見慣れない天井。ここはどこだろう。
腕が動かない。
僕はゆっくりと体を起こした。
そうか、ここは病院か。
確か僕は、子どもを助けようとして、道路に飛び込んで、そのままはねられた。
でも、生きている。僕は死ななかった。
「……俊?」
声が聞こえた。僕はドアの方を向く。そこには、青年が口を開けて、佇んでいた。
「俊……俊……?」
何度も僕の名前を呼ぶ。
彼は、持っていた荷物を取り落として、僕の方に駆け寄ってくる。
「俊!」
そして、僕のことを抱きしめた。
「よかった……本当によかった……」
僕は腕が動かなかったので、抱きしめ返すことはできなかった。
彼は泣いている。声を上げて泣いている。
「和馬……」
僕は彼の名前を呟いた。
「なんで、泣いてるの……?」
「お願いだから、もう俺の前から、いなくならないでくれ」
和馬は泣きながら言う。
「もうこれ以上、大切な人を失いたくはないんだ」
その言葉を聞いた途端、僕の目からも、涙がこぼれ始めた。
大切な人。
僕は、和馬にとって大切な人。
僕が死んだら、悲しんでくれる人がいる。
そのことを、忘れていた。
僕が死んだら、和馬はまた過去に囚われてしまうことになる。かけがえのない友達に、一生の傷を負わせてしまうところだった。
「和馬、ごめんね」
心の底から、僕は謝った。
「俺の方こそ、ごめん」
今なら分かる気がする。和馬がなぜ、「帰ろう」と言ったのか。
それはきっと、全部僕のためだ。
どんなに辛くても、ちゃんと向き合わなければ、何も変わらない。逃げてばかりの僕の背中を、和馬は押そうとしてくれたのだ。本来の生活に戻れるように。
和馬は僕に手を差し伸べられるくらいの、心の余裕ができて、助けてくれようとしたんだ。
だから、あんなことを言ったのだ。
それなのに、僕はその本意に気づけなかった。見捨てられたと思ったのだ。
和馬は僕の、かけがえのない友達だ。
たとえ劣等感に押しつぶされても、他人と比較して惨めになっても、僕のことを思ってくれる人が一人でもいるのならば、生きなければならない。でなきゃ、失礼だ。だってそれはその人自身を否定しているのと同等であるから。
だから僕は、僕を大切に思ってくれている人を、悲しませないために生きる。他に生きる理由なんて、必要ない。
その後、医者がやってきて、僕を診察した。
僕はかなりの重傷だったそうだ。頭を打っていて、緊急手術でなんとか一命をとりとめたが、それから一週間ほど昏睡状態だった。他にも、腕やあばらが折れていたが、幸いなことに、後遺症は残らないそうだ。しかし、完治にはもう少し時間がかかるのだと。
和馬はこの一週間、ずっと隣にいてくれていたらしい。
僕が目を覚ましたことを聞きつけた両親は、すぐに病院にやってきた。
僕は二人の顔を見ることができなかった。
反抗的な態度を取り、自分勝手なことばかりをして、たくさん迷惑をかけた。けど、僕の話を聞いてくれなかったのはそっちだ。
頭が冷えて出てきた申し訳なさと、僕への仕打ちに対する苛立ちとが混ざり合い、複雑な気持ちだ。
母さんは僕のそばまで来た。怖い顔をしていた。ぶたれるような気がして、僕は目をつむった。
しかし、それは間違いだった。
母さんは、僕をぶつ代わりに、抱きしめたのだ。
温かい。久しぶりに感じた、母さんのぬくもり。
「もう、心配かけないで、俊」
母さんは泣いていた。母さんが泣いているところは、初めて見た。
僕のことを、心配してくれていたことに驚いた。
でも、今更なんだよ、と思った。
「俊が無事でよかった」
父さんも近づいてきて、母さんごと僕を抱きしめる。
今更だ。全てが今更だ。どうして今になって僕に優しくするの? 僕のことは、とうの昔に見捨てたくせに。
「……だったらもっと、僕を見てよ。僕の話を聞いてよ。知ろうとしてよ。信じてよ。僕のことを……見捨てないでよ」
胸が苦しい。両親に、本心を言うのは初めてだ。
「ごめんなさい、俊。私たちはずっと、あなたのことを見ていなかった。私たちは、あなたの気持ちを全く考えられていなかった。私たちの願望を、あなたに押しつけて。俊の意思は無視して。悠はあなたのようになってしまわないように、同じ失敗を繰り返さないようにと、いつも俊と悠を比較して、あなたを傷つけてしまった」
やっぱり僕は、失敗作なのだろうか。こんな風に、面と向かって言われるのは辛かった。だけど、母さんが僕に、そうはっきりと言ってくれるのは、今までなかった。今までは、僕がそう感じていただけだから。
母さんは今、僕に向き合ってくれようとしているんだ。
「俊が家出したこの一ヶ月半、私はすぐに帰ってくるだろうと甘く見ていた。だけど、あなたは帰ってこなかった。そこで、私は俊の決意が固いことが分かった。一切連絡もよこさないで。やっと連絡が来たと思えば、俊が事故に遭いましたって。もう私は、気が気でなかったわ」
母さんは涙を流しながら言った。
「俊がこのまま目を覚まさなかったらどうしようって、不安で不安で。毎日眠れなかった。あなたを失いそうになって初めて、私はあなたの存在の大切さに気がついた。親として、失格よ」
「……僕は、いらない子じゃないの?」
僕は皮肉を込めて尋ねた。
「いらない子なんかじゃない! 俊は私たちの、大切な息子よ!」
「そうだ、俊。俺たちは、お前が大事だ。俊は優しい子だ。自らを犠牲にして、小さな子どもの命を救うなんて、誰にでもできることじゃない」
父さんが言った。
そこで僕は、あの少年が無事だったことを知った。よかったと、ホッとした。
「これから俺たちは、お前がやりたいと思うことを、全力で応援する。そして、悠にも、俺たちの理想を押しつけることはやめる」
「寂しい思いをさせてごめんなさい。田中さんの件、あなたは何も悪くなかったことを先生から聞いたわ。これからはちゃんと、あなたを信じる。あなたの言葉を聞く。だからどうか、私たちを許してください」
「俊、この通りだ」
父さんと母さんは、僕に頭を下げた。
驚いた。親に頭を下げられるなんて、思ってもいなかったから。
そして、田中の件の誤解も、知らないうちに解けていた。
「僕は友達とサッカーをやるのが楽しかった。絵を描くことが好きだった。だけど二人は、結果しか見なかった」
僕は心の内を話す。
「勉強だって、明らかに僕の能力では行けないようなところを進めてきたよね。僕はそれでも僕なりに勉強した。あんまり得意ではないけど頑張った。それでも二人は、僕を見放して、出来の良い悠ばかりを可愛がった」
そして、ずっと言いたかったことを言う。
「ごめんね。失敗作で。期待に応えられなくて」
涙がこぼれてきた。僕はどうしてよくできた子ではないのだろう。何度も神様を呪った。どうしてこんな出来損ないを作ったのだろう。
「俊……ああ、私たちは親失格だわ。本当にごめんなさい。あなたをここまで追い詰めて。あなたは失敗作なんかじゃない」
僕は母さんの顔を見た。そして、父さんの顔を見た。
言っていることは噓ではない。
僕は多分、否定して欲しかったんだ。失敗作じゃないって。
二人は、悠と比べることはせず、僕の意思を尊重すると約束してくれた。
久しぶりに、親の愛に触れられた気がして、僕の心は温かくなった。そして、ホッとしていた。
だから僕は、二人を許した。
今までの傷は、簡単には消えない。こんな卑屈な性格になったのだって、親が比べるからである。
でも、僕は前よりも強くなった。大切な人の存在に、気づくことができたから。
せっかく生き残ったんだ。自分ができないことを考えるのではなくて、自分ができることをしよう。
何も恐れることはない。今は、僕を認めてくれる人がいるのだから。
僕は生きる。
もう、消えてしまいたいとは思わない。
僕は大人への階段を、一つ上った気がした。
腕が動かない。
僕はゆっくりと体を起こした。
そうか、ここは病院か。
確か僕は、子どもを助けようとして、道路に飛び込んで、そのままはねられた。
でも、生きている。僕は死ななかった。
「……俊?」
声が聞こえた。僕はドアの方を向く。そこには、青年が口を開けて、佇んでいた。
「俊……俊……?」
何度も僕の名前を呼ぶ。
彼は、持っていた荷物を取り落として、僕の方に駆け寄ってくる。
「俊!」
そして、僕のことを抱きしめた。
「よかった……本当によかった……」
僕は腕が動かなかったので、抱きしめ返すことはできなかった。
彼は泣いている。声を上げて泣いている。
「和馬……」
僕は彼の名前を呟いた。
「なんで、泣いてるの……?」
「お願いだから、もう俺の前から、いなくならないでくれ」
和馬は泣きながら言う。
「もうこれ以上、大切な人を失いたくはないんだ」
その言葉を聞いた途端、僕の目からも、涙がこぼれ始めた。
大切な人。
僕は、和馬にとって大切な人。
僕が死んだら、悲しんでくれる人がいる。
そのことを、忘れていた。
僕が死んだら、和馬はまた過去に囚われてしまうことになる。かけがえのない友達に、一生の傷を負わせてしまうところだった。
「和馬、ごめんね」
心の底から、僕は謝った。
「俺の方こそ、ごめん」
今なら分かる気がする。和馬がなぜ、「帰ろう」と言ったのか。
それはきっと、全部僕のためだ。
どんなに辛くても、ちゃんと向き合わなければ、何も変わらない。逃げてばかりの僕の背中を、和馬は押そうとしてくれたのだ。本来の生活に戻れるように。
和馬は僕に手を差し伸べられるくらいの、心の余裕ができて、助けてくれようとしたんだ。
だから、あんなことを言ったのだ。
それなのに、僕はその本意に気づけなかった。見捨てられたと思ったのだ。
和馬は僕の、かけがえのない友達だ。
たとえ劣等感に押しつぶされても、他人と比較して惨めになっても、僕のことを思ってくれる人が一人でもいるのならば、生きなければならない。でなきゃ、失礼だ。だってそれはその人自身を否定しているのと同等であるから。
だから僕は、僕を大切に思ってくれている人を、悲しませないために生きる。他に生きる理由なんて、必要ない。
その後、医者がやってきて、僕を診察した。
僕はかなりの重傷だったそうだ。頭を打っていて、緊急手術でなんとか一命をとりとめたが、それから一週間ほど昏睡状態だった。他にも、腕やあばらが折れていたが、幸いなことに、後遺症は残らないそうだ。しかし、完治にはもう少し時間がかかるのだと。
和馬はこの一週間、ずっと隣にいてくれていたらしい。
僕が目を覚ましたことを聞きつけた両親は、すぐに病院にやってきた。
僕は二人の顔を見ることができなかった。
反抗的な態度を取り、自分勝手なことばかりをして、たくさん迷惑をかけた。けど、僕の話を聞いてくれなかったのはそっちだ。
頭が冷えて出てきた申し訳なさと、僕への仕打ちに対する苛立ちとが混ざり合い、複雑な気持ちだ。
母さんは僕のそばまで来た。怖い顔をしていた。ぶたれるような気がして、僕は目をつむった。
しかし、それは間違いだった。
母さんは、僕をぶつ代わりに、抱きしめたのだ。
温かい。久しぶりに感じた、母さんのぬくもり。
「もう、心配かけないで、俊」
母さんは泣いていた。母さんが泣いているところは、初めて見た。
僕のことを、心配してくれていたことに驚いた。
でも、今更なんだよ、と思った。
「俊が無事でよかった」
父さんも近づいてきて、母さんごと僕を抱きしめる。
今更だ。全てが今更だ。どうして今になって僕に優しくするの? 僕のことは、とうの昔に見捨てたくせに。
「……だったらもっと、僕を見てよ。僕の話を聞いてよ。知ろうとしてよ。信じてよ。僕のことを……見捨てないでよ」
胸が苦しい。両親に、本心を言うのは初めてだ。
「ごめんなさい、俊。私たちはずっと、あなたのことを見ていなかった。私たちは、あなたの気持ちを全く考えられていなかった。私たちの願望を、あなたに押しつけて。俊の意思は無視して。悠はあなたのようになってしまわないように、同じ失敗を繰り返さないようにと、いつも俊と悠を比較して、あなたを傷つけてしまった」
やっぱり僕は、失敗作なのだろうか。こんな風に、面と向かって言われるのは辛かった。だけど、母さんが僕に、そうはっきりと言ってくれるのは、今までなかった。今までは、僕がそう感じていただけだから。
母さんは今、僕に向き合ってくれようとしているんだ。
「俊が家出したこの一ヶ月半、私はすぐに帰ってくるだろうと甘く見ていた。だけど、あなたは帰ってこなかった。そこで、私は俊の決意が固いことが分かった。一切連絡もよこさないで。やっと連絡が来たと思えば、俊が事故に遭いましたって。もう私は、気が気でなかったわ」
母さんは涙を流しながら言った。
「俊がこのまま目を覚まさなかったらどうしようって、不安で不安で。毎日眠れなかった。あなたを失いそうになって初めて、私はあなたの存在の大切さに気がついた。親として、失格よ」
「……僕は、いらない子じゃないの?」
僕は皮肉を込めて尋ねた。
「いらない子なんかじゃない! 俊は私たちの、大切な息子よ!」
「そうだ、俊。俺たちは、お前が大事だ。俊は優しい子だ。自らを犠牲にして、小さな子どもの命を救うなんて、誰にでもできることじゃない」
父さんが言った。
そこで僕は、あの少年が無事だったことを知った。よかったと、ホッとした。
「これから俺たちは、お前がやりたいと思うことを、全力で応援する。そして、悠にも、俺たちの理想を押しつけることはやめる」
「寂しい思いをさせてごめんなさい。田中さんの件、あなたは何も悪くなかったことを先生から聞いたわ。これからはちゃんと、あなたを信じる。あなたの言葉を聞く。だからどうか、私たちを許してください」
「俊、この通りだ」
父さんと母さんは、僕に頭を下げた。
驚いた。親に頭を下げられるなんて、思ってもいなかったから。
そして、田中の件の誤解も、知らないうちに解けていた。
「僕は友達とサッカーをやるのが楽しかった。絵を描くことが好きだった。だけど二人は、結果しか見なかった」
僕は心の内を話す。
「勉強だって、明らかに僕の能力では行けないようなところを進めてきたよね。僕はそれでも僕なりに勉強した。あんまり得意ではないけど頑張った。それでも二人は、僕を見放して、出来の良い悠ばかりを可愛がった」
そして、ずっと言いたかったことを言う。
「ごめんね。失敗作で。期待に応えられなくて」
涙がこぼれてきた。僕はどうしてよくできた子ではないのだろう。何度も神様を呪った。どうしてこんな出来損ないを作ったのだろう。
「俊……ああ、私たちは親失格だわ。本当にごめんなさい。あなたをここまで追い詰めて。あなたは失敗作なんかじゃない」
僕は母さんの顔を見た。そして、父さんの顔を見た。
言っていることは噓ではない。
僕は多分、否定して欲しかったんだ。失敗作じゃないって。
二人は、悠と比べることはせず、僕の意思を尊重すると約束してくれた。
久しぶりに、親の愛に触れられた気がして、僕の心は温かくなった。そして、ホッとしていた。
だから僕は、二人を許した。
今までの傷は、簡単には消えない。こんな卑屈な性格になったのだって、親が比べるからである。
でも、僕は前よりも強くなった。大切な人の存在に、気づくことができたから。
せっかく生き残ったんだ。自分ができないことを考えるのではなくて、自分ができることをしよう。
何も恐れることはない。今は、僕を認めてくれる人がいるのだから。
僕は生きる。
もう、消えてしまいたいとは思わない。
僕は大人への階段を、一つ上った気がした。
