五月二十二日。その日は雨だった。朝からパラパラと小雨が降っていた。天気予報では「午後から本降りになる」と告げられている。
 いつの間にか着慣れた制服は、自分の一部であると認識できるようになった。自分が中学生ではなく、高校生あることを自覚し始めた。一方で、未だに赤いスカーフは私にとって下級生の証拠としか思うことはできなかった。
 家の玄関を出ると、傘をぱっと開いて雨の降る中を駅に向かった。お母さんは「雨なんてジメジメして嫌ね」と言っていたけれど、私は雨の日が楽しみで仕方が無かった。一週間前から天気予報では雨が降ると言われていた。それから毎日、予報に変更がないかスマホのアプリでも確認をしたし、テレビでも確認をした。お父さんが読んでいる新聞でも確認をした。待ちに待った雨天である。
 恐る恐るスマホをタッチしていた駅の改札。今では代わりに定期券をタッチする。その動作にも慣れてきて、立ち止まることなくホームまで歩く。この日を心待ちにしていた。その気持ちが歩調にも表れていたおり、普段よりも足が軽やかだった。
 比較的乗客が少なく、床に水溜まりができにくい車両に乗るようになった。電車から眺める景色は新鮮味が薄れた。特に雨の日は景色を気にする心の余裕はなく、「早くバスに乗りたい」という気持ちで心の中はいっぱいだった。電車に乗っている僅か十分が長く感じた。ガタンゴトン、そんな音が何度繰り返されただろう。降車する駅に到着すると、一目散にバス停へ向かう。私は走っていた。バスの出発時刻が近づいているわけではない。由衣に早く会いたかったのだ。
「今日は私の方が早かったね」
「別に競争しているわけじゃないし」
 息を切らしながらバスに乗車すると、由衣が私に声を掛けた。黒く長い髪は雨の湿気にも負けず、真っ直ぐで艶やかだった。温かく、真っ直ぐで鋭い視線を受ける。由衣は一度立ち上がり、私に窓側の席に座るように促した。
 駅から出発する市バスの中には乗客は二人だけ。私と由衣。いつも決まって後ろから二番目の右側の座席に座る。そこは二人掛けの座席。二人で並んで座って、話をしながら学校までの時間を過ごした。
 四月、私が由衣へ告白紛いなことをしてから、私達の仲は間違いなく、深く強いものになった。私は彼女のことが好きだったし、彼女もそれに答えてくれた。ただ一つ。彼女からの提案は「学校では話し掛けないで」というものだった。

「学校では話し掛けないで」
 駅のホーム、二人で話し、私はその案を突きつけられた。彼女の目に迷いはなかった。彼女のその言葉には嘘も迷いもなく、提案と言うよりも決定事項なのだと分かった。
「……えっ、なんで」
「私はあなたを巻き込みたくはないの。分かるでしょ? 私と仲良くすると言うことは、城ヶ崎に目を付けられるということなの」
 城ヶ崎。城ヶ崎美祐樹。彼女はこれまでの時間でクラス内の地位を築いていた。間違いなくスクールカーストのトップに君臨しており、彼女の言葉の影響力は大きかった。入学式後の一件で、彼女は高瀬さんのことを良く思っていない。その理由はいくらか考えられるけれど、本性は誰にも分からない。高瀬さんの態度が彼女のプライドを傷つけたのか、日々を大人しくしている様子が不気味に思えたのか、密かに人気を集めていることが気に入らないのかもしれない。ただ、彼女は高瀬さんのことを嫌っている。それは私にも分かった。
「城ヶ崎だけじゃない。都築さんは早川さんと仲が良いでしょ? あの子、私のことを嫌っている。きっと五十メートル走で負けたことを根に持っているのよ」
「は? そんなことで?」
 だが、思い当たる節はあった。
「都築さんには“そんなこと”かもしれない。でも、早川さんは違うでしょ?」
 千尋は中学の頃から学年で一番足が速く、それ故に人気者だった。だから、高瀬さんは彼女のアイデンティティが損なわれたと考えているのだ。考えすぎではないかと過るが、入学当初から千尋が高瀬さんを見る目は厳しかった。人気者というポジションを奪われたと感じたのだろう。一番足の速い人気者。そんな肩書きが無くなったことで、彼女のことを良く思っていないのかもしれない。
「……たしかに千尋はそうかも。結構性格悪いからな」
 それを聞くと、突然由衣は笑って、
「友達のこと、簡単にそう言っちゃうの、面白い。都築さんも十分に性格が悪いよ」
「そ、そんな! そんなことない!」
「ごめんごめん。でも、そういうところ好きよ」
 その言葉に心がきゅっと締め付けられた。やだ、何を言っているんだ、この子は。この気持ちが顔に出ていないか不安になったが確かめる術もなく、僅かに感じている頬の熱が気のせいであってほしいと願った。
「恥ずかしげもなく、よくそんなことを言えるね」
「それを言うなら、都築さんの方がドラマチックで、ロマンチストだったと思うけど?」
「それは言わないで」
 ほんの少し前の自分を思い出すと、顔が更に熱くなった。
 手で仰ぎながら頬を冷ます。熱さが抜ける頃には、高瀬さんの言っていることが理解できた。スクールカーストトップの城ヶ崎、友達の千尋を敵に回すことになる。ただ彼女と仲良くするだけなのに、理不尽だ。
「でも、私と仲良くするということは、そういうことなの」
 簡単に言うが、それはなんて悲しいことなのだろう。
 高瀬さんは何もしていない。ただ、新入生代表として挨拶をして、五十メートルを走って。それだけのこと。彼女が妬まれる理由は理解できなかったし、それを受け入れている彼女も、私には理解できなかった。何で、そんな全てを受け止められるの? すました顔をしていられるの? あなたは。あの教室を恨んでもいいのに。
「だから、学校では話し掛けない方が良い。雨の日、私は登下校に電車とバスを使う。だから、いつもの時間にバスで会おう。そこで話そう」
「待って。私はそれでも教室で高瀬さんを一人にさせたくない」
「私は大丈夫だから。ずっと、そうしてきたから。それに、私は都築さんとの時間を大切にしたい。もしも城ヶ崎に目を付けられたら、バスの中での二人の時間も邪魔されてしまうかもしれない。都築さんを巻き込んでしまったという罪悪感を抱きながら過ごす時間が幸せなのか分からない。だから」
「わかった」
 私は力強く頷いた。彼女の提案を受け入れた。「ずっと、そうきてきたから」そんな言葉が高校一年生の彼女の口から出ることに納得がいかない。まだ年端もいかない少女である。その口から躊躇わずに出てきた言葉に、これまでの彼女の人生の一端を感じざるを得なかった。今の私では彼女の考えを覆すことはできない。首を立てに振ったのは肯定の意味だけではない。決意の証だ。
 私は、高瀬さんを一人にさせない。一緒にいるから。

 そのような経緯があって、私達は雨の日のバスの中だけで会う関係が続いた。教室ではその関係が明るみに出ないよう、互いに無関係を装い続けた。あれから何度か雨は降り、その度に心躍らせながら登校した。根拠はないけれど、気持ちが昂ぶるのは私だけじゃないと、どこか確信めいたものがあった。
「そういえば、アルバイトは順調?」
「うん、順調。トラブルも無い。先輩も悪い人じゃなさそうだし」
 アルバイトをしていることを由衣だけには話した。私が市バスで登校するための資金集めが目的であること。驚いた表情をしていたけれど、すぐに納得をしてくれた。「よくやるよ」と呆れと感心の混ざった言葉を、息を吐くような、力の抜けた声色で言った。
「トラブルがない? 何言ってるの? 間瀬に見つかったんでしょ? 担任教師に見つかるって、高校生アルバイターとしては最悪のトラブルだと思うけれど」
「間瀬ね。うん。そうだよね。あれは焦った。バイト二日目にして間瀬が店に来るとは思わないよね。油断していた」
 あのときは心臓が止まるかと思った。思い出しても心臓が鷲掴みにされるような苦しさを感じる。あー、嫌だ嫌だ。あんな思いは二度としたくない。