僕たちは電車に乗り込んだ。当てはないので、とりあえず終点まで行くことにした。
 電車に二人並んで座り、二時間ほど揺られる。その間は、他愛のない話をしたり、スマホを見たり、自由に過ごした。

「そういえば和馬、バイトは大丈夫なの? しばらく帰れなくなるけど」
「ああ、それなら昨日言ってきた。しばらく出勤できませんって。めちゃくちゃ怒られたけどね。直前に言うなって」

 和馬は頬を掻きながら苦笑した。

「ごめんね、僕に付き合わせちゃって。一緒に逃げようって、僕のために言ってくれたんでしょ?」
「気にするな。もちろん、俊を救いたいって気持ちもあったけど、この逃避行は自分のためでもあるんだ。だからむしろ、学校を休んでまで着いてきてくれてありがとうって感じだ」

 和馬がそう言ってくれて、僕はホッとした。
 今日からは何も考えなくていい。学校のことも、家のことも。心做しか、呼吸がしやすかった。
 
 終点に近づくにつれて、人はどんどん少なくなっていく。朝早かったせいでうとうとしかけていた頃、和馬が声を上げた。
 
「俊! 見ろよ、海だ!」

 窓の外に目をやると、そこには広大な海が広がっていた。

 終点、水凪浜で電車を降り、改札を抜けて砂浜に行くやいなや、僕たちは荷物を置き、靴を脱ぎ捨て、ズボンの裾をまくる。そして、砂浜を走り海の中にジャバジャバと音を立てて入った。冷たくて気持ちが良い。波打つ水が膝に当たるのが、なんとも心地よかった。
 僕たちは、幼い子どものようにはしゃいだ。いつも大人びている和馬も、今日は大口を開けて笑っている。頭を空っぽにして、何も考えないで、とにかく遊んだ。水を掛け合ったり、砂の城を作ったり。服のまま海に浸かって全身びしょ濡れになったり。

「ねえ和馬、写真撮ろうよ!」

 僕はつい楽しくなって、そう提案した。

「おお、いいぜ」

 砂浜にスマホを立て、画角を確認する。少し離れたところに立っている和馬の全身が写るように調整する。

「ポーズは?」

 和馬が尋ねる。

「うーん」

 僕は悩んだ。普段写真を撮らないため、ピースくらいしかバリエーションがない。

「ジャンプしてみようぜ。海が背景なら、映えるんじゃない?」
「いいね」

 僕はカメラのタイマーを十秒でセットした後、急いで和馬の横に並んだ。
 そしてタイミングを見計らい、せーので地面を蹴った。
 カシャッと音がして、少しの間。上手く取れたかどうか、僕たちは急いでスマホに駆け寄った。

「ははっ、俺の頭切れてるじゃん」
「逆に僕は全然飛べてないね」

 撮れた不格好な写真を見て、僕たちは笑い合った。よく言うエモいという言葉とはほど遠い。でも、大満足だった。画面の向こうにしかないと思っていたキラキラとした世界に、今僕もいるのだから。
 

 僕たちは夕方になるまで、飽きずに遊んだ。というより、遊びに夢中になっていたら、夕方になっていたと言った方が正しい。。
 いつの間にかなくしてしまった子どもの頃の無邪気な心を、今の一瞬だけは取り戻せた気がした。
 やがて僕たちは、膝まで浸かるところまで行き、二人並んで夕日を眺めた。高揚感に満たされていた。
 だがそれは、次第に哀愁へと変わっていった。急に、どうしようもない不安と虚しさが襲ってきた。幸福は、ずっとは続かない。いずれ終わってしまう。そう考えると、急に苦しくなった。

「ねえ、和馬」

 僕は夕日を見ながら、気づけばこんなことを口にしていた。

「このまま、ずっと深いところへ行って、海に呑まれて、息ができなくなったら、どうなるかな」
「息ができなくなったら……って、おまえ、死にたいのか?」

 和馬は落ち着いた口調で尋ねる。
 分からない。僕は死にたいのだろうか。僕はよく、どうしようもなくこの世界からいなくなってしまいたくなる時がある。それは果たして、死にたいということなのだろうか。

 僕はいつか見た、女子生徒が二人で自殺したニュースを思い出した。ふと、和馬の方を見る。もし僕が死にたいと言ったら、和馬は一緒に死んでくれるだろうか。
 だがすぐに考え直す。僕はそんなことを望んではいない。和馬には、生きていて欲しいから。
 どうしてあの女子生徒たちが二人で生きるのではなく、死ぬことを選んだのか、今ならよく分かる気がする。これから先の将来、どんなに辛いことが待っているかわからない。今よりももっと、過酷な日々が待っているかもしれない。
 未来に絶望した彼女たちは、人生を幸福で終わらせたかったのだと思う。一緒に死ねる友達ができたという幸福を噛み締めて。もしかしたら友達よりももっと深い関係にあったのかもしれない。どちらにしろ、彼女たちは、生よりも死を選んだ。来世への期待を込めて。

 でも、僕は死にたいわけではない。死ぬことを望んではいない。死ぬのは苦しい。肉体もこの世に残る。僕は今まで、誰かが悲しんでくれるような人生を送ってきてはいない。自業自得だけど、死んでもなお誰にも悲しんでもらえないとなると、無性に虚しくなる。
 だから、僕は死にたいわけではないのだ。

「死にたいというより、消えたい、かな」

 ぴったりの言葉だった。僕が望んでいるものの正体に。

「海の泡となって、そのまま消えてしまいたい。そして誰からも忘れられたい。僕の存在を、なかったことにして欲しい。哀れな僕を、もうこれ以上見ないで欲しい」
「人魚姫かよ」 

 と、和馬はあきれた様子で笑った。そして続ける。

「でも、なんとなくわかるかも。俺も消えてしまいたい。そしたら、楽になれるのに」 

 和馬も、僕と似ていた。和馬が何を抱えているのかは知らない。だけどそれはきっと、和馬にとって消えてしまいたくなるほど辛くて苦しいものなんだ。

「でもさ」

 と、和馬は言う。

「俺は嫌だよ。俊が消えるなんて」
「え?」

 唐突で、僕は思わず声を漏らした。

「俺は俊に生きていて欲しい。あんまり無責任なことはいえないけどさ。だけど、俺は俊の力になりたいと思ってる」

 和馬の言葉に、目頭が熱くなっていくのがわかった。嬉しかった。僕は和馬のこの言葉によって、心が少し軽くなった。どうしようもないくらいに、胸がいっぱいだった。
 少なくとも一人は、僕が死んだら悲しんでくれる人がいるという事実があるだけで、僕はこの先も生きていけるような気がした。

「俺、ずっと言ってなかったんだけどさ」

 和馬は口を開く。

「あんまり人に言いたくはないんだけど」

 そう前置きをした後、和馬は遠くを見ながら言う。

「俺、ゲイなんだ」

 和馬はカミングアウトをした。それは、和馬にとって重大で、相当な覚悟が必要だったはずだ。
 もちろん驚いたけれど、僕は嬉しかった。和馬が秘密を打ち明けてくれたということは、僕を信頼してくれているということだから。
 学校で習ったことがある。マイノリティに対する差別や偏見をなくしましょうというような授業があって、僕はその話を聞いたとき、へえ、そんな人もいるんだ、としか思わなかった。ただ単純に。
 実際、その当事者に会うのは初めてだった。だけど、マイナスな感情は全く浮かばなかった。同性でも異性でも、人のことを好きになれるというだけで、素敵だなと思った。 
 きっと彼らを批判する人たちは、自分と違う人のことを恐れ、同性から好意を向けられることに怯えているんだ。うぬぼれるのもいいところだ。誰かに好きになってもらえるだけで十分じゃないか。僕なんて、誰にも愛されず、みんなに見放されて、居場所をなくした落ちこぼれなんだから。

「そっか」

 僕はそう返した。

「拒絶してくれても構わない。その覚悟で言ったから」

 和馬は真剣な口調で言う。

「もっと早く言えよって思うよな? もう戻れない所まで来といて今更カミングアウトとか、卑怯だって分かってる。でも、俊には嫌われたくなくて、でも、隠し事はしたくなくて……」

 ここへ来るまで、彼は相当な葛藤をしてきたのだろう。それは容易に想像できた。
 でも、僕は彼がどんな秘密を抱えていても、拒絶するようなことはしない。だって和馬は、僕の居場所を作ってくれた。彼がいなければ、僕は一生孤独で虚しく、惨めに生きていかなければならないところだった。
 たとえこの先和馬と離ればなれになってしまったとしても、彼と過ごして思い出があるだけで、僕の灰色だった人生はこの先も色づいたままであろう。だから、僕は彼と出会えたことにこの上ない幸福を感じているのだ。

「拒絶なんかしないよ。和馬が誰を好きでも、和馬はずっと僕の知ってる和馬だ。男でも女でも、人を好きになれること自体が羨ましいよ。素敵なことだと思う」

 僕は正直に言った。

「和馬が話してくれて、嬉しかった」

 彼は泣きそうな声でお礼を言った。

「ありがとう」