放課後、西階段に行くかどうかギリギリまで迷った。西の方の校舎は、使われていない教室が多く、人があまり来ない。
果たして、僕が行ったところで、意味はあるのだろうか。噓の告白をされると分かっているのに行くなんて、自殺行為だ。だが、僕が行かなくて、後々呼び出しをすっぽかした最低野郎などという不名誉な噂が流れるのは避けたい。それに、これで古川への嫌がらせがさらに増えたりしたら後味が悪い。
結局、渋々西校舎の階段を上っていった。
どう答えたら良いのだろう。あいにく僕には恋愛経験は全く無い。だから、こういうときの対処法は知らない。
和馬はあの美貌にあのスタイルだ。きっとこれまでモテてきただろうから、こんな状況下に置かれてもスマートに躱せるのかな、なんて考える。
告白させて、断られるのを見て面白がるのが、田中たちの目的だとしたら、受け入れた方が良いのか? だが、そんなの僕たちの意思ではない。
僕が思い上がって告白を受け入れた、となれば、僕まで冷やかされて嫌がらせを受けることになるだろう。そのために僕を標的にしたのだろうから。
まあ、どちらに転んでも田中たちにとっては面白いことには変わりはない。
ただでさえ息苦しいのに、これ以上惨めな思いはしたくなかった。古川には申し訳ないが。
それなら、告白される前に断ろう。告白をさせなければいいのだ。そうすれば、僕も古川も、嫌な気持ちになることはない。もしかしたら田中たちは告白せずに終わってしまって面白くないと思い、古川に絡むのをやめてくれるかもしれない。そう結論を出して、僕は向かった。
四階までたどり着いたが、まだ誰もいなかった。静かで暗くて、同じ学校の中なのに不気味だ。そういう類いのものは信じてはいないが、一度意識してしまうと、だんだん教室のカーテンのしわが人の顔に見えてきて、怖くてたまらない。
何でこんな目に遭わなければならないのだろう。僕はため息をついた。この世は、逃げ出したい場所ばかりだ。
しばらくすると、古川が階段を上ってきた。
彼女は僕の前まで来ると、おそらく階段の下で待機しているであろう田中たちの目を気にしながら言った。
「ごめんなさい。時間を取ってもらっちゃって……」
古川は、怯えた様子で謝った。重い前髪に、肩まで伸びる外にハネた髪。暗い表情をして、丈の長いセーラー服のスカートを握りしめている。
「その、萩野くんに言いたいことがあって……。私、ずっと前から……」
古川の声は相変わらず震えていた。早く終わらせたいのか、彼女は告白の言葉を流れるように口にしようとする。まるで、ただ単語を並べただけのようだ。
古川は目を合わせようとしない。心にも思っていない告白なんて、聞いても仕方がない。ましてや、強制されたものなんて、なんの価値もない。
「待って」
僕は古川の言葉を止めた。
「それ以上は言わなくていいよ」
そう言うと、古川は驚いた様子で顔を上げ、僕の目を見た。
「それ以上言ったら、誰も救われないよ。君も、僕も」
人を弄んで、何が楽しいのだろうか。学校はこういう場所だ。弱い人間は、自我を抑えなければならない。声が大きい人に従わなければならない。
助けを求められずに苦しんでいる人がいることを、みんなは見て見ぬふりをする。先生も、例外ではない。実際、古川は苦しんでいるのだから。
こんな状況下で、高木だったらどうするだろう。彼だったら、周りの目なんか気にしない。自分が正しいと思ったことを、その人のためになることを迷わずするはずだ。
「大丈夫。ちゃんと分かってるから。田中たちに、やらされてるって」
僕は勇気を出して、はっきりと言った。
「ちっ、面白くねーの」
田中は不機嫌にそう言いながら姿を現し、階段を上ってきた。後ろに三人の取り巻きがついている。
「萩野だったら、告白されても嘘だと気づかないで、調子に乗ると思ったのに。残念」
眉間にしわを寄せる。不快だ。全てが。本当にくだらない。なぜ僕がこんなことに巻き込まれなければならないのだろう。
「迷惑だから。そういうのやめて」
そう言って、田中たちを押しのけて立ち去ろうとする。すると、田中が「ねー、萩野」と呼び止めた。嫌な予感がした。だから、僕は振り返らない。
「ちょっと、無視しないでよ。あたし、知ってるよ? 萩野の弟って、すっごく頭いいんだよね?」
ハッとして足を止めた。なんで、田中がそんなことを知っているのだろう。
「あたしの妹、萩野の弟と同じ学校なんだよねー。君の弟はいつも学年一位で、将来有望なんだって? すごいよね。でも、萩野は平凡で、この高校も普通くらいだし。ねえ、実際のところどうなの? 出来のいい弟を持つっていうのは。誇らしい? それとも……」
田中は煽るように言う。我慢だ。我慢しなければ。いつだって、そうしてきたじゃないか。親からも先生からも、どんなに比較されても、嫌味を言われても、耐えてきたじゃないか。
でも今は、無性にこの怒りや劣等感を、抑えられなかった。古川のこともあったからだろう。今まで溜まりに溜まったものが、溢れ出したのだ。
僕はカッとなって、田中に近づいた。
「それ以上弟の話をするな! もううんざりなんだよ! そんなに人を見下して、何が楽しいの? いい加減やめろよ。古川に対するいじめとかも全部!」
言い返してしまった。終わったと思った。僕の学校生活、今日で最後なのかな。田中たちに目をつけられたら、もう自由はない。
「……は? ちょっとからかっただけじゃん。何? 別にいじめてないんだけど。萩野って、いつも周りに興味無さそうにしてるくせに、意外とうるさいんだね。あ、もしかして、本当に古川さんのこと好きだったりして?」
田中はあざ笑うかのように言う。
「何言ってんの? 嘘告させてる時点でいじめでしょ? あと、そのすぐ恋愛に結びつけようとする思考回路が分からない」
男女がちょっと親しくしただけで騒ぎ出す。人の気持ちなんて考えず、いっときの楽しみのためにネタにする。彼女たちには思いやりというものがないのだろうか? この人たちも、担任の小野先生のように、道徳をきちんと学んで来なかったに違いない。いじめなんて、非人道的だ。人間のやることじゃない。
「萩野のくせに、何よその態度。クズはクズらしく、上の者に従がっていればいいのよ」
こいつは馬鹿だ。自分が偉いと誤認している、愚か者だ。
「誰が上とか下とか決めたんだよ。上のやつが上で生きていられるのはな、下のやつが散々耐えてやっているからなんだよ。それを馬鹿にするなんて。そんなことにも気がついていなかったのか?」
田中はイライラしたように唇をかみしめる。
「萩野のくせに。カースト底辺のくせに! 私に何を……」
「誰がカーストとか決めたんだよ! いつからお前はカースト上位になった? 人をいじめる時点で、人間の底辺なんだよ!」
僕は一歩前に足を出し、大声で怒鳴る。
その時、田中は後ずさりをした。その拍子に、彼女はハッとした顔をした。後ろに階段があることを、忘れていたようだ。
田中は足を踏み外した。彼女の体はフッと宙に浮き、そして鈍い音を立てながら階段を転がり落ちていった。
一瞬、その場にいた全員は、何が起きたのか分からなかった。時が止まったようだった。
「痛いよお」
田中は階段の下で、足を押さえながら泣き出した。
その声を聞いて、田中の取り巻き三人は我にかえって、急いで階段を駆け下り彼女に駆け寄った。
僕はざまあみろと思った。古川をいじめ、僕を罵った報いだ。
ふと、古川の方を見ると、彼女の口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
果たして、僕が行ったところで、意味はあるのだろうか。噓の告白をされると分かっているのに行くなんて、自殺行為だ。だが、僕が行かなくて、後々呼び出しをすっぽかした最低野郎などという不名誉な噂が流れるのは避けたい。それに、これで古川への嫌がらせがさらに増えたりしたら後味が悪い。
結局、渋々西校舎の階段を上っていった。
どう答えたら良いのだろう。あいにく僕には恋愛経験は全く無い。だから、こういうときの対処法は知らない。
和馬はあの美貌にあのスタイルだ。きっとこれまでモテてきただろうから、こんな状況下に置かれてもスマートに躱せるのかな、なんて考える。
告白させて、断られるのを見て面白がるのが、田中たちの目的だとしたら、受け入れた方が良いのか? だが、そんなの僕たちの意思ではない。
僕が思い上がって告白を受け入れた、となれば、僕まで冷やかされて嫌がらせを受けることになるだろう。そのために僕を標的にしたのだろうから。
まあ、どちらに転んでも田中たちにとっては面白いことには変わりはない。
ただでさえ息苦しいのに、これ以上惨めな思いはしたくなかった。古川には申し訳ないが。
それなら、告白される前に断ろう。告白をさせなければいいのだ。そうすれば、僕も古川も、嫌な気持ちになることはない。もしかしたら田中たちは告白せずに終わってしまって面白くないと思い、古川に絡むのをやめてくれるかもしれない。そう結論を出して、僕は向かった。
四階までたどり着いたが、まだ誰もいなかった。静かで暗くて、同じ学校の中なのに不気味だ。そういう類いのものは信じてはいないが、一度意識してしまうと、だんだん教室のカーテンのしわが人の顔に見えてきて、怖くてたまらない。
何でこんな目に遭わなければならないのだろう。僕はため息をついた。この世は、逃げ出したい場所ばかりだ。
しばらくすると、古川が階段を上ってきた。
彼女は僕の前まで来ると、おそらく階段の下で待機しているであろう田中たちの目を気にしながら言った。
「ごめんなさい。時間を取ってもらっちゃって……」
古川は、怯えた様子で謝った。重い前髪に、肩まで伸びる外にハネた髪。暗い表情をして、丈の長いセーラー服のスカートを握りしめている。
「その、萩野くんに言いたいことがあって……。私、ずっと前から……」
古川の声は相変わらず震えていた。早く終わらせたいのか、彼女は告白の言葉を流れるように口にしようとする。まるで、ただ単語を並べただけのようだ。
古川は目を合わせようとしない。心にも思っていない告白なんて、聞いても仕方がない。ましてや、強制されたものなんて、なんの価値もない。
「待って」
僕は古川の言葉を止めた。
「それ以上は言わなくていいよ」
そう言うと、古川は驚いた様子で顔を上げ、僕の目を見た。
「それ以上言ったら、誰も救われないよ。君も、僕も」
人を弄んで、何が楽しいのだろうか。学校はこういう場所だ。弱い人間は、自我を抑えなければならない。声が大きい人に従わなければならない。
助けを求められずに苦しんでいる人がいることを、みんなは見て見ぬふりをする。先生も、例外ではない。実際、古川は苦しんでいるのだから。
こんな状況下で、高木だったらどうするだろう。彼だったら、周りの目なんか気にしない。自分が正しいと思ったことを、その人のためになることを迷わずするはずだ。
「大丈夫。ちゃんと分かってるから。田中たちに、やらされてるって」
僕は勇気を出して、はっきりと言った。
「ちっ、面白くねーの」
田中は不機嫌にそう言いながら姿を現し、階段を上ってきた。後ろに三人の取り巻きがついている。
「萩野だったら、告白されても嘘だと気づかないで、調子に乗ると思ったのに。残念」
眉間にしわを寄せる。不快だ。全てが。本当にくだらない。なぜ僕がこんなことに巻き込まれなければならないのだろう。
「迷惑だから。そういうのやめて」
そう言って、田中たちを押しのけて立ち去ろうとする。すると、田中が「ねー、萩野」と呼び止めた。嫌な予感がした。だから、僕は振り返らない。
「ちょっと、無視しないでよ。あたし、知ってるよ? 萩野の弟って、すっごく頭いいんだよね?」
ハッとして足を止めた。なんで、田中がそんなことを知っているのだろう。
「あたしの妹、萩野の弟と同じ学校なんだよねー。君の弟はいつも学年一位で、将来有望なんだって? すごいよね。でも、萩野は平凡で、この高校も普通くらいだし。ねえ、実際のところどうなの? 出来のいい弟を持つっていうのは。誇らしい? それとも……」
田中は煽るように言う。我慢だ。我慢しなければ。いつだって、そうしてきたじゃないか。親からも先生からも、どんなに比較されても、嫌味を言われても、耐えてきたじゃないか。
でも今は、無性にこの怒りや劣等感を、抑えられなかった。古川のこともあったからだろう。今まで溜まりに溜まったものが、溢れ出したのだ。
僕はカッとなって、田中に近づいた。
「それ以上弟の話をするな! もううんざりなんだよ! そんなに人を見下して、何が楽しいの? いい加減やめろよ。古川に対するいじめとかも全部!」
言い返してしまった。終わったと思った。僕の学校生活、今日で最後なのかな。田中たちに目をつけられたら、もう自由はない。
「……は? ちょっとからかっただけじゃん。何? 別にいじめてないんだけど。萩野って、いつも周りに興味無さそうにしてるくせに、意外とうるさいんだね。あ、もしかして、本当に古川さんのこと好きだったりして?」
田中はあざ笑うかのように言う。
「何言ってんの? 嘘告させてる時点でいじめでしょ? あと、そのすぐ恋愛に結びつけようとする思考回路が分からない」
男女がちょっと親しくしただけで騒ぎ出す。人の気持ちなんて考えず、いっときの楽しみのためにネタにする。彼女たちには思いやりというものがないのだろうか? この人たちも、担任の小野先生のように、道徳をきちんと学んで来なかったに違いない。いじめなんて、非人道的だ。人間のやることじゃない。
「萩野のくせに、何よその態度。クズはクズらしく、上の者に従がっていればいいのよ」
こいつは馬鹿だ。自分が偉いと誤認している、愚か者だ。
「誰が上とか下とか決めたんだよ。上のやつが上で生きていられるのはな、下のやつが散々耐えてやっているからなんだよ。それを馬鹿にするなんて。そんなことにも気がついていなかったのか?」
田中はイライラしたように唇をかみしめる。
「萩野のくせに。カースト底辺のくせに! 私に何を……」
「誰がカーストとか決めたんだよ! いつからお前はカースト上位になった? 人をいじめる時点で、人間の底辺なんだよ!」
僕は一歩前に足を出し、大声で怒鳴る。
その時、田中は後ずさりをした。その拍子に、彼女はハッとした顔をした。後ろに階段があることを、忘れていたようだ。
田中は足を踏み外した。彼女の体はフッと宙に浮き、そして鈍い音を立てながら階段を転がり落ちていった。
一瞬、その場にいた全員は、何が起きたのか分からなかった。時が止まったようだった。
「痛いよお」
田中は階段の下で、足を押さえながら泣き出した。
その声を聞いて、田中の取り巻き三人は我にかえって、急いで階段を駆け下り彼女に駆け寄った。
僕はざまあみろと思った。古川をいじめ、僕を罵った報いだ。
ふと、古川の方を見ると、彼女の口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
