しんと沈黙が流れているとき、目の前に続く長い坂道に赤い何かが出現した。どこかの家か、横道から出てきたようだった。

 赤い帽子、赤い上着、赤いスカート、赤い靴。そんな格好を身にまといながら、誰かがゆったりした速度でこちらへ登ってくる。手は黒いベビーカーを押していた。僕は足を止めたまま動くことができず、ただその場で呆然としていた。

 星野さんは僕の視線に気がつき前を向く。そして微笑んだ。

 細い下り坂は僕たち以外に人がいなかった。両脇にはただひっそりと家が佇むだけのただの道。どこにでもある平穏な道が今、とてつもない不気味さを醸し出していた。

 女性は非常に遅い速度で登ってくる。坂道が辛いのかもしれなかった。それでも、徐々に大きくなってくるその姿を見るに彼女は非常に楽しそうだった。時々何やら話しかけている。黒いベビーカーは日除けのカバーが大きく覆われている。

 いつしかずっと聞こえていた子供達の遊び声も聞こえなくなり、耳にはボソボソと女性の話す声だけが届くようになった。

「……ね……のに」

「……ち……いい……のね」

「ふふふ、……ちゃん、……だものね」

 徐々に近づくその声に背筋が寒くなる。それでも逃げ出すことさえできず、僕はただ真っ赤な人を見つめ続けている。額から汗が伝って顎から落ちた。





「こんにちは。いい天気ですね」

 ついにその女性が近づいてきたとき、星野さんがそう声をかけたので心臓が止まりかけた。ずっとベビーカーしか見ていなかった女性がピタリと足を止め、こちらを見た。

 赤い帽子からは傷んだ灰色の髪の毛が覗いた。やや疲れたようなほうれい線に青白い顔。正気のない表情に僕の心臓は極限まで暴れる。

 星野さんを見て、女性はにっこり笑った。

「あら、こんにちは。また会ったわね」

「本屋に行ってきたんです」

「まあまあ、勉強熱心なのね」

 そう女性が話しかけてきたのを聞いて、自分は一気に安堵した。思ったより普通の会話をしているからだ。話した感じ変なところもない。
 
 星野さんと会話する様子は格好こそ奇抜だけど普通の女性だ。顔を緩めて笑っている。ずっと襲っていた寒気がようやく落ち着いてきた。

「あら、お友達?」

 女性は僕を見て首を傾げた。慌てて頭を下げる。星野さんが説明した。

「バイト先が一緒なんです。本屋でたまたま会って」

「あら、そうなの」

 女性は僕に向かって微笑んだ。細い目がさらに細くなり、三日月の形になった。その奥にある黒目はどこか冷たさを感じる色に思えたのは気のせいなのか。

「は、初めまして……」

「ふふふ、そうなの。学生さんね?」

「あ、はい」

「ふふふふふふ。若いのね。
 ほーら、お兄さんにご挨拶なさい。今ちょうど起きているでしょう?」

 そんな声がしてようやく落ち着いてきていた心臓がどきりと鳴った。未だ日除けの屋根で見えないベビーカーに向かって話しかけているのは明白だったからだ。

 女性は顔をずいっとベビーカーに近づけた。先ほどから、その中から正気が感じることはない。赤ちゃんが乗っているのならもっともぞもぞ動いたり、ちょっとした声とか聞こえてきてもよさそうなのに、微かな音すら聞こえてこないのだ。

 それでも女性は嬉しそうに話しかけている。その光景を見て先ほどの話を思い出す。ぬいぐるみに向かって話しかける女性、そしてそのぬいぐるみは突然笑い出す……

「あらあらいつのまにか寝ちゃったのね」

 そう言って女性は日除けの屋根を思い切り畳んだ。寝ているなら別にいいですよ、と断る余裕すら見えなかった。

 緊張で全身が硬直してしまった自分は、声すら出せずにただ棒立ちでその光景から目を離さずにいた。

 下半身は柔らかなブランケットがかけられていた。真っ白なフリルのついた洋服に、真っ白なよだれかけ。ぎゅっと強く握ったままの小さな手。毛穴ひとつ見えない肌にちょこんとついた桃色の唇。

「気持ちよさそうに寝てるわ。いつもは起きてるんだけど」

 僕は中身を凝視した。瞬きすら忘れて。


 
 どう見ても本物の赤ちゃんだった。



 すやすやとした寝息も聞こえてくる。ぬいぐるみだなんてとんでもない、作り物でもない。紛れもなく普通の赤ちゃんだ。まつ毛が長くて寝ていてもわかるクッキリ二重で可愛らしい。それを見た途端頭の中が混乱した。

 あれ、どういうこと? ぬいぐるみは?

 ただただぽかんとして間抜けみたいに口を開いていた。

「ごめんなさいねえ、せっかくなのにこの子寝ちゃってるわあ」

 赤いおばさんが言った。連れていたのが本物の赤ちゃんとなれば、ファッションセンスが最高にない普通のおばさんに見えてきた。僕はようやく表情を緩ませた。

「あ、いえ……お昼寝中ですね」

 そう言いながら、ちらりと隣にいる星野さんを睨んだ。彼女はどうしたの? とばかりに微笑んでいる。

 さては……騙したな。からかったんだ、僕のこと。

 最近僕が視えてしまうことも確信して、色々試してみたかったんだろうか。彼女の意図は詳しいことはわからないが、とにかくハメられたということはわかった。あとでとっちめてやる。

 赤いおばさんはニコニコ笑う。

「そうね、丁度お昼寝中だから」

「気持ちよさそうですね」

「赤ちゃんの寝顔は天使よねえ」

「そう思います」

「あらありがとう」

 幸せそうなおばさんを見て良心が痛む。怯えていてごめんなさい、赤い服は確かに変だけど、話してみたら普通のいいおばさんでした。でも悪いのは星野美琴なんです。そう言い訳をしておく。

 すやすや眠る赤ちゃんはお世辞じゃなく可愛いと思った。つい頬が緩む。

「まつ毛すごく長いですね。クッキリ二重だし、女の子ですか? モデルみたい」

 特別子供好きってわけでもないが、やはり小さな存在は愛しく思う。僕はニコニコしながら尋ねた。

 しかし、その瞬間だった。

 ずっと笑顔だったおばさんの表情がピタリと止まった。

 引き攣った頬で目をしっかり見開き、僕をじっと眺めたのだ。