「てんちょー! 遅くなりました!!」
 ちりん、と扉の傍についた風鈴が鳴った。時刻は午後1時。土曜日。七夕当日。
 本来は朝の10時から開始だが、3時間も遅刻してしまった――!! なんってことだ!!
「時間、守れ。まったく」
「すみません!! 二度としないです!! あと! これ、できました!!」
 肩で息をして、さらにぼさぼさの頭のまま、汗も気にせず、小さなリュックの中から少し角が折れてしまったルーズリーフ1枚を取り出す。
「――ほんとに書いてきやがった。しかもB罫にびっしり」
 どの本にしようか悩んで4日使って、やっと決めたのが5日目、そしてこれを夜中に書いてて、気づけば4時。そのまま疲れて寝てしまって、朝起きたのが出勤時間の10時だったという。下の子たちに起こされなければ今の時間もきっと寝ていた。
 すごい引きつった顔で、ルーズリーフの文字の羅列に目を通している。
 でもその引きつった表情は、徐々に真顔になっていって、目だけは、驚いたように少しだけ見開かれている。
 てんちょーが一通り目を通し終えたみたいだ。その瞬間、店の空気がふっと緩んだ。笑うことのないてんちょーの口元が、微かに動いた。えっ、ちょっと笑ってる?
「どっ、どうでしたか? その……いっぱい書いちゃって……同じことばっか言ってません?」
「いや、上出来だ。よく書けてる」
 仏頂面は依然変わらないけれど、でもなんだかいつもよりも柔らかい表情をしている。そんなによかったのかな? でも大したこと書いてない気が――。
 そう思っていたとき。
 ぽんっと軽く頭に手を置かれた。じんわりとてんちょーの温もりを感じる。
「えっ……てんちょー?」
「いや、頑張ったん、だなって、思っただけだ」
 そのまま優しく撫でられる。てんちょー、熱でもある? なんだか、頬が赤いような――気のせいかな。
「――てんちょー?」
「あっ……いや、悪い。なんでもない」
 自分のしていたことに気づいたのか、ぱっと頭から手をどけた。
「ふふっ――これでてんちょー、まつりに引きずり出せますねっ!」
「いや、だから言い方……まぁ、言ったからには仕方ない。行ってやるよ」
「わーい!」
「子供か……」

「ちょっと待ってろ」
「ふぇ?」
「着替えに行く。さすがにシャツじゃ変だろ」
「あぁー、なるほど」
 勤務時間が終わり、街が薄暗くなって夜を迎えるころ。てんちょーがおもむろに外に出ていく。きっと二階に行くんだろう。扉に掲げた【OPEN】と書かれた小さな看板を【CLOSE】に変えつつ、気だるげに階段を登っていくのが見えた。
「――――私も、着替えようかな……」
 汗でびっしょりのままだと、夜風で冷えて風邪ひきそうだし。そうなるといろいろ大変だから……。てんちょーがいない今、さっと着替えるしかない……!
 リュックからあらかじめ持ってきていた服を取り出して、まだてんちょーが来ていないか確認しつつ、制服のボタンを外す。
 下着の替えも持ってきててよかったと思いながら、静かに着替える。
 ――少し火照ってるのはここが暑いからだ。絶対。


「なんで俺はここまでしてんだか……」
 階段を上がって、家の鍵をポケットから探し、差し込んで開け、カーテンが締め切られた部屋に足を踏み入れる。薄暗いからか、床が汚いからか、足の踏み場が分からない。
 乱雑に置かれた夏服の中から、外に着ていっても大丈夫そうな服を漁る。適当に掴んだのは、紺の甚平。
「まぁ、これでもいいか」
 諦め半分のため息をつきつつ、眼鏡を外し、シャツを脱ぐ。着替えながらふと、珠洲矢のことがよぎる。まぁ、こうなったのも全部珠洲矢のせいだがな。
 ――――珠洲矢が来てから、ここが、【時雨堂】が騒がしくなった。別に迷惑ではないが。けど、今時古書店なんて流行らないし、若い人が来る感じもない。来ても、いらなくなった本を置いていく老人くらいだ。
 それなのに、珠洲矢は自分からここに飛び込んできた。常に笑顔で、何言われても文句は……たれるけど、嫌な顔一つせず仕事し続ける。
 ――――まったく、変なやつだ。俺なんかと働いたって面白くもないだろうに。ましてや、なんでこんなやつをまつりに誘うんだか。
 きゅっと紐を締める。髪は――このままでいいか。待たせすぎるのもよくないしな。
「ほんとに、何考えてんだか」
 俺も、あいつも。


 もうそろそろてんちょー帰ってくるかな。でも、まだ羽織っただけで、紐結べてないし……。どうしよう。もたもたしてたらてんちょー、帰ってきちゃうよね。もしそうなったら……――――。
『……何がとは言わんが、その、小さいな』
 なんて言われそう!!!! 私が一番気にしてること言われそう!!!!
 そうあたふたしてたその時、扉に付けられた風鈴がちりんとなる。
 もしかしてこれ――――。
「「――――あ」」
 甚平姿のてんちょーが私の着替え途中を目撃してしまった。
「……悪い、タイミング最悪だったな。出直してくる」
 すごいそっぽを向いて明らかに焦って照れているてんちょーが遠くで見える。
「いえ、その、すみませんっ、私が勝手に着替えてたので、てんちょーは悪くないです」
 私の方も信じられないくらい声が裏返っている。恥ずかしすぎる。
「…………お前、着方へたくそだろ」
「えっ?」
 ぎこちなく、徐々に近づく距離。いつもの距離になったとき、ふわっと金木犀の香りがした。普段、こんなにてんちょーの服の匂い、感じたことあったっけ、そう思うくらいにどきっとした。
 そんな気も知らないてんちょーは、たらんと垂れたままだった甚平の内側の紐をきゅっと綺麗に結んでくれた。襟も正して、外側の紐も手際よく結んでくれた。
 着せ替え人形状態の私は、何もできずただてんちょーの顔を見つめる。たまに目が合うと、すっと逸らされる。今更だけど、下着姿、まんま見られちゃったな。
「――――何も、見てねぇし、言わねぇから」
 耳が真っ赤なまま、何言っているんだろうって可笑しくなる。いろいろ見てしまってるのに、こんなにたじろいでるのに、強がって。
 てんちょーってなんて不器用で、それでいてなんて優しいんだろう。
「……誰も、絶壁だな、とか思ってねぇから」
「見てるし言ってるじゃないですか!!」
 前言撤回。この人優しくない!!