それから、入院している間、両親と和馬は、毎日会いに来てくれた。
 僕が目を覚ましてから三日ほどが経ったとき、悠が会いに来た。
 悠は気まずそうな顔をしながら、病室に入ってくる。

「えっと、兄さん、これ、お見舞い」

 そう言って、悠はお菓子をくれた。

「来てくれないと思ってた」

 僕はそう言いながら受け取った。

「その、兄さん」

 悠は目をそらしながら言う。

「その、この前は、ひどいことを言ってごめんなさい」

 悠は謝った。僕が家出をした朝のことを言っているのだろう。

「僕も、ごめん。僕もひどいことを言った気がするから」

 あのときはついカッとなって、言いたい放題言ってしまった。お互い様だ。

「あれから父さんと母さん、ずっとそわそわしてて、兄さんのこと、心配していたよ」
「噓でしょ?」
「ほんとだよ。電話の前を行ったり来たりしていたし、寝てるときでも兄さんの名前を呼んでいたし」

 それは初耳だ。
 両親は、僕のことを、全く愛していなかったわけではなかったんだ。

「あのね、兄さん。僕、ずっと兄さんみたいにならないように、父さんたちの期待の応えられるようにって、必死に頑張ってた。でも、僕は兄さんには勝てないと思ったよ。僕には、いろんなものを捨てて遠くへ逃げ出す度胸もないし、身を挺して誰かを救う勇気も無い。本当に、兄さんはすごいなって思った」
「なにそれ……」

 僕は小っ恥ずかしくなって、頬を掻いた。

「逃げ出すことができたのは、僕の大切な友達のおかげ。あの男の子を救おうとしたのは、あの子の方が僕よりも生きる価値があると思ったから。ただそれだけだよ」

 僕は訂正した。なんだか過大評価されている気がしたから。

「それでも、すごいと思う。この前、父さんと母さんが、言ってくれたんだ。将来は、なりたいものになりなさい。私たちはそれを、全力で応援するからって。そう言われて、僕は少し気が楽になった。今までどれだけ、気を張っていたんだろうって思った」

 悠は体をもじもじさせる。そして恥ずかしそうに言う。

「だから、その、ありがとう」
「何のお礼?」

 僕は思わず笑った。

「ただ、伝えたかっただけ」

 悠と自然に話せたのは、久しぶりな気がする。

「ねえ、覚えてる? 小さい頃、家族で遊園地に行ったこと」

 僕は尋ねた。

「覚えてるよ。二人でお化け屋敷入った時でしょ?」
「そうそう。この前遊園地行ったとき、その時のことを思い出してさ。なんか懐かしくなって。あの頃の悠は可愛かったなって」
「あの頃はずっと兄さんの後ろをついて回ってたもんね。大好きだったんだよなあ、兄さんのことが。尊敬してたし、頼ってた」

 悠は俯いた。

「でも、僕が父さんと母さんの期待に応えていくにつれて落ちぶれていく兄さんを見るのがしんどかった。そしていつしか、兄さんを拒絶するようになった。嫌だったんだ。頼れるはずの兄さんが、どんどん何もかもを諦めたような顔になっていくのが」

 そんな風に思っていたんだと、僕は申し訳なかった。悠のことを誤解していた。彼は決して、僕を嫌っていたわけではなかったのだ。

「ねえ、今からでもなれるかな? あの頃みたいに」

 そんな風に言う弟が、愛おしくてたまらなくなった。僕も同じ気持ちだった。

「うん、なれるよ」

 そう答えた。
 優秀な弟。だけど、比べる必要はない。僕は僕だ。勉強やスポーツがダメでも、人として尊敬してもらえるようになろう。そうして、僕も悠の良いところを見習って、良い関係が築けたらいいと思った。



***



 一週間後、和馬と病室で話していると、珍しいお客さんがやって来た。
 古川だった。
 古川は、ベージュのブラウスに、茶色のフレアスカート。まさに秋という感じの服装をしていた。
 手には、小さな花束を持っている。
 今日は土曜日。学校は確か、先週から始まったはずだ。

「えっと、久しぶり、萩野君」

 古川は控えめに挨拶をする。

「あー、久しぶり」

 和馬は不思議そうに、僕と古川を交互に見ている。

「その、私なんかがお見舞いに行っても迷惑かなって思ったけど、どうしても来たくて……。萩野君が昏睡状態だったって聞いて、すごく心配で。だけど、元気そうでよかった」

 古川はそう言いながら、僕に小さな花束を渡した。

「これ、よかったら」

 それは、可愛らしい黄色の花だった。

「ありがとう。嬉しいよ」

 僕はそれを、花瓶に入れて飾った。

「あ、紹介するよ。こちらは和馬。僕の友達だよ。そしてこちらは古川。僕のクラスメイトだ」

 僕がそう言うと、二人は軽く会釈した。

「おお、彼女が噂の古川さんか……」

 和馬は感心したように言った。古川のことは、前に話したことがある。

「古川楓です。よろしくお願いします」
「よろしく。俺は折原和馬だ」

 自己紹介が終わった後、古川はここへ来た理由を言った。

「私、萩野君に言いたいことがあって、ここに来たの」
「言いたいこと?」

 僕は首をかしげた。

「え、何? 愛の告白? それなら俺、邪魔者じゃん」

 などと和馬が冷やかしてくるので、僕は和馬の脇腹を肘でつついた。
 古川は苦笑を浮かべている。

「和馬のことは気にしなくていいから。続けて」
「……うん。あのね、ちゃんと、萩野君の冤罪は解けたから、安心して学校に来て大丈夫だよ」

 そのことは、母さんも言っていた。

「どうやって解けたの? もしかして、古川が?」

 僕は尋ねた。古川遠慮がちに頷いた。

「……うん。私、あの後、先生に言ったんだ。萩野君は何も悪くないって。あのとき起こったことを、全部話した。そしたら先生は、もう一度田中さんたちに話を聞いてくれて。驚いたことにね、田中さん以外の四人は、噓を認めたんだ。もう、自己中心的な田中さんについて行くのはうんざりだったらしくて。それを機に、田中さんの悪い噂がどんどん広まって、田中さん、今は孤立してる」

 古川は、本当のことを言ってくれたんだ。あんなに、怖がっていたのに。どういう心境の変化だろう。
 田中のことは自業自得だと思った。そうなって当然のことをしたのだから。
 でも、田中の友達が、とって返したように田中を見捨てるのは、なんだか嫌な感じがした。
 結局は、上辺だけの友達だったんだなと、少し哀れに思った。

「萩野君が行動しているのを見て、私自身が変わらなきゃ、まわりは何も変わらないって思ったの。あのとき萩野君は、私を助けてくれた。だから私は、萩野君のために、できることをしたいと思ったんだ。今の私にできることは、萩野君が少しでも学校に戻りやすい環境を作ることだと思って」
「僕のために……」

 僕は無性に恥ずかしくなった。顔がなんだか熱い。
 多分、さっき和馬が愛の告白なんて冷やかしてきたせいだ。そのせいで、変に意識してしまっているんだ、きっと。
 古川は僕のために、勇気を出してくれたんだ。それが嬉しかった。
 そして、古川自身も変わった。
 今は何にも、おびえていない。
 明るい表情をしている。

「古川、ありがとう」

 僕はお礼を言った。

「こちらこそ、ありがとう」

 古川はそう言って、微笑んだ。
 学校へ戻るのは怖かったけれど、古川のおかげで少し気が楽になった。
 僕の周りには、良い人がたくさんいるんだなと、改めて実感した。

 そうだ、退院したら、和馬と古川と一緒に水凪浜へ行こう。宿の木原さんにもお礼を言いたかったし、水凪浜の景色をもう一度見たかった。
 あの場所は、僕の青春だから。僕がこの夏どこでどう過ごしたのかを、古川にも見せてあげたかった。
 そんな風に、僕はこの先の未来に思いを馳せた。