このたった一週間の高校生活の間に分かったことがある。
 高瀬由衣は勉強だけではなく、運動神経も良い文武両道の万能女子だったということだ。
 この日は体育館で体力測定を行っていた。その結果は我が東中でスポーツ万能と言われていた千尋を上回るもので、あらゆる種目で抜群の成績を叩き出していたのだ。外種目は先日測定し終えているが、五十メートル走も、長距離走も、ハンドボール投げも、どの種目も彼女を上回る者はいなかった。
 ここまで完璧な人だとは思わなかったので、私は素直に凄いと思ったけれど、それを良く思わない人も多かった。金髪女子の城ヶ崎はもちろん、千尋すらも彼女に対して劣等感からくる妬みを少なからず抱いているようだ。中学時代はスポーツ万能で人気者だったのだから、そのアイデンティティを奪われた今となっては妬む気持ちも分からなくはなかった。
 そして、クラスの男子からの人気は二分されていた。スタイル抜群の高飛車なお嬢様、城ヶ崎と凍てついた氷の令嬢、高瀬由衣。城ヶ崎は勘に障ることを言うと睨み付けられるが、琴線に触れなければ害はない。触らぬ神に祟り無しといったところで、その美貌もあって男子の人気を勝ち得ている。高瀬由衣の人気は不思議なもので、冷たく遇われるところがいいという男子が一定数いるのだ。

 帰りのホームルームが終わると同時に高瀬由衣は席を立った。
 急げばバスに間に合う。それを逃すと三十分ほど待たねばならないのだ。
「あっ、ごめん、私バスだから、急ぐね」 
 急いで荷物を纏めて、高瀬由衣の後を追った。
 ずっと高瀬さんのことが気になって、話し掛けたいと思っていた。だけど、クラスに漂う鋭い空気がそうすることを咎めているような気がして、足を踏み出せずにいた。誰も咎めることのない空間。それがこの帰り道だと思った。私と高瀬由衣だけの空間ならば、咎める者はいない。私は走り、彼女に追いつく頃には息が上がっていた。
「た、高瀬さん!」
 昇降口で思わず声を掛けてしまった。
 何と呼べば良いか分からず、言い淀んでしまったが、私の声は彼女に届いたようだ。
「……なに?」
 高瀬さんは顔も、身体も向きを変えず、横目で私を捉えた。手に持ったローファーを置き、履き替える。そのしなやかな動作は私の呼びかけでは止まらない。
 ……しまった。この先、何を言うか考えていなかった。
 何か。何か言わないと行ってしまう。
「えっと、あの、今朝、バス……市バスに乗っていたよね?」
「ええ、そうよ」
 しゃ、しゃべってしまった。初めて、高瀬由衣と言葉を交わしてしまった。まるでアイドルに会ったファンのように気分は高揚していて、頭の中が真っ白になった。
 煌めいた目が私を捉え、少し不機嫌そうに眉を歪めた。
「何?」
「あっ、ごめん。その、なんでバスに乗っていたのかなって。いつも、バスは私一人だから」
 何だ、そんなことかと声を漏らしながら、高瀬さんは身体を起こした。
「なんだ、そんなことか。いつもは自転車で通学しているの。今日は雨だったから、電車とバスを利用しただけ」
「そうなんだね。でも、あんなに早い時間に乗っているなんて驚いた」
 歩き始め、傘立てから迷いなく自分の傘を抜き取る。私は急いで靴を履き替え、小走りで彼女を追いかけた。横に並ぶと、彼女は話し始めた
「人がいるのは苦手なの」
「苦手?」
「そう。少し遅い時間になると、私と同じような自転車通学者も市バスに乗るでしょ。学校で同じ時間を過ごすだけでも十分なのに、登下校まで一緒にいたくないから。だから、みんなが利用しない早い時間のバスに乗ったの」
 その回答を聞いて、私は呆然としてしまった。
 同じだ。
 私と同じ。
 昇降口の外に出ると、太陽の光が水たまりに反射して眩しかった。いつの間にか雨はやんでいて、大きな水たまりだけが何個も残っていた。水溜まり一つ一つが鏡のように反射して、空の青さを映し出していた。その幻想的な風景に見蕩れながらも、高瀬さんへ抱いた共感を言葉にしたかった。
「高瀬さん。私もそうなの。私も登下校の時間まで皆に気を遣うのが嫌で、いつも市バスで通っているの。スクールバスは申し込まなかった」
 私の方へ振り向き、
「そうなの?」
 いつも無表情の彼女の目が一瞬大きく開いた。
「私はいつも電車とバスで通学しているんだ。スクールバスの利用申請期間に申請を忘れたってことにして、市バスで通っているんだ。本当は朝っぱらから学校の人と顔を合わせるのが嫌で。でも、そうは言えないでしょ? 角が立つだろうから」
「そうなんだ。意外」
「意外?」
「都築さんって周りと上手くやってるから」
 えっ、名前。知ってくれていたんだ。胸の奥のほうが熱くなるのを感じた。
 驚きが収まる間もなく、高瀬さんは話し続けた。
「登下校も友達と一緒にいたいってタイプなのかなって思ってた。ほら、いつも一緒にいる……えっと」
「千尋?」
「そう、早川千尋。あの子と仲がいいでしょ? だから、いつも一緒なのかなって」
「そんなことないよ」
 そんなことはない。
 私と千尋はよく話す。傍から見れば、友人と言っていいくらいには、この一週間で心の距離も縮まったように思う。けれど、節々で私と彼女とは考え方が大きく違うと感じることがある。千尋は前を向けていて、私は下を向いているのだろう。理解し合えない相手なのだとも感じていた。
 私達は水たまりを避けながら、歩く。たまに、傘の先で水たまりをなぞってみたりして。
 次に何を話せばいいのか分からなくなって、バス停までは無言のまま。だけど同じスピードで歩いた。
 ……どうしよう。
 何話せばいいのかな?
 そもそも私から話しかけたというのに、大した話題も提供できない。
 無策で飛び込んでしまったことを後悔する。
 バス停で待っている間も話題が見つからない。どうしてだろう。あんなにも話したかった相手だというのに。いざ面と向かうと、言葉が出なかった。
 バスに乗り込んだ私は、いつもの癖で同じ座席に座り、隣にバッグを下ろした。
「あっ」
 やってしまった。
 クラスメイトと下校しているのだから、隣に座るのが普通じゃないか。
 急いでバッグを膝の上に置いたときには、時すでに遅し。高瀬さんは、私の前の座席に座っていた。慌ててバッグを除けた私を見て、彼女はクスリと笑った。
 笑った顔を初めて見た。
「都築さんって面白いよね」
「面白い?」
「いや、違うか。……可愛い、かな? 気を遣えないくせに気を遣おうと頑張っているところとか」
 それは可愛いのか?
 いや、可愛くないだろ。
 けれど、どぎまぎして言い返すこともできなかった。
 そのまま二人ともバスの中では一言も言葉を交わさずに駅に着いたが、二人とも路線が異なり、ここで分かれることになった。
「都築さん、じゃあね」
「高瀬さん、また話しかけてもいい?」
「……話しかけない方がいいよ。私、みんなから嫌われているから。都築さんも同じように嫌われてしまうかも」
 教室での彼女とは打って変わって、そんなことを言った彼女の顔は晴れ晴れとしていて、いつも以上に綺麗な顔をしていた。
 私の返答を聞くまでもなく、ホームに向かう彼女の足取りはいつもと何も変わらなかったけれど、私の足はひどく重くて、鉛にもでもなったのかと思うほどだった。
 彼女に言葉を掛けるタイミングを見失って、その背中を見送ることしかできない。
 このまま、何も言えずに終わるのか。私は彼女に対して抱いていた気持ちはこの程度なのか。違うだろ。
 それまで固まっていた足が動き出した。高瀬さんの後を追って、改札を入り、彼女の姿を探す。いない。ホームに上がったのだろうか。急がないと。電車が来てしまう。全力で走った。体力測定の比ではないほどに一生懸命に足を動かした。階段を駆け上がり、ホームで彼女を見つけた。今にも電車に乗ろうというところだった。私は迷惑も考えずに、その華奢な腕を掴んでいた。
「都築さん? どうしたの?」
 息が切れて言葉が出ない。どうしていつも間が悪いんだ。
「大丈夫?」
 心配してくれる彼女の背後で電車の扉が閉まるのが見えた。彼女を引き留めてしまった。次の電車は何分後か分からない。迷惑を掛けたな。なんて思いながら、私は乱れた息を整えた。
「嫌われているなんて、そんなことない! 高瀬さんのこと好きな人もいるよ。だって、私はあなたが好き」
 周りの空気に飲まれないあなたが好き。
 万が一、私も周りに嫌われるようなことがあっても、高瀬さんは一緒にいてくれるでしょ?
 きっと私とあなたは同じ穴の狢。
 人付き合いが苦手で避けているあなたと、苦手なりに空気を読んで苦しくなっている私。私達は似ている。だから、周りがなんと言おうとも、私達は最後まで一緒にいることができるんじゃないかって思うんだ。
「だから、また話そうよ」
 少しの間の後に、
「何、告白しにきたの?」
 と言って彼女は笑った。
「本当に都築さんは面白い人だね」
 それだけを言って、ホームに備え付けのイスに座った。隣のイスをポンと叩き、彼女は言った。
「じゃあ、手始めに次の電車が来るまで話をしよう」