一日の中でキリトリ線があるとするなら、それは終電の時間だと思う。
その時刻を過ぎれば、街はまるで魔法が解けたみたいに変貌する。人が消え、光が影を潜め、音が眠りにつく。たとえ同じ場所であっても、誰もそのことに気がつかないくらいに。線に沿ってぺりぺりと切り離してしまっても、何の違和感もないくらいに。
日没よりも、日付が変わる時よりも。あるいは夜明けよりも。そこには間違いなくぴんと張った糸のようなものがあって。踏み越える前後にはまったく異なる境界線が引かれている気がして。
――そんな境界線上に、私はいた。
「……やっちゃったなあ」
思わず漏れ出た言葉とともに、私は駅の改札前に立ち尽くしていた。
いつもなら人が忙しなく行き交っていて、ぼーっと立っていれば誰かとぶつかりそうになる場所。だけど周りには私以外誰もいない。理由は簡単、眼前のモニターが『本日は終了しました』という無機質なメッセージで示していたからだ。
耳に入ってくる最終電車の音はみるみるうちに小さくなっていく。難破船に取り残された乗客というのはこんな気分なんだろうか。
「会社、もうちょっと早く出ておいたらよかった」
ため息とともにこぼした愚痴は誰に届くこともなく、ただ夜の空気に溶けていく。
そもそも今日はもっと早くに退社する予定だった。ここのところ残業続きで、今日こそはワークライフバランスでいうところの『ライフ』にシフトする気でいた。だというのに終業間際になって「月見里さあん、ちょっといいかな」なんて課長の言葉とともにトラブルが舞い込んできて、その処理に追われる羽目になってしまった。
明日も仕事だし、明日に回せるものは回してしまおう。そう思ってキリのいいところで切り上げるつもりでいた。実際、同僚はある程度のところで見切りをつけて帰っていった。ところが私だけ「もう少しだけ」なんて変な粘り強さをみせてしまったせいで、気がつけばこの有り様というわけである。昔からこういうところで要領が悪い。
「ま、しょうがないか」
後悔したところで終電がもどってくるわけでもない。私は切り替えて、踵を返して改札を後にする。
ロータリーにはタクシーが一台残っていたけど、素通りした。今夜はこっちで寝泊まりして夜を明かすつもりだった。家に帰る方がいいのはわかっているけど、今は給料日前。タクシーの夜間割り増しは私の財布には大打撃だ。運転手もそんな私を見て、今日は営業終了とばかりに走り去っていった。
徐々に遠くなっていくテールランプを眺めていると、周囲は一段と暗闇に支配される。背後の駅舎が消灯しはじめたのだ。
駅前には光だけでなく音もなくなっていた。ついさっきまでは人がいて、誰かの話し声が聞こえていたはずなのに。それすらも、電気のスイッチと一緒に消えてしまったかのようだった。地方都市なんてせいぜいこんなところだ。
まあ逆に変な人間がうろついたりもしてないからいいんだけど。
ぼんやりと思い浮かべながら、ロータリーをぐるりと歩く。ヒールの踵が地面を叩く音だけが暗闇を伝播していく。半周ほどしたところで、黒く染まった世界にぽっかりと浮かぶコンビニに入った。
それは私にとって終電を逃した時のルーティンだった。
「えーっと、とりあえず水と」
レジにぼーっと立っている店員しかいない店内で、私は迷いのない手つきでカゴに物を放りこむ。買うものはいつも同じ。すたすたと食品のエリアを過ぎて、日用品のコーナーへ。
それからあとは……。
その場に屈む。棚の下の方、隅っこにあるものを手に取ったところで、私は気がついた。
「あー……、そっか」
今夜寝泊まりする場所が――彼氏の家というものが、今の私にはもうないことに。
私は持っていた『0.02』と大きく書かれた箱を棚に戻す。三個入り千百円のそれは、終電を逃した私が彼氏の家に行く際の必需品だった。
あいつは私がこんな風に終電を逃して泊まりにいくと、決まって行為を求めてきた。宿代だとでも言わんばかりに。私は拒否できる立場になかった。ゆえにこうして、万が一がないよう、自衛手段として毎回欠かさず買っていた。
とはいえそれも過去の話。碌にデートに誘ってくるでもなく、とりあえずセックスを求めてくるような身体目当てのクソ男だった。煙草があまり好きじゃないから、私がいる時はせめて吸うのをやめてと言っても素知らぬ顔。そんな男に愛情なんて抱き続けられるはずもなく。すぐさま愛は冷めて、醒めた。
結局半年ほど経って、私たちは別れた。必然だった。
と言いつつも、私も人のことは言えないのかもしれない。会社からほど近い場所にあったあいつの家を、体のいい宿代わりにしていたのかと訊かれれば否定しがたい。ずるずると交際が続いてしまった遠因は、むしろ私の方にあるのかもしれない。
所詮、大人の恋愛なんてこんなもの。打算的で、見返りが必要なのだ。
まあいい。今さら考えてもしょうがない。思考を振り払うように頭を振る。ショートボブに切りそろえた髪が揺れた。
「ありあっしたー」
間延びした店員の声を背にコンビニを出ると、暗闇が再び出迎える。
買ったのは水と栄養ドリンクだけ。しめて四百十三円。ゴム製品ひとつ買わないだけで会計がこんなにも安いのかとちょっぴり感激した。今までいかに無駄な出費を重ねてきたのかがよくわかる。
私はひとまず、大通りへと向かう。駅とは反対でむしろ会社のある方向だが、駅にはもう今夜は用はない。
……さてと。
「どこで夜を明かそうかな」
さしあたって直面している問題はそれだった。今の私にあいつの、元彼の家という選択肢はない。つまりはそれ以外に夜を明かす場所を探さなければならないということ。
とりあえずネカフェか、もしくはカラオケか。さすがに仮眠はとりたいから横になれるところがいい。この孤独にも似た暗闇から離れたかった。
「……早く夜、明けないかな」
ふと、頭の片隅にあった気持ちが漏れ出た。
それはあいつの家に泊まるようになった時から抱くようになった感情だった。特に行為中はそのことばかり考えていた。これでいいのか、この先どうするのか。深い水底からそんな思いが私を溺れさせようと湧き上がってきた。
夜は苦手だ。朝になってしまえば否応なく仕事が、生活が追い立ててきて、私に立ち止まる暇を与えない。
だけど私の祈りに反して夜は更けていた。世界は黒くて、光が射すその時はずっと遠い先にあった。大通りに目立った光はなく、ちかちかと瞬く街灯くらい。大通りとは名ばかりのように開いている店は見当たらず、街は寝静まっている。
「どこも開いてる店がないとか笑えないんだけど」
吐息が白くない季節とはいえ、このまま夜通し外は勘弁願いたい。この際居酒屋でもなんでも、せめて腰を落ち着けられる場所でもないものか。
望みは薄いと理解しつつも、私はためしに角をひとつ曲がって大通りに交差する道路の方へ行ってみる。案の定、目に映る道も道沿いの建物も暗く静止している。夜は、終電が過ぎた街はどこまでいっても眠っているようである。
「あれ……?」
だけどそんな中、歩道の隅にたったひとつだけ、動いているものがあった。
正確に言えば、小さく動く人影があった。近づいていくと、暗闇に慣れてきた双眸がその輪郭を捉えていく。そして、私の目は釘づけになった。
そこにあったのは、路上占いだった。
それ自体は珍しくともなんともない。夜の道端であればしばしば目にする露店の類《たぐい》。折りたたみ式の机と小さなスタンドライト、それに丸椅子があるだけ。ともすれば粗大ごみと間違われてしまいそうなのを、机の上に置かれた「占い」のプレートが阻止していた。
帰り道に見かけていたら雑踏に紛れた風景の一部として気に留めることはなかっただろう。もしかしたら記憶にないだけで、これまでだって帰り道に見かけたことがあるかもしれない。だけど今、私はそうはならなかった。今この街で唯一起きている彼女――そこに座っている占い師の見た目にあった。
何よりもまず若い。私よりも年下なんじゃないだろうかと思うくらい。耳には甲冑でも装備しているのかってくらいのゴテゴテのピアスたち。そして極めつけは彼女の髪型。ウルフカットの襟足の部分だけが青かった。
早い話が、占い師っぽくない。どちらかというと、こんな場所よりも都会にあるクラブやライブハウスなんかにいそうな様相だった。
「あ、どもどもー。こんばんはっす」
「こん、ばんは」
思わず立ち止まっていると、彼女と目が合った。大きめの目が一層見開かれる。すると直後、彼女は「にひ」と笑みを向けてきた。
それは見た目と同様、占い師らしからぬやけに人懐こさを感じさせる笑顔だった。
「もしかして、占いをご希望っすか?」
「え? あ、いや」
「めずらしいっすね、こんな時間のお客さんなんて」
「別に私は客ってわけじゃ」
たまたま通りかかっただけです。そう返そうとしたが、彼女の言葉の方が早い。
「いやー。ほんとはもう閉めるとこだったんすけど、せっかくなんで占いますよ? おねーさんきれいだし」
「だから私は」
「まーまー、お安くしときますんで」
大丈夫です、おかまいなく。そのひと言を放つ時間すら彼女は与えず、私は半ば強引に丸椅子へと促される。無視して歩き去ってしまってもよかった。こんな時間に、こんな見た目でやっている、しかも道端の占いなんだから。
だけど向けられる無害そうな笑みがどうしてか、私をその場に引き止めて、
「……それじゃあ、少しだけ」
結果、私は彼女の前に座る。
「はいはーい、ようこそいらっしゃいませー」
そうして、世界には他に誰もいなくなってしまったみたいな空間で私たちは何の因果か向き合った。
まあいいや。時間つぶしにはちょうどいい。
だって、私の待ち望む夜明けまではまだまだ長いのだから。
◆
「ふむふむ、なるほどなるほど」
日常から切り取られた深夜の街の真ん中。どういうわけか私は丸椅子に腰かけて、出会ったばかりの女性に右手をさらけ出していた。
終電を逃しただけなのに、まさかこんなことになるなんて……。
彼女――香月紫杏と名乗った占い師は、両手で私の手のひらを広げながらじっとシワの一本一本を見つめている。どうやら手相でやるタイプの占いらしい。
「手のひらを見ただけで本当に何かわかるものなの?」
「もちろんっすよ。任せてください」
紫杏は笑みを見せてから、再び目を落として占いにもどる。呼応するように耳についたピアスが揺れた。この見た目の人間に占ってもらっているのかと思うと、なんだか変な気分だ。
私の五感に届いてくるのは、紫杏の手のひんやりとした感触と彼女の吐息だけだった。それだけが私の周りに、この街にあった。まるで別世界にいるかのような錯覚。占われているというこの状況も、それに拍車をかけているのかもしれない。
まあ、所詮はただの占いだけど。
ああいうのはどうせ誰にでも当てはまることを適当に言っているだけだ。朝のテレビでやっている星座占いすらスルーする程度には、占いのことは特に信じていない。
「なるほど……おねーさん、最近仕事忙しいんじゃないっすか?」
「あー、うん。そうね、そんなかんじ」
ほらやっぱり。当たり障りのないコメントだ。この時間にスーツを着て歩いている人を見れば占い師じゃなくなってそう考える。
きっとこんな道端でやっているし、人気のある占い師とかでもないのだろう。だけど彼女とて食べていく必要がある。だから私という客を逃すまいと椅子に座らせたのだろう。
「社畜ってやつっすね、おつかれさまっす……じゃあ今夜はもしかしなくとも、仕事で終電を逃したっすね?」
「そうよ。そのとおり」
そこからも紫杏は仕事に関する話をいくつかしてきたが、どれも大した内容ではなかった。わざわざ占ってもらうまでもないことばかり。
「じゃあ次は恋愛運いくっすよ」
少し退屈になってきたところで、紫杏はそう言ってきた。もういいですと断ることも頭をよぎったけど、ここまできたら最後までみてもらってもいいか。どうせ長い夜を耐え忍ぶことには変わりないし。
紫杏は再び私の右手に目を落として手相とにらめっこを始める。どれだけ見つめてもどうせさっきと同じ毒にも薬にもならないこと言ってくるだけだろうけど、
「えーっと……あ」
「あ?」
だけど次に聞こえてきたのは、水面にボールをぼちゃんと落としたような声だった。なんだ『あ』って。
「これは、なかなかっすねえ」
「どういう意味よ、それ」
顔を上げて見せてくる紫杏の笑みはいつの間にか苦笑に変わっていた。それだけでわかる。この場合どう考えても悪い意味での『あ』だ。
「おねーさん……男運が壊滅的っすよ」
「壊滅的って、そんなに?」
「ほらここ、知能線が所々切れてるでしょ?」
言って、私の手のひらの中央部分をつんつんと指さす。スタンドライトに照らされた手相はたしかに彼女言う通りだった。自分の手相をまじまじと見ることなんてなかったから、初めて気がついた。
「これってそんなにまずいの?」
「そうっす。こんなに切れ切れな人、初めて見たっすよ。あ、生命線も切れてる。これは確定っすね」
再び両手で私の右手を握り、言う。苦笑を通り越して感心したような表情になっていた。
「こんなことわたしが言うのもアレっすけど、もしかしたら今付き合ってる彼氏とか、あんまりいい人じゃなかったりするんじゃないっすか?」
「…………」
私は思わず押し黙った。紫杏の問いが予想外に的確だったから。当たっている。彼女の占いも、そこまで馬鹿にできるものじゃないのかもしれない。
だけどそれは要らぬ心配というやつだった。
「……ご心配どうも。でも最近別れたばっかりだから」
「え、そうなんすか?」
「そうなんですよ。だから大丈夫」
「それはえっと……ごめんなさいっす」
「気にしなくていいわよ。別れてせいせいしてるし」
こういう時に泊まる場所がなくなったのは痛いけどね、なんてことを思い浮かべた後、心の内で自嘲する。こんなことを考えているから男運がないのかもしれない。
「どうしたんすか?」
「別に。期待してなかったけど当たったから少し驚いただけ」
「えへへ、占い師っすからね」
褒めたわけではないのだが、紫杏は得意げに笑う。
すると得意げそのままに紫杏は紙とペンを出してきた。
「それじゃあ、次は名前教えてもらってもいいですか?」
「名前?」
「はいっす。あ、ふりがなもお願いするっす」
姓名判断もやってくれるということだろうか。恋愛運はそこそこ当たっていたし、せっかくだからそっちでも占ってもらうとするか。
「はい、書いたわよ」
「ありがとうございます。月見里深宵っていうんすね。響きがきれいっす」
「そりゃどうも」
書いた紙を手渡すと、紫杏はどこか満足げにうなずく。そして、それだけだった。
「え、ちょっと。名前でも占うんじゃないの?」
「いや、これは私の単純な興味っすよ。わたしだけ名乗るのもなんだかバランス悪くないっすか?」
「…………」
姓名判断じゃないのか。もしかして一風変わった詐欺師とかじゃないだろうな。まあ名前くらい別にいいけど。
「にしても、深宵っていい名前っすね。まさにこんな夜にぴったりって感じっす」
「そんなことないわよ」
私は少し投げやりに答える。せっかく手相占いが当たっていて見直したところなのに、この胡散臭さである。
「私、夜ってあんまり好きじゃないし」
「そうなんすか? てっきり夜が好きだからこんな時間に出歩いているのかと」
「終電逃したってさっき言ったでしょ。ネカフェか何かを探してたところにあなたに捕まったのよ」
「えー、捕まっただなんて人聞きが悪いっすよー」
頬をかく紫杏。強引に客引きをしたという自覚はないわけでもないらしい。
「夜なんて……ただ暗いだけじゃない」
暗くて、黒くて。まるで空気全体が鏡になったかのように私を映し出す。否応なく、自分と向き合う時間。たとえ目の前にいるのが元彼であろうと誰であろうと関係なく。
「早く、明けてほしいっすか?」
「……そうね」
私がうなずくと、紫杏は「そうっすか」と気を遣ったように小さく返してくる。
だけど彼女のおかげで少しは時間つぶしができた。あとは占い代の支払いをして、彼女と別れて。適当にネカフェを見つけて朝まで眠るだけだ。
そう思っていたのに、
「じゃあ深宵さんは今夜、暇ってわけっすね」
「は?」
返ってきたのはそんな言葉だった。
反射的に私は素っ頓狂な声だけで反応する。いつの間にか名前呼びになっていたこともあるけど、どこをどう解釈したらそういう結論に至るのだ。
「ちょうどよかったっす。私もこれで仕事終わりなんで、暇なんすよ」
そう言おうとするも、訊いてもいない言葉でまたしても遮られる。
そして再び人懐っこい笑みを向けてきて、
「暇なら今夜、わたしに付き合ってくれませんか?」
◆
一瞬、もう夜が明けて昼間になったのかと勘違いしそうになった。
だって私の目の前に置かれたのは……イチゴのショートケーキだったからだ。
「ささ、どうぞどうぞ。ここのイチゴショートは絶品っすよ」
呆ける私の前で、紫杏が勧めてくる。
いいところがあるんですよ――自信ありげに言う紫杏が案内したのは、路地裏にひっそりとたたずむ小さなお店だった。いささか入るのを躊躇わせるような隠れ家然とした見た目だが、紫杏にぐいぐいと引っ張るように中へ連れていかれる。
占いの椅子に座らされた時といい、今夜は付き合えと言われた時といい、今日はずっとこの調子だ。そんなデジャブを覚える私をよそに紫杏はひとりで注文を済ませ、そして今に至る。ちなみに彼女の手元にはチョコレートケーキがあった。
「あれ? 食べないんすか?」
「いや、なんていうか……この時間に食べたら太りそうだなって」
とりあえず反射的に浮かんだ感想が口をついて出る。眼前にはたっぷりとした生クリームにみずみずしいイチゴ。おいしそう、そんなことは火を見るより明らかだ。一方でそれと同時に、多量のカロリーも抱えていることも明白だった。
だけど紫杏はどこ吹く風で笑う。
「この時間に食べるからいいんすよ。それに若いうちは大丈夫っす」
あんたと一緒にするな。そもそも紫杏がいくつなのか知らないけど。
あとは単純にこの状況にまだ脳が追いついていないというのもあった。初対面の占い師に、深夜にやっているケーキ屋に案内された。数時間前の私に言っても占いが当たる以上に信じてもらえないだろう。
「いいお店でしょー? わたしのお気に入りっす」
そんな私をよそに、紫杏は自慢げに言う。
「ひと仕事終えて食べるケーキは最高っすからね」
「それには同意だけど……こんな時間に開いているお店があるのも驚きだわ」
昼間へとタイムスリップしたような気分だったけど、今はれっきとした夜そのもの。まだ丑三つ時にもなっていない。夜明けは遠く、夜の真っただ中だ。そして普通のケーキ屋はこんな時間には開いていない。だというのに、この店は今がベストの時間と言わんばかりの様相だった。
照明はテーブルにそれぞれ置かれたぼんやりと浮かぶようなものだけで、不必要な明るさは排除されている。私と紫杏だけが夜の海にぷかぷかと子船で漂流しているみたいだった。
「でもよかった」
「何がっすか?」
「案内されたのが普通のお店で。一体どんな店に連れていかれるかと思ったもの」
正直、もしイケイケの人たちが踊っているクラブみたいな場所だったら、すぐさま回れ右できるよう身構えていた。
「ちょ、わたしを何だと思ってるんすか」
「うーん、怪しい占い師もどき?」
「ひど! ちゃんと占い師っすよ!」
ショックを受ける表情に私は思わず笑みがこぼれる。
「あ、でもこのお店はケーキだけじゃなくてもうひとつ、いいところがあるんすよ」
「いいところ?」
と、先ほどケーキを運んできた店員が再び私たちのテーブルへとやってきた。かと思えば空のグラスを置いて液体を注ぎ始めた。瞬間、ふわりと芳醇な葡萄の香りが漂ってくる。
これって……、
「……ワイン?」
「正解っす。ここはこの組み合わせがいいんすよ。なんだかオトナのお店ってかんじでいいでしょ?」
紫杏と私の前にはそれぞれ、宝石を溶かしたみたいなきれいな赤紫色。なるほど、これは昼間のケーキ屋にはない発想かもしれない。夜だからこその大人の組み合わせとでも言うべきか。
「あ、もしかしてお酒苦手っすか?」
「いや、そんなことはないけど」
あまり強くはない方ではあるが。普段飲むこともないし。ワインなんてもしかしたら大学生の時に飲んで以来かもしれない。
「それじゃー飲みましょ! ほら、かんぱーい」
私が飲める人間だとわかるや否や、紫杏はグラスを向けてくる。まったく、こっちはやっと深夜にケーキ屋に連れてこられたことに順応できてきたっていうのに。私は柄に少しだけ触れるようにしてグラスを傾けた。チン、と小さな音が反響していく。
私はゆっくりとグラスに口をつける。すぐさま酸味とわずかな渋味、それからアルコールが喉を通っていった。鼻腔に残る葡萄の余韻も心地いい。
「おいしくないっすか?」
「うん。それに……ケーキもおいしい」
「でしょでしょ」
続けて口にしたケーキも絶品だった。たっぷりある生クリームの甘さはくどくなく、イチゴの酸味をほどよいアクセントだ。何よりワインの甘さと反発することなくお互いを引き立てあっている。
これはなんていうか……お酒が進むケーキかも。
「お? いい飲みっぷりっすね。じゃあもう一杯いきましょー」
紫杏の言葉で気がついたが、私のグラスは空になっていた。その様子を見て紫杏はうれしそうに自分の分とあわせて追加の注文をする。私は拒否しなかった。
「本当、いいお店ね」
「気に入ってもらえてよかったっす。わたしの秘密の隠れ家ってやつっすね」
「でもいいの? 私なんかにそんなとっておきの場所を教えて」
「いいんですよ。今夜会ったのも何かの縁、ってやつっす」
「……ふうん」
そう言ってまた笑う紫杏を、私はケーキを食べながら垣間見た。
紫杏にとって私はただの占いの客だろうに、どうして私をここに連れてきたのか。純粋に気になっていた。単純に晩酌相手がほしかっただけなんだろうか。
だけど同時に、それを今つまびらかに尋ねるのも野暮だなとも思った。
なんでもかんでも質問して答えてもらわないといけないほど、すべてを明らかにしないといけないほど、私は子どもじゃない。私はもう大人で、理由がわからなくていいことが、口に出してしまわなくてもいいことがたくさんあることくらいわかっている。それはきっと、彼女だって同じ。
「あ、おかわりきましたよ。じゃあもう一回かんぱいしましょう」
「……そうね」
今はただ、この甘さとアルコールを味わう。それだけでいい。
そうして三杯目のワインに口をつけた時だろうか。
「……それでふたりは別れましたとさ。めでたし、めでたし」
「いや、ぜんぜんめでたくなくないっすか?」
「いいじゃない。めでたく別れることができたんだから」
気づけば私は元彼の話をぶちまけていた。
紫杏に訊かれたから、というわけではなかった。たぶんお酒のせい。自分の顔が熱を持っているのがわかる。明らかに酔っている。
アルコールですべりのよくなった口からは、次から次へと愚痴が吐き出された。休みの日にどこかに出かけようともしなかったこと。苦手な煙草をやめてくれようともしないこと。挙げ句の果てには泊まりに行くたびに行為を求めくること。ほかにも言った気がするけど、たくさんありすぎて忘れた。
「ひゃー、それは絵に描いたようなクズ男っすね」
紫杏もまたいささか頬が紅潮していた。私と同様酔っているのか、もしかしたらあいつへの憤りを抱いてくれているのかもしれない。
「しかも自分でゴム用意してないとか、男の風上にも置けないじゃないっすか。そんなんじゃ愛想尽かされて当然っす」
「あはは、ほんとよね」
私は笑い飛ばす。そういえば恋愛の愚痴を言うのは久しぶりだった。社会人になってからこんな風に誰かと話す機会がなかった気がする。
「次こそいい恋愛ができるといいっすね」
「どうだろ。だってさっき男運がないって占われたばっかりだからなー」
「えー、わたしのせいっすか?」
意地悪を言ってやると、紫杏がまた笑うのでつられて笑みがこぼれる。まあ占ってもらってなくても、私の男運の悪さには何の変わりもないのだけど。
「悪いわね、晩酌に付き合うつもりだったのに聞いてくれて。……ありがと、ちょっとすっきりした」
「いえいえ、お気になさらずっす。それに、私も占った責任があるんで」
「ふふ、なにそれ」
もう一度笑い合う。そして合わせ鏡のように、私たちはグラスを傾けた。
それからまた少し経って。私たちのグラスはまた空になっていた。
「……ふうー」
私は長めの息を吐く。きっとアルコールと葡萄の香りで満ちているのだろう。
「そろそろ店、出るっすか?」
「うーん、そうね……」
紫杏の問いに迷いを返す。こうなったらこのまま飲み明かしてやろうか、なんて気持ちが芽生えはじめていた。とはいえこのお店だって閉店時間があるだろう。紫杏の行きつけのお店だろうし、迷惑をかけるわけにはいかない。
「……よかったら、うちに来るっすか?」
すると、眼前より聞こえてきたのはそんな提案だった。酔って緩慢になった動きで顔を上げると、紫杏がじっとこちらを見ている。
「うちなら大丈夫っすよ」
「いやいや、いきなりは迷惑でしょ」
「そんなことないっすよ。うち、ここから近いし。深宵さんも今からネカフェとか探すより楽っすよ?」
たしかに彼女の言う通りではあるが。しかしそこまで厄介になるわけには。二つの考えが脳内で天秤にかけられたが、ワインを三杯も飲んだ今からネカフェ探しはこの上なく面倒だという結論に至った。
「それじゃあお言葉に甘えようかな」
「はい、甘えてくださいっす」
「あ、でも泊めてもらうならゴム買ってこないとかなー」
私はぱたぱたと手を振りながら、柄にもなくさっきの愚痴をネタにした冗談を言う。
はは、これはいよいよ酔っ払っているな。紫杏に飲みすぎだと笑われるだろうか。
だけど次の瞬間、
「何言ってるんすか」
ひんやりとした感触が私の手から頭へと通り抜けていって、その瞬間だけ、私は酔っていることを忘れた。遅れて紫杏が私の手を握ったことに気がつく。
それはさっきみたいに手相を占う時とは違った。見えているのは私の手の甲と、紫杏の手の甲。つまり、互いの指先がからむようにして握られている。そして何より、その顔は手ではなく私の顔をじっと見つめていた。私は彼女の目から顔をそらすことができず、私たちの視線は交錯する。
「要らないっすよ?」
「えっと」
私は火照った輪郭が冷たい指で縁取られていくような感覚になる。直後、アルコールによる熱とはまた別の種類の熱が身体に帯びた気がして。
「私は女ですもん。……そういうの、なくても大丈夫っすよ?」
そこで、私はすべてを悟った。彼女が何を言わんとしているかを。彼女が何を求めているかを。同時に理解した。彼女がどうして私をここに誘ったのかを。お気に入りの店を、私に教えたのかを。
私たちは大人だ。とても狡く、そして賢しい。それは恋愛においても同じ。子どもとは違う。常に打算的に行動するものなのだ。
そして何より、そのことを私が一番よくわかっていた。
「そうだね。たしかに女の子には……必要のないものね」
それが、大人の恋愛というものだ。
「そういや、さっきの占い……男運の話っすけど」
私の返事に、紫杏は笑顔を見せる。今夜何度も見た、無邪気な表情。
「あれ、恋愛全般に対しての話なんすよね」
だけどその内側にははっきりと窺うことができた。
そこにいるのは、ひとりの『女性』だということを。
「だから深宵さん」
握られた手にほんの少し、力がこもる。
「男運だけじゃなくて、女運も悪いかどうか……試してみるっすか?」
それを私は振り払うことはせず、わずかに握り返した。
◆
私の身体は暗闇に抱かれていた。どこまでも続いていそうな黒が、全身を包みこんでいた。
しかしもちろんそれは比喩的表現というやつで。
早い話が、私の身体は真っ暗な部屋でベッドに横たわっていた。
……終電を逃しただけだったのになあ。
数時間前に考えたのと同じことを思い浮かべる。だけど今はまるっきり意味が違っていた。なにせ、一夜にして人生初のことが多すぎた。
私は上半身だけ起こす。身体には余韻のように汗がまとわりついていた。六畳ほどの広さの部屋の向こうからかすかに耳に届くのは、洗濯機がごうんごうんと唸る音。その中で私の服は回転を続けている。
身体が少しだけ窮屈さを覚える。私の女性である部分を隠す衣類が借り物だからだ。これもまた人生で初めてだった。
ふと、カーテンが泳ぐように揺れた。ベランダへと続く窓が開いている。私はベッド脇にあったシャツを着て、外に出る。これもまた彼女から借りたものだ。
「あれ、起きてたんすね」
彼女は――紫杏は手すりに寄りかかっる形で外に目を向けていた。私を視界に捉えると同時、まばたきを二、三度する。
「寝なくていいんすか?」
「あんなにしといて、すやすや寝れるわけないじゃない」
「いやー面目ないっす。いろいろ止まらなくて」
恨み言っぽく言うと、紫杏は照れ笑いを浮かべた。まったく、こっちは勝手がわかっていないのに好き放題するから。おかげでまだ汗が引いていない。
「そういや、ひとつ謝らないといけないことがあるんすよ」
「何よ、紫杏と寝たことは後悔してないわよ?」
きっぱりと、先回りするかのように私は言う。流されたとはいえ、これは自分自身の選択の結果だ。私の意思だ。
「それもあるんすけど……わたし、深宵さんのこと前から知ってたんすよね」
「……そうなの?」
「はい。前から仕事帰りで歩いているのを見てて、それで、ずっと気になってたんす」
紫杏は言う。いつも疲れた顔をしていて、それがずっと目に焼きついていたこと。話しかける機会がないかとうかがっていたこと。
「じゃあもしかして名前を訊いてきたのも」
「このチャンスを逃してなるものかと思いまして……えへへ。あ、でも手相の占いは本当っすかね?」
慌てながら弁明してくる。なるほど、そういうことか。
つまりなんというか、今宵の私がこうなっているのは、ある意味で必然だったということだ。
「紫杏ってば、なかなかの悪女ね」
「だから言ったじゃないっすか。女運も悪いかどうか試してみますかって」
悪戯っぽさを孕んだ笑みを向けてくるので、私もつられて笑う。まったく、とんでもなく悪い女に捕まったものだ。
でも別にかまわない。だって私たちは、大人の恋は、高校生の青春みたいに輝かしくもなければ、純真無垢にきれいなものでもない。ちょっと悪いくらいが、ちょうどいい。
「もうすぐ夜明けっすね」
紫杏は再び外の景色に目を向けて言った。黒一色だった空が、わずかに紫色を帯び始めている。
「ねえ深宵さん」
「なに?」
「夜は……まだ嫌いっすか?」
「どうだろ。正直、まだよくわかんないかな」
得体の知れない不安はきっとまだ、自分の周囲に潜んでいるだろう。暗闇に乗じて、それは私を溺れさせようとしてくるのかもしれない。
「でも少なくとも今は……今夜は、なんだか明けるのが惜しく感じるかも」
それは素直な感情だった。紫杏と出会って、知らない場所へ連れられて、身体を重ねて。本当にいろんなことがあった。
この夜だけは、いろんなことを忘れて、脱ぎ捨てることができた。
「可惜夜、ってやつっすね」
「なにそれ?」
「昔の言葉っすよ。明けてしまうのが惜しいくらいいい夜のことっす」
「へえー、よく知ってるわねそんなの」
「ふふん、そりゃ占い師っすからね」
「それ占い関係ないじゃない」
思わず吹き出す。考えてみれば今夜は今までいちばん、笑顔を向けられて、そして笑った夜かもしれない。
「ねえ紫杏」
「なんすか?」
「またこんな風に、夜になったら隣にいてもいい?」
紫杏に並ぶ形で手すりに寄りかかり、言った。
「もちろんっす」
どちらともなく私たちの手は重なり合っていた。
「でも深宵さんはいいんすか? わたしだってあの元彼みたいに宿代だって言ってくるかもっすよ?」
「別にいいわよ。だって私は男運も女運も壊滅的なんでしょ? なら今あなたと離れたら、もっとタチの悪い相手に引っかかるかもしれないじゃない?」
「ふふ……それもそうっすね」
冗談めかして言うと、紫杏はエクステを揺らしながらうれしそうに目を細めた。まったく、悪女呼ばわりされたというのに。
風に揺れるエクステの青さが、空の色とともに少しずつ鮮明になってくる。夜が、明ける。
もうすぐキリトリ線はぴたりとつながって、再びいつもの日々がもどってくる。
「それじゃあまずは今夜、また占ってもらおうかな」
「はいっす。あんまり遅いと店じまいしちゃうんで、早めに来てくださいね」
言い合って、私たちは握る手にやわらかな力をこめる。
今夜はどんな夜が訪れるだろうか。また明けるのが口惜しいと思えるような夜だといいな。
徐々に白んでいく暗闇に抱かれながら、私はそんなことを思った。
その時刻を過ぎれば、街はまるで魔法が解けたみたいに変貌する。人が消え、光が影を潜め、音が眠りにつく。たとえ同じ場所であっても、誰もそのことに気がつかないくらいに。線に沿ってぺりぺりと切り離してしまっても、何の違和感もないくらいに。
日没よりも、日付が変わる時よりも。あるいは夜明けよりも。そこには間違いなくぴんと張った糸のようなものがあって。踏み越える前後にはまったく異なる境界線が引かれている気がして。
――そんな境界線上に、私はいた。
「……やっちゃったなあ」
思わず漏れ出た言葉とともに、私は駅の改札前に立ち尽くしていた。
いつもなら人が忙しなく行き交っていて、ぼーっと立っていれば誰かとぶつかりそうになる場所。だけど周りには私以外誰もいない。理由は簡単、眼前のモニターが『本日は終了しました』という無機質なメッセージで示していたからだ。
耳に入ってくる最終電車の音はみるみるうちに小さくなっていく。難破船に取り残された乗客というのはこんな気分なんだろうか。
「会社、もうちょっと早く出ておいたらよかった」
ため息とともにこぼした愚痴は誰に届くこともなく、ただ夜の空気に溶けていく。
そもそも今日はもっと早くに退社する予定だった。ここのところ残業続きで、今日こそはワークライフバランスでいうところの『ライフ』にシフトする気でいた。だというのに終業間際になって「月見里さあん、ちょっといいかな」なんて課長の言葉とともにトラブルが舞い込んできて、その処理に追われる羽目になってしまった。
明日も仕事だし、明日に回せるものは回してしまおう。そう思ってキリのいいところで切り上げるつもりでいた。実際、同僚はある程度のところで見切りをつけて帰っていった。ところが私だけ「もう少しだけ」なんて変な粘り強さをみせてしまったせいで、気がつけばこの有り様というわけである。昔からこういうところで要領が悪い。
「ま、しょうがないか」
後悔したところで終電がもどってくるわけでもない。私は切り替えて、踵を返して改札を後にする。
ロータリーにはタクシーが一台残っていたけど、素通りした。今夜はこっちで寝泊まりして夜を明かすつもりだった。家に帰る方がいいのはわかっているけど、今は給料日前。タクシーの夜間割り増しは私の財布には大打撃だ。運転手もそんな私を見て、今日は営業終了とばかりに走り去っていった。
徐々に遠くなっていくテールランプを眺めていると、周囲は一段と暗闇に支配される。背後の駅舎が消灯しはじめたのだ。
駅前には光だけでなく音もなくなっていた。ついさっきまでは人がいて、誰かの話し声が聞こえていたはずなのに。それすらも、電気のスイッチと一緒に消えてしまったかのようだった。地方都市なんてせいぜいこんなところだ。
まあ逆に変な人間がうろついたりもしてないからいいんだけど。
ぼんやりと思い浮かべながら、ロータリーをぐるりと歩く。ヒールの踵が地面を叩く音だけが暗闇を伝播していく。半周ほどしたところで、黒く染まった世界にぽっかりと浮かぶコンビニに入った。
それは私にとって終電を逃した時のルーティンだった。
「えーっと、とりあえず水と」
レジにぼーっと立っている店員しかいない店内で、私は迷いのない手つきでカゴに物を放りこむ。買うものはいつも同じ。すたすたと食品のエリアを過ぎて、日用品のコーナーへ。
それからあとは……。
その場に屈む。棚の下の方、隅っこにあるものを手に取ったところで、私は気がついた。
「あー……、そっか」
今夜寝泊まりする場所が――彼氏の家というものが、今の私にはもうないことに。
私は持っていた『0.02』と大きく書かれた箱を棚に戻す。三個入り千百円のそれは、終電を逃した私が彼氏の家に行く際の必需品だった。
あいつは私がこんな風に終電を逃して泊まりにいくと、決まって行為を求めてきた。宿代だとでも言わんばかりに。私は拒否できる立場になかった。ゆえにこうして、万が一がないよう、自衛手段として毎回欠かさず買っていた。
とはいえそれも過去の話。碌にデートに誘ってくるでもなく、とりあえずセックスを求めてくるような身体目当てのクソ男だった。煙草があまり好きじゃないから、私がいる時はせめて吸うのをやめてと言っても素知らぬ顔。そんな男に愛情なんて抱き続けられるはずもなく。すぐさま愛は冷めて、醒めた。
結局半年ほど経って、私たちは別れた。必然だった。
と言いつつも、私も人のことは言えないのかもしれない。会社からほど近い場所にあったあいつの家を、体のいい宿代わりにしていたのかと訊かれれば否定しがたい。ずるずると交際が続いてしまった遠因は、むしろ私の方にあるのかもしれない。
所詮、大人の恋愛なんてこんなもの。打算的で、見返りが必要なのだ。
まあいい。今さら考えてもしょうがない。思考を振り払うように頭を振る。ショートボブに切りそろえた髪が揺れた。
「ありあっしたー」
間延びした店員の声を背にコンビニを出ると、暗闇が再び出迎える。
買ったのは水と栄養ドリンクだけ。しめて四百十三円。ゴム製品ひとつ買わないだけで会計がこんなにも安いのかとちょっぴり感激した。今までいかに無駄な出費を重ねてきたのかがよくわかる。
私はひとまず、大通りへと向かう。駅とは反対でむしろ会社のある方向だが、駅にはもう今夜は用はない。
……さてと。
「どこで夜を明かそうかな」
さしあたって直面している問題はそれだった。今の私にあいつの、元彼の家という選択肢はない。つまりはそれ以外に夜を明かす場所を探さなければならないということ。
とりあえずネカフェか、もしくはカラオケか。さすがに仮眠はとりたいから横になれるところがいい。この孤独にも似た暗闇から離れたかった。
「……早く夜、明けないかな」
ふと、頭の片隅にあった気持ちが漏れ出た。
それはあいつの家に泊まるようになった時から抱くようになった感情だった。特に行為中はそのことばかり考えていた。これでいいのか、この先どうするのか。深い水底からそんな思いが私を溺れさせようと湧き上がってきた。
夜は苦手だ。朝になってしまえば否応なく仕事が、生活が追い立ててきて、私に立ち止まる暇を与えない。
だけど私の祈りに反して夜は更けていた。世界は黒くて、光が射すその時はずっと遠い先にあった。大通りに目立った光はなく、ちかちかと瞬く街灯くらい。大通りとは名ばかりのように開いている店は見当たらず、街は寝静まっている。
「どこも開いてる店がないとか笑えないんだけど」
吐息が白くない季節とはいえ、このまま夜通し外は勘弁願いたい。この際居酒屋でもなんでも、せめて腰を落ち着けられる場所でもないものか。
望みは薄いと理解しつつも、私はためしに角をひとつ曲がって大通りに交差する道路の方へ行ってみる。案の定、目に映る道も道沿いの建物も暗く静止している。夜は、終電が過ぎた街はどこまでいっても眠っているようである。
「あれ……?」
だけどそんな中、歩道の隅にたったひとつだけ、動いているものがあった。
正確に言えば、小さく動く人影があった。近づいていくと、暗闇に慣れてきた双眸がその輪郭を捉えていく。そして、私の目は釘づけになった。
そこにあったのは、路上占いだった。
それ自体は珍しくともなんともない。夜の道端であればしばしば目にする露店の類《たぐい》。折りたたみ式の机と小さなスタンドライト、それに丸椅子があるだけ。ともすれば粗大ごみと間違われてしまいそうなのを、机の上に置かれた「占い」のプレートが阻止していた。
帰り道に見かけていたら雑踏に紛れた風景の一部として気に留めることはなかっただろう。もしかしたら記憶にないだけで、これまでだって帰り道に見かけたことがあるかもしれない。だけど今、私はそうはならなかった。今この街で唯一起きている彼女――そこに座っている占い師の見た目にあった。
何よりもまず若い。私よりも年下なんじゃないだろうかと思うくらい。耳には甲冑でも装備しているのかってくらいのゴテゴテのピアスたち。そして極めつけは彼女の髪型。ウルフカットの襟足の部分だけが青かった。
早い話が、占い師っぽくない。どちらかというと、こんな場所よりも都会にあるクラブやライブハウスなんかにいそうな様相だった。
「あ、どもどもー。こんばんはっす」
「こん、ばんは」
思わず立ち止まっていると、彼女と目が合った。大きめの目が一層見開かれる。すると直後、彼女は「にひ」と笑みを向けてきた。
それは見た目と同様、占い師らしからぬやけに人懐こさを感じさせる笑顔だった。
「もしかして、占いをご希望っすか?」
「え? あ、いや」
「めずらしいっすね、こんな時間のお客さんなんて」
「別に私は客ってわけじゃ」
たまたま通りかかっただけです。そう返そうとしたが、彼女の言葉の方が早い。
「いやー。ほんとはもう閉めるとこだったんすけど、せっかくなんで占いますよ? おねーさんきれいだし」
「だから私は」
「まーまー、お安くしときますんで」
大丈夫です、おかまいなく。そのひと言を放つ時間すら彼女は与えず、私は半ば強引に丸椅子へと促される。無視して歩き去ってしまってもよかった。こんな時間に、こんな見た目でやっている、しかも道端の占いなんだから。
だけど向けられる無害そうな笑みがどうしてか、私をその場に引き止めて、
「……それじゃあ、少しだけ」
結果、私は彼女の前に座る。
「はいはーい、ようこそいらっしゃいませー」
そうして、世界には他に誰もいなくなってしまったみたいな空間で私たちは何の因果か向き合った。
まあいいや。時間つぶしにはちょうどいい。
だって、私の待ち望む夜明けまではまだまだ長いのだから。
◆
「ふむふむ、なるほどなるほど」
日常から切り取られた深夜の街の真ん中。どういうわけか私は丸椅子に腰かけて、出会ったばかりの女性に右手をさらけ出していた。
終電を逃しただけなのに、まさかこんなことになるなんて……。
彼女――香月紫杏と名乗った占い師は、両手で私の手のひらを広げながらじっとシワの一本一本を見つめている。どうやら手相でやるタイプの占いらしい。
「手のひらを見ただけで本当に何かわかるものなの?」
「もちろんっすよ。任せてください」
紫杏は笑みを見せてから、再び目を落として占いにもどる。呼応するように耳についたピアスが揺れた。この見た目の人間に占ってもらっているのかと思うと、なんだか変な気分だ。
私の五感に届いてくるのは、紫杏の手のひんやりとした感触と彼女の吐息だけだった。それだけが私の周りに、この街にあった。まるで別世界にいるかのような錯覚。占われているというこの状況も、それに拍車をかけているのかもしれない。
まあ、所詮はただの占いだけど。
ああいうのはどうせ誰にでも当てはまることを適当に言っているだけだ。朝のテレビでやっている星座占いすらスルーする程度には、占いのことは特に信じていない。
「なるほど……おねーさん、最近仕事忙しいんじゃないっすか?」
「あー、うん。そうね、そんなかんじ」
ほらやっぱり。当たり障りのないコメントだ。この時間にスーツを着て歩いている人を見れば占い師じゃなくなってそう考える。
きっとこんな道端でやっているし、人気のある占い師とかでもないのだろう。だけど彼女とて食べていく必要がある。だから私という客を逃すまいと椅子に座らせたのだろう。
「社畜ってやつっすね、おつかれさまっす……じゃあ今夜はもしかしなくとも、仕事で終電を逃したっすね?」
「そうよ。そのとおり」
そこからも紫杏は仕事に関する話をいくつかしてきたが、どれも大した内容ではなかった。わざわざ占ってもらうまでもないことばかり。
「じゃあ次は恋愛運いくっすよ」
少し退屈になってきたところで、紫杏はそう言ってきた。もういいですと断ることも頭をよぎったけど、ここまできたら最後までみてもらってもいいか。どうせ長い夜を耐え忍ぶことには変わりないし。
紫杏は再び私の右手に目を落として手相とにらめっこを始める。どれだけ見つめてもどうせさっきと同じ毒にも薬にもならないこと言ってくるだけだろうけど、
「えーっと……あ」
「あ?」
だけど次に聞こえてきたのは、水面にボールをぼちゃんと落としたような声だった。なんだ『あ』って。
「これは、なかなかっすねえ」
「どういう意味よ、それ」
顔を上げて見せてくる紫杏の笑みはいつの間にか苦笑に変わっていた。それだけでわかる。この場合どう考えても悪い意味での『あ』だ。
「おねーさん……男運が壊滅的っすよ」
「壊滅的って、そんなに?」
「ほらここ、知能線が所々切れてるでしょ?」
言って、私の手のひらの中央部分をつんつんと指さす。スタンドライトに照らされた手相はたしかに彼女言う通りだった。自分の手相をまじまじと見ることなんてなかったから、初めて気がついた。
「これってそんなにまずいの?」
「そうっす。こんなに切れ切れな人、初めて見たっすよ。あ、生命線も切れてる。これは確定っすね」
再び両手で私の右手を握り、言う。苦笑を通り越して感心したような表情になっていた。
「こんなことわたしが言うのもアレっすけど、もしかしたら今付き合ってる彼氏とか、あんまりいい人じゃなかったりするんじゃないっすか?」
「…………」
私は思わず押し黙った。紫杏の問いが予想外に的確だったから。当たっている。彼女の占いも、そこまで馬鹿にできるものじゃないのかもしれない。
だけどそれは要らぬ心配というやつだった。
「……ご心配どうも。でも最近別れたばっかりだから」
「え、そうなんすか?」
「そうなんですよ。だから大丈夫」
「それはえっと……ごめんなさいっす」
「気にしなくていいわよ。別れてせいせいしてるし」
こういう時に泊まる場所がなくなったのは痛いけどね、なんてことを思い浮かべた後、心の内で自嘲する。こんなことを考えているから男運がないのかもしれない。
「どうしたんすか?」
「別に。期待してなかったけど当たったから少し驚いただけ」
「えへへ、占い師っすからね」
褒めたわけではないのだが、紫杏は得意げに笑う。
すると得意げそのままに紫杏は紙とペンを出してきた。
「それじゃあ、次は名前教えてもらってもいいですか?」
「名前?」
「はいっす。あ、ふりがなもお願いするっす」
姓名判断もやってくれるということだろうか。恋愛運はそこそこ当たっていたし、せっかくだからそっちでも占ってもらうとするか。
「はい、書いたわよ」
「ありがとうございます。月見里深宵っていうんすね。響きがきれいっす」
「そりゃどうも」
書いた紙を手渡すと、紫杏はどこか満足げにうなずく。そして、それだけだった。
「え、ちょっと。名前でも占うんじゃないの?」
「いや、これは私の単純な興味っすよ。わたしだけ名乗るのもなんだかバランス悪くないっすか?」
「…………」
姓名判断じゃないのか。もしかして一風変わった詐欺師とかじゃないだろうな。まあ名前くらい別にいいけど。
「にしても、深宵っていい名前っすね。まさにこんな夜にぴったりって感じっす」
「そんなことないわよ」
私は少し投げやりに答える。せっかく手相占いが当たっていて見直したところなのに、この胡散臭さである。
「私、夜ってあんまり好きじゃないし」
「そうなんすか? てっきり夜が好きだからこんな時間に出歩いているのかと」
「終電逃したってさっき言ったでしょ。ネカフェか何かを探してたところにあなたに捕まったのよ」
「えー、捕まっただなんて人聞きが悪いっすよー」
頬をかく紫杏。強引に客引きをしたという自覚はないわけでもないらしい。
「夜なんて……ただ暗いだけじゃない」
暗くて、黒くて。まるで空気全体が鏡になったかのように私を映し出す。否応なく、自分と向き合う時間。たとえ目の前にいるのが元彼であろうと誰であろうと関係なく。
「早く、明けてほしいっすか?」
「……そうね」
私がうなずくと、紫杏は「そうっすか」と気を遣ったように小さく返してくる。
だけど彼女のおかげで少しは時間つぶしができた。あとは占い代の支払いをして、彼女と別れて。適当にネカフェを見つけて朝まで眠るだけだ。
そう思っていたのに、
「じゃあ深宵さんは今夜、暇ってわけっすね」
「は?」
返ってきたのはそんな言葉だった。
反射的に私は素っ頓狂な声だけで反応する。いつの間にか名前呼びになっていたこともあるけど、どこをどう解釈したらそういう結論に至るのだ。
「ちょうどよかったっす。私もこれで仕事終わりなんで、暇なんすよ」
そう言おうとするも、訊いてもいない言葉でまたしても遮られる。
そして再び人懐っこい笑みを向けてきて、
「暇なら今夜、わたしに付き合ってくれませんか?」
◆
一瞬、もう夜が明けて昼間になったのかと勘違いしそうになった。
だって私の目の前に置かれたのは……イチゴのショートケーキだったからだ。
「ささ、どうぞどうぞ。ここのイチゴショートは絶品っすよ」
呆ける私の前で、紫杏が勧めてくる。
いいところがあるんですよ――自信ありげに言う紫杏が案内したのは、路地裏にひっそりとたたずむ小さなお店だった。いささか入るのを躊躇わせるような隠れ家然とした見た目だが、紫杏にぐいぐいと引っ張るように中へ連れていかれる。
占いの椅子に座らされた時といい、今夜は付き合えと言われた時といい、今日はずっとこの調子だ。そんなデジャブを覚える私をよそに紫杏はひとりで注文を済ませ、そして今に至る。ちなみに彼女の手元にはチョコレートケーキがあった。
「あれ? 食べないんすか?」
「いや、なんていうか……この時間に食べたら太りそうだなって」
とりあえず反射的に浮かんだ感想が口をついて出る。眼前にはたっぷりとした生クリームにみずみずしいイチゴ。おいしそう、そんなことは火を見るより明らかだ。一方でそれと同時に、多量のカロリーも抱えていることも明白だった。
だけど紫杏はどこ吹く風で笑う。
「この時間に食べるからいいんすよ。それに若いうちは大丈夫っす」
あんたと一緒にするな。そもそも紫杏がいくつなのか知らないけど。
あとは単純にこの状況にまだ脳が追いついていないというのもあった。初対面の占い師に、深夜にやっているケーキ屋に案内された。数時間前の私に言っても占いが当たる以上に信じてもらえないだろう。
「いいお店でしょー? わたしのお気に入りっす」
そんな私をよそに、紫杏は自慢げに言う。
「ひと仕事終えて食べるケーキは最高っすからね」
「それには同意だけど……こんな時間に開いているお店があるのも驚きだわ」
昼間へとタイムスリップしたような気分だったけど、今はれっきとした夜そのもの。まだ丑三つ時にもなっていない。夜明けは遠く、夜の真っただ中だ。そして普通のケーキ屋はこんな時間には開いていない。だというのに、この店は今がベストの時間と言わんばかりの様相だった。
照明はテーブルにそれぞれ置かれたぼんやりと浮かぶようなものだけで、不必要な明るさは排除されている。私と紫杏だけが夜の海にぷかぷかと子船で漂流しているみたいだった。
「でもよかった」
「何がっすか?」
「案内されたのが普通のお店で。一体どんな店に連れていかれるかと思ったもの」
正直、もしイケイケの人たちが踊っているクラブみたいな場所だったら、すぐさま回れ右できるよう身構えていた。
「ちょ、わたしを何だと思ってるんすか」
「うーん、怪しい占い師もどき?」
「ひど! ちゃんと占い師っすよ!」
ショックを受ける表情に私は思わず笑みがこぼれる。
「あ、でもこのお店はケーキだけじゃなくてもうひとつ、いいところがあるんすよ」
「いいところ?」
と、先ほどケーキを運んできた店員が再び私たちのテーブルへとやってきた。かと思えば空のグラスを置いて液体を注ぎ始めた。瞬間、ふわりと芳醇な葡萄の香りが漂ってくる。
これって……、
「……ワイン?」
「正解っす。ここはこの組み合わせがいいんすよ。なんだかオトナのお店ってかんじでいいでしょ?」
紫杏と私の前にはそれぞれ、宝石を溶かしたみたいなきれいな赤紫色。なるほど、これは昼間のケーキ屋にはない発想かもしれない。夜だからこその大人の組み合わせとでも言うべきか。
「あ、もしかしてお酒苦手っすか?」
「いや、そんなことはないけど」
あまり強くはない方ではあるが。普段飲むこともないし。ワインなんてもしかしたら大学生の時に飲んで以来かもしれない。
「それじゃー飲みましょ! ほら、かんぱーい」
私が飲める人間だとわかるや否や、紫杏はグラスを向けてくる。まったく、こっちはやっと深夜にケーキ屋に連れてこられたことに順応できてきたっていうのに。私は柄に少しだけ触れるようにしてグラスを傾けた。チン、と小さな音が反響していく。
私はゆっくりとグラスに口をつける。すぐさま酸味とわずかな渋味、それからアルコールが喉を通っていった。鼻腔に残る葡萄の余韻も心地いい。
「おいしくないっすか?」
「うん。それに……ケーキもおいしい」
「でしょでしょ」
続けて口にしたケーキも絶品だった。たっぷりある生クリームの甘さはくどくなく、イチゴの酸味をほどよいアクセントだ。何よりワインの甘さと反発することなくお互いを引き立てあっている。
これはなんていうか……お酒が進むケーキかも。
「お? いい飲みっぷりっすね。じゃあもう一杯いきましょー」
紫杏の言葉で気がついたが、私のグラスは空になっていた。その様子を見て紫杏はうれしそうに自分の分とあわせて追加の注文をする。私は拒否しなかった。
「本当、いいお店ね」
「気に入ってもらえてよかったっす。わたしの秘密の隠れ家ってやつっすね」
「でもいいの? 私なんかにそんなとっておきの場所を教えて」
「いいんですよ。今夜会ったのも何かの縁、ってやつっす」
「……ふうん」
そう言ってまた笑う紫杏を、私はケーキを食べながら垣間見た。
紫杏にとって私はただの占いの客だろうに、どうして私をここに連れてきたのか。純粋に気になっていた。単純に晩酌相手がほしかっただけなんだろうか。
だけど同時に、それを今つまびらかに尋ねるのも野暮だなとも思った。
なんでもかんでも質問して答えてもらわないといけないほど、すべてを明らかにしないといけないほど、私は子どもじゃない。私はもう大人で、理由がわからなくていいことが、口に出してしまわなくてもいいことがたくさんあることくらいわかっている。それはきっと、彼女だって同じ。
「あ、おかわりきましたよ。じゃあもう一回かんぱいしましょう」
「……そうね」
今はただ、この甘さとアルコールを味わう。それだけでいい。
そうして三杯目のワインに口をつけた時だろうか。
「……それでふたりは別れましたとさ。めでたし、めでたし」
「いや、ぜんぜんめでたくなくないっすか?」
「いいじゃない。めでたく別れることができたんだから」
気づけば私は元彼の話をぶちまけていた。
紫杏に訊かれたから、というわけではなかった。たぶんお酒のせい。自分の顔が熱を持っているのがわかる。明らかに酔っている。
アルコールですべりのよくなった口からは、次から次へと愚痴が吐き出された。休みの日にどこかに出かけようともしなかったこと。苦手な煙草をやめてくれようともしないこと。挙げ句の果てには泊まりに行くたびに行為を求めくること。ほかにも言った気がするけど、たくさんありすぎて忘れた。
「ひゃー、それは絵に描いたようなクズ男っすね」
紫杏もまたいささか頬が紅潮していた。私と同様酔っているのか、もしかしたらあいつへの憤りを抱いてくれているのかもしれない。
「しかも自分でゴム用意してないとか、男の風上にも置けないじゃないっすか。そんなんじゃ愛想尽かされて当然っす」
「あはは、ほんとよね」
私は笑い飛ばす。そういえば恋愛の愚痴を言うのは久しぶりだった。社会人になってからこんな風に誰かと話す機会がなかった気がする。
「次こそいい恋愛ができるといいっすね」
「どうだろ。だってさっき男運がないって占われたばっかりだからなー」
「えー、わたしのせいっすか?」
意地悪を言ってやると、紫杏がまた笑うのでつられて笑みがこぼれる。まあ占ってもらってなくても、私の男運の悪さには何の変わりもないのだけど。
「悪いわね、晩酌に付き合うつもりだったのに聞いてくれて。……ありがと、ちょっとすっきりした」
「いえいえ、お気になさらずっす。それに、私も占った責任があるんで」
「ふふ、なにそれ」
もう一度笑い合う。そして合わせ鏡のように、私たちはグラスを傾けた。
それからまた少し経って。私たちのグラスはまた空になっていた。
「……ふうー」
私は長めの息を吐く。きっとアルコールと葡萄の香りで満ちているのだろう。
「そろそろ店、出るっすか?」
「うーん、そうね……」
紫杏の問いに迷いを返す。こうなったらこのまま飲み明かしてやろうか、なんて気持ちが芽生えはじめていた。とはいえこのお店だって閉店時間があるだろう。紫杏の行きつけのお店だろうし、迷惑をかけるわけにはいかない。
「……よかったら、うちに来るっすか?」
すると、眼前より聞こえてきたのはそんな提案だった。酔って緩慢になった動きで顔を上げると、紫杏がじっとこちらを見ている。
「うちなら大丈夫っすよ」
「いやいや、いきなりは迷惑でしょ」
「そんなことないっすよ。うち、ここから近いし。深宵さんも今からネカフェとか探すより楽っすよ?」
たしかに彼女の言う通りではあるが。しかしそこまで厄介になるわけには。二つの考えが脳内で天秤にかけられたが、ワインを三杯も飲んだ今からネカフェ探しはこの上なく面倒だという結論に至った。
「それじゃあお言葉に甘えようかな」
「はい、甘えてくださいっす」
「あ、でも泊めてもらうならゴム買ってこないとかなー」
私はぱたぱたと手を振りながら、柄にもなくさっきの愚痴をネタにした冗談を言う。
はは、これはいよいよ酔っ払っているな。紫杏に飲みすぎだと笑われるだろうか。
だけど次の瞬間、
「何言ってるんすか」
ひんやりとした感触が私の手から頭へと通り抜けていって、その瞬間だけ、私は酔っていることを忘れた。遅れて紫杏が私の手を握ったことに気がつく。
それはさっきみたいに手相を占う時とは違った。見えているのは私の手の甲と、紫杏の手の甲。つまり、互いの指先がからむようにして握られている。そして何より、その顔は手ではなく私の顔をじっと見つめていた。私は彼女の目から顔をそらすことができず、私たちの視線は交錯する。
「要らないっすよ?」
「えっと」
私は火照った輪郭が冷たい指で縁取られていくような感覚になる。直後、アルコールによる熱とはまた別の種類の熱が身体に帯びた気がして。
「私は女ですもん。……そういうの、なくても大丈夫っすよ?」
そこで、私はすべてを悟った。彼女が何を言わんとしているかを。彼女が何を求めているかを。同時に理解した。彼女がどうして私をここに誘ったのかを。お気に入りの店を、私に教えたのかを。
私たちは大人だ。とても狡く、そして賢しい。それは恋愛においても同じ。子どもとは違う。常に打算的に行動するものなのだ。
そして何より、そのことを私が一番よくわかっていた。
「そうだね。たしかに女の子には……必要のないものね」
それが、大人の恋愛というものだ。
「そういや、さっきの占い……男運の話っすけど」
私の返事に、紫杏は笑顔を見せる。今夜何度も見た、無邪気な表情。
「あれ、恋愛全般に対しての話なんすよね」
だけどその内側にははっきりと窺うことができた。
そこにいるのは、ひとりの『女性』だということを。
「だから深宵さん」
握られた手にほんの少し、力がこもる。
「男運だけじゃなくて、女運も悪いかどうか……試してみるっすか?」
それを私は振り払うことはせず、わずかに握り返した。
◆
私の身体は暗闇に抱かれていた。どこまでも続いていそうな黒が、全身を包みこんでいた。
しかしもちろんそれは比喩的表現というやつで。
早い話が、私の身体は真っ暗な部屋でベッドに横たわっていた。
……終電を逃しただけだったのになあ。
数時間前に考えたのと同じことを思い浮かべる。だけど今はまるっきり意味が違っていた。なにせ、一夜にして人生初のことが多すぎた。
私は上半身だけ起こす。身体には余韻のように汗がまとわりついていた。六畳ほどの広さの部屋の向こうからかすかに耳に届くのは、洗濯機がごうんごうんと唸る音。その中で私の服は回転を続けている。
身体が少しだけ窮屈さを覚える。私の女性である部分を隠す衣類が借り物だからだ。これもまた人生で初めてだった。
ふと、カーテンが泳ぐように揺れた。ベランダへと続く窓が開いている。私はベッド脇にあったシャツを着て、外に出る。これもまた彼女から借りたものだ。
「あれ、起きてたんすね」
彼女は――紫杏は手すりに寄りかかっる形で外に目を向けていた。私を視界に捉えると同時、まばたきを二、三度する。
「寝なくていいんすか?」
「あんなにしといて、すやすや寝れるわけないじゃない」
「いやー面目ないっす。いろいろ止まらなくて」
恨み言っぽく言うと、紫杏は照れ笑いを浮かべた。まったく、こっちは勝手がわかっていないのに好き放題するから。おかげでまだ汗が引いていない。
「そういや、ひとつ謝らないといけないことがあるんすよ」
「何よ、紫杏と寝たことは後悔してないわよ?」
きっぱりと、先回りするかのように私は言う。流されたとはいえ、これは自分自身の選択の結果だ。私の意思だ。
「それもあるんすけど……わたし、深宵さんのこと前から知ってたんすよね」
「……そうなの?」
「はい。前から仕事帰りで歩いているのを見てて、それで、ずっと気になってたんす」
紫杏は言う。いつも疲れた顔をしていて、それがずっと目に焼きついていたこと。話しかける機会がないかとうかがっていたこと。
「じゃあもしかして名前を訊いてきたのも」
「このチャンスを逃してなるものかと思いまして……えへへ。あ、でも手相の占いは本当っすかね?」
慌てながら弁明してくる。なるほど、そういうことか。
つまりなんというか、今宵の私がこうなっているのは、ある意味で必然だったということだ。
「紫杏ってば、なかなかの悪女ね」
「だから言ったじゃないっすか。女運も悪いかどうか試してみますかって」
悪戯っぽさを孕んだ笑みを向けてくるので、私もつられて笑う。まったく、とんでもなく悪い女に捕まったものだ。
でも別にかまわない。だって私たちは、大人の恋は、高校生の青春みたいに輝かしくもなければ、純真無垢にきれいなものでもない。ちょっと悪いくらいが、ちょうどいい。
「もうすぐ夜明けっすね」
紫杏は再び外の景色に目を向けて言った。黒一色だった空が、わずかに紫色を帯び始めている。
「ねえ深宵さん」
「なに?」
「夜は……まだ嫌いっすか?」
「どうだろ。正直、まだよくわかんないかな」
得体の知れない不安はきっとまだ、自分の周囲に潜んでいるだろう。暗闇に乗じて、それは私を溺れさせようとしてくるのかもしれない。
「でも少なくとも今は……今夜は、なんだか明けるのが惜しく感じるかも」
それは素直な感情だった。紫杏と出会って、知らない場所へ連れられて、身体を重ねて。本当にいろんなことがあった。
この夜だけは、いろんなことを忘れて、脱ぎ捨てることができた。
「可惜夜、ってやつっすね」
「なにそれ?」
「昔の言葉っすよ。明けてしまうのが惜しいくらいいい夜のことっす」
「へえー、よく知ってるわねそんなの」
「ふふん、そりゃ占い師っすからね」
「それ占い関係ないじゃない」
思わず吹き出す。考えてみれば今夜は今までいちばん、笑顔を向けられて、そして笑った夜かもしれない。
「ねえ紫杏」
「なんすか?」
「またこんな風に、夜になったら隣にいてもいい?」
紫杏に並ぶ形で手すりに寄りかかり、言った。
「もちろんっす」
どちらともなく私たちの手は重なり合っていた。
「でも深宵さんはいいんすか? わたしだってあの元彼みたいに宿代だって言ってくるかもっすよ?」
「別にいいわよ。だって私は男運も女運も壊滅的なんでしょ? なら今あなたと離れたら、もっとタチの悪い相手に引っかかるかもしれないじゃない?」
「ふふ……それもそうっすね」
冗談めかして言うと、紫杏はエクステを揺らしながらうれしそうに目を細めた。まったく、悪女呼ばわりされたというのに。
風に揺れるエクステの青さが、空の色とともに少しずつ鮮明になってくる。夜が、明ける。
もうすぐキリトリ線はぴたりとつながって、再びいつもの日々がもどってくる。
「それじゃあまずは今夜、また占ってもらおうかな」
「はいっす。あんまり遅いと店じまいしちゃうんで、早めに来てくださいね」
言い合って、私たちは握る手にやわらかな力をこめる。
今夜はどんな夜が訪れるだろうか。また明けるのが口惜しいと思えるような夜だといいな。
徐々に白んでいく暗闇に抱かれながら、私はそんなことを思った。


