僕は朝一で家に荷物を取りに帰った。
 家族はみんなまだ寝ているはずだ。僕は静かに自分の部屋に行き、鞄に最低限の着替えや、貯めていたお金、その他必要なものを詰め込んだ。
 その後、リビングへ行き、紙とペンを用意する。そして、ありきたりなメモを残した。

『僕は家出します。探さないでください』

 テーブルに置いたことを確認して、部屋を出ようとする。そんな時だった。

「兄さん、何してるの?」

 悠と、鉢合わせをしてしまった。そういえば悠は、勉強をするために早起きをしていると言っていた。

「何? その荷物」
「えっと、これは……」

 変な汗があふれてくる。
 すると悠は、テーブルの上の紙に気づき、それを読んだ。

「家出?」
「……そうだよ。しばらく帰ってこないから」

 僕はそれだけを言い残して、そのまま部屋を出て行く。

「へえー、逃げるんだ」

 後ろで悠が、煽るように言った。僕は足を止めた。

「……悠には関係ないだろ」
「そうやって、いろんなものから逃げ続けるから、兄さんは落ちこぼれてしまうんだよ」

 僕は拳を握った。自分で分かっている分、他人にそう言われるのが惨めでたまらなかった。

「早くどこかへ行きなよ。目障りなんだよ。僕は兄さんみたいになりたくない。見捨てられたくない。だから頑張るんだ。僕はみんなの期待に応えたいから。兄さんよりもすごいねって、言われたいから」

 これまで色んなことを耐えてきた。何を言われても、僕が悪いと自分に言い聞かせて、身を引いてきた。
 だが、今は後のことなど考える余裕はなかった。なんかもう、どうなってもいい。どう思われてもいい。僕は勢いよく振り返って叫んだ。

「何も知らないくせにいい気になって! 僕だって君のことが目障りなんだよ。いつも君と比べられて。優秀な弟の不出来な兄だって言われて。もううんざりなんだよ。僕だって頑張った。僕なりに頑張った。だけど、限界ってものがあるんだ。勝手に期待されて、勝手に失望されて。僕は知らぬ間に劣等生だ。結果が残せなければ今までの頑張りは全部無駄。バカみたいじゃん! なんでも出来る君に、僕の気持ちが分かるわけがない!」

 すると、階段を降りてくる足音が聞こえた。

「ちょっと、何の騒ぎよ」

 父さんと母さんが僕たちの声を聞きつけて、起きてきたのだ。

「あら、俊。帰ってたのね。反省はしたの?」

 まだ言っている。僕は何も悪くないのに。
 苛立ちながら答えた。

「するわけ無いよ。悪いのは向こうなんだから」

 母さんは呆れたようにため息をついた。

「俊、あの子に何を言われたのか知らないけど、突き落としたことに変わりは無いでしょ? 周りの子たちも見てたのだから。言い逃れはできないわよ。それに、親に内緒で学校も何度か休んで。昨日も帰ってこないで。おかしいわ。ほら、あなたからも言って」

 今度は父さんが口を開く。

「俊、母さんから聞いたぞ。親を騙して、おまけに人を傷つけておいて謝らないなんて。父さんたちはお前をそんな風に育てた覚えはない」
「だから僕は突き落としてないって言ってるじゃん! 好き勝手言いやがって。お前らは僕の何を知ってるの?」

 すると、両親は驚いたように息を止めた。僕自身も驚いた。こんな風に、両親に面と向かって反抗したことはなかったからだ。
 母さんは冷静を装いながら尋ねる。

「な、何よ、その口の利き方は。それに、その荷物は何?」

 僕は鞄の持ち手を握り直した。そして、回れ右をする。

「しばらく帰ってこないから」
「学校はどうするのよ」
「行かない。もううんざりだ。学校も、家も」

 僕はもう諦めた。何も分かってもらえない。母さんも父さんも、息子よりも赤の他人を信じる。
 地位とか名誉とか、そんなのばっかり。失敗作として僕を見捨てたのはそっちの方だ。だからもう、好きにさせて欲しい。僕がいない方が、この家族は幸せなのだから。
 完璧主義の家庭に生まれたはぐれもの。苦しくって仕方がない。自分が何をしたいのか、何が好きなのか、分からなくなってしまった。

「心配しなくて良いよ。僕は友達と一緒にいるから」

 僕は玄関まで行き、靴を履いた。母さん父さんも悠も、何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだと思う。
 今まで僕は、家族に反抗したり、怒鳴ったりしたことがなかった。だから、僕が出ていく様子を呆気にとられて見ていることしかできなかったのだ。僕が勝手なことをしているから、きっと理解が追いついていないのだと思う。

 僕はさっさと家を出た。
 気持ちの良い朝だ。ようやく、色々なものから解放されるのだ。清々しくて、思わず声を出して笑った。閑散とした住宅街を、軽い足取りで駆けていく。
 早く行かなきゃ。和馬が待ってるから。
 僕は後ろを振り向くことはしなかったし、彼らが後を追いかけてくることもなかった。



***



 和馬はアパートの前で、荷物を持って待っていた。

「おまたせ、和馬」
「おう」

 僕は和馬が鞄とは別の大きな荷物を背負っているのに気がついた。形からして、ギターのケースだった。

「それ、何?」
「ああ、これか。ギターだよ。アコースティックギター。ずっと捨てようと思ってたんだけど、なかなか捨てられなくて。弾かないのももったいないし、せっかくだから持って行こうと思ってね」
「そうなんだね」

 僕は和馬のギターが聞けるかもしれないと、楽しみだった。

「それじゃあ、行こうか」
「うん」