アイスを食べきった後、近くの公園に寄ってゴミを捨て、ベンチに座った。
「私、ほんとはおしゃれとか大好きだし、バッグにも可愛いキーホルダーをつけたいし、小物もピンクで揃えたい。だけど、ちょっとヘアアレンジして学校に行ってみたらグチャグチャに崩されて、キーホルダーをつければ盗まれるし、可愛いノートとか持って行っても落書きされる。私の好きなもの全部否定された気分。だから辞めたの。これ以上、学校に自我を持ち込むことは。心を無にしなきゃ、あそこでは生きていけない」
一息ついた後、古川は髪の毛を指に巻き付けながら、切なそうに言った。
彼女がこれまで受けてきた屈辱は、計り知れないだろう。あらゆる経験から、彼女は学校では違う自分を演じることを選んだのだ。これ以上本当の自分を否定されないために。
僕はふと気になってしまった。気づけば口に出していた。
「古川は、どうしていじめられてるの?」
そう尋ねた後で、僕はハッとした。そんなことを本人に聞くべきでは無い。
古川は一瞬目を見開いたが、すぐに表情を和らげた。
「さあ、なんでだろう。田中さんが好きだったサッカー部の先輩に告白されたのがきっかけなのかな。私はその先輩のことほとんど知らなかったから告白は丁寧にお断りしたんだけどね。その告白されたっていう事実を田中さんは僻んで、それで目をつけられた。そんなとこかな」
「ごめん、変なこと聞いて……」
僕は慌てて謝った。
僻みでいじめるとか、恥ずかしくないのだろうか。ただの八つ当たりじゃないか。田中が哀れで仕方がない。
「大丈夫だよ、全然。……ねえ、いじめはいじめられる側にも問題があるって思う?」
ゴクリと唾を飲み込んだ。
古川は潤んだ瞳で僕の顔を見つめ、訴えかけた。
「ねえ、萩野くん、なんで私はいじめられるの? 私だって本当は、キラキラした高校生活を送りたかった。それを夢見て、必死に勉強頑張って奨学生になって、憧れのこの私立高校へ来たのに。どうしてこうなっちゃうの?」
期待に胸を膨らませて入った高校で、まさか自分がいじめられるなんて、中学生の古川は思いもしなかっただろう。その彼女の落胆と絶望は、安易に想像できる。
「古川は何も悪くないよ。悪いのは全部、いじめる側の人間だ」
いじめられているからといって、自分を卑下してはならない。そうやって自己肯定感を下げてしまうと、僕のような取り返しのつかない捻くれ者になってしまう。古川にはそうなって欲しくなかった。
「今回だって、嘘告みたいなことさせられて。一歩間違えたら、私は萩野くんのこと傷つけていたかもしれない。自分だけならまだいいけど、私のせいで他の人を傷つけてしまうのは耐えられない」
今日話していて、古川は努力家で、他人思いの優しい人だと分かった。世の中ではそういう人たちが損をして、田中のようの要領のいいやつが世界をまわし得をする。
だから僕は願う。古川のような優しい人間が報われるような世の中になって欲しいと。
「ねえ、あのとき、どうして私を助けてくれたの?」
古川は控えめに尋ねた。
「……振ってくれたらよかったのに」
彼女は僕に対して罪悪感を抱えている。それならば、すぐに晴らしてあげなければ。
僕は偽善者だ。自分が厄介ごとに巻き込まれたくなかっただけ。自分が傷つくのが嫌だった。だから、全部は古川のためにやったことではない。自分のためにやったのだ。
「自分を守るためだよ。高木が教えてくれたんだ。田中たちが古川に嘘告させようとしてるって」
「高木くんが?」
「そう。事前に知ることができたからには、何か手を打とうと思ったんだ。あと、僕が振ったせいで古川がさらに笑いものにされたりしたら後味が悪かったから。それだけだよ。そしたら、田中が痛いとこ突いてくるから、口論になっちゃって、そしてこのざま」
僕がそう言うと、古川はふっと微笑んだ。
「優しいんだね、萩野君は」
「そうかな?」
「うん。萩野君は、他の人とは違う。他の人よりもずっと優しくて、ずっと良い人だと思う。こんな人が私の近くにもいたなんて。世の中まだ捨てたものじゃないって思った」
良い人、か。前に和馬にも、良い奴だと言われた。僕は彼らからはそう見えているんだ。
嬉しかった。今まで、なかなか褒められることがなかったから。だが、疑問に思った。良い人の基準ってなんだろう。嬉しいはずなのに、心の中はモヤモヤしていた。僕がやったことは、結局自分のためであることばかりだから。
「高木くんにも、お礼を言っとかないと」
「うん、そうだね」
高木がいなかったら、僕は今回のような対応はできなかった。だから、とても感謝している。
「田中さんが階段から転げ落ちたとき、正直すっきりした。あの情けない鳴き声を聞いたら、私、悪いけどすごくいい気味だって思った」
「分かる。だって僕もあの時、ざまあみろって思ったもん」
僕たちは笑い合った。初めてこんなに話したが、僕と古川は案外波長が合うのかもしれない。
「古川は明日は学校行くの?」
「うん。行くつもりだよ。休んでしまったら、負けた気がして嫌だから」
「そっか」
古川は、思っていたよりもずっと強いんだ。
「萩野君は?」
「行かないと思う」
僕はそう答えた。
「多分、しばらくの間、行かないと思う」
「……それってやっぱり、私のせい?」
「違うよ。僕の意思だ」
学校には行かない。家にも帰らない。ここにはもういられないんだ。ここにいたら、僕は壊れてしまいそうだから。
今回の出来事は、きっかけに過ぎない。だから古川が気を負わせるわけにはいかない。今まで我慢してきたものが、つもりに積もって、爆発しただけだ。
一度爆発してしまえば、もう取り返しはつかない。僕は逃げるんだ。現実から。
「心配しなくていいからね。これは僕の問題。大人たちへの、せめてもの反抗だから」
僕は笑顔で言った。
「分かった」
古川は少し不安そうな顔をしたが、すぐに僕を信じたように頷いた。そして、彼女は真っ直ぐに僕を見つめた。
「田中さんたちのことはまだ怖いし、これからどうなるか分からないけど、でも、萩野くんのおかげで少しだけ勇気が出てきた。だから、ありがとう」
彼女は潤んでいた目を細めて笑った。その拍子に、瞳から一滴の涙が零れ落ちた。
古川からの感謝の言葉を聞いて、心が温かくなった。僕の行動で、ほんの少しだけ彼女は救われたのだ。僕のやったことは無駄ではなかった。その事実に、目の奥が熱くなった。
その後、僕たちは別れた。こんな風に話すのは初めてだったけれど、彼女のことを知れてよかった。彼女なら、どんなことでも乗り越えていけるような気がした。
でも、僕は違う。僕は一人ではなにもできない。
和馬は僕に、逃げようと言ってくれた。一人ではできなかった。だけど、彼がいてくれるのなら、僕はどこへだっていける気がした。彼が僕を導いてくれるのだ。
出発は明日。僕は現実を捨てて、ずっと遠いところまで行く。
雲が流れ、月が顔を出し辺りを照らした。
ほんの少し早い夏休み。
僕たちの逃避行が始まる。
「私、ほんとはおしゃれとか大好きだし、バッグにも可愛いキーホルダーをつけたいし、小物もピンクで揃えたい。だけど、ちょっとヘアアレンジして学校に行ってみたらグチャグチャに崩されて、キーホルダーをつければ盗まれるし、可愛いノートとか持って行っても落書きされる。私の好きなもの全部否定された気分。だから辞めたの。これ以上、学校に自我を持ち込むことは。心を無にしなきゃ、あそこでは生きていけない」
一息ついた後、古川は髪の毛を指に巻き付けながら、切なそうに言った。
彼女がこれまで受けてきた屈辱は、計り知れないだろう。あらゆる経験から、彼女は学校では違う自分を演じることを選んだのだ。これ以上本当の自分を否定されないために。
僕はふと気になってしまった。気づけば口に出していた。
「古川は、どうしていじめられてるの?」
そう尋ねた後で、僕はハッとした。そんなことを本人に聞くべきでは無い。
古川は一瞬目を見開いたが、すぐに表情を和らげた。
「さあ、なんでだろう。田中さんが好きだったサッカー部の先輩に告白されたのがきっかけなのかな。私はその先輩のことほとんど知らなかったから告白は丁寧にお断りしたんだけどね。その告白されたっていう事実を田中さんは僻んで、それで目をつけられた。そんなとこかな」
「ごめん、変なこと聞いて……」
僕は慌てて謝った。
僻みでいじめるとか、恥ずかしくないのだろうか。ただの八つ当たりじゃないか。田中が哀れで仕方がない。
「大丈夫だよ、全然。……ねえ、いじめはいじめられる側にも問題があるって思う?」
ゴクリと唾を飲み込んだ。
古川は潤んだ瞳で僕の顔を見つめ、訴えかけた。
「ねえ、萩野くん、なんで私はいじめられるの? 私だって本当は、キラキラした高校生活を送りたかった。それを夢見て、必死に勉強頑張って奨学生になって、憧れのこの私立高校へ来たのに。どうしてこうなっちゃうの?」
期待に胸を膨らませて入った高校で、まさか自分がいじめられるなんて、中学生の古川は思いもしなかっただろう。その彼女の落胆と絶望は、安易に想像できる。
「古川は何も悪くないよ。悪いのは全部、いじめる側の人間だ」
いじめられているからといって、自分を卑下してはならない。そうやって自己肯定感を下げてしまうと、僕のような取り返しのつかない捻くれ者になってしまう。古川にはそうなって欲しくなかった。
「今回だって、嘘告みたいなことさせられて。一歩間違えたら、私は萩野くんのこと傷つけていたかもしれない。自分だけならまだいいけど、私のせいで他の人を傷つけてしまうのは耐えられない」
今日話していて、古川は努力家で、他人思いの優しい人だと分かった。世の中ではそういう人たちが損をして、田中のようの要領のいいやつが世界をまわし得をする。
だから僕は願う。古川のような優しい人間が報われるような世の中になって欲しいと。
「ねえ、あのとき、どうして私を助けてくれたの?」
古川は控えめに尋ねた。
「……振ってくれたらよかったのに」
彼女は僕に対して罪悪感を抱えている。それならば、すぐに晴らしてあげなければ。
僕は偽善者だ。自分が厄介ごとに巻き込まれたくなかっただけ。自分が傷つくのが嫌だった。だから、全部は古川のためにやったことではない。自分のためにやったのだ。
「自分を守るためだよ。高木が教えてくれたんだ。田中たちが古川に嘘告させようとしてるって」
「高木くんが?」
「そう。事前に知ることができたからには、何か手を打とうと思ったんだ。あと、僕が振ったせいで古川がさらに笑いものにされたりしたら後味が悪かったから。それだけだよ。そしたら、田中が痛いとこ突いてくるから、口論になっちゃって、そしてこのざま」
僕がそう言うと、古川はふっと微笑んだ。
「優しいんだね、萩野君は」
「そうかな?」
「うん。萩野君は、他の人とは違う。他の人よりもずっと優しくて、ずっと良い人だと思う。こんな人が私の近くにもいたなんて。世の中まだ捨てたものじゃないって思った」
良い人、か。前に和馬にも、良い奴だと言われた。僕は彼らからはそう見えているんだ。
嬉しかった。今まで、なかなか褒められることがなかったから。だが、疑問に思った。良い人の基準ってなんだろう。嬉しいはずなのに、心の中はモヤモヤしていた。僕がやったことは、結局自分のためであることばかりだから。
「高木くんにも、お礼を言っとかないと」
「うん、そうだね」
高木がいなかったら、僕は今回のような対応はできなかった。だから、とても感謝している。
「田中さんが階段から転げ落ちたとき、正直すっきりした。あの情けない鳴き声を聞いたら、私、悪いけどすごくいい気味だって思った」
「分かる。だって僕もあの時、ざまあみろって思ったもん」
僕たちは笑い合った。初めてこんなに話したが、僕と古川は案外波長が合うのかもしれない。
「古川は明日は学校行くの?」
「うん。行くつもりだよ。休んでしまったら、負けた気がして嫌だから」
「そっか」
古川は、思っていたよりもずっと強いんだ。
「萩野君は?」
「行かないと思う」
僕はそう答えた。
「多分、しばらくの間、行かないと思う」
「……それってやっぱり、私のせい?」
「違うよ。僕の意思だ」
学校には行かない。家にも帰らない。ここにはもういられないんだ。ここにいたら、僕は壊れてしまいそうだから。
今回の出来事は、きっかけに過ぎない。だから古川が気を負わせるわけにはいかない。今まで我慢してきたものが、つもりに積もって、爆発しただけだ。
一度爆発してしまえば、もう取り返しはつかない。僕は逃げるんだ。現実から。
「心配しなくていいからね。これは僕の問題。大人たちへの、せめてもの反抗だから」
僕は笑顔で言った。
「分かった」
古川は少し不安そうな顔をしたが、すぐに僕を信じたように頷いた。そして、彼女は真っ直ぐに僕を見つめた。
「田中さんたちのことはまだ怖いし、これからどうなるか分からないけど、でも、萩野くんのおかげで少しだけ勇気が出てきた。だから、ありがとう」
彼女は潤んでいた目を細めて笑った。その拍子に、瞳から一滴の涙が零れ落ちた。
古川からの感謝の言葉を聞いて、心が温かくなった。僕の行動で、ほんの少しだけ彼女は救われたのだ。僕のやったことは無駄ではなかった。その事実に、目の奥が熱くなった。
その後、僕たちは別れた。こんな風に話すのは初めてだったけれど、彼女のことを知れてよかった。彼女なら、どんなことでも乗り越えていけるような気がした。
でも、僕は違う。僕は一人ではなにもできない。
和馬は僕に、逃げようと言ってくれた。一人ではできなかった。だけど、彼がいてくれるのなら、僕はどこへだっていける気がした。彼が僕を導いてくれるのだ。
出発は明日。僕は現実を捨てて、ずっと遠いところまで行く。
雲が流れ、月が顔を出し辺りを照らした。
ほんの少し早い夏休み。
僕たちの逃避行が始まる。
