「え、と…、あの」
 「はい?」
 「ここに…行きたくて」
 持っていた紙を見せると男の人は怪訝そうに顔を顰めた。
 「今からですか?」
 「…はい」
 「もう終電行っちゃいましたけど…」
 「え?」
 「次は朝4時からの運行になります」

 ‪”‬今からは、乗れない…? のかな‪”‬

 男の人の反応になんとなくそう思って「分かりました。ありがとうございます」と頭を下げて来た道を引き返した。

 ***
 外に出ると凍てつくような空気が私の身体を舐め回した。
 手持ち無沙汰で少し歩く。
 しばらくすると滑り台と鉄棒だけがある小さな公園を見つけたので、そこに設置されたベンチに腰掛けた。
 ピュー、と吹き荒む風が頬に当たってチクチクと痛い。
 うー。寒いなぁ。
 靴を脱いでベンチの上で小さく丸まる。
 そのまま背もたれに身を預け、膝の中に顔を埋めたその時。
 少し遠くから地面を蹴る足音が聞こえてきて、顔を上げると息を切らした1人の男の人がこちらへやってきた。
 よっぽど急いできたんだろうか。はぁ、はぁ、と肩で息をする彼の額にはこんなに寒い日だというのに汗が浮かんでいる。彼が呼吸を整えてから言った。
 「なに、してるんですか」
 丸めていた身体を元に戻しながら答える。
 「え、と…、シュウデン? が、え、と、行っちゃった、らしくて…。え、と​───」
 「そうでしたか」
 ホッとしたように胸を撫で下ろした彼が空気を撫でるように優しく尋ねてくる。
 「隣、座ってもいいですか」
 小さく頷くと、ギー、とベンチを軋ませながら隣に腰掛けた。
 「こんな時間ですもんね。もう電車ないですよ」
 「そっ、か…」
 そういう、ものなのか。
 またピュー、と大きな風が辺りを包み込み、私の手もまるで氷水に手を付けたみたいにだんだん指先から感覚が消えていく。無意識に手をスリスリ、と擦り合わせていると。
 「良かったらどうぞ」
 彼が身にまとっていた上着を脱ぎ、それを私の肩にふわり、と掛けてくれた。
 じんわりと、そこに宿る温かさがこちらへやってくる。
 見ず知らずの人にこんなことをしてくれるなんて、親切な人…。
 「ありがとう、ございます」
 たどたどしく言ったお礼に笑顔で「いいえ」と返してくれた。
 それを最後に私たちの間には無言の時間が流れた。

 ***
 僕が彼女と出会ったのは、今から5年前。23歳の時だ。当時営業であちこちを飛び回っていた僕は休憩時間によく会社近くのカフェに足を運んでいた。
 彼女はそこで、働いていた。
 「こんにちは。今日もお疲れ様です」
 そう言っていつも笑顔でアイスコーヒーを提供してくれる彼女のことをいつからか目で追うようになっていた。
 たった1時間弱。気になっている異性を目で追うなんて、いつかの淡い青春を彷彿とさせるようなそんな甘い一時だった。炎天下での営業周りは時に酷だったけど、その時間があるから毎日充実していたように思う。
 あの夏、不思議なくらい急スピードで彼女に惹かれていた自分がいた。

 季節は移り変って秋になった。
 アイスコーヒーではなくて、はじめてホットコーヒーを注文したその日。
 神様は、いわゆる‪”‬チャンス‪”‬というものを僕に与えてくれた。
 「お待たせ致しました。ホットコーヒーです」
 「ありがとうございます」
 彼女はホール担当なので、大体の注文は彼女が運んでくれる。今日もそうだった。安心感のある落ち着いた所作と鈴がポロン、と音を鳴らすような可愛らしい声にはいつも癒される。午後からの会議は朝から憂鬱だったけれど今だけはそんなこと頭の片隅にもなかった。
 「伝票、こちらに失礼致しま…あ」
 「?」
 不自然に言葉を止めた彼女に首を傾げると、自身の肩を指さし控えめな笑顔を浮かべた。
 「肩に、枯葉が」
 「えっ、あ!」
 どこで付けてきたのか、僕の肩にはちょこん、と1枚の枯葉が乗っていた。
 「あはは、どこで乗ったんだろう、あはは」
 それは、多分この上なくぎこちのない気持ちの悪い笑みでこんな可愛らしい女性にお見せするものではなかったと思う。
 でも半年以上このカフェに通って、やっと今はじめて軽い雑談が出来たのが嬉しくて、そんなこと気にかけていられなかった。

 客と店員。
 それ以上でも以下でもなかった関係がこの日を境に少しずつ少しずつ、変わっていったように思う。

 「お待たせしました。ホットコーヒーです」
 「あの、叶芽(かなめ)さん」
 「?」
 先週聞いたばかりの彼女の下の名前を呼ぶ。
 緩く巻いた栗色の髪をハーフアップに束ねた彼女は今日も可愛らしくてつい目が吸い寄せられる。一瞬怯みそうになるが‪”‬今日言おう‪”‬と決めていた。

 「僕と、その…お付き合いして頂けませんか」

 ‪”‬友達‪”‬から僕達の関係は始まって、やがて‪”‬恋人‪”‬になって。同棲を始めたのは、それから3年後のことだった。

 「あ、もう起きた。おはよう、りょうちゃん」
 早いもので同棲を初めて2年経つが、まだ、信じられなかった。朝起きて、叶芽が「おはよう」と太陽を眩しい微笑みを僕に向けてくれることが。
 「おはよう」
 小さなアパートの一室にいつも幸せが流れていて、僕はそれを毎秒大切に噛み締めていた。

 叶芽は僕の2つ年下で、今はもうあのカフェのアルバイトは辞めてしまい、アパートから2駅ほど離れた場所にある企業の事務に務めている。2人とも、20代は後半に差し掛かっていて、僕達の関係値的にもそろそろ結婚も視野に入る頃だった。

 この日。僕は注文していた婚約指輪を取りに行き、来週のディナーにレストランを予約した。
 生まれてはじめてのサプライズ。
 胸は高鳴るばかりだった。
 ジュエリーショップからの帰り道、額にポタ、と冷たい感覚があった。
 雨だ。
 幸先悪いなぁ。やめてくれよ。来週、一世一代のプロポーズするっていうのに。
 そんなことを不満げに思いながらもカバンの中で揺れるリングケースをこっそり盗み見て、思わず頬が緩む。
 喜んでくれるだろうか。

 「ただいま」
 帰る頃には外は土砂降りになっていて、地面に激しく雨粒が打ち付けていた。
 「あっ、おかえり。早いね」
 今日は土曜日。
 本来は休みなのだが、例によって叶芽には仕事、と伝えて家を出ていた。
 「そうそう、思ったより早く終わったんだ」
 「そっか。外、雨すごかったよね、わー、びしょびしょ。シャワー浴びる?」
 玄関で靴を脱ぐ僕の元へバスタオル片手に駆け寄ってくる叶芽。ポンポンと優しい手つきで顔に着いていた雨粒を拭いてくれた。僕よりも随分小さい身長の叶芽が精一杯背伸びをしてそうしてくれる。思わずその華奢な身体を抱き締めたくなった。
 「わっ! えっ?」
 我慢出来ず、覆い被さるように叶芽を抱き締める。驚いて、戸惑うような声が腕の中から聞こえてきて、それもまた愛おしく感じた。
 「ふふっ、ねぇー、なに?」
 背中に回された小さな手の平が僕を優しく包み込んでくれた。
 「幸せだなー、って」
 「なにそれー」

 外は、雨が降っていた。
 ベランダに、今朝干した洗濯物が出たままだった。
 早く室内に取り込まないと。
 一瞬だけそう思ったけれど、すぐにどうでも良くなって、叶芽にキスを落とした。

 それから1週間後。
 僕たちは予約していた夜景が一望出来るレストランに、訪れていた。

 プロポーズにこんなベタな場所でいいのだろうか。そんなことを思わないでもなかったが、こういうのはちゃんとしたい。今日をいい思い出にしたい。結局そういう思考に思い至った時、先人達もこうして同じ道を辿ったのか、となんだか腑に落ちた。

 ‪”‬あれ…? もしかしてお腹空いてない?‪”‬

 そう思ったのは4品目のコース料理が運ばれてきた頃。
 シンプルな白基調の皿にオシャレに盛り付けられた魚料理を叶芽がどこか心ここに在らずな表情で眺めていることに気付く。別に魚が嫌い、ということはなかったはずだし、叶芽は割とよく食べる方だ。こんな序盤で、箸の進みが遅くなるなんて。
 「どうした?」
 少しだけ身を乗り出して声を潜める。
 「えっ?」
 「…もしかして、あんまりおいしくない?」
 「ううんっ、すっごくおいしいよ?」
 「そう?」
 絶対そんなことはありえない、ってぐらい首を振って否定されたのできっと違うのだろう。
 「うんっ」
 その会話が終われば、パクッ、と平らげてしまったので僕の杞憂だったみたいだ。
 「今日は、昼間何してたの?」
 「うーん…、あ、テレビ観てたよ」
 「あ、そういえば昨日放送だったよね、あのドラマ」
 「うん。あ、でもそれはまだ観てないよ? りょうちゃんと一緒に観るから」
 「あはは、ありがとう。帰ったら観ようか」
 お互いドラマ鑑賞が趣味でそれで意気投合し、一気に叶芽と距離が縮まった僕達。客と店員の関係だった頃を思い出してなんだか懐かしくなる。
 「うん! 次6話だよね。もう折り返し地点なんて早いなぁ」
 ん…?
 叶芽が何気なく放った言葉に引っ掛かる。
 「あれ? 次もう最終回じゃない?」
 「え?」
 確かそのはず。
 先週一緒に観た時のこと。次回最終回って予告されてて「もう最終回? 早いね」って会話をした事が僕の脳裏を過ぎる。叶芽も「終わっちゃうのやだな」って言っていた。
 「あれ? 違ったっけ?」
 他のドラマのことかな、とも思ったけどこの時期に6話が放送されているドラマなんてもうほぼないだろう。放送中のドラマは今大体が最終回を迎え始めている。
 「あはっ、そうだそうだ。次最終回だ。あ! てことはもう終わっちゃったってことか」
 叶芽の勘違いだったのか、思い出したようにそう言ってワインを口に運んだ。
 「世間的にはもう終わっちゃってるね」
 少し俯いて自分に言い聞かせるように叶芽は「だね」と呟いていた。
 多分、僕はアホなんだと思う。
 その時の叶芽の表情が、なんだか暗いように思えて。僕は叶芽を喜ばせたい一心で忍ばせていた婚約指輪を取り出した。
 「叶芽」
 「?」
 「僕と結婚して下さい」
 頭を下げて、視線をテーブルの上に貼り付ける。
 こういうのは、絶対今じゃない。料理を全部食べ終えたタイミングで渡すのがきっと正しいんだろう。そんなことは分かっていたけど今渡したくなったのだ。
 叶芽は静かにこう言った。
 「ごめんなさい」と。
 そこでようやく僕は顔を上げる。叶芽の目に溢れんばかりの涙が浮かんでいることに気付き、思わず「え」と短い声が出た。
 「ごめんな、さい」
 「どうして…、え、あ、、」
 プロポーズを断られたショックと今まで1度も見たことがなかった叶芽の泣き顔を前に気が動転した。情けないほどに、僕はオロオロしていた。こんな気弱な性格でよくプロポーズが出来たものだ。
 「僕、なんかした? かな…?」
 同棲を始めて2年。
 1度だって大きな喧嘩はなく、楽しく過ごせていた、と。そういう自負があった。正直断られることなんて頭になかった。
 叶芽が小さく首を振る。その振動で叶芽の涙はいよいよ頬を伝い、テーブルを濡らした。
 「ううん、違うの」
 「じゃあ…、なんで…」
 「私…、最近物忘れがひどいでしょう?」
 「物忘れ…、あぁ、先週のこと? え、それなら全然大丈夫だよ?」
 先週、叶芽が火をかけっぱなしにしてしまって、アパートの火災報知器が反応してしまった。住民全員に特大の警報は行き届いてしまったけれど、2階建ての4家族が住む小さなアパートだし、実際その件に関して怒っている人なんて1人もいない。みんな、『びっくりした』で済ませてくれた。火も濡れタオルを被せたらすぐに鎮火したし、そんな大した出来事じゃない。いつか笑い話にでもすればいいと思っていたし、そこまで気落ちしないで欲しかった。
 「ううん、それだけじゃない。私最近、いろんなこと忘れちゃう」
 「そんなことないよ、物忘れぐらい僕だってあるよ?」
 「…」
 そこで叶芽が黙りこくってしまったので1人、暴走するように続けた。
 「僕なんて、この前取引先に渡す大事な書類、シュレッダーにかけちゃってさ、上司に死ぬほど怒られた。あはは」
 「…」
 とにかく、叶芽に笑って欲しかった。
 「僕の方が、やばいだろ?」
 無理矢理作った笑顔のせいで頬がピクピクする。でもこのしんみりした空気を一刻も早く、どうにかしてどこか遠くへ消し去りたかった。
 「りょう、くん」
 「ん?」
 「私ね…、今日の昼間、病院行ってきたの」
 「病院?」
 コクリと小さく頷いた叶芽が、震える声でこう続けた。
 「若年性のメモリー障害だって」
 めもりー、しょうこうぐん…?
 突然の小難しい言葉に、脳が情報を処理出来ない。
 「なん…だっけ、それ」
 「認知症…みたいなやつ」
 そこで彼女は両手で顔を覆い、声を上げて泣き出してしまった。
 「叶芽、一旦出よう」
 「お待たせしました。メインの​────」
 「すみません」
 ちょうどウェイターが運んできたメイン料理になんて目もくれず、僕は叶芽の肩を支え、席を立たせる。
 速やかに会計をして、店の外に出た。
 どこかで話の続きを、と思ったが、隣でしゃくり上げるように泣き始めて叶芽を前にそれは出来ないと思った。今日はもう家に帰った方がいい。
 すぐにタクシーを呼んだ。

 「ごめんね…、せっかくの料理…」
 今日の昼間に病院で例の件を聞いたと言っていた。食欲なんてないだろうに、途中まで「おいしいね」と言ってあの場に居てくれたんだ。叶芽の気持ちを思うと胸が苦しくなった。料理が口に合わないのかと思ったタイミングもあったが、そういうことだったのだ。
 「いいんだよ」
 ソファに座る叶芽の前に正座する。
 「落ち着いた?」
 「うん…」
 肩を上下に揺らしながら泣く叶芽を前になんて声を掛けたらいいか正直この時の僕は分からなかった。でも動揺を顔に出さないよう必死に取り繕う。僕がしっかりしないと。
 「叶芽」
 しっかりしたい。気の利いた言葉のひとつでも言いたい。でも、これ以上の言葉が見つからない。
 「結婚しよう」
 馬鹿の1つ覚えのように僕の口からは今この言葉しか出てこないのだ。
 「出来ない…っ」
 「なんで?」
 「私、…っ、りょうくんのこと…っ、傷付けちゃう」
 「そんなこと気にしなくていいんだよ」
 「なんで…っ、だっていつか、りょうちゃんのことも…」
 そこで言葉を止めた叶芽は深呼吸して、そして意を決したように続けた。
 「……忘れちゃうかもしれないんだよ?」
 「いいよ、僕が覚えてるから」
 「だめ…、私といたらりょうくんは幸せになれない。私じゃなくて他の子と幸せに​────」
 「ごめんけど、僕はもう他の人は考えられない」
 「…っ」
 「叶芽がいい」
 叶芽の隣に座り直して背中をさする。
 泣き止むまで、さすり続けた。
 「嫌がられる、って思ってた…。ありがとう。りょうちゃん」
 真っ赤な目でふにゃっ、と弱弱しく笑った叶芽。
 その日はそのまま眠りについてしまった。

 夜な夜な僕は‪”‬メモリー障害‪”‬をひたすら検索した。
 普通は1度経験した記憶を一生覚えていられるが、叶芽の場合、記憶の保持期間が短いらしく、何度も定期的に‪”‬リセット‪”‬を繰り返す病気。
 ‪”‬リセット‪”‬とはなんの前触れもなく突然全ての記憶を失うこと。
 叶芽の場合、現段階だとまだ‪”‬リセット‪”‬は発症していないらしく僕の存在だって覚えているがやはり初期症状として記憶が所々欠けてきてはいるらしい。
 それは‪一見”‬物忘れ‪”‬で片付けてしまわれることも多く、‪”‬リセット‪”‬を発症して初めて病院に行き、そこで診断されるケースが多く、今の医療では治療法はないらしい。

 記事を読みながら思う。
 きっと叶芽は昼間1人でこれを調べていたんだろうな、と。
 どれだけ怖かっただろうか。
 隣で眠る叶芽の頭を撫でる。
 何があっても僕が叶芽を支える、と胸に誓った。

 そして翌月。
 僕たちは籍を入れ、夫婦になった。
 「叶芽、靴。反対だよ」
 「あはっ、ほんとだ」
 こんなことを言えば不謹慎かもしれないが、日に日にいろんなことを忘れていくそんな姿でさえも愛おしいと思った。
 僕たちはもう俯かない。
 2人で前だけを向いて生きる、と決めたんだ。
 あれから叶芽と一緒に病院に行って先生の話も聞いてきた。叶芽の病状を知った今、1人家に置いて昼間仕事に行くのは不安だ。ヘルパーさんを呼ぼう。僕ももう少し自由が聞く仕事に転職しよう。
 そんなことを考えていたある日。
 「ん…叶芽?」
 この日の昼過ぎ。2人してソファで昼寝してしまっていたのだが目が覚めると隣で寝ていたはずの叶芽が目を開けていた。でもどこか変だ。一点を見つめてボーとしている。
 「叶芽? どうした?」
 なんだか様子の違う叶芽に手を伸ばそうとした時。
 「別れようよ」
 なんの前触れもなく、そんな言葉が叶芽の口から鉛のように落ちた。
 「え? どうしたんだよ急に」
 「私といたらりょうくんは幸せになれない!」
 それは、プロポーズしたあの日にも言われた言葉だった。
 なんで…
 厄介な病気を患っている彼女にとってそういう不安があるのは仕方の無いことかもしれない。でもそれについては、あの日2人で話し合ってもう、解決したことのはずだった。ある可能性が頭をよぎる。
 あの日の出来事を叶芽は忘れてしまったんだ、と。
 覚悟の上だったので、少し悲しい気持ちはあったけれど、あの日と同じ言葉をもう1度伝えようとした。そうすればきっと​────
 「離して!」
 「叶芽!」
 でも、あの時とは少し状況が違っていた。
 そう上手くはいかず、錯乱状態の叶芽は僕の制止を振り切り、アパートを飛び出してしまった。
 慌てて後を追う。
 「叶芽! 待って!」
 叶芽の耳には入っているはず。
 でも、届かない。
 弾かれるように僕の言葉が、届かないのだ。
 ちょうど叶芽が踏切を渡り終えた瞬間。
 僕らを遮断するかのように踏切が鳴り出して、そこで足止めを食らった僕は、走りゆく叶芽の後ろ姿を眺めていることしか出来なくなった。遮断機が上がったそこに、叶芽の姿はもう跡形もない。

 結局その後、夕方まで町中探し回ったが見つからず、警察に行った。

 あれから丸2日。
 仕事を休んで、僕はずっと叶芽を探していた。道行く人に叶芽の写真を見せて聞いて回ったが手がかりすら掴めない。財布もスマートフォンも持たず手ぶらで家を出たはず。
 今日の気温は11℃だと通りかかった電気屋で売られている液晶テレビに流れるニュース番組で言っていた。
 上着も持たずして飛び出してしまったから心配だ。警察から連絡がないのでどこかで事故にあっている、なんてことは無いと思うが、でもだったら…
 視界が、ぐわんとぼやける。
 頬に涙が伝った。
 誘拐されていたらどうしよう。
 変な事件に巻き込まれていたらどうしよう。
 叶芽は可愛いから、ナンパされていても不思議じゃない。そのまま連れ去られていたら…
 頭は嫌な思考になっていくばかり。
 支える、とか一丁前なことを言っておいてこのザマだ。自分が情けない。

 時刻は23時過ぎ。
 終電が行ったばかりの駅はガランとしていて、でも1人の駅員の姿があったので、尋ねた。
 「あの、すみません。この女性見ませんでしたか?」
 今日何度も通行人に見てもらった叶芽の写真を表示する。何度も『知らない』と返ってきた質問だ。正直もうこの人の返答に期待していなかったのだが…
 「あぁ、この人ならついさっき声を掛けられましたよ」
 「え!?」
 思いもよらぬ返答に声が裏がえる。‪”‬ついさっき‪”‬という言葉に滅入りそうになっていた心がたちまち希望を取り戻し始める。
 さっきまでここに…?
 「なんて!?」
 「あー、紙を見せられて。そこに行きたいって」
 駅員にお礼を言ってその場を離れる。
 駅を出てすぐそばにある公園。
 そこに叶芽は居た。
 誰もが息を吐く度、白い息が空中に広がっていく。
 そんな寒空の下。
 1人ベンチに腰掛けて、暗闇の中揺れる木々を眺めていたのだ。
 叶芽…
 丸2日会っていない。
 この期間に‪”‬リセット‪”‬を発症していたら、多分僕のことを覚えていない。どこまで記憶を持っているのだろうか。
 寒かったのか今今、ベンチの上でギュッと身体を丸まらせた叶芽に駆け寄って声を掛けた。
 「なに、してるんですか」
 「え、と…、シュウデン? が、え、と、行っちゃった、らしくて…。え、と​───」
 「そうでしたか」
 無事で良かった、という安堵。
 少し遅れて一抹の寂しさが襲いかかってくる。
 僕を見る彼女の瞳は‪”‬知らない人‪”‬に向けるものだった。
 そっか。
 忘れちゃったか。僕のこと。
 ゆっくりと叶芽の隣に腰掛ける。
 寒そうにしていたので上着を掛けたら「ありがとう、ございます」とやけに他人行儀にお礼を言われた。
 しばらく無言の時間が流れる。
 寒そうにしている彼女の手を握って温めてあげたい。今すぐ抱き締めたい。隣にいるのに。こんなに近くにいるのに。手を伸ばせば簡単に届く距離にいるのに。
 そう出来ないことがとても歯がゆく感じていた。
 「あの」
 無言を破ったのは彼女だった。
 緊張しているのか下唇を噛み締めながら僕を見つめている。
 「?」
 「あの、ここに行きたくて」
 それは僕たちが住んでいるアパートの住所が書かれた紙だった。握りしめてしまったのか、もうしわくちゃだけど。万が一の時用に僕が持たせていたもの。さっきの駅員にもこれを見せたんだろう。
 家に、帰ろうとしてくれていたことが嬉しかった。心がはち切れそうなほど嬉しかった。
 「帰りましょう。一緒に」
 立ち上がりながらつい彼女に手を伸ばす。
 そうするつもりはなかったのだが、いつもの癖だった。すぐに手を引っこめようとしたが…
 「…」
 どうしてか彼女は僕に手を伸ばしてくれた。
 手と手が触れ合う。
 その瞬間、僕は彼女の小さな手に力を込めた。
 どうして初対面の男に差し出された手を握ってしまうのか。
 どうして初対面の男にそんな可愛らしい顔を向けてしまうのか。
 そんなヤキモキを口に出したところできっと彼女はキョトン、と首を傾げるだけだ。
 ずるいな…ほんと。

 ***

 ポケットに入っていたこの紙が何を示すものなのか分からない。でもここに記されている場所が私が今1番行きたい場所な気がしていた。

 「帰りましょう。一緒に」

 差し出された手を、何も考えず握る。
 不思議。
 初めて会う人のはずなのに、すごく落ち着くような。
 「あれに乗らなくてもいいんですか? シュウデン? もう行っちゃった、って男の人が言ってましたけど…」
 「少し歩きますけど、大丈夫ですよ」
 「そうなんですね」
 しばらく2人で手を繋いで歩いた。
 少しだけ手の力を弱めて握ってくれていることや、歩幅を私に合わせてくれているのが伝わってくる。
 「どっか怪我とか…、してないですか?」
 なんでそんなこと聞いてくるんだろう、と思いつつ「はい」と返事をすると彼は不安そうに眉を下げていた顔を綻ばせた。
 「そう、よかった」
 ふいに顔を上げれば雲の隙間から三日月がこちらを眺めているのが見えた。ぼんやりと夜の街を照らしてくれている。
 彼と私の視線の先が静かに重なる。
 「綺麗ですね」
 この夜の静寂に馴染むような、そんな穏やかな声でそう言った彼。
 月を見上げる彼の横顔にどうしてか、胸の奥がむずがゆくなった。

 やがて小さなアパートに到着した時。
 私に向けた、というより独り言のような、そんなボリュームで彼が言った。
 「無事で良かった」と。
 彼が一室のドアを開け、中へ入る。
 私も入っていいのかな、とドアの前で立ち尽くしていると「どうぞ」とドアを大きく開けてくれた。
 ここ、どこだろう。
 ずっと記憶があやふやでよく思い出せない。
 でもどこか懐かしいような、そんな場所。
 「おじゃま、します」
 おそるおそる中に入り、背後でガチャッ、とドアが閉まる。
 同時に、彼に強く抱き締められた。

 「おかえり」

 ポタ、と冷たい感覚が肩に走る。
 耳元からは鼻をすする音が聞こえてきていた。


 【終】