タクシーを降りると、爽やかな潮の香りと静かな波の音が一面に漂っていた。
「静かだね。誰もいない」
「うん。いいところだな」
夏の夜、静かな海で手持ち花火をするなんて、現実ではありえないことだと思っていた。
私にはこんな夏は訪れないと思っていた。
「花純、こっち」
石段を降りて少し歩く。
波の音とレジ袋の音。砂浜を歩く小さい足音。
耳に入る全ての音がどこか切なくて、終わらないでほしいと無意識のうちに願っていた。
「ここら辺がいいかな」
なだらかな砂浜にしゃがんで、同梱されている小さくて丸いロウソクに不慣れな手つきで火をつけた。
ぽわっとあたたかい光がこぶし一個分ほどの狭い範囲を照らす。
はい、と手渡された花火をロウソクに近づける。
ススキ花火の先端が火に触れると、シュワーっという音と共に緑色の光が吹き出した。
「わっ」
思わず声が出てしまうほど綺麗で、夢中で火の行先を目で追ってしまう。
「火、ちょうだい」
隣に立った廉くんの花火の先が私の花火に近づくと、色の違う黄色い光が吹き出した。
会話もなく、花火を見つめていると、少しずつ花火の勢いが収まって、色が消えた。
一本、また一本。ロウソクの火が消えないうちにと、花火を手に取る。
廉くんの楽しそうな横顔を見ているだけで、私は幸せに包まれていた。
「こんなに楽しかったっけ、手持ち花火って」
最後の花火の袋を開けながら、廉くんを見上げる。
表情はわからないけど、空気を含んだ笑い声が耳に届いた。
「花純は反応が純粋だよな」
火を囲んで廉くんがしゃがんだ。火に照らされる表情は、少し儚さを感じさせる。
「なにそれ、初めて言われた」
「ずっと、そうだろ。中学のときから、変わんないな」
最後の袋から出した線香花火を手に取って、微笑みながら火に近づける廉くんを見つめる。
……もう終わりか。
花火に夢中で、花火に照らされる廉くんに夢中で。
元から少ない花火をしている時間、結局まともに話せなかった。
もちろん、こうして再会できただけで、話せただけで、二人の時間を過ごせただけで。
それだけで十分すぎるほど幸せで、終わらせられなかった片思いの区切りをつけるのには贅沢すぎる時間だった。
もう少しで終わってしまう時間から目を背けるように、線香花火に火を灯す。
「綺麗……」
思わず口から声が漏れる。
今までの勢いのある花火ももちろん綺麗だったけど、やはり線香花火は格別だった。
パチパチと弾ける小さい音が波の音に混ざって心の中に落ちてくる。
大きくなったり小さくなったりしているうちに、ポトンと赤い火球が砂浜に落ちた。
ジュ、と花火の燃え殻の入ったコップの水に手元のものも追加する。
先に落ちた廉くんは、手元の二本のうち一本を私に差し出して、微笑んだ。
「____最後にさ、どっちが長く持つか勝負しようよ」
少し動くと肩がぶつかってしまいそうな十五センチくらいの狭い隙間を空けて、真隣に座り直してこちらを見る。
話すときは少し見上げて話すのに、目線が同じ位置にある。
ただそれだけなのに。心の距離まで近付いた気になってしまう。
「うん。負けたらアイス?」
「うーん……。負けたら、願い事をひとつ聞くっていうのは?」
七夕にかけているのか、廉くんはまっすぐ私を見つめて言った。
「いいよ、わかった」
私が頷くと、気合いが入ったのか腕を一度伸ばして、また戻した。
私に対する願い事って、なんだろう。
廉くんが考える願い事の想像もつかないまま、私たちは最後の線香花火に火を灯した。
紙が燃え、くるりと丸まり火球になる。火花が散る様子を眺めていると、数秒でぽとりと火球が落ちた。
「えっ?」
思わず腑抜けた声がこぼれる。
点火して、火球になるまでの時間の方が長くて、線香花火として楽しめる時間はほんの数秒と短かった。
……さっきは長かったのにな。
そう思いながら、隣を見る。
目が飛び出してしまいそうなほど見開いたあと、くすくすと笑う廉くんの手元ではまだ、火花が綺麗に散っていた。
二人して一つの線香花火を見つめて、十数秒でぽとりと落ちる。
競い甲斐のない勝負でも、廉くんは喜んでいた。
「願い事、聞いてくれる?」
「うん。私にできることなら、なんでも」
ゴミをビニール袋にまとめて、固く口を縛る。
それを持って立ち上がり、降りてきた石段に移動した。
「ひまわり、似合うよな。花純」
「ひまわり……?」
「うん。浴衣、花純によく似合ってる。夏はひまわりみたいに眩しくて、春は桜みたいにふんわりしてるよな」
石段に腰掛けて、私の浴衣をじっと見つめる。
顔が熱い。でも、それをからかいと決めつけてはいけないような。
なんだか雰囲気がさっきまでとは打って変わって、なんだか緊張感がある。
声を発するのも躊躇してしまうほど、今なにか話してはいけないという空気が私たち二人の小さい空間に流れていた。
「俺の願い事は、花純にもう一度逢うことだった。でもそれは叶ったから、それ以上は望まないよ。ただ、俺の気持ちを、聞いてほしい」
小さく息を吸って、吐いて。廉くんは身体ごと私に向けて言った。
「……気持ち……?」
「うん。俺……。ずっと花純が好きなんだ」
考える隙も与えられず、廉くんのまっすぐな言葉が耳に届く。
有り得ないワードが、私の頭を混乱させた。
「……ずっとって……?」
「中学のときから、ずっと。花純のことが好きだよ」
綺麗な瞳が私を捉える。
きっと嘘じゃない。そう信じたいけど、信じられない。
目に涙が溜まる。
嬉しいのか、廉くんの気持ちを疑ってしまう自分が憎らしいのか、よくわからない。
「有り得ないよ。だって、だって……。廉くんは、莉子のことが好きだって……」
「……莉子?今も昔も、莉子のことなんてなんとも思ってないけど」
「でも、廉くんは莉子のことが好きだって聞いて、何度も何度も諦めようとしたのに……。忘れられないの。忘れさせてほしいのに……」
とうとう、目に溜まった涙は頬を伝った。
隠すように顔を逸らすのに、そんなことお構いなしに優しい声が私に向かって飛んでくる。
「忘れないでよ。俺のこと、ずっと心に置いておいてよ。好きだよ、花純のこと。花純は、俺のことどう思ってる?」
返事を急かすような人じゃない。
部活動のときもグループワークのときもそうだった。
だからわかる。きっと私の気持ちに気付いてるから、少し強引に答えを求めてる。
「ずっと、好き。私、廉くんのことがずっと心の支えで、ずっと廉くんに逢いたかった」
顔を上げると、廉くんは嬉しそうに笑って私の背に手を回した。
「ありがとう。忘れないでいてくれて」
耳元で廉くんの声が聞こえる。
今までで一番近いその声が、くすぐったくて、愛おしい。
「大切にするから。花純のこと」
私を抱きしめる腕の力が強くなる。
緊張しながらも、私も廉くんの背中に手を回した。
腕が回りきらない広い背中が近くて。
手に伝わる体温が、夏の暑さを忘れるほどに心地よかった。
空に瞬く夏の大三角が、願いを繋げてくれた。
この海の音も、潮の香りも。
私はずっと忘れずに、廉くんの隣を歩いて生きていく。
そう確信した始発までの穏やかな時間が、どちらともなく繋いだ手から伝わる体温が。
なによりも幸せで、煌めいていた。