は、犯罪者の中でも多くの人に愚弄され軽蔑されそうな雑魚のように思えなくもない。全裸を晒して興奮するような露出狂の変態雑魚男。
「クソが。通報しやがって。おい女、お前が俺の身体を見ずに逃げ回ったせいだからな。覚えておけよ」
「あ、なんすか、逃げる気っすか。絶対逃さないっすよ」
捨て台詞を吐き、今更逃走を図る全裸の男を、咄嗟にレジを飛び出した後輩が追いかける。扉が激しく開閉され、異常な男と正常な男二人が外を疾走した。後輩の印象が強盗に殴られた時と偉く違うのは、自分にとってとても大事な人で、守るべき人ができたからだろうか。
後ろで震えながら息を詰める女性を見遣る。この女性を自分の彼女と重ね合わせたのだとしたら、後輩の中に突如として芽生えた闘志にもそれとなく納得がいった。恋は人を変える。絶対に逃すわけがない。
全裸男は後輩に任せ、彼はひとまず女性を椅子に座らせた。問題の人間がいなくなり、多少は落ち着きを取り戻したようだが、それでもまだ震えているように見えなくもない。
「もうすぐ警察が来ます」
抑揚なく告げた後、彼は外に目を向けた。薄らとだが、後輩が男をとっ捕まえて羽交い締めにしている様子が見えた。相手は全裸で裸足である。コンクリートの上を走ると痛みが伴うはずだ。思うようにスピードを出せるとは思えない上に、おっさんと呼べそうな見た目でもあった。決して若くはない。そんな人間が、まだ二十代の若い男、当然ながら全裸でも裸足でもない男から逃げ切れるはずがなかった。
「あ、あの」
怯えていた女性に声をかけられた彼は、外で一悶着している男二人から目を逸らして首を動かした。女性は何か言いたそうに唇を開いたり閉じたりしている。
なぜ自分がこんな目に遭ったのか、といった心底どうでもいい身の上話でも始めるつもりだろうか。長話は嫌いである。女性に関するなぜも、あの全裸の男に関するなぜも、彼にはこれっぽっちも興味がない。死を求める人間が、なぜそれを切望するようになったのかに関心を示さないように。だからこそ彼は、女性に何も聞かなかったのだ。
女性は椅子からゆっくりと立ち上がった。これから言うことは、立って言うべきこと。それが最低限の礼儀だとでも言わんばかりに。
どうやら、彼の懸念は杞憂だったらしい。身の上話する雰囲気ではなさそうだ。彼は真顔で女性を眺めた。
「め、迷惑かけて、すみませんでした。た、助けて、くださって、あ、ありがとう、ございました」
腰を折って深く頭を下げられる。人の旋毛を、上から見下ろすような角度で見るのは二回目である。
遠くの方でパトカーのサイレンが聞こえ始めた。彼は女性には何も言わずその場を移動し、後輩が警察に通報する際に使用した子機に手を伸ばす。もうじき警察が現着する。外で必死に裸の男を押さえ込んでいる後輩にも加勢が入るだろう。自分が男二人や女性から目を離して別のことをしても問題ないはずだ。
強盗犯に全裸男。彼自身は連続殺人鬼。ここは意外と治安が悪いようだ。自分が犯罪者であるがために、自分と同じ犯罪者たちが自然と引き寄せられてしまうのだろうか。
そんなスピリチュアルにも似た馬鹿げたことを思いながら、彼は深夜であっても構うことなく、自宅で休んでいるであろう店長に電話をかけた。
