結局逃げ出せないまま、僕は星野さんに樹海に連れられた。外はすでに暗くなってしまっている。こんな時刻にこんな場所にいるなんて、僕は前世で一体どんな罪を犯したっていうんだろうか。

 やや気温の低めの空気。木々の葉が風に揺れて奏でる音はリズムカルに聞こえた。勿論周りに人なんておらず、僕たち二人の姿しかない。

 適当なところに車を停めた星野さんは嬉しそうに降りて懐中電灯を取り出した。彼女の車がなくては帰れない僕はもう腹を括ってスマホのライトをつける。心細い灯りだった。

 恨みをたっぷり込めた視線で隣を睨んだ。

「またこんなところに一人で来てたんだ……何してたの、首吊りに使ったロープでもコレクションしてるってわけ」

「やだ、私そんな悪趣味じゃないよ」

 彼女の中の基準がまるでわからない。今まで欲しがっていた曰く付きのグッズは僕からみたら全て悪趣味もいいところだ。

「こんなところ一人で肝試しにきてるだけで十分悪趣味だよ」

「そう?」

「早く財布探そう。言っておくけど僕はこの樹海で幽霊を探す気はちっともないんだからね」

「残念」

「ほんとに! どの辺いくの!?」

「財布の落とし場所には心当たりがあるの。こっちよ」

 星野さんは懐中電灯を持ったまま草が生い茂る中へ躊躇いなく足を踏み入れた。僕は顔を歪めながら後に続く。一歩進むたび小さな虫が飛び交うのに不快感を覚えた。

 まさか迷子にもなりそうなこの広い樹海を歩き回されるわけでは、とゾッとしていると、意外にも前を歩く星野さんはすぐに足を止めた。振り返って僕に言った。

「ここよ、この辺。この辺で私鞄を漁ったの」

「え、ここ?」

「写真を撮りたくて。それ以降鞄は開けてないから間違いないと思う」

「写真って一体なにを」

 そう聞き返そうとした僕は、星野さんが立つ背後にあるものを見つけた。

 樹齢どれくらいだろうか、幹が太くしっかりした大きな木。そこにある異質なもの。

 藁人形と五寸釘だった。

 僕は唖然としてそれを見つめる。そこの一帯だけ別世界のような、黒いモヤがかかっているような感覚に包まれた。

 それはあまりにも有名すぎる話。藁で作った人形に、呪いたい相手の髪の毛や写真を入れて釘で打つ。相手は何かしらの影響を受ける、丑の刻参り。

 場所は神社の御神木に行うだとか、格好は白装束だとか、人に見られると効果がなくなるだとか———色々言われていることだが、とりあえず人形に針や釘で攻撃することは基本だ。

 それを見た途端、全身にざわっと悪寒が走った。この時代にいまだこんなことをしてまで相手を陥れようとする人がいるんだと、人間の狂気を見てしまった気がした。

 藁人形はまだ新しい。釘も錆なんかついておらず、むしろピカピカに磨き上げられたかのような美しさ。これがまだ使われて間もないあることは明白だった。

 夜、こんな場所で、誰かが無心に人形に釘を打ち込む姿を想像する。何がそんなに憎いのか、怒りというパワーは時に凄まじい力を持つ。

 星野さんは懐中電灯の明かりをその人の形をした藁に当てながら微笑む。

「ちょっと散歩のつもりで来たんだけど、こんなの見つけちゃって。まだこういうことする人、いるのね」

「いる、いるのねじゃないよ……! どこから突っ込んでいいかわからないよ」

「私も実物を見たのは初めてだった。だから興奮しちゃって、とりあえず写真におさめたくてスマホを取り出したから。その時に財布落としたのに気づかなかったのかも。かなり興奮してたし」

「はあ……ほんとこの人は……でも、星野さんなら現物持って帰ってコレクションとかすると思ったのに、そこは踏みとどまったんだね」

 怖いもの知らずの星野さんならやりそうなのに。さすがの彼女も人を呪ってる現物なんてやばいと思ったんだろうか。思いとどまってくれてよかった、これを持ち帰ってしまった日には本当に身が危ないと思う。

 僕の質問にふふっと笑う。そして優しい顔で藁人形を見つめながら言った。

「そりゃそうよ。まだ完成していない呪いを途中で持ち帰るなんて野暮だわ。この藁人形が一体どれくらいまで打たれるか見なくちゃ。何本釘が刺さるのか、まだ綺麗な藁が朽ちるまで続くのか。

 誰も打ち付けなくなった時、それがこの人形の完成体なんだから」

 ここ最近少し忘れていた星野美琴のヤバさを、久しぶりに目の当たりにした気がする。

 暗闇の中でも浮かんでくるほど白いその肌はあまりに綺麗だ。綺麗で、おぞましい。

 一緒に働いてる時は人をフォローしたり、優しく対応したりして温かな人間性が見える。その裏で誰にも真似できないこのオカルトへの心酔は、一体どこから生まれてくるのだろうか。
 
 どちらが本物なんだろう、と思う。いや、どちらも本物なんだ。

「大山くんは呪いたいくらい憎いと思った人間、いる?」

「い、いないよそんなの……そりゃ、多少嫌いな人はいても。でも呪おうなんて思わないよ」

「そうよね。私もね、嫌いな人はたくさん出会ってきた。誰だってそうじゃないかな、生きていれば心底憎い相手の一人や二人出会うことになる。でもほとんどの人が、こんなことを実行しようだなんて思わない。

 この人形の持ち主は一体何があったのかな。どれだけ辛い思いをしたんだろう。どんな理由で、どんな思いでこれに釘を打っているのか……そう考えるだけで想像が止まらないの」

 僕は何も答えなかった。事情はわからないが、きっと自分の想像を遥かに越えた恨みなんだろう。もしかしたら、一生経験できないほどの何かがあったのか。

 例えば家族を殺されたとか。自分が事件に巻き込まれたとか。……想像しても答えはわからないし、わかりたくなかった。

「……とにかく、これを打ってる人が来たら大変だから。財布探してここを早く出よう」

 僕は話を逸らすようにしてそう言った。星野さんは何も言わず僕の言葉に従う。二人でライトで足元を照らし周りをぐるりと歩いていく。雑草たちがかなり育っていて生い茂っているので、目を凝らさないと落し物はまるで見つけられなかった。

 人の声もなにも聞こえない空間に、なんだかやたら心臓が波打った。誰かが後ろから見ている、そんな感じがする。釘で撃ち抜かれた藁人形が僕たちをじっと見守っている姿を想像してしまった。

 ガサガサと草を踏みしめる音だけが流れる。十分涼しいその場所で、僕は額から汗をかいた。

 しばらく二人で地面と睨めっこしていると、あるところで僕は白っぽい何かを見つける。慌てて近寄りしゃがんで手にした。やはり、それは白とピンクの長財布だった。

「あった! 星野さん、あったよ!」

 わっと喜び、土がついたそれを手のひらで払った。星野さんが近寄ってきて笑顔を見せる。

「あ、よかった!」

「一応中身確認してみたら」

「ありがとう」

 こんな場所に落とされた財布が誰かに拾われるなんてあまり考えられないことだが、念のためいってみる。彼女は中を覗き込んでしっかり確認した。

「うん、現金もカードもそのままある」

「はーよかった」
 
 とりあえず胸を撫で下ろす。これで目的は果たした、もう二度とこんな場所には来たくない。全然反省しているそぶりがない星野さんに僕は強い口調で言った。

「もうさ、こんなとこ来るのやめなよ。丑の刻参りは誰かに見られると呪いが無効になるとか、自分に返ってくるとか言うから、相手に見つかったら大変だよ」

「まあ、それは大変ね」

「帰ろう。もう真っ暗だし」

 こんな場所で何も視えなくてよかったと思った。僕は全て終わったとばかりにため息をついて足を踏み出す。

 星野さんも財布を持っていたカバンに仕舞い込んだ。素直に従った行動を見てホッとする。とにかく何もなくてよかった。

 だがその時、最後に彼女はふと振り返ったのだ。

 それは誰かに呼ばれてつい後ろを見た、そんな様子だった。

 微かな風が吹く。木々のざわめきが大きく聞こえた。星野さんの長い黒髪がふわりと風に乗ってなびく。

「………あ」

「どうしたの?」

 彼女は小さく声を上げたあと、ゆっくりと微笑んだ。それは嬉しそうに、幸せそうにも見える笑顔だった。

 僕はその顔を見て声が出なくなった。なぜかはわからない、ただ息が詰まるようになってしまった。

 星野さんはしばらく一点を見つめたあと、小さく呟く。

「そうだ私。昨日、ハンドタオルも一緒に落としたんだった」

 そう発言した彼女の視線の先を見た。

 先ほど見た藁人形の隣の木だった。財布を探すうちに移動してきていたらしい。こちらも大きく太い立派な樹木で、それに白い何かを見つけた。

 少しだけ茶色い土がついた柔らかそうな布。

 その真ん中に一本、釘がしっかりと打ち込まれていた。






「本当に……本当にさ! もう二度と行っちゃダメだよ、あれは警告なんだよ!」

「もう何度も聞いた」

 帰りの車中、僕は震える体を必死に抑えながら星野さんに説教した。こっちとは正反対に、運転する星野さんは特に表情も変えずに僕の話を聞いている。

 車は何事もなく夜道を走り続けている。だいぶ人気のある道へ出てきた。すれ違う対向車のライトがひどく愛しく感じた。

 あのハンドタオル。しっかりと釘が打ち込んであって、まるで取れなかった。しばらく戦ったあと、結局そのまま置いてきてしまった。間違いなく星野さんの愛用しているタオルらしく、昨日落としたものだろうとのことだった。

 つまり。呪っていた人に拾われたんだ。

 丑の刻参りは他者にその呪う場面を見られてはいけない。まだ真新しく綺麗なタオルを見て、誰かが藁人形を見つけたことを悟った。

 もう二度とくるな。そういう意味であの釘は刺されたのだ。

 見つかったのがもし財布だったら。顔写真や住所までも載った免許証が相手に拾われてしまっていたら。さすがの星野さんも無事ではいられなかったかもしれない。

「ほんと……拾われたのがタオルでよかったよ……」

「そうね」

「よく平気でいられるね。僕はさっきから寒気が止まらない」

 ずっと涼しい顔をしている星野さんが信じられないと思う。普通の人間なら叫び出すところだ。この人の神経は死んでるんじゃないだろうか。

 星野さんはふふっと微笑む。前を向いたまま囁いた。

「でも本当凄い体験したな……」

「まず第一に普通の人はあんな樹海理由もなく行ったりしないからね。そもそもなんであんなところに行くの?」

「そりゃ、成仏できない何かがいるかなって期待して。私は全然視えないけど、勝手についてくるかもしれないでしょう。だからまさか、あんな代物を見つけるなんて思ってなかったの。丑の刻参りかあ……どんな人があれに釘を打ってるんだろう」

「やめてよね? ほんとに、またこっそり見に行こうとかするのやめてよ?」

 僕は念を押しまくった。

「今度こそ星野さんも狙われて死ぬかもよ!」

「だって……
 私は滅多なことじゃ死なない、ってお墨付きだから」

 そう囁いた星野さんの横顔を、僕は無言で見つめた。

 彼女は片手でハンドルを握ったまま、腕を伸ばして赤いおやつたちを手に取った。白い指先で何個か取り出してくると、それをゆっくり口に入れて頬張った。

 見慣れたその光景がひどく僕に緊張感を与えた。鷹の爪じゃなくて、何だか他の赤いものを食べているような……そんな錯覚に襲われて。





 僕はそれ以上何も聞かなかった。

 本当は一つ、心の中に疑問が残っていた。

 僕が拾い上げた星野さんの財布はしっかりした長財布で、大きさも重みもそれなりにあるものだ。

 いくら興奮していたと言っても、スマホなんて小さなものを取り出そうとしてあれを落とすのだろうか。しかも、ハンドタオルもだなんて。星野さんが持っているカバンはいつも小さめなものなのに。

 だからもしかして。もしかしてだけど。

 あえて相手に見つかるように私物を落としておいたんじゃないか———だなんて、恐ろしい考えが頭をよぎったけれど、もう確認する気力だなんて存在しなかった。