ふう。
口から出る溜め息がアルコール臭い。ゼミのみんなから二十歳の誕生日を祝ってもらったというより、初めてお酒を飲む私を酔いつぶそうという魂胆の飲み会だった。自分が酒豪だということと、お酒が好きだと知れたからなかなか良い夜だったと言えなくもない。終電を逃してさえいなければ。
始発までどうすればいいんだろう。友人たちは酔いつぶれた何人かを送っていくため散り散りになった。とりあえずグループチャットにSOSメッセージをいれてみたけど反応はない。みんなけっこう酔ってたからスマホチェックも出来てないのかもしれない。
田舎者の私はこの街に詳しくない。大学から近い街と言っても私は街に繰りだすような趣味を持ってないから。でもとりあえずどこかに行かなきゃ。この熱帯夜に外にいつづけるなんて暴挙はおかせない。
街の中心部に向かって歩く。深夜まで開いてるお店っていうとカラオケかファミレスかな。スマホで検索して一番近いファミレスに行こう。と思ったけど。やばい、バッテリーが切れそう。まずはコンビニで充電器を買わなきゃ。
探すまでもなくすぐにコンビニに到着。充電器ももちろんある。良かった。ついでに新作アイスもチェック。アイスはうちの近所の方が品ぞろえがいい。地元が強いってなんだか嬉しい。
深夜だというのにお客さんがけっこういるもんだな。うちの近くだとこんな時間はガラガラだけど。みんな朝までなにをして過ごすんだろう。
あれ? あの男の人……。
「師岡先生!」
振り返ったのは間違いない、師岡先生だ。
「お久しぶりです!」
嬉しくなって小走りで駆け寄った私を、師岡先生は戸惑った表情で見下ろす。やっぱり先生は背が高いなあ。
「えっと……、北高の卒業生?」
「はい。二年前に卒業しました」
三年の時の担任だ。覚えてくれてると思ったんだけど、この表情じゃ忘れちゃってるな。ちょっと寂しいけど仕方ない。私は目立つ方じゃなかったし、あんまり話したことないもんね。名乗るしかないか。
「舞原です」
「おー! 舞原かおりさんか。きれいになったからわからなかったよ。そうかそうか」
下の名前を憶えてくれてたなんてびっくり。忘れられたわけじゃなかったんだ。嬉しくてにやけちゃう。師岡先生は四十代後半だけど、どこか垢ぬけてるっていうか、おしゃれな空気を纏ってる気がしてた。今夜はそのおしゃれ感がとびぬけてる。
ビッグサイズの白ティーシャツ、シャカシャカした素材のズボン、バスケットシューズは黒で赤いロゴが入ってる。鈍い光沢の金属のブレスレットは太くてごつい。同じ素材のネックレスも。まるでヒップホップでもしてそうな感じ。
「舞原さんはこんな遅い時間になにしてるの」
「飲み会で遅くなっちゃって。終電に乗り遅れました」
先生は大きな口を開けて笑う。うん、この豪快な笑い方も懐かしいな。
「そうかそうか。友達といっしょなの?」
「いえ、みんな帰っちゃいました」
「ありゃ、おいてけぼりか。じゃあ、一緒にこない? これから皿回すんだ」
皿? 首をかしげると先生は抱えてる大きな黒いバッグを持ち上げてみせた。
「レコード。良い曲聞かせるよ。よし、行こう」
勝手に決められてしまった。でも良かった。先生と一緒なら安心だ。てくてく並んで歩く。
「レコードを回すって、DJみたいですね」
「みたいじゃなくて、こう見えてもDJなの。昔はプロでやってたんだけど、今は趣味ね」
「え! プロだったんですか!」
プロのDJってかっこよすぎない? 思わず先生の頭のてっぺんからつま先までじろじろ見てしまう。
「国語以外にもできることはあるんだよ。意外だろう」
「はい。めちゃくちゃ意外です。先生にそんなおしゃれな趣味があるなんて」
がははと笑う先生はトレードマークの太い黒ぶち眼鏡をくいっと押し上げる。
「月一でDJイベントやってるの。ブースのある小さなカフェバーを貸し切ってね。何人か集まって回すんだ。それこそプロもくるよ」
「私、DJさんって見たことないです」
「舞原さんはあんまり夜遊びはしないの?」
「全然です。田舎者ですから。街にでるような趣味もないし、つまらない人生をおくってます」
先生がぴたりと足を止める。
「そんな寂しいこと言うなよ。俺の教え子には幸せな人生を歩んでほしいんだ」
真剣な表情だ。そう言われても本当のことだから仕方ない。私の人生にはなーんにもない。地味に目立たずただなんとなくぼんやり生きてるだけ。
そんな考えが顔に出てたのか、先生は眉を下げて本当に寂しそうにする。
「夢とかない?」
「なーんにもありません。やりたいことって昔からなくて」
先生はぽつぽつと歩き出した。
「高校時代、サッカー部の部長のおっかけしてたじゃないか」
まさか、バレてた!? 誰にも秘密にしてたのに!
驚きのあまり先生を見上げる。先生はごく真面目に言葉を続ける。
「青春を謳歌してたろ。好きな人がいるなんて最高に楽しいだろうに」
「好きっていうか……。あこがれてたけど、がっかりして。もういいかってなって」
先輩をこっそり見ていて彼女が二人いることに気づいた。二股ってやつ。先輩のこと嫌になったし、男の人ってみんなそうなのかなって信用できなくなった。
「よし。今日は舞原さんの好きな曲を探そう。音楽はいいぞ」
正直、音楽にも興味ない。カラオケに付き合うために流行ってる曲を聞くことはあるけど。それだけ。でも先生をがっかりさせたくない。
「はい」
へんな間が空いちゃったけどなんとか笑って返事できた。
「この店だよ。なかなか渋くていいだろ」
たどり着いたのは小さな木造の一軒家。火事にでもあったのかと思うくらい煤けていて壁なんかささくれてる。窓からぼんやりとしたオレンジ色の明かりが漏れてきてるのが、なんだか不気味。先生はそんな雰囲気に躊躇することもなく引き戸を開けた。
中に入ると外観とはまったく違う雰囲気だった。壁がなくて一軒まるごとフラットだ。左手にカウンター席が五つ。右手に四人掛けのテーブルが四つ。
そしてど真ん中に大きな長いテーブルみたいなもの。先生がブースって言ってたのがこれか。小柄な女性がそのブースに向かって両手を伸ばしてくるくるさせている。
「モロさん、おかえりなさい」
カウンターの中にいる若い男性が声をかける。先生は「ただいまー」と言ってバッグを掲げてみせた。
「追加を回すよーん」
先生が近づいていくと女性は体を揺らしながら台からレコードを一枚持ち上げて先生に場所を譲る。台を覗いてみるとターンテーブルが二つ、そのうち一台の上でレコードがくるくる回っている。
先生は黒いバッグからレコードをごっそり取り出してターンテーブルの横に積み上げた。そのなかの一枚を空いたほうに乗せる。針を落とすと同時に女性がもう一つのターンテーブルのレコードを取ってその場から離れた。
「お嬢さん」
カウンターの中、さっきの人だけじゃなくてもう一人、五十代前半くらいに見える女性がいた。タンクトップだから二の腕に彫られたタトゥーがくっきり見える。英語でもないアルファベットのつづりと薔薇の花。
「好きな席にどうぞ」
ハスキーな声と短く刈り込んだ髪型で迫力がある。店内を見回してみる。テーブル席はどれも人が座ってる。あっちに行くと相席ってことになるのかな。知らない人と一緒になるのはちょっと怖い。カウンターの一番端に座ってみた。
「なにか飲む?」
差し出されたメニューにはアルコールが十三種類、あとはお菓子盛り合わせとミックスナッツ、ポップコーン、オイルサーディンだけ。
アルコールのほとんどはカクテル……だと思う。カタカナがずらりと並んでる。飲み会で気に入ったマルガリータを頼んでみた。
振り返って先生を眺める。今は二枚のレコードを回してる。二枚は別の音楽なんだろうけど、流れてくるのは一曲にしか聞こえない。軽く体を揺らしながらレコードを見つめる先生の横顔は見たことないくらい楽しそうだ。
「これ、サービス」
マルガリータと一緒に小さなお皿のミックスナッツがやってきた。
「ありがとうございます」
「モロちゃんの娘さん?」
そういえば先生には私たちと同い年のお子さんがいるんだったっけ。
「いえ、元教え子です」
女性は眉を上げて目を丸くした。
「モロちゃんって本当に学校の先生してるんだ」
レコードを回している先生と私を交互に見て「へーえ」と心底感心した声をあげる。確かに今日みたいな服装の師岡先生しか知らなかったら、教師にはみえないだろう。
「なにを教えてるの?」
「古典です」
「和歌とか?」
「そうです」
「驚きにけり」
なんだかおちゃめな返しだ。怖い人かと思ったけどそうでもないのかも。
テーブル席のお客さんから声をかけられて若い男性が注文を取りに行く。女性はすっと離れてマルガリータに使ったアルコールの瓶を壁に作り付けの棚に戻していく。
音楽がなんとなく変わった気がして先生の方を見ると、レコードを一枚片付けているところだった。ということは、一枚は新しいレコードに変わったんだ。でもやっぱり二曲べつのレコードが同時に鳴っているようには聞こえない。完成した一曲に聞こえる。
先生を横目で観察しつつマルガリータに手を伸ばす。細く長い足の三角形のグラス。縁に少しのお塩が付いている。ほんのり甘いお酒に塩気が効いて夏にぴったりだと思う。
「美味しい!」
さっき居酒屋で飲んだのとはまるで違う。
「ありがとう」
女性がにこりと笑った。強面だと思ったけど笑い皺がキュートな人だ。
「ミキさん、ジーマひとつです」
女性はミキさんっていうのか。苗字でも名前でもありうる。どっちだろ、どっちでもいいんだけど。
「モロちゃんの生徒さんはなんて名前?」
「舞原かおりです」
「かおりちゃんね。音楽好きなの?」
「いえ……」
なんとなく肩を縮めてしまう。このおしゃれな空間で音楽に興味がないって白状するのはなぜか恥ずかしかった。堂々と胸を張って音楽の蘊蓄でも披露できたらかっこよかっただろうけど。
「じゃあ、これから好きになるところだ」
「え?」
ミキさんがにやりと笑う。
「モロちゃんは音楽を語ったらうるさいから。かおりちゃんが音楽通になるまで話しつづける。覚悟した方がいいよ」
それはわかる。先生は古典をおしえてるときも、とことん突き詰めた授業をした。一首の和歌を語るために一時限まるまる使ったりもしたものだ。懐かしい。
マルガリータを飲み干して、スクリュードライバーとハイボールとブラッディマリーを空にしてミックスナッツがなくなった。音楽の雰囲気が変わって振り返ってみると先生が次の人と交代してレコードをバッグにしまっていた。すぐにカウンターにやってくる。
「舞原さんは酒が強いんだなあ。見ててほれぼれするよ」
えへへと曖昧に笑っておく。先生は芋焼酎の水割りを頼んで私の隣に座った。
「どう、楽しめてる?」
「はい。なんかいいです」
「そうかそうか。今夜はボッサナイトなんだ。暑いから夏らしくボサノヴァで。ボサノヴァってわかる?」
首を横に振ると先生はそれはそれは嬉しそうな顔になった。
「ブラジル発祥の音楽でな、五十年代にできたんだ。最近はカフェでBGMに使われたりCMでも聞いたりするから舞原さんも知ってる曲があると思う。アニメのエンディングにも使われてたし、サンバから生まれたけどジャズのテイストを持った曲も多くて」
ミキさんが差し出したグラスを受け取って一口飲んで「くあー」と言って目をぎゅっとつぶる。
「ボッサと焼酎は合う! 舞原さんは焼酎は好きかな」
「飲んだことないです」
「そうかあ。最近は女性にも飲みやすいやつが増えてるんだけどな。嫌い?」
「えっと。今日、生まれて初めてお酒飲んだんです」
「もしかして誕生日だったり?」
「はい。二十歳になりました」
「おおおおお。おめでとう! そうかそうか、舞原さんも大人になったんだなあ」
拍手してもらって、なんだかこそばゆい。
「どうしたの、モロちゃん」
テーブルの方から声をかけられて先生が振り向く。
「この子が……、いやこちらの女性が二十歳の誕生日なんだ」
先生が言うと、店中の人が手を叩いて「おめでとう」と言ってくれた。音楽がピタリと止まった。なんだろうと見るとDJさんが壁にかけてあるレコードを一枚とって針を落とした。
ハッピーバースデイトゥーユーが流れ出す。お客さんが何人も歌ってくれる。もちろん、先生も。先生がこんなに歌が上手だなんて知らなかった。
「ハッピーバースデイディアかおりさん」
朗々と響くってこういうこと。今日は先生のことをいろいろ知ってしまった。
ミキさんがプレゼントといってお菓子盛り合わせをくれた。テーブル席のお客さんが焼酎のロックをおごってくれる。申し訳なくてぺこぺこしているとお客さんが笑う。
「お礼してくれるなら、また遊びに来てくれたらいいよ」
「なかなか若い人は来てくれないから」
お客さんがみんな優しい。このお店は本当にすてきだ。
「あ、この曲は知ってるんじゃない?」
レコードはボサノヴァに戻っていた。ゆったりしたリズムで、でも明るくてかわいい曲がかかった。
「イパネマの娘。ボッサの代表的な曲だ。アントニオ・カルロス・ジョビンの大ヒット曲ね。それこそCМで最近聞いたなあ。ジョビンはボッサというかブラジルを代表する作曲家でボサノヴァ誕生の中心的な人物だ」
前のめりになって熱弁をふるう先生の様子が懐かしすぎて泣きそうになる。高校時代の思い出がこぼれてきそう。
「舞原さん、どうした」
ぴたりと先生の口が閉じた。やばい、泣きそうかも。
「曲がすてきで」
そう言ってみたけど泣かせるような曲じゃない。わくわくして踊りだしたくなるようなタイプの曲だ。楽しくて感涙することってあるだろうか。
「やっぱりイパネマの娘は名曲だよなあ」
先生は疑問をもたなかったようで満面の笑みでうんうんとうなずいている。
「和歌で言うなら『かくとだに』……。そうだ」
今でも満面の笑みと思ったけど先生の笑顔はますます輝きそうなほどになる。
「舞原さんは百人一首が強かったよなあ。覚えてる?」
もちろん覚えてる。小さいころからお正月は親戚一同で百人一首をするというのが我が家のならわしだったから。親戚中で私に勝てる人はいない。でも、高校ではそうじゃなかった。
「私なんて負け戦ばかりでした」
うつむいた私の顔を先生が覗き込む。
「クラス代表で学年対抗戦に出場したじゃないか」
先生が提唱した百人一首大会は盛況だった。私も毎年楽しみにしてた。けど一度も学年一位にはなれなかったんだ。私が輝けるのはせいぜい親戚の集まりのときくらい。
「本当に私ってなんでも中途半端なんですよね。夢とかもないし。なんかただぼーっと生きてるだけっていうか」
先生は顔を引っ込めると私のお菓子の盛り合わせを勝手に食べだした。山盛りのお菓子を一人ではたべきれないだろうから別にいいんだけど。なんだか几帳面な先生らしくない行動だ。
「俺はたけのこ派なんだ」
とつぜんなんだろうと思ったら、お菓子の話だった。きのこの山とたけのこの里をそれぞれひとつずつ摘まんでいる。
「どうもね、世の中ではきのこの山のほうが優勢らしいんだよ。でも俺はたけのこ派。これは譲れない。舞原さんは」
私はきのこ派だ。けどそう言うと角が立つかなと嘘をつこうとした。
「きのこ派だろ」
「え、なんでわかったんですか」
「盛り合わせが来てからきのこの山の方しか食べてなかったから」
そんなに観察されてたとは気づかなかった。先生は案外するどいらしい。
「というわけで、たけのこは俺がもらう」
なにが『というわけ』なのかはわからないけど別けてあげるのはやぶさかではない。きのこの山は渡さないけど。
やっぱりきのこも食べたいと言われないうちに独り占めしようとさくさく食べる。ぜったいにきのこの方が美味しいと思う。
「で『かくとだに』続きは覚えてる?」
「えやはいぶきのさしもぐさ。さしも知らじな燃ゆる思いを」
「さすが!」
また拍手してもらったけど、これくらい覚えてる人はたくさんいる。でも喜んでるように見えるよう笑顔を作る。
「イパネマの娘の歌詞がまさにこの歌なんだなあ。秘めたる恋ってやつだ。アオハルだなあ。ねえ」
ミキさんに話を振るとミキさんは肩をすくめた。
「国語教師がアオハルなんて流行語使っていいわけ?」
「そりゃいいに決まってる。新しいものを取り入れなくなったら老け込むよ。だから俺はいつも新しい音楽を仕入れつづけるんだ」
「これ以上レコードを増やしたら離婚って言われてるんでしょ」
なにやら不穏な話になってきた。
「これはここだけの話なんだが」
先生が声を低めて私の耳に顔を寄せる。
「俺はレコード用の倉庫を持ってる」
私もなんとなく小声になる。
「奥さんに秘密でですか」
「もちろん」
これは大変な秘密を知ってしまった。奥さんが知ったら離婚どころの話じゃないんじゃないだろうか。
「それくらい、俺は音楽が好きだ」
そう言って先生は焼酎を飲み干して立ち上がる。
「げんちゃん、次俺」
レコードがぎっしり入ったバッグを持ってDJブースに向かう先生はキリッと引き締まった顔をしている。授業をしているときより本気で集中してるんじゃないだろうか。
「あの、ミキさん」
カウンターの中でヒマそうなミキさんに話しかける。
「先生がプロのDJだったころって知ってますか」
「ああ、知ってるよ。この辺じゃ有名だったんだ、モロちゃんは」
意外過ぎる。先生が有名人だなんて。
「なんで学校の先生になったんでしょう」
「子どもができたからだって言ってたかな」
「DJって子どもができたらやっていけない仕事なんですか?」
「まあ仕事の中心になるのは夜だし、子どもが学校に行きだしたりすると接する時間は短くなっちゃうんじゃない」
好きな音楽から遠ざかっても子どもと一緒がいいのか。で、その子どもにも内緒にするくらい音楽にのめりこんでるのか。好きなものに囲まれた先生の人生は輝いてるんだろうな。
今も先生はレコードと会話しているみたいにターンテーブルを見つめて体を揺らしている。なんだか寂しくなってきた。どうして私にはなにもないんだろう。
「お会計お願いします」
先生がレコードを回している間にそっとお店を出た。
口から出る溜め息がアルコール臭い。ゼミのみんなから二十歳の誕生日を祝ってもらったというより、初めてお酒を飲む私を酔いつぶそうという魂胆の飲み会だった。自分が酒豪だということと、お酒が好きだと知れたからなかなか良い夜だったと言えなくもない。終電を逃してさえいなければ。
始発までどうすればいいんだろう。友人たちは酔いつぶれた何人かを送っていくため散り散りになった。とりあえずグループチャットにSOSメッセージをいれてみたけど反応はない。みんなけっこう酔ってたからスマホチェックも出来てないのかもしれない。
田舎者の私はこの街に詳しくない。大学から近い街と言っても私は街に繰りだすような趣味を持ってないから。でもとりあえずどこかに行かなきゃ。この熱帯夜に外にいつづけるなんて暴挙はおかせない。
街の中心部に向かって歩く。深夜まで開いてるお店っていうとカラオケかファミレスかな。スマホで検索して一番近いファミレスに行こう。と思ったけど。やばい、バッテリーが切れそう。まずはコンビニで充電器を買わなきゃ。
探すまでもなくすぐにコンビニに到着。充電器ももちろんある。良かった。ついでに新作アイスもチェック。アイスはうちの近所の方が品ぞろえがいい。地元が強いってなんだか嬉しい。
深夜だというのにお客さんがけっこういるもんだな。うちの近くだとこんな時間はガラガラだけど。みんな朝までなにをして過ごすんだろう。
あれ? あの男の人……。
「師岡先生!」
振り返ったのは間違いない、師岡先生だ。
「お久しぶりです!」
嬉しくなって小走りで駆け寄った私を、師岡先生は戸惑った表情で見下ろす。やっぱり先生は背が高いなあ。
「えっと……、北高の卒業生?」
「はい。二年前に卒業しました」
三年の時の担任だ。覚えてくれてると思ったんだけど、この表情じゃ忘れちゃってるな。ちょっと寂しいけど仕方ない。私は目立つ方じゃなかったし、あんまり話したことないもんね。名乗るしかないか。
「舞原です」
「おー! 舞原かおりさんか。きれいになったからわからなかったよ。そうかそうか」
下の名前を憶えてくれてたなんてびっくり。忘れられたわけじゃなかったんだ。嬉しくてにやけちゃう。師岡先生は四十代後半だけど、どこか垢ぬけてるっていうか、おしゃれな空気を纏ってる気がしてた。今夜はそのおしゃれ感がとびぬけてる。
ビッグサイズの白ティーシャツ、シャカシャカした素材のズボン、バスケットシューズは黒で赤いロゴが入ってる。鈍い光沢の金属のブレスレットは太くてごつい。同じ素材のネックレスも。まるでヒップホップでもしてそうな感じ。
「舞原さんはこんな遅い時間になにしてるの」
「飲み会で遅くなっちゃって。終電に乗り遅れました」
先生は大きな口を開けて笑う。うん、この豪快な笑い方も懐かしいな。
「そうかそうか。友達といっしょなの?」
「いえ、みんな帰っちゃいました」
「ありゃ、おいてけぼりか。じゃあ、一緒にこない? これから皿回すんだ」
皿? 首をかしげると先生は抱えてる大きな黒いバッグを持ち上げてみせた。
「レコード。良い曲聞かせるよ。よし、行こう」
勝手に決められてしまった。でも良かった。先生と一緒なら安心だ。てくてく並んで歩く。
「レコードを回すって、DJみたいですね」
「みたいじゃなくて、こう見えてもDJなの。昔はプロでやってたんだけど、今は趣味ね」
「え! プロだったんですか!」
プロのDJってかっこよすぎない? 思わず先生の頭のてっぺんからつま先までじろじろ見てしまう。
「国語以外にもできることはあるんだよ。意外だろう」
「はい。めちゃくちゃ意外です。先生にそんなおしゃれな趣味があるなんて」
がははと笑う先生はトレードマークの太い黒ぶち眼鏡をくいっと押し上げる。
「月一でDJイベントやってるの。ブースのある小さなカフェバーを貸し切ってね。何人か集まって回すんだ。それこそプロもくるよ」
「私、DJさんって見たことないです」
「舞原さんはあんまり夜遊びはしないの?」
「全然です。田舎者ですから。街にでるような趣味もないし、つまらない人生をおくってます」
先生がぴたりと足を止める。
「そんな寂しいこと言うなよ。俺の教え子には幸せな人生を歩んでほしいんだ」
真剣な表情だ。そう言われても本当のことだから仕方ない。私の人生にはなーんにもない。地味に目立たずただなんとなくぼんやり生きてるだけ。
そんな考えが顔に出てたのか、先生は眉を下げて本当に寂しそうにする。
「夢とかない?」
「なーんにもありません。やりたいことって昔からなくて」
先生はぽつぽつと歩き出した。
「高校時代、サッカー部の部長のおっかけしてたじゃないか」
まさか、バレてた!? 誰にも秘密にしてたのに!
驚きのあまり先生を見上げる。先生はごく真面目に言葉を続ける。
「青春を謳歌してたろ。好きな人がいるなんて最高に楽しいだろうに」
「好きっていうか……。あこがれてたけど、がっかりして。もういいかってなって」
先輩をこっそり見ていて彼女が二人いることに気づいた。二股ってやつ。先輩のこと嫌になったし、男の人ってみんなそうなのかなって信用できなくなった。
「よし。今日は舞原さんの好きな曲を探そう。音楽はいいぞ」
正直、音楽にも興味ない。カラオケに付き合うために流行ってる曲を聞くことはあるけど。それだけ。でも先生をがっかりさせたくない。
「はい」
へんな間が空いちゃったけどなんとか笑って返事できた。
「この店だよ。なかなか渋くていいだろ」
たどり着いたのは小さな木造の一軒家。火事にでもあったのかと思うくらい煤けていて壁なんかささくれてる。窓からぼんやりとしたオレンジ色の明かりが漏れてきてるのが、なんだか不気味。先生はそんな雰囲気に躊躇することもなく引き戸を開けた。
中に入ると外観とはまったく違う雰囲気だった。壁がなくて一軒まるごとフラットだ。左手にカウンター席が五つ。右手に四人掛けのテーブルが四つ。
そしてど真ん中に大きな長いテーブルみたいなもの。先生がブースって言ってたのがこれか。小柄な女性がそのブースに向かって両手を伸ばしてくるくるさせている。
「モロさん、おかえりなさい」
カウンターの中にいる若い男性が声をかける。先生は「ただいまー」と言ってバッグを掲げてみせた。
「追加を回すよーん」
先生が近づいていくと女性は体を揺らしながら台からレコードを一枚持ち上げて先生に場所を譲る。台を覗いてみるとターンテーブルが二つ、そのうち一台の上でレコードがくるくる回っている。
先生は黒いバッグからレコードをごっそり取り出してターンテーブルの横に積み上げた。そのなかの一枚を空いたほうに乗せる。針を落とすと同時に女性がもう一つのターンテーブルのレコードを取ってその場から離れた。
「お嬢さん」
カウンターの中、さっきの人だけじゃなくてもう一人、五十代前半くらいに見える女性がいた。タンクトップだから二の腕に彫られたタトゥーがくっきり見える。英語でもないアルファベットのつづりと薔薇の花。
「好きな席にどうぞ」
ハスキーな声と短く刈り込んだ髪型で迫力がある。店内を見回してみる。テーブル席はどれも人が座ってる。あっちに行くと相席ってことになるのかな。知らない人と一緒になるのはちょっと怖い。カウンターの一番端に座ってみた。
「なにか飲む?」
差し出されたメニューにはアルコールが十三種類、あとはお菓子盛り合わせとミックスナッツ、ポップコーン、オイルサーディンだけ。
アルコールのほとんどはカクテル……だと思う。カタカナがずらりと並んでる。飲み会で気に入ったマルガリータを頼んでみた。
振り返って先生を眺める。今は二枚のレコードを回してる。二枚は別の音楽なんだろうけど、流れてくるのは一曲にしか聞こえない。軽く体を揺らしながらレコードを見つめる先生の横顔は見たことないくらい楽しそうだ。
「これ、サービス」
マルガリータと一緒に小さなお皿のミックスナッツがやってきた。
「ありがとうございます」
「モロちゃんの娘さん?」
そういえば先生には私たちと同い年のお子さんがいるんだったっけ。
「いえ、元教え子です」
女性は眉を上げて目を丸くした。
「モロちゃんって本当に学校の先生してるんだ」
レコードを回している先生と私を交互に見て「へーえ」と心底感心した声をあげる。確かに今日みたいな服装の師岡先生しか知らなかったら、教師にはみえないだろう。
「なにを教えてるの?」
「古典です」
「和歌とか?」
「そうです」
「驚きにけり」
なんだかおちゃめな返しだ。怖い人かと思ったけどそうでもないのかも。
テーブル席のお客さんから声をかけられて若い男性が注文を取りに行く。女性はすっと離れてマルガリータに使ったアルコールの瓶を壁に作り付けの棚に戻していく。
音楽がなんとなく変わった気がして先生の方を見ると、レコードを一枚片付けているところだった。ということは、一枚は新しいレコードに変わったんだ。でもやっぱり二曲べつのレコードが同時に鳴っているようには聞こえない。完成した一曲に聞こえる。
先生を横目で観察しつつマルガリータに手を伸ばす。細く長い足の三角形のグラス。縁に少しのお塩が付いている。ほんのり甘いお酒に塩気が効いて夏にぴったりだと思う。
「美味しい!」
さっき居酒屋で飲んだのとはまるで違う。
「ありがとう」
女性がにこりと笑った。強面だと思ったけど笑い皺がキュートな人だ。
「ミキさん、ジーマひとつです」
女性はミキさんっていうのか。苗字でも名前でもありうる。どっちだろ、どっちでもいいんだけど。
「モロちゃんの生徒さんはなんて名前?」
「舞原かおりです」
「かおりちゃんね。音楽好きなの?」
「いえ……」
なんとなく肩を縮めてしまう。このおしゃれな空間で音楽に興味がないって白状するのはなぜか恥ずかしかった。堂々と胸を張って音楽の蘊蓄でも披露できたらかっこよかっただろうけど。
「じゃあ、これから好きになるところだ」
「え?」
ミキさんがにやりと笑う。
「モロちゃんは音楽を語ったらうるさいから。かおりちゃんが音楽通になるまで話しつづける。覚悟した方がいいよ」
それはわかる。先生は古典をおしえてるときも、とことん突き詰めた授業をした。一首の和歌を語るために一時限まるまる使ったりもしたものだ。懐かしい。
マルガリータを飲み干して、スクリュードライバーとハイボールとブラッディマリーを空にしてミックスナッツがなくなった。音楽の雰囲気が変わって振り返ってみると先生が次の人と交代してレコードをバッグにしまっていた。すぐにカウンターにやってくる。
「舞原さんは酒が強いんだなあ。見ててほれぼれするよ」
えへへと曖昧に笑っておく。先生は芋焼酎の水割りを頼んで私の隣に座った。
「どう、楽しめてる?」
「はい。なんかいいです」
「そうかそうか。今夜はボッサナイトなんだ。暑いから夏らしくボサノヴァで。ボサノヴァってわかる?」
首を横に振ると先生はそれはそれは嬉しそうな顔になった。
「ブラジル発祥の音楽でな、五十年代にできたんだ。最近はカフェでBGMに使われたりCMでも聞いたりするから舞原さんも知ってる曲があると思う。アニメのエンディングにも使われてたし、サンバから生まれたけどジャズのテイストを持った曲も多くて」
ミキさんが差し出したグラスを受け取って一口飲んで「くあー」と言って目をぎゅっとつぶる。
「ボッサと焼酎は合う! 舞原さんは焼酎は好きかな」
「飲んだことないです」
「そうかあ。最近は女性にも飲みやすいやつが増えてるんだけどな。嫌い?」
「えっと。今日、生まれて初めてお酒飲んだんです」
「もしかして誕生日だったり?」
「はい。二十歳になりました」
「おおおおお。おめでとう! そうかそうか、舞原さんも大人になったんだなあ」
拍手してもらって、なんだかこそばゆい。
「どうしたの、モロちゃん」
テーブルの方から声をかけられて先生が振り向く。
「この子が……、いやこちらの女性が二十歳の誕生日なんだ」
先生が言うと、店中の人が手を叩いて「おめでとう」と言ってくれた。音楽がピタリと止まった。なんだろうと見るとDJさんが壁にかけてあるレコードを一枚とって針を落とした。
ハッピーバースデイトゥーユーが流れ出す。お客さんが何人も歌ってくれる。もちろん、先生も。先生がこんなに歌が上手だなんて知らなかった。
「ハッピーバースデイディアかおりさん」
朗々と響くってこういうこと。今日は先生のことをいろいろ知ってしまった。
ミキさんがプレゼントといってお菓子盛り合わせをくれた。テーブル席のお客さんが焼酎のロックをおごってくれる。申し訳なくてぺこぺこしているとお客さんが笑う。
「お礼してくれるなら、また遊びに来てくれたらいいよ」
「なかなか若い人は来てくれないから」
お客さんがみんな優しい。このお店は本当にすてきだ。
「あ、この曲は知ってるんじゃない?」
レコードはボサノヴァに戻っていた。ゆったりしたリズムで、でも明るくてかわいい曲がかかった。
「イパネマの娘。ボッサの代表的な曲だ。アントニオ・カルロス・ジョビンの大ヒット曲ね。それこそCМで最近聞いたなあ。ジョビンはボッサというかブラジルを代表する作曲家でボサノヴァ誕生の中心的な人物だ」
前のめりになって熱弁をふるう先生の様子が懐かしすぎて泣きそうになる。高校時代の思い出がこぼれてきそう。
「舞原さん、どうした」
ぴたりと先生の口が閉じた。やばい、泣きそうかも。
「曲がすてきで」
そう言ってみたけど泣かせるような曲じゃない。わくわくして踊りだしたくなるようなタイプの曲だ。楽しくて感涙することってあるだろうか。
「やっぱりイパネマの娘は名曲だよなあ」
先生は疑問をもたなかったようで満面の笑みでうんうんとうなずいている。
「和歌で言うなら『かくとだに』……。そうだ」
今でも満面の笑みと思ったけど先生の笑顔はますます輝きそうなほどになる。
「舞原さんは百人一首が強かったよなあ。覚えてる?」
もちろん覚えてる。小さいころからお正月は親戚一同で百人一首をするというのが我が家のならわしだったから。親戚中で私に勝てる人はいない。でも、高校ではそうじゃなかった。
「私なんて負け戦ばかりでした」
うつむいた私の顔を先生が覗き込む。
「クラス代表で学年対抗戦に出場したじゃないか」
先生が提唱した百人一首大会は盛況だった。私も毎年楽しみにしてた。けど一度も学年一位にはなれなかったんだ。私が輝けるのはせいぜい親戚の集まりのときくらい。
「本当に私ってなんでも中途半端なんですよね。夢とかもないし。なんかただぼーっと生きてるだけっていうか」
先生は顔を引っ込めると私のお菓子の盛り合わせを勝手に食べだした。山盛りのお菓子を一人ではたべきれないだろうから別にいいんだけど。なんだか几帳面な先生らしくない行動だ。
「俺はたけのこ派なんだ」
とつぜんなんだろうと思ったら、お菓子の話だった。きのこの山とたけのこの里をそれぞれひとつずつ摘まんでいる。
「どうもね、世の中ではきのこの山のほうが優勢らしいんだよ。でも俺はたけのこ派。これは譲れない。舞原さんは」
私はきのこ派だ。けどそう言うと角が立つかなと嘘をつこうとした。
「きのこ派だろ」
「え、なんでわかったんですか」
「盛り合わせが来てからきのこの山の方しか食べてなかったから」
そんなに観察されてたとは気づかなかった。先生は案外するどいらしい。
「というわけで、たけのこは俺がもらう」
なにが『というわけ』なのかはわからないけど別けてあげるのはやぶさかではない。きのこの山は渡さないけど。
やっぱりきのこも食べたいと言われないうちに独り占めしようとさくさく食べる。ぜったいにきのこの方が美味しいと思う。
「で『かくとだに』続きは覚えてる?」
「えやはいぶきのさしもぐさ。さしも知らじな燃ゆる思いを」
「さすが!」
また拍手してもらったけど、これくらい覚えてる人はたくさんいる。でも喜んでるように見えるよう笑顔を作る。
「イパネマの娘の歌詞がまさにこの歌なんだなあ。秘めたる恋ってやつだ。アオハルだなあ。ねえ」
ミキさんに話を振るとミキさんは肩をすくめた。
「国語教師がアオハルなんて流行語使っていいわけ?」
「そりゃいいに決まってる。新しいものを取り入れなくなったら老け込むよ。だから俺はいつも新しい音楽を仕入れつづけるんだ」
「これ以上レコードを増やしたら離婚って言われてるんでしょ」
なにやら不穏な話になってきた。
「これはここだけの話なんだが」
先生が声を低めて私の耳に顔を寄せる。
「俺はレコード用の倉庫を持ってる」
私もなんとなく小声になる。
「奥さんに秘密でですか」
「もちろん」
これは大変な秘密を知ってしまった。奥さんが知ったら離婚どころの話じゃないんじゃないだろうか。
「それくらい、俺は音楽が好きだ」
そう言って先生は焼酎を飲み干して立ち上がる。
「げんちゃん、次俺」
レコードがぎっしり入ったバッグを持ってDJブースに向かう先生はキリッと引き締まった顔をしている。授業をしているときより本気で集中してるんじゃないだろうか。
「あの、ミキさん」
カウンターの中でヒマそうなミキさんに話しかける。
「先生がプロのDJだったころって知ってますか」
「ああ、知ってるよ。この辺じゃ有名だったんだ、モロちゃんは」
意外過ぎる。先生が有名人だなんて。
「なんで学校の先生になったんでしょう」
「子どもができたからだって言ってたかな」
「DJって子どもができたらやっていけない仕事なんですか?」
「まあ仕事の中心になるのは夜だし、子どもが学校に行きだしたりすると接する時間は短くなっちゃうんじゃない」
好きな音楽から遠ざかっても子どもと一緒がいいのか。で、その子どもにも内緒にするくらい音楽にのめりこんでるのか。好きなものに囲まれた先生の人生は輝いてるんだろうな。
今も先生はレコードと会話しているみたいにターンテーブルを見つめて体を揺らしている。なんだか寂しくなってきた。どうして私にはなにもないんだろう。
「お会計お願いします」
先生がレコードを回している間にそっとお店を出た。



