最悪な朝だ。
煩わしい蝉の声。眩しい夏の光が、レースカーテン越しに僕の身体を照らす。網戸の隙間から入ってくる風はごく僅か。汗でシャツが湿っていて、気持ちが悪い。
頭上に置いてある目覚まし時計を手探りで掴み、時間を確認した。午前六時二十分。七時に起きるつもりだったのに、随分と早く目が覚めてしまった。
時計を元に戻したあと、天井を見つめながら息を漏らした。
最近はよく嫌な夢を見る。
梅雨が明け、本格的に暑くなり、その寝苦しさが悪夢に繋がっているのかもしれない。しかし、理由はおそらくそれだけではない。
夢の内容は具体的には思い出せないが、そのときの感情だけはなぜか鮮明に覚えている。それらは全て気分の悪いものばかりだ。後味が悪く、最悪な気持ちだ目覚める。おかげで休めた気がしない。せめて眠っている時だけは、心安らかでありたい。
エアコンを入れるのが一番良いのだろう。しかし、つけっぱなしで寝ると、快適だが逆にだるさを感じてしまうのであまり好きでは無い。俗に言うクーラー病というやつだ。
扇風機があれば一番ちょうど良いが、生憎僕の部屋には常備されていない。
だが、そんな我が儘を言ってる場合ではない。エアコンも扇風機もなしでは、この暑さは流石に耐えられない。熱中症になってしまうし、精神的にもよくない。
今日の夜からはエアコンを入れて寝よう。そんなことを思いながら、僕はスマホを手に取った。今から二度寝をしようにも、暑さと蝉の声で眠れそうにはなかったので、時間までネットにアップされた動画を見漁ることにした。
ネット上にあるあらゆる動画の中から、おすすめに出てきた動画を手当たり次第に視聴する。興味を引かなければ、途中で上にスワイプ。そんな風に漫然とスマホの画面を見ていた。
僕と同じ高校生たちも、様々な動画を投稿している。流行りの音楽に合わせて踊っている女子二人組。バカ騒ぎをして先生に怒られている男子たち。部活に熱中する姿を撮った動画や、ギターを弾きながら歌を披露する動画もある。
画面の向こうにいる高校生たちは、みんな充実していて、人生を謳歌している。こんなキラキラとした青春は、一体どこにあるのだろう。本当に同じ世界なのだろうか。彼らと生きた年数は変わらないのに、どうしてこうも違いがあるのか。僕にも何かほんの少しの才能があったら、こんなに惨めな思いをしなくて済んだかもしれない。
自分の現状と比較してしまい、虚しくなった。放課後一緒に遊ぶような友達もいなくて、ただ学校に行って帰ってくるだけの生活。熱中できるようなものは何も無い。どうしてこうなってしまったのだろう。
動画を見て時間を潰すくらいなら、英単語のひとつでも覚えた方がいい。動画で見た内容なんて、数時間後には忘れているのだから。頭では分かっている。だが、それをするための労力が、今の僕にはなかった。
7時になり、僕はベッドから降りて、高校の制服に袖を通した。半袖のシャツに、黒のスラックス。ネクタイの有無は、夏は自由なので着けていない。
スクールバッグに必要なものを詰め、自分の部屋を出る。隣の弟の部屋を横目にしながら、階段を降りていった。
リビングに入ると、父さんはダイニングのテーブルに着いて新聞を読んでおり、その向かいの席では中学二年生の弟悠が、英単語帳を見て勉強していた。母さんはキッチンで料理をしており、魚を焼いている匂いがした。
僕はそんな三人から離れるように、リビングのソファーに座ってテレビのリモコンを手に取った。
たまたまつけた朝の情報番組では、とある学校で生徒が自殺したニュースについて話していた。中学生の女の子二人が一緒に、学校の屋上から飛び降りたらしい。まるで、心中するかのように。
一緒に死ねる仲ならば、どうして支え合って生きようとしなかったのだろうかと、コメンテーターが述べている。
馬鹿らしいコメントだと思った。支え合えるのなら、死ぬなんて決断はしなかったはずだ。例え味方がいても、生きることを諦めざるを得ないほどの絶望を、きっと彼女たちは味わったのだろう。
世界は広いはずなのに、なぜだか僕たちの住む世界はあまりにも狭すぎる。窮屈で、息が詰まりそうだ。疲れるし、しんどい。支え合ったところで、世の中は変わらない。大人に頼ったって諭されるだけ。無駄な説教をし、無責任に生きろと言う。何をしてくれるわけでもないのに、逃げ道だけをどんどん塞いでいく。
こんな世界に残された唯一の救済が、死であるのだ。正直僕は彼女たちが心底羨ましく思った。死ぬ勇気もあって、一緒に死ねるような信頼できる友達がいて。
「おい、俊。テレビを消しなさい。悠が勉強しているだろう」
父さんに注意された。
僕は顔をしかめた。別にいいじゃないか。悠が朝から勝手に家族が集まるような場所で勉強しているのが悪いのだから。なぜこちらが配慮しなければならないのだろう。
しかし、言い返すのは無駄だとわかっているので、僕は何も言わず、ため息をついてテレビを消した。
「なんだ、そのため息は。悠は勉強してるんだ。少しは協力しなさい」
父さんに叱られる。いつもこうだ。この家の中では、何でも悠が一番。
悠は有名な私立の中学校へ通い、今から難関大学の受験に向けて勉強している。そんな彼を、父さんと母さんは応援している。悠に全てを賭けているのだ。
成績優秀、スポーツ万能の優等生。テストではいつもトップで、野球部のエース。僕が持っていないものを、すべて持っている。できのいい弟は、みんなから愛されており、親の期待にもきっと応えられるだろう。僕とは違って。
受験生でもないのに、彼は時間を見つけては勉強ばかりをしている。
「さあ、朝ご飯よ」
母さんが朝食をテーブルに並べた。白ご飯と味噌汁と鮭の塩焼き。僕は渋々悠の横に座った。
「悠、勉強の調子はどうだい?」
母さんも席につき、皆で食べ始めたところで父さんは尋ねる。
「順調だよ」
と悠は答えた。
「そうかそうか。この前のテストも、学年1位だったもんな」
父さんは満足気な笑みを浮かべた。
食べている途中、悠は思い出したように言った。
「あ、そうだ、母さん。欲しい参考書があるんだけど……」
「わかったわ。後で教えてちょうだい。買ってきてあげるから」
「面倒かけてごめんね。いつもありがとう、母さん」
悠は微笑んでお礼を言った。親に対していつも謙虚でいい子を装っているのが鼻につく。
「いいのよ。あなたには期待しているんだから。遠慮せずに言って。何でも協力するわ」
「そうだぞ。父さんたちを喜ばせてくれ」
二人は、悠の明るい将来に、心を弾ませている。
「僕、頑張るよ」
悠はそう言いながら、一瞬僕の方を横目で見て、すぐに戻した。まるで、失敗作の兄のようには絶対にならないぞとでも言わんばかりだ。
悠は僕のことを嫌っている。僕が両親の期待に応えられなかったせいで、彼は僕以上にプレッシャーをかけられている。いい塾を選んだり、学校の先生に何度も圧をかけに行ったり。同じ失敗を繰り返さないように、できることは何でもやっているのだ。
彼は地頭がよく、運動神経も抜群だ。それでいて努力家でもある。だから、どんなにやっても上手くいかなくて、常に無気力な兄が、目障りで仕方がないのだろう。
僕は席を立った。居心地が悪い。ここに僕の居場所はないんだな。そういつも感じている。
「ちょっと俊? 朝ご飯残っているわよ?」
「いらない」
母さんの呼びかけに、僕はぼそっと答えて部屋を出る。
「もう、困った子ね」
「いいさ、好きにさせとけ」
そんな声が後ろから聞こえてきた。
僕はドアを閉める。一枚の壁を挟んだ向こう側で、僕抜きの家族での楽しそうな会話が始まった。
やっぱり、僕はここにいない方がいいのだろう。彼らのためにも、そして僕のためにも。
煩わしい蝉の声。眩しい夏の光が、レースカーテン越しに僕の身体を照らす。網戸の隙間から入ってくる風はごく僅か。汗でシャツが湿っていて、気持ちが悪い。
頭上に置いてある目覚まし時計を手探りで掴み、時間を確認した。午前六時二十分。七時に起きるつもりだったのに、随分と早く目が覚めてしまった。
時計を元に戻したあと、天井を見つめながら息を漏らした。
最近はよく嫌な夢を見る。
梅雨が明け、本格的に暑くなり、その寝苦しさが悪夢に繋がっているのかもしれない。しかし、理由はおそらくそれだけではない。
夢の内容は具体的には思い出せないが、そのときの感情だけはなぜか鮮明に覚えている。それらは全て気分の悪いものばかりだ。後味が悪く、最悪な気持ちだ目覚める。おかげで休めた気がしない。せめて眠っている時だけは、心安らかでありたい。
エアコンを入れるのが一番良いのだろう。しかし、つけっぱなしで寝ると、快適だが逆にだるさを感じてしまうのであまり好きでは無い。俗に言うクーラー病というやつだ。
扇風機があれば一番ちょうど良いが、生憎僕の部屋には常備されていない。
だが、そんな我が儘を言ってる場合ではない。エアコンも扇風機もなしでは、この暑さは流石に耐えられない。熱中症になってしまうし、精神的にもよくない。
今日の夜からはエアコンを入れて寝よう。そんなことを思いながら、僕はスマホを手に取った。今から二度寝をしようにも、暑さと蝉の声で眠れそうにはなかったので、時間までネットにアップされた動画を見漁ることにした。
ネット上にあるあらゆる動画の中から、おすすめに出てきた動画を手当たり次第に視聴する。興味を引かなければ、途中で上にスワイプ。そんな風に漫然とスマホの画面を見ていた。
僕と同じ高校生たちも、様々な動画を投稿している。流行りの音楽に合わせて踊っている女子二人組。バカ騒ぎをして先生に怒られている男子たち。部活に熱中する姿を撮った動画や、ギターを弾きながら歌を披露する動画もある。
画面の向こうにいる高校生たちは、みんな充実していて、人生を謳歌している。こんなキラキラとした青春は、一体どこにあるのだろう。本当に同じ世界なのだろうか。彼らと生きた年数は変わらないのに、どうしてこうも違いがあるのか。僕にも何かほんの少しの才能があったら、こんなに惨めな思いをしなくて済んだかもしれない。
自分の現状と比較してしまい、虚しくなった。放課後一緒に遊ぶような友達もいなくて、ただ学校に行って帰ってくるだけの生活。熱中できるようなものは何も無い。どうしてこうなってしまったのだろう。
動画を見て時間を潰すくらいなら、英単語のひとつでも覚えた方がいい。動画で見た内容なんて、数時間後には忘れているのだから。頭では分かっている。だが、それをするための労力が、今の僕にはなかった。
7時になり、僕はベッドから降りて、高校の制服に袖を通した。半袖のシャツに、黒のスラックス。ネクタイの有無は、夏は自由なので着けていない。
スクールバッグに必要なものを詰め、自分の部屋を出る。隣の弟の部屋を横目にしながら、階段を降りていった。
リビングに入ると、父さんはダイニングのテーブルに着いて新聞を読んでおり、その向かいの席では中学二年生の弟悠が、英単語帳を見て勉強していた。母さんはキッチンで料理をしており、魚を焼いている匂いがした。
僕はそんな三人から離れるように、リビングのソファーに座ってテレビのリモコンを手に取った。
たまたまつけた朝の情報番組では、とある学校で生徒が自殺したニュースについて話していた。中学生の女の子二人が一緒に、学校の屋上から飛び降りたらしい。まるで、心中するかのように。
一緒に死ねる仲ならば、どうして支え合って生きようとしなかったのだろうかと、コメンテーターが述べている。
馬鹿らしいコメントだと思った。支え合えるのなら、死ぬなんて決断はしなかったはずだ。例え味方がいても、生きることを諦めざるを得ないほどの絶望を、きっと彼女たちは味わったのだろう。
世界は広いはずなのに、なぜだか僕たちの住む世界はあまりにも狭すぎる。窮屈で、息が詰まりそうだ。疲れるし、しんどい。支え合ったところで、世の中は変わらない。大人に頼ったって諭されるだけ。無駄な説教をし、無責任に生きろと言う。何をしてくれるわけでもないのに、逃げ道だけをどんどん塞いでいく。
こんな世界に残された唯一の救済が、死であるのだ。正直僕は彼女たちが心底羨ましく思った。死ぬ勇気もあって、一緒に死ねるような信頼できる友達がいて。
「おい、俊。テレビを消しなさい。悠が勉強しているだろう」
父さんに注意された。
僕は顔をしかめた。別にいいじゃないか。悠が朝から勝手に家族が集まるような場所で勉強しているのが悪いのだから。なぜこちらが配慮しなければならないのだろう。
しかし、言い返すのは無駄だとわかっているので、僕は何も言わず、ため息をついてテレビを消した。
「なんだ、そのため息は。悠は勉強してるんだ。少しは協力しなさい」
父さんに叱られる。いつもこうだ。この家の中では、何でも悠が一番。
悠は有名な私立の中学校へ通い、今から難関大学の受験に向けて勉強している。そんな彼を、父さんと母さんは応援している。悠に全てを賭けているのだ。
成績優秀、スポーツ万能の優等生。テストではいつもトップで、野球部のエース。僕が持っていないものを、すべて持っている。できのいい弟は、みんなから愛されており、親の期待にもきっと応えられるだろう。僕とは違って。
受験生でもないのに、彼は時間を見つけては勉強ばかりをしている。
「さあ、朝ご飯よ」
母さんが朝食をテーブルに並べた。白ご飯と味噌汁と鮭の塩焼き。僕は渋々悠の横に座った。
「悠、勉強の調子はどうだい?」
母さんも席につき、皆で食べ始めたところで父さんは尋ねる。
「順調だよ」
と悠は答えた。
「そうかそうか。この前のテストも、学年1位だったもんな」
父さんは満足気な笑みを浮かべた。
食べている途中、悠は思い出したように言った。
「あ、そうだ、母さん。欲しい参考書があるんだけど……」
「わかったわ。後で教えてちょうだい。買ってきてあげるから」
「面倒かけてごめんね。いつもありがとう、母さん」
悠は微笑んでお礼を言った。親に対していつも謙虚でいい子を装っているのが鼻につく。
「いいのよ。あなたには期待しているんだから。遠慮せずに言って。何でも協力するわ」
「そうだぞ。父さんたちを喜ばせてくれ」
二人は、悠の明るい将来に、心を弾ませている。
「僕、頑張るよ」
悠はそう言いながら、一瞬僕の方を横目で見て、すぐに戻した。まるで、失敗作の兄のようには絶対にならないぞとでも言わんばかりだ。
悠は僕のことを嫌っている。僕が両親の期待に応えられなかったせいで、彼は僕以上にプレッシャーをかけられている。いい塾を選んだり、学校の先生に何度も圧をかけに行ったり。同じ失敗を繰り返さないように、できることは何でもやっているのだ。
彼は地頭がよく、運動神経も抜群だ。それでいて努力家でもある。だから、どんなにやっても上手くいかなくて、常に無気力な兄が、目障りで仕方がないのだろう。
僕は席を立った。居心地が悪い。ここに僕の居場所はないんだな。そういつも感じている。
「ちょっと俊? 朝ご飯残っているわよ?」
「いらない」
母さんの呼びかけに、僕はぼそっと答えて部屋を出る。
「もう、困った子ね」
「いいさ、好きにさせとけ」
そんな声が後ろから聞こえてきた。
僕はドアを閉める。一枚の壁を挟んだ向こう側で、僕抜きの家族での楽しそうな会話が始まった。
やっぱり、僕はここにいない方がいいのだろう。彼らのためにも、そして僕のためにも。
