「ほんとに、7月ってよくないことが起きる」
「泉またそれ言ってんの?」
私が大きめなため息をついている隣で、俺ガトーショコラとおすすめ、と隼人がマスターに注文した。
私は先に来ていたから、すでにサンデーとサングリアを食べつつある。バニラベリーとピスタチオのアイスが添えてあるパイ生地によく合う。ささくれだった心への癒しだ。
「で、なにがあったん?」
大きな手に顔を乗せて私の方を見た隼人は、飲んでから来たのか既に顔が赤い。
私は思い返したくも、言いたくもない気持ちもありつつ、この気持ちを吐き出したくて、ゆっくりと口を開けた。
「3月から猛烈に忙しくて、プライベートも犠牲にする勢いで、ずっと頑張ってたのに…その頃の業務でミスが見つかるし、しかもそれが重なってて」
「あー、つらいなぁ」
大きくため息をついた私に、隼人はわかるわぁと頷いた。
「説明する前に上司にも資料見てもらってオッケーもらってたのに、5つ説明したんだけどほんとは8つ説明しないといけなかったみたいで……ゆるい会社に入ったと思ってたのに」
「聞いてる限りゆるくはあるけど、まとまってる情報とか資料とかもないから、その場の上司判断で説明内容揺らいでるって感じだよな〜」
「そうなんだよ、ほんとに」
私からよく愚痴を聞いている隼人は、瞬時に理解してくれた。
悲しみのあまり思わずカウンターに突っ伏していると、隼人がよしよしと私の頭を撫でた。
「こんな私、甘やかさないでほしい…」
「面倒くさいやつだなぁ」
打ちひしがれている私の頭を隼人が軽くはたいた。
ため息をつきながら起き上がった私は、ジロリと隼人を見た。
「なんだよ?」
「なんでもないですー」
連絡したらすぐに来てくれたから、優しい男だとは思う。
隼人とは前職の会社からの仲だ。
1年前、私は隼人と一緒に働いていた社畜製造会社から今の会社に転職した。前職が前進しようとする力が強く、チームメンバーのキャパを超える仕事をマネージャー陣からどんどん回され、施錠される夜22時までいることはもちろん、休日出勤もざら。現状を何とか変えようと踏ん張るも新しく人を入れるくらいのことしかできず、ブチギレて退職した。
今の会社は100年以上の歴史があり、温和な雰囲気に、取引先も古くから付き合いがあるところかグループ会社で、正直面接を受けてる時からゆるそうな感じはしていた。しばらくこの会社でマイペースにやって、次どうするか決めようと、そんな思いで入社した。
けれど、今日の私は非常に落ち込んでいる。
「ほら、前にさ。あんたと一緒にしてた仕事あるでしょ。食品メーカーの」
「あー、あったなぁ」
運ばれてきたガトーショコラをフォークで切り、生クリームをたっぷりとつけて美味しそうに頬張る隼人は、とても同い年に見えない。その幸せそうな顔が今は少しだけ憎い。
「あのときもさ、5月にした仕事で7月にミスが見つかって、先方から連絡があったし」
「あれは明らかに報連相不足だったよなぁ」
ウイスキーを口にしようとした隼人は、まゆをひそめた。
「その前の年も、7月にひとりどっか消えちゃって、仕事の進捗全くわからないのいきなり代わりにやらさらたり、そもそも7月って夏バテになるし、暑くて寝れないし、バテるし、インフルになるし、胃腸炎になったこともあるし」
「それは体調の問題だろ?」
絶望に顔を両手で覆っていると、あっさりと隼人に突っ込まれた。
「きっと私の運勢的に7月と相性悪いのよ。厄年ならぬ厄月だよ。今思えば学生の頃から夏ってよくないことが起こってた気がする。友達とケンカしたりとか」
「思い込みだろ」
こいつ何いってんだと隼人の目が言っているが、私は非常に真剣だ。
「マスターおすすめでおかわり。あとマスターにビール1杯プレゼント」
「ありがとうございます」
隼人からグラスを受け取ったマスターは優しい微笑みを浮かべている。
「ねぇ、マスターはどう思う?」
隼人はこの苦しみをわかってくれないようなので、私はマスターにも聞いてみた。
マスターはここで金曜日の21時から朝3時まで、間借りしてケーキやアイスといったおやつとお酒を提供している。テーブル席2つと、カウンター5席の小さな店だが、マスターの人柄もあって居心地がいい。
前職に勤めていたとき、隼人と飲んでいて終電を逃した日に偶然この店を見つけた。それ以降、第4金曜日の夜はここで過ごすのがルーティンになっていたことが今では懐かしく思える。
今日は久々にここのケーキと居心地の良さが恋しくなり、避けていた前職の会社の前を通り過ぎ、わざわざやって来た。久しぶりですね、と柔らかな笑顔のマスターに迎えられ、少しだけほっとした。
「そうですね、泉さんは夏がとても苦手でいらっしゃるんだなと」
どうぞ、とマスターは隼人に日本酒を提供し、細いグラスにビールを注いでから隼人と乾杯をした。
「あとは、発散方法を見つけてみてはどうでしょう」
「発散方法?」
頷いたマスターは、私にチェイサーをくれた。
あまりお酒の強くない私だ、きっと顔が赤くなっているんだろう。
「厄落としと言いましょうか。悪いことが起きないように先に祈願に行っておくとか。今回はこれ以上何も起きませんように、になりますが」
「なるほど。マスターありがと」
「マスター、いいよ。適当に流しといて」
マスターの回答に、私と隼人の声が被った。
「なによ適当にって。こんなに落ち込んでるのに」
「落ち込んでるのはわかるけど、週明けからまた頑張るしかないだろ」
「そんなこと言われなくてもわかってるわよ!」
お酒の勢いもあって、思わず語気が強くなった。
私だってちゃんとわかってる。ゆるい会社だとか言いながらも仕事は完璧にこなしたかった。前よりも合格ラインの基準が低くなった会社で、ミスしてしまって、ずっと順調に進んでいると思ってた分、少し見下してるとこがあった自分の驕りも含めて、私は落ち込んでいた。
今、隼人に当たったようになったのでも自己嫌悪が加速する。
「あー、もう全部が嫌すぎる」
「はいはい、水飲んで落ち着け」
隼人からグラスを渡されてちびちび飲むも、鬱々とした気持ちは降り積もるばかり。
「泉さん、とりあえずストレスの発散は大事ですよ。過ぎたことはどうにもできませんが、気分は晴れるかもしれません」
「だからってさぁ、なんでこうなるん?」
店を出て歩き始めると、隼人が私に聞いてきた。
「ストレス発散しようと思って」
前は閉店まで居座って、そこから駅前の24時間営業のファミレスかコーヒーショップに行っていた。
けれど今日はマスターの助言を受け、夜散歩をしてみることにした。2時間もあれば家に帰れるだろう。
「なんで俺まで?」
「ひとりじゃつまんないし」
不満げな目をされた。
「あんたが行かなくても、私は歩く」
「いーけどさぁ……」
とても納得がいってないため息をつかれたが、渋々隼人は付き合ってくれるようだ。
「隼人、店来る前は飲み会?」
「そ、部署の奴らと」
「相変わらず飲み会多いね」
私も勤めていた頃は、毎週のように飲みに行っていた。22時に仕事終えてから飲みに行くなんて、今は考えられない。
「じゃあ途中で抜けてきたの?」
「そーだよ、お前がサンデーの写真なんか送ってくるからさぁ。『泉さんからですか?』なんて茶化されながら出てきたよ」
通っていた時も、おやつの写真を送ると隼人はすぐに来てくれていた。
「それはごめん」
「ほんとだよ」
「でもサンデー頼まなかったじゃん」
「チョコレートの口だったんだよ。泉が一口分けてくれたらよかったのに」
隼人は口をツンとして、私を見下ろした。
「欲しいって言わなかったじゃん」
「俺のガトショは遠慮なく食べたのに?」
確かに、私は隼人がガトショを半分食べてホイップを追加した時に二口三口いただいた。
「隼人のものは私のもの、私のものは私のもの」
「ジャイアンかよ」
ふっと笑う隼人は、私に負けず甘党だ。
「マスターもう1日でいいから、店開けてくんねぇかなぁ」
「間借りだから色々とあるんじゃないの」
「常連も結構いるのになぁ」
ゆっくりと話しながら、夜の街を歩く。
店から家までは夜の商店街を抜け、住宅街を通り、河川敷をそのまままっすぐ行くだけなので、割と道に迷いにくい。
「泉は?飲み会だったん?」
1時間くらいは歩いただろうか。住宅街の信号待ちをしていると聞かれた。
「そう。でも全然注意散漫っていうか。もう頭ン中ミスったことへの後悔とかでゴジャゴジャして話も適当に受け流してたし。終電なくなるくらいで『門限あるんで』って抜けてきたわ」
「どこの御令嬢だよ」
ふはっと笑う隼人は、深夜だと思い出して急いで口を抑えた。
「でも結局乗り逃したんだ?」
「そう、早く帰って布団にくるまりたかったからめっちゃ走ったのに目の前で行っちゃって…。スニーカーとパンツだったら、本来の実力が出せて間に合ったと思うわ」
今日は打ち合わせがあったから、タイトスカートにヒールだったから、とても走りづらかった。
隼人はおかしそうに口に手をあてて、小さく笑っている。
「でも乗り逃したから、あの店のこと思い出してさ。今日行けてよかったよ」
「俺も。通ってたときとおやつの種類だいぶ変わってたから、これからは定期的に行かんと」
「だよね~」
他にも2人で行く店はあるが、やっぱりあの店の味と雰囲気が一番だと今日再認識した。これからは通うことにしようと心に決めた。
「んで、気持ちは落ち着きました?お嬢様」
信号が青になると、隼人が優しく手を絡めてきた。温かいその視線に、私の心も穏やかさが広がってゆく。
「まぁ、ぼちぼち……。やっぱ歩いたのがよかったのかも。頭の中でクヨクヨしてばかりだったけど、体動かしてたらちょっとは落ち着いてきた」
私も隼人の人差し指に自分の人差し指を絡めた。
「まぁ泉は基本的に完璧主義だからなぁ。仕事的に毎年春が忙しくて、夏の落ち着いた時期に見返したら気づくことがあったってことだろ?間違ったりもするって、人間だし。それにそのままにしてるんじゃなくて、気づけてよかったよ」
「ありがとー、でも心が痛いー」
私は繋いだ手と反対の手で、自分の胸をおさえた。
「あんまり気にしすぎんなよ、自分を責めすぎないこと。もう今度同じことあったら、どう対処したらいいかも考えてあるんだろ?」
「……そりゃ、まぁ」
歯切れ悪くそうこたえると、うりゃ~と隼人が雑に私の頭を撫でた。
「反省できたら改善もできる。だから大丈夫」
ニカッと音が出そうなほどの隼人が笑うから、私も思わず笑ってしまった。
「だいぶ酔ってんね?」
「そーかー?」
「うん、酔ってるよ。人のこと言えないけど」
そういうことにしておいてほしい。そうじゃないと、照れるし、若干泣きそうでもある。
「あそこ、コンビニあるから水買お」
「んー」
ゆっくりと隼人の手を引いて、コンビニへと向かった。
この手を握っていられるだけで、安心感でいっぱいだから、目が潤んでるのなんて見せたくなかった。
コンビニに寄ってからも、ぶらぶらと水を飲みながら歩いた。
「ていうかほんとに、今度からはわざわざ飲み会抜けてこないでいいから。ひとりで楽しくサンデーもケーキも食べてるから」
「……お前さぁ」
呆れたようにため息をつく隼人に
「なによ」
思わず喧嘩腰になった。
「いや、気づいてるかと思ってたんだけど。お前がおやつの写真送ってくるときって、大概話聞いてほしいってときだぞ」
「………嘘でしょ?」
開いた口がふさがらなかった。
「ほんとだよ。だから今日もなんかあったんだろうなって急いて行ったのに」
思わず立ち止まって、私は酔った頭で考えた。
確かに、言われてみればそうかもしれない。
普通のご飯の写真送るより、おやつの写真を送ったほうが隼人の食いつきはいい。必ず返信が来ると言っても過言ではない。だからなんとなく、話がしたいときはおいしそうなおやつの写真を送るようになっていた。
「えぇー…」
「いや、なんでお前のことなのに俺のほうが詳しいんだよ」
「そんなこと言われたって無意識だったんだもん」
「まぁいいけどな」
ほれ行くぞー、とゆっくりと歩き出した隼人の後ろに続いて河川敷を歩く。
吹く風に向こう岸を見てみると、日が昇り始めていた。
「もう朝じゃん。何時間歩いてた?」
「えっと──」
時間を確認しようと腕時計を見ていると、遠くの方からガタンゴトンと音がしてきた。
ふと見ると、遠くの鉄橋に電車が走っていた。
「いや、始発でてんやん」
「ほんまやー」
顔を見合わせてから、2人して声を上げて笑った。
「ちょっとゆっくり歩きすぎたわ」
確かに、商店街通った時も知らない店の前で立ち止まったり、住宅街でも野良猫にかまってみたり、ちょっと通ったことない道に行ってみたら行き止まりで戻ったりしてはいた。
「どうする?電車乗った方が早く帰れるけど」
そうだなぁと言いつつ、私は河川敷に座り込んだ。
「せっかくだから陽が昇るの見てから帰ろ?」
私が見上げると、肩をすくめて仕方なさそうに隼人は私の隣に腰を下ろした。
「俺はもう足痛いから電車乗りたいわ」
「革靴は大変だね」
「泉もヒールやん」
「私も足痛いよ」
「今度からはスニーカーにしよか」
「なんでまたやること前提なん?」
きょとんとした顔で、隼人は私の顔をのぞいた。
「するだろ?」
「そーかもー」
適当な返事をしているなと思いつつ、私は急激に襲い来る眠気と戦っていた。
「泉」
「なに?」
ふわぁっと思わずあくびが出る。
「泉といると自分ではしないことできて面白いわ。今日も、楽しかったな」
昇りゆく太陽を見つめつつも、満面の笑みの隼人が私に言った。
「そうだね」
水面がキラキラと輝いて、新しい一日のはじまりを感じる。
きっと今日はいい日になると思いつつ、私も隼人に笑いかけた。
「なぁ、次いつ店行く?」
こうして2人の生活に新しい予定が増えるのが、私はとても嬉しい。
隼人とは去年の7月から暮らし始め、もうすぐ1年になる。さっき『厄』を調べたら、災いという意味だけでなく、役に通じていることや、人生の節目とか、あらかじめ心の準備をしておくようにというワードも出てきた。
もしかすると、私にとって7月は自分にとって困難なことが起こるけど、新たなスタートの月なのかもしれない。
「来週?」
「早すぎひん?」
「じゃあ再来週」
「おけー」
そうだとしたら、へこたれることも多いけど、来週からも頑張ろうと思う。
こうして隼人と過ごす日々が、私のエネルギーの源になっているからそう思えるのかもしれない。
立ち上がった隼人に手を引かれ、再び家への道を歩く。
「今日の昼、駅前のラーメン行かん?にんにくマシマシで食べたいわ」
「えー?とりあえず起きた時に店まだ開いてるかで決めよーよ」
今の雰囲気的に、ラーメンではないと思う。しかもにんにくマシマシではない。
「わかった、起きたら決めよ」
「うん」
さぁ、今日は君とどんな一日を送ろうか。
「泉またそれ言ってんの?」
私が大きめなため息をついている隣で、俺ガトーショコラとおすすめ、と隼人がマスターに注文した。
私は先に来ていたから、すでにサンデーとサングリアを食べつつある。バニラベリーとピスタチオのアイスが添えてあるパイ生地によく合う。ささくれだった心への癒しだ。
「で、なにがあったん?」
大きな手に顔を乗せて私の方を見た隼人は、飲んでから来たのか既に顔が赤い。
私は思い返したくも、言いたくもない気持ちもありつつ、この気持ちを吐き出したくて、ゆっくりと口を開けた。
「3月から猛烈に忙しくて、プライベートも犠牲にする勢いで、ずっと頑張ってたのに…その頃の業務でミスが見つかるし、しかもそれが重なってて」
「あー、つらいなぁ」
大きくため息をついた私に、隼人はわかるわぁと頷いた。
「説明する前に上司にも資料見てもらってオッケーもらってたのに、5つ説明したんだけどほんとは8つ説明しないといけなかったみたいで……ゆるい会社に入ったと思ってたのに」
「聞いてる限りゆるくはあるけど、まとまってる情報とか資料とかもないから、その場の上司判断で説明内容揺らいでるって感じだよな〜」
「そうなんだよ、ほんとに」
私からよく愚痴を聞いている隼人は、瞬時に理解してくれた。
悲しみのあまり思わずカウンターに突っ伏していると、隼人がよしよしと私の頭を撫でた。
「こんな私、甘やかさないでほしい…」
「面倒くさいやつだなぁ」
打ちひしがれている私の頭を隼人が軽くはたいた。
ため息をつきながら起き上がった私は、ジロリと隼人を見た。
「なんだよ?」
「なんでもないですー」
連絡したらすぐに来てくれたから、優しい男だとは思う。
隼人とは前職の会社からの仲だ。
1年前、私は隼人と一緒に働いていた社畜製造会社から今の会社に転職した。前職が前進しようとする力が強く、チームメンバーのキャパを超える仕事をマネージャー陣からどんどん回され、施錠される夜22時までいることはもちろん、休日出勤もざら。現状を何とか変えようと踏ん張るも新しく人を入れるくらいのことしかできず、ブチギレて退職した。
今の会社は100年以上の歴史があり、温和な雰囲気に、取引先も古くから付き合いがあるところかグループ会社で、正直面接を受けてる時からゆるそうな感じはしていた。しばらくこの会社でマイペースにやって、次どうするか決めようと、そんな思いで入社した。
けれど、今日の私は非常に落ち込んでいる。
「ほら、前にさ。あんたと一緒にしてた仕事あるでしょ。食品メーカーの」
「あー、あったなぁ」
運ばれてきたガトーショコラをフォークで切り、生クリームをたっぷりとつけて美味しそうに頬張る隼人は、とても同い年に見えない。その幸せそうな顔が今は少しだけ憎い。
「あのときもさ、5月にした仕事で7月にミスが見つかって、先方から連絡があったし」
「あれは明らかに報連相不足だったよなぁ」
ウイスキーを口にしようとした隼人は、まゆをひそめた。
「その前の年も、7月にひとりどっか消えちゃって、仕事の進捗全くわからないのいきなり代わりにやらさらたり、そもそも7月って夏バテになるし、暑くて寝れないし、バテるし、インフルになるし、胃腸炎になったこともあるし」
「それは体調の問題だろ?」
絶望に顔を両手で覆っていると、あっさりと隼人に突っ込まれた。
「きっと私の運勢的に7月と相性悪いのよ。厄年ならぬ厄月だよ。今思えば学生の頃から夏ってよくないことが起こってた気がする。友達とケンカしたりとか」
「思い込みだろ」
こいつ何いってんだと隼人の目が言っているが、私は非常に真剣だ。
「マスターおすすめでおかわり。あとマスターにビール1杯プレゼント」
「ありがとうございます」
隼人からグラスを受け取ったマスターは優しい微笑みを浮かべている。
「ねぇ、マスターはどう思う?」
隼人はこの苦しみをわかってくれないようなので、私はマスターにも聞いてみた。
マスターはここで金曜日の21時から朝3時まで、間借りしてケーキやアイスといったおやつとお酒を提供している。テーブル席2つと、カウンター5席の小さな店だが、マスターの人柄もあって居心地がいい。
前職に勤めていたとき、隼人と飲んでいて終電を逃した日に偶然この店を見つけた。それ以降、第4金曜日の夜はここで過ごすのがルーティンになっていたことが今では懐かしく思える。
今日は久々にここのケーキと居心地の良さが恋しくなり、避けていた前職の会社の前を通り過ぎ、わざわざやって来た。久しぶりですね、と柔らかな笑顔のマスターに迎えられ、少しだけほっとした。
「そうですね、泉さんは夏がとても苦手でいらっしゃるんだなと」
どうぞ、とマスターは隼人に日本酒を提供し、細いグラスにビールを注いでから隼人と乾杯をした。
「あとは、発散方法を見つけてみてはどうでしょう」
「発散方法?」
頷いたマスターは、私にチェイサーをくれた。
あまりお酒の強くない私だ、きっと顔が赤くなっているんだろう。
「厄落としと言いましょうか。悪いことが起きないように先に祈願に行っておくとか。今回はこれ以上何も起きませんように、になりますが」
「なるほど。マスターありがと」
「マスター、いいよ。適当に流しといて」
マスターの回答に、私と隼人の声が被った。
「なによ適当にって。こんなに落ち込んでるのに」
「落ち込んでるのはわかるけど、週明けからまた頑張るしかないだろ」
「そんなこと言われなくてもわかってるわよ!」
お酒の勢いもあって、思わず語気が強くなった。
私だってちゃんとわかってる。ゆるい会社だとか言いながらも仕事は完璧にこなしたかった。前よりも合格ラインの基準が低くなった会社で、ミスしてしまって、ずっと順調に進んでいると思ってた分、少し見下してるとこがあった自分の驕りも含めて、私は落ち込んでいた。
今、隼人に当たったようになったのでも自己嫌悪が加速する。
「あー、もう全部が嫌すぎる」
「はいはい、水飲んで落ち着け」
隼人からグラスを渡されてちびちび飲むも、鬱々とした気持ちは降り積もるばかり。
「泉さん、とりあえずストレスの発散は大事ですよ。過ぎたことはどうにもできませんが、気分は晴れるかもしれません」
「だからってさぁ、なんでこうなるん?」
店を出て歩き始めると、隼人が私に聞いてきた。
「ストレス発散しようと思って」
前は閉店まで居座って、そこから駅前の24時間営業のファミレスかコーヒーショップに行っていた。
けれど今日はマスターの助言を受け、夜散歩をしてみることにした。2時間もあれば家に帰れるだろう。
「なんで俺まで?」
「ひとりじゃつまんないし」
不満げな目をされた。
「あんたが行かなくても、私は歩く」
「いーけどさぁ……」
とても納得がいってないため息をつかれたが、渋々隼人は付き合ってくれるようだ。
「隼人、店来る前は飲み会?」
「そ、部署の奴らと」
「相変わらず飲み会多いね」
私も勤めていた頃は、毎週のように飲みに行っていた。22時に仕事終えてから飲みに行くなんて、今は考えられない。
「じゃあ途中で抜けてきたの?」
「そーだよ、お前がサンデーの写真なんか送ってくるからさぁ。『泉さんからですか?』なんて茶化されながら出てきたよ」
通っていた時も、おやつの写真を送ると隼人はすぐに来てくれていた。
「それはごめん」
「ほんとだよ」
「でもサンデー頼まなかったじゃん」
「チョコレートの口だったんだよ。泉が一口分けてくれたらよかったのに」
隼人は口をツンとして、私を見下ろした。
「欲しいって言わなかったじゃん」
「俺のガトショは遠慮なく食べたのに?」
確かに、私は隼人がガトショを半分食べてホイップを追加した時に二口三口いただいた。
「隼人のものは私のもの、私のものは私のもの」
「ジャイアンかよ」
ふっと笑う隼人は、私に負けず甘党だ。
「マスターもう1日でいいから、店開けてくんねぇかなぁ」
「間借りだから色々とあるんじゃないの」
「常連も結構いるのになぁ」
ゆっくりと話しながら、夜の街を歩く。
店から家までは夜の商店街を抜け、住宅街を通り、河川敷をそのまままっすぐ行くだけなので、割と道に迷いにくい。
「泉は?飲み会だったん?」
1時間くらいは歩いただろうか。住宅街の信号待ちをしていると聞かれた。
「そう。でも全然注意散漫っていうか。もう頭ン中ミスったことへの後悔とかでゴジャゴジャして話も適当に受け流してたし。終電なくなるくらいで『門限あるんで』って抜けてきたわ」
「どこの御令嬢だよ」
ふはっと笑う隼人は、深夜だと思い出して急いで口を抑えた。
「でも結局乗り逃したんだ?」
「そう、早く帰って布団にくるまりたかったからめっちゃ走ったのに目の前で行っちゃって…。スニーカーとパンツだったら、本来の実力が出せて間に合ったと思うわ」
今日は打ち合わせがあったから、タイトスカートにヒールだったから、とても走りづらかった。
隼人はおかしそうに口に手をあてて、小さく笑っている。
「でも乗り逃したから、あの店のこと思い出してさ。今日行けてよかったよ」
「俺も。通ってたときとおやつの種類だいぶ変わってたから、これからは定期的に行かんと」
「だよね~」
他にも2人で行く店はあるが、やっぱりあの店の味と雰囲気が一番だと今日再認識した。これからは通うことにしようと心に決めた。
「んで、気持ちは落ち着きました?お嬢様」
信号が青になると、隼人が優しく手を絡めてきた。温かいその視線に、私の心も穏やかさが広がってゆく。
「まぁ、ぼちぼち……。やっぱ歩いたのがよかったのかも。頭の中でクヨクヨしてばかりだったけど、体動かしてたらちょっとは落ち着いてきた」
私も隼人の人差し指に自分の人差し指を絡めた。
「まぁ泉は基本的に完璧主義だからなぁ。仕事的に毎年春が忙しくて、夏の落ち着いた時期に見返したら気づくことがあったってことだろ?間違ったりもするって、人間だし。それにそのままにしてるんじゃなくて、気づけてよかったよ」
「ありがとー、でも心が痛いー」
私は繋いだ手と反対の手で、自分の胸をおさえた。
「あんまり気にしすぎんなよ、自分を責めすぎないこと。もう今度同じことあったら、どう対処したらいいかも考えてあるんだろ?」
「……そりゃ、まぁ」
歯切れ悪くそうこたえると、うりゃ~と隼人が雑に私の頭を撫でた。
「反省できたら改善もできる。だから大丈夫」
ニカッと音が出そうなほどの隼人が笑うから、私も思わず笑ってしまった。
「だいぶ酔ってんね?」
「そーかー?」
「うん、酔ってるよ。人のこと言えないけど」
そういうことにしておいてほしい。そうじゃないと、照れるし、若干泣きそうでもある。
「あそこ、コンビニあるから水買お」
「んー」
ゆっくりと隼人の手を引いて、コンビニへと向かった。
この手を握っていられるだけで、安心感でいっぱいだから、目が潤んでるのなんて見せたくなかった。
コンビニに寄ってからも、ぶらぶらと水を飲みながら歩いた。
「ていうかほんとに、今度からはわざわざ飲み会抜けてこないでいいから。ひとりで楽しくサンデーもケーキも食べてるから」
「……お前さぁ」
呆れたようにため息をつく隼人に
「なによ」
思わず喧嘩腰になった。
「いや、気づいてるかと思ってたんだけど。お前がおやつの写真送ってくるときって、大概話聞いてほしいってときだぞ」
「………嘘でしょ?」
開いた口がふさがらなかった。
「ほんとだよ。だから今日もなんかあったんだろうなって急いて行ったのに」
思わず立ち止まって、私は酔った頭で考えた。
確かに、言われてみればそうかもしれない。
普通のご飯の写真送るより、おやつの写真を送ったほうが隼人の食いつきはいい。必ず返信が来ると言っても過言ではない。だからなんとなく、話がしたいときはおいしそうなおやつの写真を送るようになっていた。
「えぇー…」
「いや、なんでお前のことなのに俺のほうが詳しいんだよ」
「そんなこと言われたって無意識だったんだもん」
「まぁいいけどな」
ほれ行くぞー、とゆっくりと歩き出した隼人の後ろに続いて河川敷を歩く。
吹く風に向こう岸を見てみると、日が昇り始めていた。
「もう朝じゃん。何時間歩いてた?」
「えっと──」
時間を確認しようと腕時計を見ていると、遠くの方からガタンゴトンと音がしてきた。
ふと見ると、遠くの鉄橋に電車が走っていた。
「いや、始発でてんやん」
「ほんまやー」
顔を見合わせてから、2人して声を上げて笑った。
「ちょっとゆっくり歩きすぎたわ」
確かに、商店街通った時も知らない店の前で立ち止まったり、住宅街でも野良猫にかまってみたり、ちょっと通ったことない道に行ってみたら行き止まりで戻ったりしてはいた。
「どうする?電車乗った方が早く帰れるけど」
そうだなぁと言いつつ、私は河川敷に座り込んだ。
「せっかくだから陽が昇るの見てから帰ろ?」
私が見上げると、肩をすくめて仕方なさそうに隼人は私の隣に腰を下ろした。
「俺はもう足痛いから電車乗りたいわ」
「革靴は大変だね」
「泉もヒールやん」
「私も足痛いよ」
「今度からはスニーカーにしよか」
「なんでまたやること前提なん?」
きょとんとした顔で、隼人は私の顔をのぞいた。
「するだろ?」
「そーかもー」
適当な返事をしているなと思いつつ、私は急激に襲い来る眠気と戦っていた。
「泉」
「なに?」
ふわぁっと思わずあくびが出る。
「泉といると自分ではしないことできて面白いわ。今日も、楽しかったな」
昇りゆく太陽を見つめつつも、満面の笑みの隼人が私に言った。
「そうだね」
水面がキラキラと輝いて、新しい一日のはじまりを感じる。
きっと今日はいい日になると思いつつ、私も隼人に笑いかけた。
「なぁ、次いつ店行く?」
こうして2人の生活に新しい予定が増えるのが、私はとても嬉しい。
隼人とは去年の7月から暮らし始め、もうすぐ1年になる。さっき『厄』を調べたら、災いという意味だけでなく、役に通じていることや、人生の節目とか、あらかじめ心の準備をしておくようにというワードも出てきた。
もしかすると、私にとって7月は自分にとって困難なことが起こるけど、新たなスタートの月なのかもしれない。
「来週?」
「早すぎひん?」
「じゃあ再来週」
「おけー」
そうだとしたら、へこたれることも多いけど、来週からも頑張ろうと思う。
こうして隼人と過ごす日々が、私のエネルギーの源になっているからそう思えるのかもしれない。
立ち上がった隼人に手を引かれ、再び家への道を歩く。
「今日の昼、駅前のラーメン行かん?にんにくマシマシで食べたいわ」
「えー?とりあえず起きた時に店まだ開いてるかで決めよーよ」
今の雰囲気的に、ラーメンではないと思う。しかもにんにくマシマシではない。
「わかった、起きたら決めよ」
「うん」
さぁ、今日は君とどんな一日を送ろうか。


