やがて、僕は退院した。
左腕の骨はまだ繋がりきっていないので、包帯がグルグルと巻かれ、ギプスでガッチリと固定されている。学校へは完全に治ってから行きたいところだったが、それではさらに時間がかかってしまい、これ以上勉強が遅れるわけにはいかなかったので、医者の判断の元、僕は学校へ行くことになった。
退院して初めて学校へ行く日。
季節は秋に移り行き、通学路には紅葉が見られた。涼しい風が頬を撫で、鮮やかな青色のキャンパスにはうろこ雲が果てしなく広がっていた。
僕は緊張していた。
だって、夏休みも合わせて、三ヶ月ほど行っていないのだから。久しぶりに学校に行って、僕は上手くやっていけるだろうか。
あれから古川は何回かお見舞いに来てくれて、学校の話を聞かせてくれていたおかげで、少しは不安が和らいではいたが、それでも学校へ行くのは憂鬱で仕方がなかった。
僕は和馬のことを思い浮かべた。
彼は先日から通信制の高校へと通い始めた。決して仲の良いとは言えない父と、正面からぶつかったそうだ。
「俺はちゃんとした人生を送りたい。高校へもちゃんも行く。だから親父も、酒とかタバコに明け暮れるのはやめて、真っ当に生きよう。じゃないと俺は、親父とは縁を切る。その覚悟だ」
そう言ったらしい。
最初のうちは、馬鹿馬鹿しいと全く聞く耳を持ってくれなかったそうだ。だが、変わっていく息子を見て、親父さんにも変化があったそうだ。
手始めに、部屋の掃除をしていたという。ゴミや服が散乱していた部屋を片付け、少しずつ家事をするようになったらしい。酒やタバコはすぐには辞められるわけではなかったが、稼いだお金をそれらに全てつぎ込むようなことはしなくなった。和馬の熱意に感化され、意識が変わったようだ。
あらゆるものが、良い方向に向かっている。
そんなふうに、和馬は和馬で頑張っている。だから僕も、頑張らなければ。
僕は深呼吸をした。大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
靴を履き替えて、階段の前に立った。僕教室がある二階まで続くその階段は、今日はとてつもなく長く感じた。威圧的で、登るのが億劫になった。
そんな時、後ろから声をかけられた。
「萩野、おはよう」
振り返ると、そこには高木が立っていた。
「今日から復帰か。退院おめでとう。それにしても、すっごい怪我だったらしいな」
「ありがとう。ほんとに死ぬかと思ったよ」
僕は右手で頬を掻きながら、苦笑を浮かべた。
「とにかく、無事でよかったよ。ほら、カバン貸しな。その腕じゃ、荷物持つのも一苦労だろ?」
そう言って、高木は僕のスクールバッグを持ってくれた。
高木は三ヶ月前と何も変わっていない。親切で、気さくで、良い奴だ。高木みたいな人が一人いてくれるだけで、安心できるし、周りの雰囲気も穏やかになる。僕は高木みたいな人になりたいと思った。
今はもう、他人に親切にしてもらって自己嫌悪に陥ることはない。善意を素直に受け止められるようになり、純粋に高木に憧れることができた。
「今日、数学の小テストがあるってよ。まじでダルいよなあ」
高木は面倒くさそうに嘆いた。
彼は日常の中に、昨日まで休んでいた僕をすんなりと入れてくれた。特別扱いをするのではなく、普段通りに他愛のない話を続ける。僕はそれに救われた。変に気を遣われる方が、嫌だったからだ。
教室に入ると、みんなが僕に目を向けた気がした。気のせいかもしれないが、不特定多数からの、異物を見るような視線を感じた。
田中の取り巻きの女子たちは、こちらを見て何やらコソコソと話している。一方田中は、離れた席で一人スマホをいじり、こちらに見向きさえしなかった。古川が孤立していると言っていたのは、本当だった。
誰も特に声をかけてくることはなかったが、内心どう思われているのだろうと考えると、足の震えが止まらなかった。
「おはよう、萩野くん」
佇む僕に、古川が近づいてきた。周りの目なんて気にしない、そんな強い意思が感じられた。
横にいる高木にも挨拶をする。
「高木くんもおはよう」
「おはよう、古川」
高木はそう笑顔で答えた。
「お、おはよう」
僕はぎこちなく挨拶を返した。
「もう体調はいいの?」
「うん、まあね」
「よかった」
古川は嬉しそうに微笑んだ。
そして、彼女は残念そうに言う。
「萩野くんが学校へ来たら一番に私が声をかけようと思ってたのに、高木くんに先越されちゃった」
「へっ、悪いな。萩野と一番に話すのは俺だぜ」
「せっかく早く学校に来たのに、二人ったらギリギリに来るんだもん」
「残念だったな。あいにく俺は今日ラッキーデイなんだよな。なぜなら星座占いが一位だったからさ!」
そんな会話が目の前で繰り広げられ、僕は恥ずかしくなった。だが、僕を待っていてくれる人がいたという事実が、どうしようもなく嬉しかった。
その後すぐに朝のチャイムがなり、僕は高木からスクールバッグを受け取りお礼を言って、自分の席に着いた。
しばらくして、担任の小野先生が入ってきた。この先生のことは、どうしても好きにはなれないし、今後好きになることもなくなるだろう。でも、高校を卒業さえすれば、関わることはなくなる。あんな風にはなりたくないと、反面教師にすればいい。
前の方の席に座る古川がチラリとこちらを見て、微笑んだ。僕も微笑み返す。
大丈夫。僕の周りには、良い人がたくさんいるのだから。ようやく僕は、それに気づいた。
優しさは連鎖する。人から優しくされたら、また人に優しくしようと思える。だから僕も、これから先ずっと優しい人でありたい。
どうか、思いやりに満ちた世界になりますように。そう、願って。
ホームルームが始まった。
今日はとても良い一日になりそうだ。
左腕の骨はまだ繋がりきっていないので、包帯がグルグルと巻かれ、ギプスでガッチリと固定されている。学校へは完全に治ってから行きたいところだったが、それではさらに時間がかかってしまい、これ以上勉強が遅れるわけにはいかなかったので、医者の判断の元、僕は学校へ行くことになった。
退院して初めて学校へ行く日。
季節は秋に移り行き、通学路には紅葉が見られた。涼しい風が頬を撫で、鮮やかな青色のキャンパスにはうろこ雲が果てしなく広がっていた。
僕は緊張していた。
だって、夏休みも合わせて、三ヶ月ほど行っていないのだから。久しぶりに学校に行って、僕は上手くやっていけるだろうか。
あれから古川は何回かお見舞いに来てくれて、学校の話を聞かせてくれていたおかげで、少しは不安が和らいではいたが、それでも学校へ行くのは憂鬱で仕方がなかった。
僕は和馬のことを思い浮かべた。
彼は先日から通信制の高校へと通い始めた。決して仲の良いとは言えない父と、正面からぶつかったそうだ。
「俺はちゃんとした人生を送りたい。高校へもちゃんも行く。だから親父も、酒とかタバコに明け暮れるのはやめて、真っ当に生きよう。じゃないと俺は、親父とは縁を切る。その覚悟だ」
そう言ったらしい。
最初のうちは、馬鹿馬鹿しいと全く聞く耳を持ってくれなかったそうだ。だが、変わっていく息子を見て、親父さんにも変化があったそうだ。
手始めに、部屋の掃除をしていたという。ゴミや服が散乱していた部屋を片付け、少しずつ家事をするようになったらしい。酒やタバコはすぐには辞められるわけではなかったが、稼いだお金をそれらに全てつぎ込むようなことはしなくなった。和馬の熱意に感化され、意識が変わったようだ。
あらゆるものが、良い方向に向かっている。
そんなふうに、和馬は和馬で頑張っている。だから僕も、頑張らなければ。
僕は深呼吸をした。大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
靴を履き替えて、階段の前に立った。僕教室がある二階まで続くその階段は、今日はとてつもなく長く感じた。威圧的で、登るのが億劫になった。
そんな時、後ろから声をかけられた。
「萩野、おはよう」
振り返ると、そこには高木が立っていた。
「今日から復帰か。退院おめでとう。それにしても、すっごい怪我だったらしいな」
「ありがとう。ほんとに死ぬかと思ったよ」
僕は右手で頬を掻きながら、苦笑を浮かべた。
「とにかく、無事でよかったよ。ほら、カバン貸しな。その腕じゃ、荷物持つのも一苦労だろ?」
そう言って、高木は僕のスクールバッグを持ってくれた。
高木は三ヶ月前と何も変わっていない。親切で、気さくで、良い奴だ。高木みたいな人が一人いてくれるだけで、安心できるし、周りの雰囲気も穏やかになる。僕は高木みたいな人になりたいと思った。
今はもう、他人に親切にしてもらって自己嫌悪に陥ることはない。善意を素直に受け止められるようになり、純粋に高木に憧れることができた。
「今日、数学の小テストがあるってよ。まじでダルいよなあ」
高木は面倒くさそうに嘆いた。
彼は日常の中に、昨日まで休んでいた僕をすんなりと入れてくれた。特別扱いをするのではなく、普段通りに他愛のない話を続ける。僕はそれに救われた。変に気を遣われる方が、嫌だったからだ。
教室に入ると、みんなが僕に目を向けた気がした。気のせいかもしれないが、不特定多数からの、異物を見るような視線を感じた。
田中の取り巻きの女子たちは、こちらを見て何やらコソコソと話している。一方田中は、離れた席で一人スマホをいじり、こちらに見向きさえしなかった。古川が孤立していると言っていたのは、本当だった。
誰も特に声をかけてくることはなかったが、内心どう思われているのだろうと考えると、足の震えが止まらなかった。
「おはよう、萩野くん」
佇む僕に、古川が近づいてきた。周りの目なんて気にしない、そんな強い意思が感じられた。
横にいる高木にも挨拶をする。
「高木くんもおはよう」
「おはよう、古川」
高木はそう笑顔で答えた。
「お、おはよう」
僕はぎこちなく挨拶を返した。
「もう体調はいいの?」
「うん、まあね」
「よかった」
古川は嬉しそうに微笑んだ。
そして、彼女は残念そうに言う。
「萩野くんが学校へ来たら一番に私が声をかけようと思ってたのに、高木くんに先越されちゃった」
「へっ、悪いな。萩野と一番に話すのは俺だぜ」
「せっかく早く学校に来たのに、二人ったらギリギリに来るんだもん」
「残念だったな。あいにく俺は今日ラッキーデイなんだよな。なぜなら星座占いが一位だったからさ!」
そんな会話が目の前で繰り広げられ、僕は恥ずかしくなった。だが、僕を待っていてくれる人がいたという事実が、どうしようもなく嬉しかった。
その後すぐに朝のチャイムがなり、僕は高木からスクールバッグを受け取りお礼を言って、自分の席に着いた。
しばらくして、担任の小野先生が入ってきた。この先生のことは、どうしても好きにはなれないし、今後好きになることもなくなるだろう。でも、高校を卒業さえすれば、関わることはなくなる。あんな風にはなりたくないと、反面教師にすればいい。
前の方の席に座る古川がチラリとこちらを見て、微笑んだ。僕も微笑み返す。
大丈夫。僕の周りには、良い人がたくさんいるのだから。ようやく僕は、それに気づいた。
優しさは連鎖する。人から優しくされたら、また人に優しくしようと思える。だから僕も、これから先ずっと優しい人でありたい。
どうか、思いやりに満ちた世界になりますように。そう、願って。
ホームルームが始まった。
今日はとても良い一日になりそうだ。
