僕たちは、海の近くの宿へと戻ってきた。

「やっぱここ、すごくいいな」

 和馬はどうやらこの宿が気に入っているようだった。
 なんだかんだ、僕らはここに一ヶ月ほど滞在している。

「俊、夕日見に行こうぜ」

 和馬は言った。彼はどこか、清々しい。気が晴れているようだ。
 僕たちは外へ出て、砂浜まで行く。
 海がオレンジ色に輝いている。綺麗だった。

「俺が髪を伸ばしている理由ね」

 和馬が口を開いた。

「本当は、陸斗が、俺の髪が綺麗っていつも褒めてくれていたからなんだ」

 和馬は背中まで伸びる長い髪を触りながら言った。
 彼の髪は確かに綺麗だ。なめらかで美しい黒髪だ。

「陸斗は俺の髪を、いつも撫でてくれた。今でもそのぬくもりが、残っているような気がして、ずっと切れなかった」

 そう言うと、和馬はポケットから何やら取り出した。夕日に照らされて、それは輝いた。
 はさみだ。僕は彼がやろうとしていることを、一瞬で理解した。

「俺はもう、大丈夫だ」

 和馬は髪を切った。潔く、バッサリと。
 和馬の髪は、短くなった。不揃いな毛先。雰囲気が変わった。それでも、かっこいいのに変わりは無かった。

「今度ちゃんと美容院に行かなきゃ」

 短くなった毛先を触りながら、和馬は笑って言った。

「髪の長い和馬も、短い和馬も、どっちも素敵だよ」

 僕はそう思って言った。

「ありがとう」

 和馬は照れたようにお礼を言った。
彼が救われて、よかった。
 でも、それと同時に、僕は不安になった。和馬はもう、一人でも大丈夫だ。
 それなら僕は、これからどうなるんだろう。


 星が綺麗に見える。夏の大三角形だ。ベガ、デネブ、アルタイル。小学生の時に習ったのを、今でもなんとなく覚えている。
 僕たちは、海岸の岩の上に腰を下ろした。僕と和馬の間に、ろうそくを立てる。すると、あたりが暖かい光で包まれた。

「なんでそんな原始的なの?」

 僕は笑いながら尋ねた。

「いいじゃないか、雰囲気があって」

 スマホのライトを使えばいいのにと思ったが、これはこれでいいなと思った。

「久しぶりだから、うまく弾けるか分かんないや」

 和馬はギターをケースから取り出し、音を鳴らしながら言った。

「弾けるだけでもすごいと思う。楽器ができる人、羨ましい」

 残念ながら、僕にはそんな特技はない。ギターが弾ける人は、かっこいいなと思う。僕も昔少しだけピアノを習っていたが、もう弾き方は忘れてしまった。

「お前もやってみなよ。練習すれば、案外できるもんだよ」
「そうかな? 僕にもできるかな?」
「ああ、できるさ。いつか俺とセッションしような」

 和馬はそう言って微笑んだ。
 僕に趣味があったら、人生はもっと、彩っていたかもしれない。
 小学生の頃通っていた絵画教室を思い出す。自由に絵を描いていたあの時。夢中だった。楽しかった。でも親には、金賞を取れなければ意味がないとやめさせられた。あの時、親に無駄だと言われても描き続けていたら、何かが変わっていたかもしれない。
 和馬は左手でコードを押さえ、音を鳴らす。

「俺、陸斗がいなくなってから、音楽とは距離を置いていたんだ。よく、陸斗のピアノと一緒に弾いたり歌ったりしてたからさ。あのときの、大事な思い出に触れるのが怖かったんだ。ギターを弾いたら、陸斗と過ごした時間を思い出してしまって、愛しくなって、悲しくなって、そして胸が締め付けられる」

 和馬は上を向いた。

「でも、今なら大丈夫。過去に囚われてばかりじゃダメなんだ。ちゃんと、お別れをするんだ」

 和馬は深呼吸をした後、ギターを弾きながら歌い始めた。
 心地よい音色だった。
 その歌は、和馬が愛した、ただ一人のためだけに歌われている。海を越えて、空を越えて、ずっとずっと遠くにいる彼のためだけを思って。
 一世一代のラブソング。和馬の思いのすべてが込められた歌だ。
 僕は聞いているだけで、胸がいっぱいになった。
 やがて和馬は、一曲歌いきった。彼は泣いていた。

「大丈夫?」

 僕は尋ねた。
 和馬は腕で何度も涙を拭う。しかし、涙は次から次へと溢れ、止まらない。
 和馬は星に手を伸ばした。まるでそこに、陸斗さんがいるかのように。
 彼は和馬の元から遠ざかっていく。手を伸ばしても、届くことはない。
 和馬はそのまま手を引っ込めた。掴むことはしなかった。

「お前のことが好きだった。誰よりも」

 和馬は、もうここにはいない彼に向かって、告白をした。そして、別れの言葉を告げる。

「さようなら、陸斗」

 和馬はほんの少し笑った。涙でぐしゃぐしゃの顔で。
 もう、二人がこの世界で出会うことはない。だけど、和馬の中で、陸斗さんはちゃんと生きている。
 和馬は、過去に別れを告げた。きっとこれからは、前に進んでいける。
 お前の意思はちゃんと俺が継ぐ。だから、安心して眠って。
 そんな思いが、和馬から伝わってきた。

「大丈夫。きっと届いているよ。君の愛が。君の思いのすべてが」

 僕はそう言って、和馬の背中を優しく撫でた。