翌朝、美咲は早くに目を覚ました。

旅館の障子越しに差し込むやわらかな朝日が、淡く部屋を染めていた。昨日、悠人と共に訪れた桜の並木道の記憶が、まだ鮮やかに胸に残っている。彼の手の温もりと、あの眼差し。

「さくら、また会えて本当に嬉しいよ」

その言葉が何度も頭の中で反響していた。

身支度を整え、朝食の席に向かうと、悠人はもう座っていた。気づいた彼が、ほっとしたように微笑む。

「おはよう、美咲さん……いや、さくら」

美咲は少し照れたように頷きながら、席に着いた。

「昨日は……ありがとう。とても、温かい時間でした」

「こちらこそ。あんなに笑う君を見たの、十年ぶりだ」

ふたりは素朴な京料理を食べながら、今後のことを話した。今日、美咲はある場所に行きたいと言った。それは、事故のあった場所──田中家のかつての住まい跡だった。

「記憶が完全に戻るかはわからないけれど、どうしても見ておきたいの」

悠人は静かに頷いた。

「もちろん。一緒に行こう」

  

午後、美咲と悠人は京都郊外の静かな住宅地へと向かった。

古い記憶を呼び起こすように、周囲の風景が彼女の心を揺らす。変わってしまった家並みの中で、悠人はある空き地の前で立ち止まった。

「ここが、僕たちの家があった場所だよ」

空き地の片隅に、かつての庭石らしきものがひっそりと残っていた。その上に、一本の桜の木が細々と育っている。

「この桜、あの時はまだ小さな苗木だったけれど……」

美咲は静かに桜の木に近づいた。風が吹き、枝がやさしく揺れる。すると、ふいに胸の奥にざわめきが広がり、懐かしい声が聞こえた気がした。

──さくら、おやつだよ〜! 今日は桜餅だよ!

──わーい!ゆうにい、はやく食べよう!

ふと、美咲の目に涙がにじんだ。

「……ここで、私は……」

彼女は膝をつき、桜の木の根元に手を添えた。その手が震えている。

「お兄ちゃん……お母さん、お父さん……」

記憶の破片が、ぽつりぽつりと蘇ってくる。家の中の景色。両親の笑顔。そして、事故当日の風景──

「さくら!」

はっとして顔を上げると、悠人がすぐそばにいて、優しく彼女の肩を抱いた。

「無理しないで。ゆっくりでいいから」

美咲は頷きながら、ぽろぽろと涙をこぼした。

「ありがとう……ゆうにい」

その一言に、悠人の目にも涙が浮かんだ。長い時間を経て、妹が自分を“ゆうにい”と呼んでくれたこと。その事実が、何よりの救いだった。

  

夕方、ふたりは桜月庵へ戻った。

店先に立っていた職人の佐々木が、彼らに気づいて軽く会釈した。

「どうも。若旦那、妹さんですか」

悠人が驚いて振り向いた。

「え……どうして?」

「いや、雰囲気がね。目元がよく似てるし、あの子が来たとき、なんとなくそんな気がしてました」

美咲は少し恥ずかしそうに微笑んだ。

「そうなんです。まだ実感は湧かないけど……私、妹だったみたいです」

「おめでとうございます。ご両親もきっと、喜んでおられるでしょう」

佐々木の温かい言葉に、ふたりは深く頭を下げた。

  

その夜、美咲は一人で店の奥の仏間を訪れた。

桜子の位牌の前に正座し、静かに手を合わせる。

「桜子さん……私の代わりに、あの日、命を……本当に、ありがとうございます」

瞼を閉じると、どこかで優しい笑顔が浮かんだ気がした。

「私は、もう逃げません。過去とちゃんと向き合って……生きていきます」

部屋の外では、悠人が静かに見守っていた。

“さくら……いや、美咲。君が生きていて、本当によかった”

夜の京都に、またひとつ、失われた絆が繋がった。

そして、それはふたりにとっての「新しい家族の始まり」でもあった。