「悪いな。呼び出されちゃって、どうしても行かないといけなくなった」

 和馬は申し訳なさそうに言った。バイト先から電話がかかってきて、今すぐ来て欲しいと言われたそうだ。

「俊、家に帰りたくなかったら、泊まっていってもいいぞ」
「いいの?」

 さすがに迷惑をかけてしまうと思ったが、やっぱり今日は帰りたくなかった。親と顔を合わせたくなかった。

「でも……」
「洗濯と皿洗い、頼んでもいい?」

 和馬は僕に気を遣ってくれたのか、そう言った。

「うん。まかせて」

 ただで泊まるわけではない。きっちりと仕事をこなすんだ。
 僕はお言葉に甘えて、泊まらせてもらうことにした。
 和馬を見送った後、僕はその辺に脱ぎ散らかされている服を洗濯機に放り込んで回した。その間にたまっている食器を洗った。洗濯が終わったら、それを部屋の中に干していく。外に干したいところだったが、あいにく外は雨だった。
 終わる頃にはかなり汗をかいていた。一苦労だ。一体何日分のものが溜まっていたのだろうか。
 改めて部屋を見渡すが、やはりすごく散らかっていて、そこら中に酒の缶やお菓子やパンの袋が散らばっている。僕は明らかにゴミであるものだけを回収し、ゴミ袋に詰め込んだ。さすがに、人のものを勝手に触るわけにはいかないので、完全には片付けられなかったが、だいぶましにはなった。

 夜、雨がやんだ頃、僕はスーパーに夜ご飯を買いに行くことにした。そのついでにゴミも出しも済ませる。両手いっぱいにゴミ袋をもって、アパートの階段を降りていく。今夜は雨上がりということもあって、わりと涼しかった。雲で月が隠れてしまっていたので、いつもよりも暗く感じた。
 和馬はバイト先で食べると言っていたので、スーパーでは自分の分の弁当を買った。残っているものは少なかったが、チキン南蛮弁当が半額になっていたのでラッキーと思い、それを手に取った。

 スーパーを出たとき、僕は思わず足を止めた。見覚えのある人がいたのだ。

「あ……」

 おもわず声がこぼれる。目が合った。向こうも僕に気づいたようだ。

「……萩野君」
「えっと、こんばんは」
「こんばんは」

 古川楓だった。
 僕たちはぎこちない挨拶を交わす。白いシャツに紺のミニスカート。すらっと伸びた細い足に、サンダルを履いている。肩まで伸びる髪をポニーテールにし、唇には桃色のリップが塗られていた。涼し気な格好だ。学校での印象と全く違う。いつもは地味で目立たない感じなのに。これが本当の古川なのか。

「買い物?」

 古川は、僕が持っているビニール袋を見ながら尋ねた。

「うん。古川は?」
「……その、なんていうか、散歩かな。そのついでにスーパー寄ってみただけ」
「そうなんだ」

 会話が一度途切れた。昨日のことがあったせいか、なんとなく気まずく何を話せばいいか分からない。

「……あの、時間があるなら、ちょっとだけ一緒に散歩しない?」

 古川が控えめに尋ねてきた。この変な空気感が続くと思うと気が進まなかったが、特に断る理由もなく、和馬の家に一人入り浸るのも申し訳なかったので、了承した。

「萩野くんは、甘いもの好き?」
「まあ、好きだよ」
「じゃあ、ちょっと待ってて」

 古川は一人でスーパーに入っていった。僕は入口の邪魔にならない端の方で数分待った。
 やがて古川は、なにやら買って戻ってきた。

「はい、アイス。バニラとチョコミント、どっちがいい?」

 古川は棒付きのアイスを二つ差し出し、僕に選ばせる。バニラとチョコミント。ここでもチョコミントが出てくるのか。

「じゃあ、バニラで」

 和馬といい古川といい、なぜみんなチョコミントを選り好んで食べるのだろう。

「あ、まって、やっぱり……」

 僕は考え直して、チョコミントの方をもらった。

「ありがとう」
「いいえ」

 アイスの封を開け、食べながら僕と古川は夜の道を歩き出した。
 チョコミントは今まで苦手だったが、最後に食べたのは随分前だ。今食べたら美味しいと感じるかも知れないと思い、チャレンジしてみることにしたのだ。
 だが、一口かじってみれば、スーッとした爽やかなミントとチョコの甘さが広がった。このコントラストが美味しいらしいが、やはり僕は好きにはなれなかった。食べるなら一口で十分だ。
 もらった手前、返すわけにはいかないので、僕は平然を装いながら食べた。まるで最初にお母さんとアイスクリーム屋でチョコミントを食べたときと同じだ。何も成長していない。
 気を紛らわせるため、僕は質問をした。

「古川は、よく散歩をするの?」
「うん、そうだよ。私、散歩が好きなんだ。こうして、行く当てもなく歩いていると、心が落ち着くんだ」

 古川はどこか、生き生きとしていた。学校では常に暗く、背を曲げて縮こまり、おどおどしている。この世の全てに絶望したような輝きのない目をして、田中たちの言いなりとなっている。
 彼女は僕に、申し訳なさそうに謝った。

「ごめんね、萩野君。やっぱり、怒ってるよね」
「何が?」
「私が、先生に本当のことを言わなかったこと」

 怒ってなどいない。悪いのはあくまで田中たちだし、古川の立場になれば、言えないのもわかるから。

「萩野君は、私のことを助けてくれたのに、私はそれを踏みにじるようなことをした」
「どうせ、田中たちに口止めされてたんだろ?」
「……それも、ある。だけど、私は言うことだってできた。でも、言えなかった」

 古川は下を向く。

「私は、田中さんたちのことが怖くて仕方が無い。逆らえない。だから、言えなかった。萩野君、今冤罪をかけられているんでしょ? 私のせいで」
「別に良いよ、もう。悪いのは古川じゃない。田中たちだ。あいつら、先生になんて説明したんだろう」
「萩野君が私を西階段に呼び出して、告白したけど振られて、逆上してきたところを田中さんが止めに入ったら突き落とされた。そういう設定らしい。笑っちゃうよね」

 上手いもんだな、と思った。虚偽の出来事をさも本当のことであると信じ込ませる天才だ。きっとこれまでにも、自分を守るために、田中たちはそのような噓のシナリオをペラペラと話してきたのだろう。
 その想像力を、もっと他のことに使えばいいのに。例えば、人の気持ちを想像してみるとか。

「それを信じる先生も、馬鹿みたいだよね」
「ほんとだよ。小野先生は田中さんのことを気に入っているからね。彼女の言うことは絶対なのよ。だって田中さんは先生の前では良い子ちゃんぶってるし、すぐ先生のことを持ち上げるから、先生も調子に乗っちゃうし。どっちもキモすぎて吐きそう」

 容赦なく彼らの悪口を言う古川は、驚くほど饒舌だった。きっと日頃の鬱憤が溜まっているのだろう。

「そんなことより、どうして助けを求めないの? 家族とかには、話さないの?」

 小野先生が使えないことは、古川も僕も分かっている。だが、他にも相談できる人はいるはずだ。
 しかし、古川は首を振った。

「話せないよ。だって、恥ずかしいじゃん。いじめられてるって言うの」

 だから、誰にも相談せずに、理不尽な仕打ちを受けても耐えているのか。だが、そもそもいじめられることって、恥ずかしいことなのだろうか。

「私、四人兄弟の一番上なんだ。弟たちには、頼れるお姉さんで通ってる。だから、学校でのことは、知られるわけにはいかないの。それに、お父さんとお母さんは、仕事で忙しいから、余計な心配はかけられない」
「そっか……」

 それは、古川なりの覚悟があってのことだった。古川にも、いろんな理由があるのだ。だけど、それを一人で抱え込んでいては、古川はいつか壊れてしまうような気がした。