ひと通りの支度をして、スクールバッグに母さんの作ってくれた弁当を入れて外に出る。朝にも関わらず、日差しは容赦なく刺してくる。あっという間に汗がだらだらと流れてきた。学校まで徒歩三十分。この暑さの中歩いて行くのは一苦労だ。足取りが重い。まるで暑さという名の足枷をつけられているようだった。
 せわしく鳴いている蝉に対する苛立ちがさらに募る。夏が来たという趣を感じる余裕は、残念ながら持ち合わせてはいない。奴らの声は、僕にとっては騒音だ。煩わしさを駆り立てていく。
 
「学校、行きたくないな……」

 太陽の光を手で庇いながら、人知れずそんなことを呟いた。
 学校は楽しくない。別にいじめられているわけでもないし、話す人がいないわけでもない。だけど、楽しくない。
 面倒くさいのだ。空気感とか、周りの目とか。そういうのがいつも気になって、落ち着かない。勉強だって面白くないし、女子の猿みたいなキーキー声もうるさい。
 学校が楽しければ、こんな暑さなんて平気だっただろう。だが、今日は特段と学校へ行く気にはなれなかった。
 今までは行きたくないと思うことがあっても、気合いで乗り越えてきた。どんなに嫌でも、行ってしまえば大したことなくて、あっという間に時間は過ぎる。
 でも、今日は無理だった。どうしても無理だった。
 だから、サボることにした。 
 きっかけなんて些細なことだ。ただ夏の日差しが眩しかっただけ。だけどそれがどうしようもなく辛かった。僕の心の中で張り詰めていた線が、その日差しによってプツリと切れたようだった。

 学校を休みたいなんて母さんに言えば、また失望される。あの呆れたような母さんのため息を見ると、心の奥がキリキリと痛む。その痛みには、いつまでたっても慣れない。
 風邪をひいて微熱があっても、無理やり学校に行かせられたくらいだ。簡単には休ませてもらえない。母さんは専業主婦だから、家には戻れない。だから内緒で休もう。後で学校に自分で連絡すれば無断欠席にはならないから、家に先生から連絡がいくこともないだろう。
 母さんの顔を思い浮かべると罪悪感でいっぱいだが、今日だけなら大丈夫だと自分に言い聞かせる。

 とりあえず、日差しを遮れるところへ行こう。
 歩いていると、小学生とすれ違った。まだ僕の半分くらいの背丈しかない。楽しそうに、友達と戦いごっこをしながら登校している。
 僕にもあんな時代があった。でもそれは、遠い昔の、幻想のように感じた。

 どこへ行こうか。人のいない場所がいい。とりあえず、河川敷を歩く。川に光が反射してキラキラと輝いていて、目が眩む。 
 遠くの方に高架橋が見える。川の上に架かる橋だ。その上を、電車が走っていった。
 あの電車に乗っている人たちは、みんな職場や学校に向かっているんだろうな。そう思うと、学校をサボるという罪悪感がさらに増していった。
 マイナスなことを考えないよう慌てて首を振り、外の景色を堪能しながら歩みを進めた。

 高架下までやってきた。整備されていないのか、草が生い茂っている。日陰になっていて涼しい。ここなら誰も来ないだろう。電車が高架橋を走るときは少し音や振動が気になるが、ずっとというわけではない。今日はここで過ごそう。
 しかし、そこには先客がいた。横たわっている人がいたのだ。最初、死体かと思ったが、寝返りを打ったので、生きていると安心する。下にはダンボールが敷かれていた。
 ホームレスだろうか? 変なことには巻き込まれたくないからあまり関わらない方がいいと思い、しぶしぶ回れ右をしようとした時だった。

「珍しいな、こんな場所に人が来るなんて」

 心臓が跳ねる。話しかけられた。心地の良い低い声。その人はゆっくりと起き上がった。
 綺麗な顔立ちだった。物語に出てくる、どこかの国の王子様のようだ。切れ長の目に、白い肌。背中まで伸びる長い髪。一瞬女性と見間違いそうになったが、青年だ。

「ここで、何してるんですか?」

 僕は尋ねた。

「んー、何もしてない。ただボーっとしているだけ」

 そう言いながら、長い髪を鬱陶しそうにかき上げる。そして、僕の制服を見て言った。

「そっちこそなにしてんの? もう学校の時間でしょ?」

 ドキッとした。

「あ……えっと、サボりました」

 特に言い訳も思いつかなかったので、正直に言う。

「ふーん、そっか」

 彼は興味なさそうに言った。言及されないことに驚く。普通だったら、その理由を聞かれたり、怒られたりするものだと思っていた。

「咎めないんですか?」
「どうして俺がそんなことする必要があるんだ? ていうか、俺に咎める資格はないよ。学校よくサボってたし、高校中退したし。そもそも赤の他人だし」

 言いながら彼は微笑んだ。そして尋ねる。

「君、名前は?」
「……俊です。萩野俊」
「俺は折原和馬。よろしく」

 お互いに名乗った後、彼は僕に手招きをした。

「俊も座れよ」

 言われるがまま僕は彼の隣に座る。緊張して、暑さからのとは別の変な汗が出る。

「何で正座なんだよ。あと、敬語じゃなくていいよ。年、そんなに変わらないだろうから」

 そして、「もっとくつろぎな」と続ける。僕は言葉に甘えて足を崩した。

 それにしても、ここは良いところだ。涼しくて、クーラーのついた部屋よりも自然を感じられるため、快適だった。
 よく見ると、和馬の周辺には、毛布やクッション、ダンボール箱で作った簡易的な机、カセットコンロまで置いてある。脱ぎ散らかされた服に、カップラーメンのゴミ。
 まさかと思って僕は尋ねた。

「ねえ、君ってもしかしてホームレス?」

 すると和馬は可笑しそうに声を出して笑った。
 
「家はちゃんとあるよ。だけど、最近はほとんどここにいる。あんまり家にいたくないんだ。家にいても、なんにも楽しいことなんてないからね」
「そう、なんだ……なんかごめん」

 嫌なことを聞いてしまったみたいだ。
 だが、家が楽しくない、というのは共感できる気がした。家に帰っても、僕は邪魔者扱い。優秀な弟さえいれば、両親は満足なんだ。僕はいつだってのけ者のような気がして、居心地が悪かった。

 そこで、「あっ」と僕は思い出した。学校へ電話をしなければ。慌ててスマホを持って立ち上がり、一旦和馬のもとを離れた。

 欠席の連絡を入れ終わり、再び和馬の元へ戻る。

「先生、なんて言ってた?」
「お大事に、だって。なんか、学校をサボるって罪悪感があるね」

 なんとなく胸の奥がモヤモヤし、僕は和馬に共感を求めた。
 電話口に出たのは女性の国語の先生で、担任の先生ではなかったが、「咳が出て発熱しました」と言ったら、えらく心配してくれた。「夏風邪が流行ってるから気をつけてね」、だと。確かに、ここ最近はクラスにも数人休んでいる人がいた。サボっているだけなのに心配してくれるのは何ともむず痒かったが、上手く病気で休んでいる人たちに紛れられたようだ。

「俊は真面目だな。慣れたら余裕だよ」

 和馬は理解ができないというように肩をすくめながら言った。彼は一体、これまでにどれだけ学校をサボってきたのだろう。

「俺は学校に連絡すら入れてなかったね」
「ほんとに?」

 純粋にその度胸が羨ましかった。

「和馬はいくつなの?」
「十七だ。学校に行っていれば高三だ。俊は?」
「……僕は今高二。まだ十六歳だよ」

 そう答えながら、僕はショックを受けた。和馬とはたった一つしか年が変わらない。そんなに変わらないとは言ってはいたが、もう少し年上かと思っていた。見た目が大人びているし、落ち着いているから、僕と一つ違いと知って複雑な気持ちになる。
 そんな僕にお構いなしで、和馬は言う。

「今日予定ないなら、俺と一緒にここで過ごそうぜ」

 僕はパッと顔を輝かせ、「いいの?」と尋ね返す。

「もちろん。俺の話し相手になってよ」

 悪戯っぽい笑みを浮かべる彼に、僕は大きくうなずいた。