「夢って…1人で守らなくてもいいんだ」
そう思ったとき、口の中に広がった味は、しょっぱかった。


大学を卒業して就職もせずバイトを掛け持ちし、夢を追って東京に来ておよそ3年になる。
その年の冬、初めて完結させた汗と夢の結晶である漫画を出版社に持ち込んだ。
結果はお察しの通り、まさにテンプレ、暖簾に腕押しとはこのことである、と自嘲気味な笑みが自然と漏れ出た。

そんな池田瑠璃の心模様を表したような、冷たく降りしきる雨をなんとか避け、入ることの叶わなかった駅の構外の屋根のある部分に居場所を確保する。
バス停前やタクシー乗り場には瑠璃と同じように、終電を逃したごった返す人だかりができていた。

それを横目に狭い、瑠璃にとっては今は居心地が良い屋根の下にて、悴む手で原稿を抱え直し、月を隠した曇天の空をやっと見上げる。

『技術的にも、情熱的にも未熟』

編集は悪くない。丁寧な言葉で傷つかないように配慮してくれたのもわかっている。
それでも、瑠璃の中にはぽっかりと、芯だけがくり抜かれたような虚しさが残った。

あの言葉が頭をリフレインして、離れない。
「もう、潮時、かなぁ」
ぽつりと漏れた声は、そのまま白い煙となって曇天に還っていく。

あまりにも現実的なこの日に、つきりと痛む瞳は心の防衛本能なのか、夢を引っ提げて来た春のあの日の情景が勝手に映し出される。

◼️
「は、はじめまして!家事代行サービス、カジカジから派遣されました、池田瑠璃です、」

少し汗ばむくらいになる5月、瑠璃は執筆時間を確保するため、時間の融通が利きやすい家事代行サービスで働き始めた。
初出勤でガチガチの瑠璃の前には、出勤前なのかスーツ姿にだらりとした背の高い30後半の男が立って、瑠璃を唖然と見やる。
その顧客、花咲薫の反応に瑠璃はさらに体をガチガチに固める。

「…若いな、いや、どうぞ、よろしくお願いします。」
「は、はい!お邪魔します!」

その男、花咲薫という名前からは想像できない、部屋の散らかりように今度は瑠璃が唖然とする番だった。

「…ずいぶん露骨な顔するんですね。」
「あ、あぁす、すみません」

そんなまだ若い瑠璃の様子から花咲は頭を少し掻きながら、瑠璃にあれこれと部屋のことを淡々と伝える。

「まぁ、仕事が忙しいからほぼ居ないようなもんですから。足の踏み場さえできれば嬉しいです。」

ボサボサの髪を全く隠そうともしない花咲の印象は瑠璃にとって、これぞザおじさん。
そんな等身大の花咲に最初の緊張は時間がある経つにつれて無くなっていった。

花咲はささっと髪を撫で付け、清潔感を出すと、あとはよろしく、と部屋を出ていった。
「…部屋ぐちゃぐちゃだな〜、花咲薫っていうんだからどんだけ浮世離れした人かと思ったけど…」

閉ざされたドアから目を離し、瑠璃は研修で教わったことを思い出しながら作業を始めた。

花咲とは朝、彼の出勤前数十分、少しだけ顔を合わせる程度だった。
少しの会話程度だったが、東京に知り合いも居ない瑠璃にとってはその数十分は十分に価値のあるものだった。また、何故か男の匂いを感じさせない花咲に瑠璃は勝手に懐いた。

「花咲さんは、どんな仕事をしているんですか?」
「…、なんでそんなこと知りたいんです?」

いつものように最後の髪を整え出勤準備をする花咲は、洗濯機を回す瑠璃を鏡越しに見る。
瑠璃はこの花咲の変身シーンがお気に入りになっていた。不思議と距離を置きたがる花咲を瑠璃は眼前で振られる猫じゃらしのように追いかける。
この構図は夏になったくらいから定番化していた。

「んー、花咲さんいつもお疲れのようなんで、気になって、何かできないかなって」
「はぁ、池田さん、あまりそういうことを言わない方がいいですよ。」
「なんでですか?」
「……なんでもです。」

髪を整え終わった花咲は、キッチンに向かう。
瑠璃もその後を追うように、洗面所を出る。
瑠璃は冷蔵庫を開け、市販のコーヒーをカップに注ぎ花咲に差し出す。
花咲は少し顔をしかめながら、カップを受け取る。

「家政婦ではないんですから、こういう事はしなくてもいいって何度も」
「まぁまぁ!いいじゃないですか!今も時給は発生しているんですから!」

瑠璃は冷蔵庫を閉めた後、ふと台所の隅にある観葉植物に目をやった。
以前は葉が茶色く乾いていたのに、今日はどこか元気そうに見える。

「花咲さん、水、あげてるんですね。」
「ああ、最近、ちゃんとやってます。」
「なんだか…意外。」

「池田さんが、前に言ってたでしょう。部屋の空気は植物が教えてくれるって。」
「えっ、そんなこと言いましたっけ?」

花咲は珍しく恥ずかしそうに口元を歪めた。

「言ってましたよ。あなたの言葉って、案外、耳に残るんです。」

瑠璃は不意を突かれて、冷蔵庫のドアに手を置いたまま言葉を失う。
どうしてこの人は、こんな風に予想外の角度でくるんだろう。

「じゃあ…私が居なくなったら、この部屋、また荒れますよ?」
「荒れるでしょうね。」
「いいんですか、それで?」
「…いいとは言いません。」

そこで会話が止まる。
ほんの少しの沈黙は、どこか心地よかった。

瑠璃は観葉植物の葉にそっと触れてみる。
冷たいけれど、しっかりとした質感が指に残った。

「でも、花咲さんがちゃんと水をあげてるから、葉っぱも元気ですね。」
「…それは、どうでしょう。」

花咲はそう言って、コーヒーを取り出す。

「少なくとも、朝が静かだと物足りなくなるくらいにはなってます。」
「え?」
「さっきの言葉、取り消します。…荒れるのは部屋じゃなくて、僕の中かもしれません。」

コーヒーにミルクを注ぐ音が静かに部屋に響く。

「あ!おかわりですか!言ってくださいよ花咲さん!」
いつもと違う工程に瑠璃の頭に疑問符が浮かんだ時、目の前にその黒でも白でもない飲み物が差し出される。

「え?」
「……、入りませんか?」
「あ、えと、イリマス」

朝の光に包まれたこの部屋は、瑠璃の暗い作業部屋とは大違いで、受け取ったカフェオレもどきは苦くて、甘い味がした。花咲の行動に混乱して百面相をする瑠璃を見て花咲は初めて笑った。

くしゃりとシワの寄る目元を瑠璃は見て、ストンと何かが心に落ちた。
恋の味のカフェオレは笑っちゃうくらいほろ苦くて、泣きたくなるくらいミルクの味がした。

◼️

花咲に出会って、3年、恋を自覚して、その想いを糧に書き上げた手元の原稿は朝の様相とは全く別物の湿気と手汗でクタクタになっていた。

夢、恋、自身の全てを否定された気になった瑠璃は自暴自棄に飲んだくれ、挙げ句の果てに終電を逃して今に至る。
自分を隠してくれる雨に感謝しながら、瑠璃は傘も差さず一歩一歩と歩き出す。家まで距離はあるが、もう誰にも会わず帰って泣きたかった。
ポツポツとダウンジャケットに降りる雨粒の感触と濡れて色が変わる原稿。
どうにでもなれ、と濡れ鼠になりながら歩いていると暗さからか、酔いからか、段差でよろけとうとう瑠璃は横に転ぶ。
あまりにも惨めな自分の自尊心を守るように原稿を胸に抱き込む。そうしないともう全てが散り散りになりそうだった。

悔しくて悔しくて、原稿を投げ捨てた。
それは運悪く水溜まりに落ち、瑠璃はさらに込み上げるしゃっくりを止められなかった。
瑠璃が大きくつっかえながら息を吸い込んだ時ふと雨が止んだ。
「…っ、池田さん?」

聞き慣れた声に、びくりと肩が揺れる。
後ろを振り返ると、そこにはスーツ姿の花咲が息を切らして立っていた。

「…花咲さん、」
「…池田さん、びしょびしょじゃないですか」
「なんで、」
「風邪ひいちゃうでしょ、」
「な、なんで!今、来ちゃうんですか!なんで…!」

瑠璃は想いを寄せる花咲にこんな姿見られまいとあまりの恥ずかしさから前を向き縮こまる。
花咲はそんな瑠璃の様子を見て、先ほど投げられた原稿を拾い上げる。水を吸って重くなったそれを花咲はスーツが汚れるのも構わず抱える。

「タクシー、待たせてますから、送ります」
花咲は瑠璃の手を引き、少し離れたところでハザードを付けているタクシーを指差す。

「…いいです、自分で帰れますから、ほっといてください。」
「ほっとけるわけないでしょ、」
「もう、本当にほっといてください!お願いですから…花咲さんにはこんな姿、見せたくなかったっ」

八つ当たりじみた、言葉で瑠璃は花咲の手を振り払い、手の甲で涙を拭う。
頑なな瑠璃に花咲は傘をゆっくり閉じる。

瑠璃の言葉に花咲はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと手を上げると、傘を静かに閉じた。
バサリと音を立てて雨粒をはらった傘の骨が、夜の街に微かにきしむ。
「なんで……閉じちゃうんですか」
何故か自分と同じように濡れる花咲に瑠璃は慌てて立ち上がる。

「花咲さん!濡れちゃう!」
「濡れちゃいましたね。」
「風邪引いちゃうから!」
「それは、お互い引いちゃうかもしれませんね。」

花咲はタクシーを指差しながら、瑠璃にゆっくりと語りかける。
「乗りましょう?池田さん、1人なのしんどいなら僕の家でもいいですから」

◼️
終電を逃した人々でごった返す駅をずぶ濡れの2人はタクシーの窓越しに見る。
花咲は自宅の住所を運転手に伝えるのを見ながら、暖かい車内にホッとした瑠璃はポツリと花咲に話しかける。
「何にも聞かないんですね。」
「聞いた方がいいですか?」
「…、花咲さんはなんであそこに?」
「接待で連れ回されて、終電を逃しました。まさか、ずぶ濡れの池田さんを見つけるとは思いませんでしたが。」

花咲は瑠璃に原稿を手渡す。
湿り気を帯びたそれは水を吸ってだいぶ重たくなっていた。

「これ、うちで乾かしましょう。」
「いいんです、もう。これがお似合いなんです。」
瑠璃は首を横に振る。ぽたりと髪を伝って雨粒が落ちる。
花咲は瑠璃から視線を逸らしタクシーの窓に肘を付く。
「…僕、終電逃した事ないんです。でも、今日、逃して本当に良かった。」
「え?」
「朝のあなたはズカズカと僕の中に入ってくるから困ってたんです。」

花咲は瑠璃を見て、ふわりと見たことのない笑みを向ける。

「朝、池田さんの顔が見れないと寂しいと思ってしまうまでになってるんです。」
「っ!」

瑠璃は原稿が何故か違う重みに変わったのを感じる。
頬が赤くなるのを感じる。

「この、池田さんの大切なもの、うちで乾かして、また明日、元気なあなたに戻れるように」
あの、朝のミルクを入れた時のような、でも夜の花咲は少し苦味を帯びた声を瑠璃に届ける。

「僕のためでもあるんです。ずるいでしょう?」
そう言って、瑠璃の冷たい手をずるい花咲は握った。
全てを掬い上げるような、全てを花咲のせいにしていいような瑠璃を守る言葉に、瑠璃の目からはほろりと温かな雫がこぼれる。

瑠璃は花咲の濡れた肩を見つめる。
「……ずるいです、ほんとに」

「夢って…1人で守らなくてもいいんだ」
そう思ったとき、口の中に広がった味は、しょっぱかった。

瑠璃は、握られた手からじわじわと体温が伝わってくるのを感じていた。
あの日、家事代行の初出勤で訪れた部屋の中。
緊張で声が裏返ったあの朝と同じように、いまも瑠璃の心臓は小さく跳ねていた。

車内の暖房はじんわりと車の窓を曇らせていた。
外の世界はまだ冷たい雨の中。
でも、車内だけがまるで別世界のようだった。

「……明日も、また会えますか?」

花咲の言葉に、瑠璃はこくりと小さく頷いた。

「それ、乾いたら読んでいいですか?」
「え……それは、ダメです。」

花咲はくすくすと小さく笑った。

「ですよね。じゃあ、読めるようになるまで……そばにいさせてください。」

照れたように、それでもどこかまっすぐに、花咲は言った。
それはまるで、宣言のようだった。

瑠璃はもう一度、胸に抱いた原稿を見下ろす。
水に濡れてくしゃくしゃになった紙の束。
でも、そこに詰まっているものは、夢と、恋と、自分の全部だった。

「私、また描きます。」

思わず、瑠璃の口からこぼれた言葉は、それは誰に聞かせるでもなく、でも確かに、花咲への言葉だった。

花咲はふわりと目元を緩める。

「じゃあ……その時は、今度こそ、僕が一番のファンになりますよ。」

カフェオレの味が、ふと思い出された。
あの朝の、恋の始まりの味。
ほろ苦くて、でも優しい味。

瑠璃はその味を、もう一度確かめたくなる。
この気持ちは、悲しみじゃない。
涙のしょっぱさの奥にある、温かさだった。

タクシーはしずかに進み出す。
窓の外の雨は、少しだけ、やわらいでいるようだった。