それから僕は、週一のペースで学校をサボり、高架下へ行くようになった。それだけが唯一の楽しみだった。
 土日と夜は和馬はアルバイトをしているらしくて高架下にはいないから、会えるチャンスは平日の日中しかない。
 親にばれたらタダじゃすまない。面談で先生に体調管理についてとやかく言われたが、気にしないことにした。ズル休みだと疑われていないのならばそれでいい。あの高架下は、そんなリスクを冒してでも行く価値のある場所だった。やっと見つけた居場所。ここなら、僕が僕でいられる。
 早く夏休みになって欲しい。そしたら心置きなくここへ来れるのに。

 和馬は、僕の話を何でも聞いてくれる。だからつい、いろんなことを話してしまう。

「僕には、優秀な弟がいてさ。勉強も部活も、何でも完璧にこなす器用な奴で。両親は、弟のことが大好きで、すごくかわいがるんだ。だけど、兄の僕は失敗作で、何やってもうまくいかなくて。習い事をやっても結果を残せなかったらすぐにやめさせられて、せめて両親が希望する学校に行けるようにしようと勉強も頑張ったけど上手くいかなくて。そしていつも弟と比較されて、弟が持ち上げられる。それが辛くて、惨めで。ますます自分が嫌いになるんだ」

 つい愚痴をこぼしてしまう。こんなことを人に話すのは初めてだ。
 和馬だからだろう。こんなみっともないことをさらけ出してしまえるのは。
 
 大手企業に務める父と、完璧主義で教育熱心な母との間に生まれた僕は、何不自由なく暮らすことができていた。
 小さい頃から様々な習い事をさせてもらっていたが、どれも長くは続かなかった。正しくは、続けさせてもらえなかったと言った方がいいかもしれない。ピアノも習字もサッカーもそろばんも絵画も、結果が残せなかったらすぐにやめさせられた。
 両親が見ているのは、僕の興味ではなく、才能があるかないか。才能がなければ、それは時間の無駄だと切り捨てて次へ行く。絵を描くのは好きだったため、絵画教室だけは続けたいと頼んだが、絵なんて家でも描けるでしょと却下された。
 そうこうしているうちに、僕は小学四年生になった。母さんが、私立の中学校のパンフレットを持ってきた。

「ここを目指しましょう」

 今までスポーツや芸術に力を入れていたのに、無理だと判断したのかそこからは勉強へとシフトチェンジしていった。半ば強制的に、僕は中学受験をすることになった。
 元々勉強はあまり好きではなかったが、親の圧と、そして僕自身も、僕には勉強しか残されていないと悟ったので、死ぬ気で勉強した。友達と遊ぶ暇を惜しんで塾に通いつめ、テストでは学年三位を取れるところまで成長した。
 だが、母さんは一位にこだわった。三位では褒めてはくれなかった。友達も、ゲームも、やりたいことも、全部を犠牲にして得た三位なのに、それではダメだった。
 そうして迎えた受験。結果は不合格。やれることは全部やってきたはずなのに。

「高校受験は頑張りましょう」

 母さんはそう言った。その瞬間、僕は絶望した。まだ、続くんだ、と。
 高校受験では、第一志望に落ちた。母さんが進めてきた高校は、県一の進学校だった。僕の学力よりも大いに高い。だけど、頑張って勉強した。僕なりに必死にやった。今度こそ、期待に応えるために。「俊なら大丈夫」という根拠のない言葉を何度も聞かされた。
 しかし、結果はだめだった。これが僕の限界なのだ。合否が発表されたときのことは、鮮明に覚えている。両親はあからさまに落胆した。「よく、頑張ったね」とねぎらいの言葉をかけてくれたが、その表情は冷たくて、まるで、「もうあなたは用済みだ」と言わんばかりだった。それからすぐに、両親は弟の悠への教育に力を入れ始めた。
 結局僕は、滑り止めの高校に行くことになった。
 そういうわけで、僕は何一つ両親の期待に応えられなかった出来損ないという烙印を押されることになったのだ。

「なんかそれ、おかしいな」

 和馬は険しい顔で言った。
 おかしい。やっぱり僕が置かれている状況は、おかしいのだろうか?

「スポーツでは優勝しかあり得ない。絵を描いても金賞を取らなければ意味がない。勉強は常に一番で当たり前。そんな環境で生きてきたのに、僕は何一つ達成できなかった。だから出来損ないと言われても仕方がないよね。何か一つでも才能があれば、僕の人生はもっと輝いていただろうに」

 能力だけじゃない。和馬のような美貌とか、人を引きつけるような人望とか。そういうものを一つでも持っていたら、僕はこんなに惨めな思いをしなくて済んだのに。所詮はないものねだり。どうして僕には、優れたところが一つもないのだろう。
 すると和馬が、僕の肩を正面から両手でグッと掴んだ。そして焦ったように言う。

「俊、それは違うよ。すごく気分が悪い。それは親が最悪だ。あんまり人の親を悪く言いたくはないけどさ、兄弟をそんなにあからさまに比べたり、完璧を求めすぎたり、ちょっとやり過ぎだと思う。世の中、そんなに何でもできる人はいない。何でもできる奴は天才だ。限られた人たちだけの話。知ってるか? 世の中のほとんどが凡人なんだぜ?」
「ほとんどが、凡人?」
「ああ。だから、別に俊が自分を卑下する必要ないってこと。お前の両親の基準が高すぎるんだよ。確かに弟くんは優秀なのかもしれない。だけど、俊には俊の良いところがあるだろ? そこをお前の両親は見ていないんだよ。人間性なんて知らん顔。結果がすべて。正直、人間としてクズだ」

 和馬ははっきりとそう言った。潔かった。親のことをこれだけぼろくそ言われているのに、僕は特に何も感じなかった。それどころか、僕は出来損ないだとずっと思っていたのに、急に凡人だと言われると、なんだか一気に心が軽くなった気がする。

「俊は良い奴なのに、そこを見向きもしないのがむかつく。親のくせに」
「ちょっと待って、僕が良い奴?」

 驚いて聞き返す。

「え、良い奴だろ」
「噓だ」
「噓じゃないさ」

 和馬は平然と言う。

「じゃあ、僕のいいところ言ってみてよ」

 あまり期待はせずにそう尋ねる。

「見ず知らずのホームレスもどきに声をかけるような物好きなところ」

 和馬はそう言うとニヤリと笑った。僕は顔をしかめる。

「それ、褒めてる?」
「褒めてるさ。あとは、話していて楽しいところ。思いやりがあるところ」

 素直に納得はできなかったが、嬉しかった。しかし、少し気恥ずかしい。

「それと、俺のことを闇雲に詮索しないでいてくれるところ」
「それは当たり前でしょ。人にはプライベートってものがあるんだから。人には入られて欲しくない心の部屋がいくつもあるじゃん。そこに土足で踏み込むようなことはしないよ」

 誰でも触れられたくないことはある。そういうのは、雰囲気でなんとなく分かる。だから、わざわざその人が嫌がっていることに触れようとは思わない。僕にも、他人に触れられたくないことはたくさんあるから。

「……それができない人が、世の中にはたくさんいるんだよ。そういう人たちは、土足で踏み込んで部屋を荒らしたあげく、汚したまま出て行く。ほんとに勝手だよな」

 和馬の表情に陰りが見えた。この表情、僕は知っている。一度前に見たことがある。学校が息苦しいと言う話をしたときだ。
 しかし、和馬はすぐに表情を和らげた。

「俺は俊のそういうところに、救われているんだ。だから、お前といると安心するんだよ」

 彼は優しかった。初めて認められた気がして、心が温かくなった。
 僕ももっと、自分に自信が持てるようになりたい。それはもう少し先にはなると思うが。
 でも、和馬が僕の救いになっていたように、僕が和馬の救いになれていたことがどうしようもなく嬉しかった。こんな僕でも、誰かの役に立てるのだ。

 和馬だけが、僕の味方でいてくれる。何もかもを受け入れて、居場所を作ってくれた。彼に出会えてよかったと心の底から思った。
 だけど、和馬は自分のことをあまり話さない。そんなミステリアスなところについ惹かれてしまうのだが、それは僕だけに限らないはずだ。だからこそ、色々な人が彼を知りたいと心の部屋に土足で入り込み、荒らすだけ荒らして出ていってしまう。それに彼は辟易している。

 和馬は、何かを暗いものを抱えている。そうでなかったら、この高架下で一人で過ごしはしない。高校も中退したそうだし、前に家には帰りたくないと言っていた。髪を伸ばしている理由だって、きっと何かあるはずだ。
 本人は、あまり言いたくはなさそうだった。だから、無理に聞くようなことはしない。だけど、いつか僕にも心を開いて、話してくれたら嬉しいと思った。