「珠洲矢」
2限目が終わった休み時間。急に颯に話しかけられた。いつも話しかけられることがなかったからびっくりした。
「どうしたの? 颯」
「その、昨日のことなんだけどさ」
妙な距離感。やっぱり昨日短冊を取ろうとしたこと根に持ってるのかもしれないな……。
「昨日のこと? ――あぁ、短冊? ごめんね、あの――」
「いや、そうじゃなくて――その……」
落ち着かないのかずっと手をグーにしたりパーにしたりしてる。なんで落ち着かないんだろう。怖い印象持たれてるのかな。印象良くいかなきゃね。
「ん? どしたの、颯」
「きっ、昨日の、長身の人――あれ、誰だよ」
「え?」
長身の人? ってもしかして――。
「かっ、彼氏とか? そういうやつ?」
「えっ!? そんなわけないでしょ!! あれはバイト先のてんちょー! 誤解しないで!!」
急に話しかけてきたと思ったら、何言いだすの!? 彼氏なんて、できたことないよ! 私の恋人は本です!! 作る気もない!!
「バイト先の、店長とまつり行ったのか?」
目を丸くしながらそう聞かれたから、何がおかしいんだ? と思いながらちょっとムキになって返答する。
「そうだよ! 古本屋さんのてんちょー! 何か文句あるっ?」
「そ、そうか……その、ごめん」
それだけ告げて、自席に戻っていく。な、なんだったんだろう……。
彼氏じゃ、なかった。
そう思っただけで、何かが報われた気がした。まだ、大丈夫なんだって。
でも――そうやって思ってる自分がいることに嫌悪感を覚えた。来世に期待することしかできない腰抜けが、何が報われた、だ。
「キモいな……オレ」
放課後になっても、ずっと颯が言ってたことが頭から離れなかった。
『かっ、彼氏とか? そういうやつ?』
彼氏か――颯の目には、てんちょーが私の彼氏に見えたってこと?
いやいや、てんちょー、彼氏って柄じゃないでしょ。あの人が彼女にあたる女の人にデレるとか、考えられないし。甘えるなんてことあるのかな。私にでさえ意地悪するのに。
というか、心から笑った笑顔なんて、一度も見たことないし!
でも――、あの時は違ったかな。感想文を書いた時。頭撫でてくれた。うーん、彼女って感じじゃなくてもっとこう――身内にするような……。
「たま? どした? 帰らないの?」
「えっ?」
もやもやしつつ考えてたら、夕焼けが出始めていた。友達に声をかけてもらわなかったらきっと暗くなるまで悩んでたと思う。
「バイト大丈夫? 遅れない?」
「あっ、そうだった! ありがとう! また明日!!」
――そうだ。ちょっと、てんちょーに聞いてみようっと。
「――っんぐ……っ、はぁ? 俺が、彼氏だって?」
……こういう話題をするときは、コーヒーを飲んでる最中に言うのはやめておこうと思った。てんちょーの裏返った声と、こぼれたコーヒー数滴を見て、一番タイミング間違えたと、申し訳なさでいっぱいになった。もう、このタイミングでは言わないでおこう、そう心に誓った。
「そうなんですよ。クラスメイトに目撃されてたみたいで。てんちょーとはそんなんじゃないのにー」
テーブルに零れたコーヒーを拭き終わったてんちょーは、私を見つつ頬杖をつきだす。
「――俺じゃ彼氏役は不満か?」
「何言ってるんですか!?」
……最近分かってきた。頬杖をつきながら話すときは、意地悪な心とか、悪戯心が働いているということが。だから今も表情には出てないけど、心の中でにやにやしてるんだこれ!! 酷い!!
「冗談だ。ちゃんと誤解解いとけよ」
「もう言っておきましたーっ。てんちょーだってきっちり言っておきましたーっ!」
「なんでお前そんなムキになってんだよ」
てんちょー、女の人と付き合ったことあるのかな。そんな気配がまるでないから今の年までいないのかなって思っちゃうけど。いたら申し訳ないな。
まぁ、目つきは悪かろうが顔は整ってるから、目つき悪い人好きって感じの人となら成立しそうだけど。そんな人いるかな。
(多分)表に出ないだけで(おそらく)根は優しいから、そこに惹かれるって人がでてくるかもしれないし。
うーん。難しいな。好きって気持ちは。恋愛小説今度読んでみようかな。人を好きになるってどういうことなんだろう。分からないから、知りたい。
「てんちょー、恋愛小説ってあります?」
「んぁ? あー、そこに山積みされてるの全部そういう系」
そう言って指さしたのはとりあえず積んでおきましたという雰囲気のサイズ感バラバラな小説たち。横から背表紙を覗けば、だいたいタイトルから分かるように恋愛ものばかり。
「つまり――整理しながら探せってことですね?」
「よくわかったな。じゃ、よろしく」
それだけ言い残してまた本の世界に帰っていく。
「てんちょーも手伝ってくださいよー。一人でどうこうできない量ですよこれぇー」
「んぁあ? ったく、しゃーねぇな」
「てんちょー、人使いが荒すぎですよ! バイトの範疇を超えてます!」
給料はいいけど、それに見合うというか職務の領域を越えてるって!!
「いやぁ、俺がやるとどうしてもあらすじとかが目に入ったり、並び順とかじっくり考えたりして整理しちまうから、日が暮れるんだよな」
「それに比べ、私はとても使い勝手がいいと? ――まさかてんちょー、私の仕方が雑だと言いたいんですか!?」
もしそんなこと言われたら凹む! 寝込む!
「そんなこと言ってねぇだろ。丁寧に本を扱って、かつ、判断が的確だって」
「それなら、まぁ、いいですけど」
大きな手で私よりも数冊多く手に取って、横に並ぶ。確かにじっくりあらすじ読んでる。作者順にも並べてあるし、発行した順にまで並んでるものもある。
本当に、本が好きな人。
――『好き』。そうだ、てんちょーに聞いてみたかったんだ。この感情のことを。
「ねぇ、てんちょー」
「んぁ?」
「てんちょーなりの答えを聞きたいんですけど……その」
でもいざとなると、言葉にするのが怖い。なんだそんなことも分からないのかって一掃されそうで。
他の人ならそうやって笑うだろう。けどてんちょーなら……。私の求めている答えを知っているはず。
「なんだ?」
「『好き』って、なんですか?」
「――――はぁ?」
やっぱり、そうなるよねぇ……。一般的な反応だ、分かってた。誰だって、そう言いたくなる。
「私、人を好きになったことがないんです。親を好きか聞かれると、好きなのかどうか分からないし、友達も、好きかって聞かれるとそうでもないかなって。……本は大好きなんです。私を、本の世界に導いてくれる魔法だって。少しでも辛いことから逃げられる魔法……。でもその好きの対象を人に置き換えると、はっきりと好きって言えなくなるんです」
「……」
てんちょーは黙って私の話を聞く。私の方も止まらなくなって、心の内をさらけ出す。
「まぁ、結論私の感情がただ欠落してるってだけなんですけどね。あはは……。私が、おかしいだけなんです。変ですよね。好きになれないって。ごめんなさい、何言ってるんだろ――忘れてください」
言わなきゃよかったな。てんちょーを困らせてしまった。
――なんで人の足ばっかり引っ張るんだろうな、私。
苦しいときほど、私は笑ってしまう。今だって微妙な笑顔が浮かんでるはずだ。きっと、感情の箍が外れておかしくなってしまった。もう、随分前のことだ。泣くって何だって。好きって何だって。
それからは人に迷惑をかけないようにって上手くやってたのに、結果を見てみればすべて他人の足を引っ張っていた。
変わらない。変われない。きっとこの感情を知ったところで、私は――。
「――――俺も、正直よくわからない」
「え?」
てんちょーは独りでに、私のくだらない問いに答えてくれた。それで終わりかと思ったら、息を吸う音が聞こえた。
「だが、ある時に、雷に打たれたように突然、好きだと思える日が来ると、俺は思う。それと、好きだと思えるたった一つに出逢える、それは奇跡だ。物や人、本との巡りあわせは偶然が重なって――たとえ嫌いだったとしても、いずれ必要不可欠になって、かけがえのないものとなる」
てんちょーの手の中の本はいつの間にかなくなって、今しがた入れた本の整理を丁寧に行っていた。
私はその様子をじっと見ていた。この話、まるで自分の体験談を話しているような、それくらい説得力があって、それでいて現実味を帯びている。
その横顔は、背表紙を見つめながらも、どことなく寂しそうだった。
たまにてんちょーは寂しそうな顔をする。仏頂面でほとんどわからないけど、バイトし始めてからてんちょーと過ごすようになって、なんとなく分かってきた。
きっと、過去に何かあったんだ。好きだと思ったことも、悲しいと思ったことも。
「端的に言えば、ここにいれば落ち着く、この物があったら安心する、この人といたら心が休まる、あとは……一緒に居て楽しいって心から思う存在、とかだろ」
「……うーん、どうなんでしょう。そう思える存在、あるのかな……」
学校は楽しい。友達といるのも楽しい。でも、心からと言われると何か違うし、好きとは思えない。
兄弟と遊ぶのは楽しい。唯一の居場所の押し入れで一人本を読むのも楽しい。でも、家は到底好きとは思えない。
じゃあ、残るのは――ここ。時雨堂。
棚いっぱいの本。少し埃っぽい室内。かすかなコーヒーの香り。てんちょー。
「あ……」
「ん? どうした」
一つ一つ思い返して、私にとってそれは好きに値するか。どれも曖昧な好きで、はっきりと好きとは思えない、けど、あった。私だけの、特別。
「私、ここにいるときが一番好きです。でも、やっぱり本ですね。人じゃなかったです……」
私は結局、本を取ってしまうみたいだ。体がそういう風にできている。てんちょーって言ったらどうなってたんだろう。
「――そうか。まぁ、そう急ぐことはないだろ。ゆっくりと時間をかけて分かることだ。たくさん作れとも言わない。たった一つ、護りたいものがあるだけで人は変われるものだからな」
「――なんだか、てんちょー自身の話を聞いているような感覚なんですけど、てんちょーは、護りたいものがあるんですか?」
私が何気なく聞くと、本の整理をしていた手がふと止まった。その手が徐々に引っ込められていく。聞いちゃいけない話題だったかも……っ、失敗したぁ……。
「護りたいものか――――。随分考えたことなかったな。もう俺には本と時雨堂しか残ってないから、それで十分だって」
「ごめんなさい、ずけずけ聞いちゃって――」
「いや、いいんだ。お前と同じで、ここが一番だから、友人とか、恋人とか、他には何も望まない。ただ――」
「ただ?」
「珠洲矢だけは、護ってやりたいと、思う」
そしてまた、あの時と同じように、ぽんっと私の頭に手を乗せ、優しく撫でた。三白眼の目つきの悪い目が、少し和らいだ。優しい眼差しになって――。
ってあれ、優しくなったの、一瞬だった。なんだ、その流れで少し笑うかと思ったのに。
もう撫でるのやめて、本の方に向き直ってしまった。
「護ってやりたい――って、どういうことですか?」
「どういうって、そのままだ」
本の方に視線を向けて、何かを探すように背表紙に手を這わせる。
「誤解しちゃいますよ? その口下手は」
「はぁ? 誰が口下手だ」
――でも、ここの本たちのように大事に思ってもらえてるのなら、少しいい関係になったってことなのかな。
てんちょーは、棚から1冊本を見つけたらしく、見るからに恋愛要素がある文庫本を取り出して無言で手渡してくる。そのまま受け取ると、表紙には私と同じようにサイドテールにした女の子が胸の辺りで手をぎゅっと握ったポーズ。そしてタイトルは『私のココロの声』。これって――。
「俺からの推薦古書だ。鞄にしまってこい」
「……っはい!!」
2限目が終わった休み時間。急に颯に話しかけられた。いつも話しかけられることがなかったからびっくりした。
「どうしたの? 颯」
「その、昨日のことなんだけどさ」
妙な距離感。やっぱり昨日短冊を取ろうとしたこと根に持ってるのかもしれないな……。
「昨日のこと? ――あぁ、短冊? ごめんね、あの――」
「いや、そうじゃなくて――その……」
落ち着かないのかずっと手をグーにしたりパーにしたりしてる。なんで落ち着かないんだろう。怖い印象持たれてるのかな。印象良くいかなきゃね。
「ん? どしたの、颯」
「きっ、昨日の、長身の人――あれ、誰だよ」
「え?」
長身の人? ってもしかして――。
「かっ、彼氏とか? そういうやつ?」
「えっ!? そんなわけないでしょ!! あれはバイト先のてんちょー! 誤解しないで!!」
急に話しかけてきたと思ったら、何言いだすの!? 彼氏なんて、できたことないよ! 私の恋人は本です!! 作る気もない!!
「バイト先の、店長とまつり行ったのか?」
目を丸くしながらそう聞かれたから、何がおかしいんだ? と思いながらちょっとムキになって返答する。
「そうだよ! 古本屋さんのてんちょー! 何か文句あるっ?」
「そ、そうか……その、ごめん」
それだけ告げて、自席に戻っていく。な、なんだったんだろう……。
彼氏じゃ、なかった。
そう思っただけで、何かが報われた気がした。まだ、大丈夫なんだって。
でも――そうやって思ってる自分がいることに嫌悪感を覚えた。来世に期待することしかできない腰抜けが、何が報われた、だ。
「キモいな……オレ」
放課後になっても、ずっと颯が言ってたことが頭から離れなかった。
『かっ、彼氏とか? そういうやつ?』
彼氏か――颯の目には、てんちょーが私の彼氏に見えたってこと?
いやいや、てんちょー、彼氏って柄じゃないでしょ。あの人が彼女にあたる女の人にデレるとか、考えられないし。甘えるなんてことあるのかな。私にでさえ意地悪するのに。
というか、心から笑った笑顔なんて、一度も見たことないし!
でも――、あの時は違ったかな。感想文を書いた時。頭撫でてくれた。うーん、彼女って感じじゃなくてもっとこう――身内にするような……。
「たま? どした? 帰らないの?」
「えっ?」
もやもやしつつ考えてたら、夕焼けが出始めていた。友達に声をかけてもらわなかったらきっと暗くなるまで悩んでたと思う。
「バイト大丈夫? 遅れない?」
「あっ、そうだった! ありがとう! また明日!!」
――そうだ。ちょっと、てんちょーに聞いてみようっと。
「――っんぐ……っ、はぁ? 俺が、彼氏だって?」
……こういう話題をするときは、コーヒーを飲んでる最中に言うのはやめておこうと思った。てんちょーの裏返った声と、こぼれたコーヒー数滴を見て、一番タイミング間違えたと、申し訳なさでいっぱいになった。もう、このタイミングでは言わないでおこう、そう心に誓った。
「そうなんですよ。クラスメイトに目撃されてたみたいで。てんちょーとはそんなんじゃないのにー」
テーブルに零れたコーヒーを拭き終わったてんちょーは、私を見つつ頬杖をつきだす。
「――俺じゃ彼氏役は不満か?」
「何言ってるんですか!?」
……最近分かってきた。頬杖をつきながら話すときは、意地悪な心とか、悪戯心が働いているということが。だから今も表情には出てないけど、心の中でにやにやしてるんだこれ!! 酷い!!
「冗談だ。ちゃんと誤解解いとけよ」
「もう言っておきましたーっ。てんちょーだってきっちり言っておきましたーっ!」
「なんでお前そんなムキになってんだよ」
てんちょー、女の人と付き合ったことあるのかな。そんな気配がまるでないから今の年までいないのかなって思っちゃうけど。いたら申し訳ないな。
まぁ、目つきは悪かろうが顔は整ってるから、目つき悪い人好きって感じの人となら成立しそうだけど。そんな人いるかな。
(多分)表に出ないだけで(おそらく)根は優しいから、そこに惹かれるって人がでてくるかもしれないし。
うーん。難しいな。好きって気持ちは。恋愛小説今度読んでみようかな。人を好きになるってどういうことなんだろう。分からないから、知りたい。
「てんちょー、恋愛小説ってあります?」
「んぁ? あー、そこに山積みされてるの全部そういう系」
そう言って指さしたのはとりあえず積んでおきましたという雰囲気のサイズ感バラバラな小説たち。横から背表紙を覗けば、だいたいタイトルから分かるように恋愛ものばかり。
「つまり――整理しながら探せってことですね?」
「よくわかったな。じゃ、よろしく」
それだけ言い残してまた本の世界に帰っていく。
「てんちょーも手伝ってくださいよー。一人でどうこうできない量ですよこれぇー」
「んぁあ? ったく、しゃーねぇな」
「てんちょー、人使いが荒すぎですよ! バイトの範疇を超えてます!」
給料はいいけど、それに見合うというか職務の領域を越えてるって!!
「いやぁ、俺がやるとどうしてもあらすじとかが目に入ったり、並び順とかじっくり考えたりして整理しちまうから、日が暮れるんだよな」
「それに比べ、私はとても使い勝手がいいと? ――まさかてんちょー、私の仕方が雑だと言いたいんですか!?」
もしそんなこと言われたら凹む! 寝込む!
「そんなこと言ってねぇだろ。丁寧に本を扱って、かつ、判断が的確だって」
「それなら、まぁ、いいですけど」
大きな手で私よりも数冊多く手に取って、横に並ぶ。確かにじっくりあらすじ読んでる。作者順にも並べてあるし、発行した順にまで並んでるものもある。
本当に、本が好きな人。
――『好き』。そうだ、てんちょーに聞いてみたかったんだ。この感情のことを。
「ねぇ、てんちょー」
「んぁ?」
「てんちょーなりの答えを聞きたいんですけど……その」
でもいざとなると、言葉にするのが怖い。なんだそんなことも分からないのかって一掃されそうで。
他の人ならそうやって笑うだろう。けどてんちょーなら……。私の求めている答えを知っているはず。
「なんだ?」
「『好き』って、なんですか?」
「――――はぁ?」
やっぱり、そうなるよねぇ……。一般的な反応だ、分かってた。誰だって、そう言いたくなる。
「私、人を好きになったことがないんです。親を好きか聞かれると、好きなのかどうか分からないし、友達も、好きかって聞かれるとそうでもないかなって。……本は大好きなんです。私を、本の世界に導いてくれる魔法だって。少しでも辛いことから逃げられる魔法……。でもその好きの対象を人に置き換えると、はっきりと好きって言えなくなるんです」
「……」
てんちょーは黙って私の話を聞く。私の方も止まらなくなって、心の内をさらけ出す。
「まぁ、結論私の感情がただ欠落してるってだけなんですけどね。あはは……。私が、おかしいだけなんです。変ですよね。好きになれないって。ごめんなさい、何言ってるんだろ――忘れてください」
言わなきゃよかったな。てんちょーを困らせてしまった。
――なんで人の足ばっかり引っ張るんだろうな、私。
苦しいときほど、私は笑ってしまう。今だって微妙な笑顔が浮かんでるはずだ。きっと、感情の箍が外れておかしくなってしまった。もう、随分前のことだ。泣くって何だって。好きって何だって。
それからは人に迷惑をかけないようにって上手くやってたのに、結果を見てみればすべて他人の足を引っ張っていた。
変わらない。変われない。きっとこの感情を知ったところで、私は――。
「――――俺も、正直よくわからない」
「え?」
てんちょーは独りでに、私のくだらない問いに答えてくれた。それで終わりかと思ったら、息を吸う音が聞こえた。
「だが、ある時に、雷に打たれたように突然、好きだと思える日が来ると、俺は思う。それと、好きだと思えるたった一つに出逢える、それは奇跡だ。物や人、本との巡りあわせは偶然が重なって――たとえ嫌いだったとしても、いずれ必要不可欠になって、かけがえのないものとなる」
てんちょーの手の中の本はいつの間にかなくなって、今しがた入れた本の整理を丁寧に行っていた。
私はその様子をじっと見ていた。この話、まるで自分の体験談を話しているような、それくらい説得力があって、それでいて現実味を帯びている。
その横顔は、背表紙を見つめながらも、どことなく寂しそうだった。
たまにてんちょーは寂しそうな顔をする。仏頂面でほとんどわからないけど、バイトし始めてからてんちょーと過ごすようになって、なんとなく分かってきた。
きっと、過去に何かあったんだ。好きだと思ったことも、悲しいと思ったことも。
「端的に言えば、ここにいれば落ち着く、この物があったら安心する、この人といたら心が休まる、あとは……一緒に居て楽しいって心から思う存在、とかだろ」
「……うーん、どうなんでしょう。そう思える存在、あるのかな……」
学校は楽しい。友達といるのも楽しい。でも、心からと言われると何か違うし、好きとは思えない。
兄弟と遊ぶのは楽しい。唯一の居場所の押し入れで一人本を読むのも楽しい。でも、家は到底好きとは思えない。
じゃあ、残るのは――ここ。時雨堂。
棚いっぱいの本。少し埃っぽい室内。かすかなコーヒーの香り。てんちょー。
「あ……」
「ん? どうした」
一つ一つ思い返して、私にとってそれは好きに値するか。どれも曖昧な好きで、はっきりと好きとは思えない、けど、あった。私だけの、特別。
「私、ここにいるときが一番好きです。でも、やっぱり本ですね。人じゃなかったです……」
私は結局、本を取ってしまうみたいだ。体がそういう風にできている。てんちょーって言ったらどうなってたんだろう。
「――そうか。まぁ、そう急ぐことはないだろ。ゆっくりと時間をかけて分かることだ。たくさん作れとも言わない。たった一つ、護りたいものがあるだけで人は変われるものだからな」
「――なんだか、てんちょー自身の話を聞いているような感覚なんですけど、てんちょーは、護りたいものがあるんですか?」
私が何気なく聞くと、本の整理をしていた手がふと止まった。その手が徐々に引っ込められていく。聞いちゃいけない話題だったかも……っ、失敗したぁ……。
「護りたいものか――――。随分考えたことなかったな。もう俺には本と時雨堂しか残ってないから、それで十分だって」
「ごめんなさい、ずけずけ聞いちゃって――」
「いや、いいんだ。お前と同じで、ここが一番だから、友人とか、恋人とか、他には何も望まない。ただ――」
「ただ?」
「珠洲矢だけは、護ってやりたいと、思う」
そしてまた、あの時と同じように、ぽんっと私の頭に手を乗せ、優しく撫でた。三白眼の目つきの悪い目が、少し和らいだ。優しい眼差しになって――。
ってあれ、優しくなったの、一瞬だった。なんだ、その流れで少し笑うかと思ったのに。
もう撫でるのやめて、本の方に向き直ってしまった。
「護ってやりたい――って、どういうことですか?」
「どういうって、そのままだ」
本の方に視線を向けて、何かを探すように背表紙に手を這わせる。
「誤解しちゃいますよ? その口下手は」
「はぁ? 誰が口下手だ」
――でも、ここの本たちのように大事に思ってもらえてるのなら、少しいい関係になったってことなのかな。
てんちょーは、棚から1冊本を見つけたらしく、見るからに恋愛要素がある文庫本を取り出して無言で手渡してくる。そのまま受け取ると、表紙には私と同じようにサイドテールにした女の子が胸の辺りで手をぎゅっと握ったポーズ。そしてタイトルは『私のココロの声』。これって――。
「俺からの推薦古書だ。鞄にしまってこい」
「……っはい!!」
