深夜の商店街は居酒屋とカラオケ店の灯りが煌々と光っている。息を切らしながら腕時計をみる。終電ギリギリだ。同じように終電を目指して走る誰かの足音が聞こえ、スーツを着た男性二人に追い越される。やばいやばいと心の中で呟き、鞄からスマホを取り出す。やっとこさ駅に辿り着いて改札を通ろうとすると、ポーンという警告音とともに自動改札機のフラップが閉じた。

「あ……」

 残高不足だった。あとでチャージしようと思って忘れていた。膝から崩れ落ちたい思いだ。
 最悪、と心の中で呟きながら端へ寄って、大急ぎでチャージする。そうしている間にも何人かの人が駆け足で改札機を通過していった。終電はもうホームに入って来ているようだった。

 チャージ完了のポップアップが出たのを確認したのと同時に顔を上げると、無情にも電車の発車チャイムが鳴り始めた。今改札を通っても、階段を駆け上がった先に電車はもういないだろう。ため息を吐いてその場に立ち尽くす。

「どんまい」

 背後から聞き慣れた声が聞こえて、勢いよく振り返る。恋人の 拓音(たくと)だった。お疲れ、と左手を挙げる彼の表情からは私への嘲笑が見て取れる。

「ちゃんとチャージしておかないと」
「……うるさい。そっちだって乗り遅れてるじゃん。てかこんな時間になにやってんの」
「たねっちとナベちゃんと飲んでた。独身最後のパーリィナイト」
「ああそう。いいご身分ですね」

 言葉にしてしまってから自分の語気の強さを実感した。まずい、と思ったけれど、拓音は気にしていない様子で「のんちゃむは?」と訊く。
 「のんちゃむ」というのは、拓音が勝手につけた私のあだ名だ。付き合ったばかりの頃は普通に名前で呼ばれていた気がするが、今となってはもう思い出せない。いつから、どんな経緯でこの呼び方をされるようになったのかもわからない。今さら二人きりのときになんて呼ばれようが別に構わないが、拓音はいつでもどこでもそう呼ぶから困る。友人知人の前でこの呼び方をされると大抵の人に「なにその呼び方」と突っ込まれて微笑ましがられるから恥ずかしい。

「普通に、職場の飲み会」
「華金だもんな。お疲れ」

 二人同じ方向へと歩みを進める。タクシー乗り場には、行列ができていた。しばらくは乗れそうにない。

「歩いて帰ろうよ」

 拓音の言葉に、ドスの効いた声が漏れる。同棲しているアパートまで歩いて帰るとなると、小一時間はかかる。冗談でしょ、と言いたい私の気持ちを察しているのかいないのか。今日あったかいし、明日休みだし、ゆっくり帰ろうよ。語る拓音の目はキラキラと輝いている。子どもの頃、親と一緒に夜に外出するのが好きだった。非日常を味わえるワクワク感。拓音の表情は、まさにそんな感じだ。二十七にもなって、いつまでも子どもみたい。

「……あーもう、わかったよ」

 私の返事に、拓音はまた目を輝かせる。


✳︎✳︎✳︎

 さっきまで猛ダッシュしていた商店街を二人並んで歩く。二人で並んで帰るなんて何年ぶりだろう。大学時代、学部もサークルも同じでバイト先もお互いのアパートも近かったからほぼ毎日のように一緒に帰っていたっけ。

「のんちゃむは今日なに飲みだったの?」
「……月末慰労会という名の山口さんの愚痴を延々と聞く会」
「はは。山口(グッチー)だけに愚痴が止まらないってね」

 拓音は私や友人のみならず、私の上司でさえもあだ名をつける。もちろん、二人に面識はない。まあ今さらそんなことには突っ込むまい。もちろん、下手なダジャレにも。

「ずっと喋ってた。課長のことやら旦那のことやら」
「日頃の鬱憤を晴らされたわけだ」
「うん。課長も旦那もくたばればいいのにって」
「えー、課長はともかく旦那はダメでしょ」
「なんかね、自分が家事に育児にバタバタしてるときになんにもできない旦那がソファに寝転んでると殺意湧くんだって。今日だって自分が飲んでる間一人で子ども二人面倒見れないからって実家連れて行ってるってブチギレてた」

 ひー、こわ、と拓音は笑う。

「俺もさ、結婚は人生の墓場だって散々言われた」
「……種田くんも真鍋くんもまだ独身じゃん」
「はは、ほんとそれな。大学時代の非モテグループから一抜けする俺を僻んでんのよ。もう遊べなくなるんだぞ、日常にトキメキもなくなるんだぞ、それでいいのかって。色々理由並べられて、可愛い子がいると噂のちょっとエッチなお店に連れて行かれそうになった」
「……行かなかったんだ?」
「誘われてムホホとはなったよね正直」
「……ふーん」

 結婚は人生の墓場。
 誰もが知っている、決まり文句のようなこの言葉、結婚が決まった途端耳にする機会がぐんと増える気がする。現に拓音も言われているようだし、私も友人や先輩から言われるようになった。
 もしその言葉が本当なら、私たちの余命はあと一週間。正直その自覚はない。だって、結婚したからといって私たちの生活にはなんの影響もない。学生の頃からの付き合いだ。付き合って八年、同棲して五年。拓音との生活は日常だ。夜の外出と一緒。子どものころのようなトキメキはもうない。残業や飲み会の末に見ている深夜の街並みのように、あたりまえの存在なのだ。

「のんちゃむだって今日、俺に声かけられなかったら諦めてそういうお店に行ってたんじゃない?」
「行きません。アナタと一緒にしないで」
「ほんとにー?」

 からかうように笑う拓音の笑顔に、なぜか少しムカついた。

「そっちだって、私と会わなかったら行ってたくせに」
「……そういう選択肢もあったかもしれませんねえ」
「でしょうね」
「……ねー、さっきから思ってたんだけどさ……」
「うん」
「……突っ込んでよ!!」
「……は?」
「婚約者がそういう店行こうとしてたら普通ダメって言うでしょ!」
「……ええ? 今さら?」

 拓音の頭がエロで支配されているということはもうすでに知り尽くしている。昔から街中ですれ違う女の子は無意識で目で追っているし、たまに背後から拓音のいじるスマホを除くと、SNSのおすすめ欄はグラビアアイドルばかりだ。

「昔はさ、俺がこういうこと言うとヤキモチ妬いてたじゃん。腕にしがみついて、ほっぺた膨らませてさ。しばらく口効いてもらえなかったりして」
「えー、そんなんだった?」
「だったよ」
「もう忘れちゃった」

 そのとき、十数メートル先に見覚えのある人たちの姿が見えた。

「あ、山口さんたちだ」

 先ほどまで一緒に飲んでいたメンバーのうちの数人がカラオケ店に吸い込まれている。山口さんはすっかり酔ってしまって、今年入社したばかりの新人ちゃんに支えられている。

「ねえ、俺らも行こうよ!」

 拓音が勢いよく言う。いいこと思いついた、と言わんばかりの表情だ。

「え、やだ!」
「学生のときは行ったじゃん、たまにだけど」
「……帰って寝たい」

 チラリと拓音を見ると、やはりいつもの、私を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。

「いーや、嘘だね。俺は知ってるよ。のんちゃむがカラオケ行きたがらない本当の理由を」
 
 ……そう言われると、なにも言い返せない。

「さ、行こう」

 拓音が私の手を引く。

✳︎✳︎✳︎

 さすがに山口さん御一行と同じ店は遭遇すると面倒なことになりそうなので、別のカラオケ店に入った。深夜にも関わらず想像よりも賑わっていて、個室は六、七割埋まっていた。大学生と思われる男女数名とすれ違う。ずいぶん酔っている様子で、きゃっきゃきゃっきゃとはしゃいで楽しそうだ。カラオケボックスとは繁華街にあれだけ密集していて売上があがるのかといささか疑問だったが、余計なお世話だったようだ。

 個室に入室するなり、拓音は学生時代からずっと好きなアーティストの曲を入れる。拓音の一番好きな曲だ。

「一時間しかないし、迷ってる時間がもったいないからね」

 イントロが流れて拓音は軽く体を揺らしてリズムを取る。すうっと息を吸って、歌い始める。


深夜一時の散歩道 きみとふたり
見慣れた景色が違って見える
悩みも不安も星空に溶けていく
明日も生きていけると思う きみと ふたりなら


 アウトロが終わって、私は「おー」なんて言いながら拍手を送る。拓音はドヤ顔している。

「相変わらず歌上手いね」
「まあね。あーあ、ここに女の子たちがいたらなあ、四方八方から黄色い声援がーー」
「一緒にカラオケに行ってくれるような女の子いないじゃん」

 拓音の言葉を遮るように言う。拓音は「それな」と言いながら、なぜかニコッと笑う。……馬鹿にしたつもりだったのだけど。

「はい」

 拓音がマイクを差し出す。

「え」
「次はのんちゃむの番だよ」
「いやいやいやいや、ムリだって……! 曲全然知らないし!」
「今俺が歌ったやつならわかるでしょ? はい、いってみよう!」

 勝手に予約を入れた挙句、マイクを私に押し付ける。
 短すぎるイントロに急かされるように、私は大きく息を吸った。


✳︎✳︎✳︎


 カラオケボックスを出ると、先ほどより少し涼しく感じた。けれども寒くはない。夏の終わりらしい、心地いい気温だ。

「楽しかったね」

 拓音はすっかり上機嫌だ。
 結局私はあの一曲しか歌わず、残りの時間はずっと拓音が歌っていた。それでも、楽しかったという。

「それにしてものんちゃむ」
「……やめて、それ以上言わないで」
「相変わらず歌下手だな!!」
「……サイテー」

 拓音は大声で笑う。

「音痴だし、なによりもリズム感が絶望的にないもんな」

 拓音を睨むが、彼は全く気にする様子もなく続ける。

「大学三年のときに東京のライブに行ったじゃん。さっきカラオケで一曲目に歌ったアーティストの。俺が行くって言ったらのんちゃむも行きたいって言ってくれて」
「あー、そんなこともあったね」
「のんちゃむ学部とかサークルの集まりはよく来るのにカラオケは断固として来ないから音楽とか嫌いなのかなって思ったんだけどさ、いざ行ったら楽しんでくれたみたいで嬉しかった。でもそれよりよかったのが、のんちゃむ……ふふっ……リズム感全然なくて、曲に全然乗れてなくて……」
「……笑うな!」
「今思い出しても面白い」
「……もう、やめてよ」
「ごめんごめん。でもさ、ほんと、可愛かったんだよ」
「は、はあ?」

 唐突に、おそらく数年ぶりに飛び出した「可愛い」の言葉に思わず動揺してしまう。

「のんちゃむ美人だし頭も良いし、ほんと、高嶺の花って感じだったじゃん? そんな子にも苦手なことがあって、それをおそらく一番に知れたのが俺で嬉しかったし、愛おしかった」
「な、なに言ってんの」
「リズム感皆無で音痴なのんちゃむ可愛い」
「……どうせリズム感皆無で音痴ですよ」
「ねえ」
「なに?」
「なんであのとき、一緒にフェス行きたいって言ってくれたの?」

 あのとき、私たちはまだ付き合っていなくて、でもなんとなくお互いの好意には気づいていて、曖昧でもどかしい、そんな時期だった。拓音に近づきたい、その一心だった。彼の好きなものを知って、体験して、同じ時間同じ感情を共有したい、そんな気持ちだった。今の今まで、忘れていたけど。

「……そういう気分だったんじゃない? 知らんけど」

 冷たい言い方だったかなと思ったけれど、本当のことは恥ずかしくて言えそうになかった。

「……そっか」

 拓音の声が妙に悲しげで、私は驚いて拓音を見る。

「え、どうしたの……?」
「変わったね、俺たち」
「え……?」

 肌に冷たい風を感じる。鳥肌がたった。それと同時に腕に水滴が落ち、私たちは揃って空を見上げた。暗くてはっきりとはわからないけれど、空は厚い雲に覆われている。

 雨だ。
 そう思った時には、既にどしゃぶりで地面が霞んでいた。

「この先のコンビニまで走ろう」

そう言って、拓音は走り出した。私も後を追った。前も見えず、轟音で自分たちの足音も聞こえず、髪や服があっという間に水を吸って肌にまとわりつき、まるで水の中を走っているようだった。だけど、そんなことはどうでもよかった。

***

 コンビニに着いた頃には、私たちはふたりともずぶ濡れだった。(ひさし)から流れ落ちる雨粒を見つめることしかできない。さっきの、拓音の悲しそうな声と表情が頭から離れない。

「おまたせ」

 拓音が傘と、二枚入りのタオルを買ってきてくれた。傘は、最後の一本だったらしい。タオルを一枚受け取り、髪の毛を拭く。チラリと彼のほうを見るが、彼もわしゃわしゃと髪を拭いていて、その表情は見えない。

「……ごめんな」
「え……」
「俺が歩いて帰ろうって言ったから、こんな、雨に当たることになっちゃって」
「あ、ううん、全然……」
「あと、それ以外のことも、全部」
「……全部って?」

 タオルが顔から離れ、拓音が私を見る。笑っているのにどこか悲しそうな、初めて見る表情だった。その視線にまるで凍らされてしまったかのように、私も拓音から目が離せない。

「言葉通り、全部」
「どういうこと?」
「俺といても、楽しくないよね」
「え?」
「いつも素っ気ないし、あんまり笑ってくれない」
「そんなこと……」

 ない、とは言えなかった。

「……ごめん」

 静かに視線を下げて、拓音は買ってきてくれた傘を私に差し出した。

「え?」
「……ごめん」

 何度目か、なぜなのかもわからない謝罪の言葉を小さく溢し、拓音は勢いよく駆け出し雨の中に消えてしまった。横殴りの雨が叩きつける中私一人取り残され、呆然と立ち尽くすしかできない。

 走り去っていく瞬間、拓音の表情が一瞬だけ見えた。彼は泣いていた。思い返してみれば、拓音の泣く顔なんて初めて見た。彼はいつも笑顔だった。--いや、笑っていてくれたんだ。私が嫌な態度をとってもキツイ言葉を投げかけてもいつも笑ってくれていた。悲しい思いをしても、私を気遣って、笑ってくれていたんだ。
 私は、拓音の笑った顔が好きだ。もともと童顔だけど、笑うと目尻がふにゃっと下がってさらに幼くなって、こどもみたいな、心から幸せと思っているような表情。この笑顔をずっと見ていたいと思ってたんだ。幸せを共有したかったんだ。それが今はどうだ。私は彼に、あんな表情をさせたかったのか。

「……ちがう」

 生まれて初めて、弾かれるように、足が動いた。
 買ってもらった傘もささずに土砂降りの中を走る。

 家までのルートは色々な道があって、拓音がどの道を通ったかはわからない。そもそも、私と住む家に帰るとも限らない。
 アスファルトの至る所に水溜まりがあり、それでも構わずバシャバシャと音を立てながら走る。パンプスの中までずぶ濡れで、ヒールが滑ってバランスを崩し転倒する。右足のパンプスが脱げ、握っていた傘を手放してとっさに地面に着いた手がじんじんと痛む。傘も靴も放って地面に座り込むなんて恥ずかしいし滑稽だ。でも、それよりもなによりも、怖くて仕方がなかった。これまでずっと拓音を不幸にしていたかもしれないこと、彼の心からの笑顔をもう二度と見れないかもしれないこと、そして、彼のそばにいることすら、もう許されないかもしれないこと。

「拓音ぉ……」

 土砂降りの中、彼の名前を呼ぶ自分の声だけははっきりと耳に残った。彼の名前を口にすることすら久しぶりなんだと気づいて、ますます涙が溢れた。

 ごめん、拓音。あぐらをかいていたの。拓音が優しくて、いつも私のことを想ってくれているのを知ってたから、慢心していたの。なにをしても許してくれるだろうって。私の好きも、言わなくてもつたわってふだろうって。私たちはこれからもずっと、一生一緒にいられるんだからって。

「ごめんね……」

 そのとき、私の全身を叩きつけていた雨がピタリと止んだ。ハッとして顔を上げるが、雨は変わらず降り続いている。傘の露先が視界に入り、誰かが後ろから傘をさしてくれていると気づいた私は、勢いよく振り返る。

「せっかく傘渡したのに、差さないんかい」
「……拓音」
「ふっ……名前なんて久しぶりに呼ばれたな」

 立てる?と言って、拓音は私の手を取る。導かれるように立ち上がるが、涙が止まらず、私は俯き嗚咽をあげるしかできない。

「……なーんで泣くの」
「……拓音、ごめん」

 拓音は私の頬に伝う涙と雨の水滴を拭い、いつも通りの調子でおどけたように訊く。

「……愛想尽かされたらどうしようって……もう会えなかったら……どうしようって……」
「……俺が愛想尽かしたら、もう会えなかったら嫌なの?」
「……嫌だよ」

 私は顔を上げ、拓音の目をしっかりと見据えた。

「拓音……今までごめんなさい。冷たい態度とって、キツい言葉を投げて、拓音は私にたくさん与えてくれたのに、それを当たり前だと思ってごめんなさい。カラオケやライブは、拓音と一緒に楽しいを共有できて楽しかった。私ずっと幸せだったのに、ずっと、ふたりで幸せな思い出を積み上げていきたかったのに……素直に伝えなくて、悲しい思いをさせて、本当にごめんなさい……私……こんなんだけど……」

 拓音も、私をまっすぐに見つめている。彼に伝われと、精一杯の気持ちを込めて、私は言う。

「……拓音と、一生幸せでいさせてください」

 返事を待つのが怖かった。彼が応えられなくても仕方がないと、すべては自分のこれまでの行いの結果だとわかっている。だけど怖くて、私は再び俯き嗚咽をあげるしかできない。

「……顔上げて」

 彼は優しく声をかけてくれるけど、私は顔をあげることができない。数秒の沈黙のあとで、拓音の手が私の肩に触れた。

奏音(かのん)ちゃん」

 久しぶりに呼ばれた本名に、私は驚き思わず顔を上げた。目の前の拓音は、優しい笑みを浮かべていた。

「……メトロノームって知ってる?」
「……え?」
「見たことない? ピアノとか歌とかでリズムとる、カッチカッチするやつ」
「あ……うん」
「メトロノームはさ、まったく違うリズムを刻んでいても、いつかどこかで音が重なり合うんだって」
「……うん」
「俺たち、初めは同じリズムを刻みたくてやってきたけど、奏音ちゃんはリズム感なくて素直じゃないし、俺もできた男じゃないから不安になったりして少しずつそのリズムがズレてきたわけだけど……でも、大丈夫だよ。これから先ズレることがあったって、今みたいに、どこかで必ず重なるから」

 拓音は、にっこり微笑む。

「奏音ちゃん」
「うん?」
「愛してるよ」

 彼の言葉に、今までとは別の涙が流れる。顔を手で覆ってひとしきりその言葉の重みを受け止めたあと、心からの笑顔を向けて言う。

「私も愛してるよ、拓音」

 どちらからともなく両腕を伸ばし、抱きしめ合う。拓音の握っていた傘が足元に落ちるが、雨は当たらない。いつのまにか、雨は上がっていたようだ。

「あ、そうだ、拓音」
「ん?」
「えっちなお店は、嫉妬するよ……愛してるから」
「……うん、ごめんね」

 彼はふふっと鼻息を立て、より一層強く抱きしめながら、どこか嬉しそうな声色で言う。

 拓音がすっと体を離し、再び目が合う。

「さ、一緒に帰ろう」
「……うん!」

 強く強く返事をし、ふたり手を取る。

 深夜一時の散歩道 きみとふたり
 見慣れた景色が違って見える
 悩みも不安も星空に溶けていく
 明日も生きていけると思う きみと ふたりなら

 深夜の街並みは、あの頃のように、輝いて見えた。