それからは、僕たちは淡々と宿で仕事をこなして過ごした。どこかへ出かけることもなく、時間だけが過ぎていった。お盆に差し掛かり、宿は以前よりも忙しく、活気があった。

 和馬は話しかければちゃんと答えてくれるし、避けるようなこともしないから、僕が嫌われたという訳ではないようで安心した。
 だが、ずっと彼の表情は暗かった。心配だった。このままどこかへいなくなってしまいそうな、そんな儚さがあった。

 夕方、宿での仕事を終えた後、僕は一人で散歩をした。家々に明かりが灯り始めた住宅街を歩く。
 夕日を見ていると、どうしてこんなに切ない気持ちになるのだろう。小学生の頃は、六時の鐘が鳴ると家に帰らなくちゃならなかった。友達とはまた明日会えるのに、まだ遊んでいたくて、離れるのが名残惜しかった。その記憶が、今も残っているからだろうか。
 小さいの頃は寝る時間が長いため、必然的に起きている時間が短くなる。夕方が来れば、あっという間に夜が迫ってくる気がした。そのせいで、一日がもうすぐ終わるという切なさが、夕方に一気に押し寄せてきていた、というのもあるかもしれない。
 なんて、昔はそんな細かいことなど考えていなかったはずなのに、今では切なさの理由まで考えてしまう。どんな物事や感情にさえも理由を求め、純粋に受け止めることはできなくなった。これが、大人になるということであるのならば、僕はちゃんと大人になれているという証だ。でも、その証が無性に虚しい。考えることが多すぎて、頭がパンクしそうだった。

 歩きながら、僕はスマホを取り出した。メッセージアプリに通知が何十件も溜まっている。それは全て母さんからだった。

『どこにいるの?』
『早く帰ってきなさい』
『見てるなら返信しなさい』
『お金はちゃんと持ってるの?』
『人様に迷惑かけてないでしょうね』
『きちんと話し合いましょう』
『帰ってきなさい。今なら許してあげるから』

 そこまで読んで、僕はアプリをそっと閉じた。
 何これ。ため息しかでない。
 許してあげるって、何? 母さんは、自分にも非があることを一切認めない。結局は僕が悪者。こうなったのは、母さんにも責任があるのに。
 母さんは僕の心配なんてしてない。自分の体裁しか気にしていない。
 息子が家出した、なんて、世間から見ればマイナスな印象しか持たれない。完璧主義の母さんにとって、周りからそういう目を向けられるのは屈辱でしかないだろう。
 メッセージアプリには定期的に既読をつけているから、生存確認はできている。そして大事にはしたくないから、警察には連絡していないはずだ。それは僕にとっても都合がよかった。
 父さんも父さんだ。仕事が忙しいのか知らないけど、ほとんど育児には参加してないくせに、都合の良いときだけ父親ぶって口出ししてくる。鬱陶しい。大企業に勤めるエリートだからなんだよ。部下の面倒はちゃんと見るくせに、自分の息子の情報は全部母さん伝えで知る。過程なんかどうでもいいのだ。手っ取り早く、結果だけ知ることができればいい。そんな考えだから、僕たちと対話する必要性を感じていないのだ。だから、父さんは息子が家出してもなお、直接連絡は一切よこしてこない。期待はしていないが。
 うんざりだった。家出しても、僕の思いや覚悟は何も伝わらなかった。許すって言えば僕が簡単に帰るなんて思うなよ。僕はもう、父さんや母さんの言いなりにはならない。謝ってくれるまで、帰らないから。

 スマホの電源を切り、苛立ちを抑えるために深呼吸をした。そして、顔をあげる。
 電柱の張り紙が目に入ったので、立ち止まって読んでみる。

「花火大会……?」

 水凪浜であるそうだ。明日の日付が書かれている。
 打ち上げ花火は、今まで遠くからしか見たことがなかった。だから近くで見てみたかった。
 和馬を誘ったら、一緒に行ってくれるかな。そんなことを考えながら、僕は再び歩き出した。

 

 日がすっかり暮れた頃、宿へ戻ると木原さんが出迎えてくれた。

「おかえり、俊くん。散歩はどうだったかい? 最近は根詰めたように働いてくれていたからさ。良い気分転換になった?」
「はい、とっても」

 僕は笑顔で返事をした。

「そうかい。ならよかったよ」
「そういえば、明日花火大会があるんですね」
「ああ、そうだよ。毎年の恒例行事だよ。和馬くんを誘って行ってきたらいいよ。彼、最近ずっと思い詰めたような顔をしているからね。私の前でも、なんか空元気だから心配なんだよ……」
「はい、そのつもりです。和馬の心配してくれて、ありがとうございます」

 木原さんと別れた後、僕は部屋に戻り、和馬に花火大会へ行くことを提案した。
 彼はあっさりと縦に首を振ってくれたが、相変わらず元気はなかった。
 木原さんも僕も、和馬のことを心配している。花火を見て、少しでも明るい気持ちになってくれたらいいな。そんな淡い期待を胸に、僕は今日を終えるのであった。



***



 次の日の夜。僕と和馬は砂浜に行った。
 砂浜には、すでにたくさんの人たちが集まっていた。水凪浜には、こんなに多くの人が住んでいたんだな。
 やがて、一発目の大きな花火が打ち上がる。それと同時に、歓声が上がった。
 それから、次々に、色とりどりの花火が打ち上がる。
 僕は和馬の方を見た。和馬はただボーッと、花火を見ている。和馬の瞳に、花火の光が反射しては消えてを繰り返す。

「和馬、大丈夫?」

 僕は心配して尋ねた。
 しばらくしてから、「ああ、大丈夫だ」と、彼返事をした。そして、大きなため息をつく。

「やっぱり、いつまでもこのままじゃダメだよな。ごめんな、俊。観覧車でのこと」
「僕は全く気にしてない。僕の方こそ、僕が恋愛の話をしたから、嫌なこと思い出させちゃったんじゃないかって……」
「俊は何も悪くないよ。俊があいつと重なって、俺が勝手に思い出してしまっただけだよ」

 あいつ、とは、誰のことだろうか。昔の恋人か誰かだろうか。

「俺には、乗り越えなければならないことがあるんだ。でも、俺一人では、多分無理だ。誰かが横にいてくれないと。だから俊、もし時が来て、俺が進もうとするときは、どうか俺の隣にいて、俺が倒れないように支えて欲しい」

 和馬は頭を下げた。
 和馬が何を乗り越えなければならないのか、今はまだ分からなかった。
 だけど、僕は和馬の力になりたい。和馬がそれで幸せになれるのならば、僕はずっと、彼の横にいる。

「もちろんだよ、和馬」

 僕がそう答えると、和馬は顔を上げて微笑んだ。久しぶりに彼の笑った顔を見た。

「ありがとう。俺は今、俊に出会えて、心の底からよかったと思ってる」
「僕も同じ気持ちだよ」

 花火はまだ、上がり続けていた。