市バスが学校の前に停まるまで、まだ時間があった。高瀬由衣は先ほどの一件で周囲からの注目が薄れ、一人で帰ろうとしていた。話し掛けようとしたが、千尋に声を掛けられ、相手をしている間に見失ってしまった。そして、気が付いた時には私はスクールバスに乗っていたのである。はてさて、どうしたものか。
 学校の人と出くわすのが嫌でスクールバスを避けた。同乗している生徒が先輩か同学年か、同級生なのかも分からない状態でスクールバスという逃げ場のない空間に閉じ込められるのが嫌だった。スクールバスは定員二十五名程で、私達の学年だけではなく、先輩達も乗車していた。バスは二台あったが、今日は一台で事足りるようだった。なぜなら教室で「今日は駅まで歩いて帰ろうよ。途中でおしゃれな喫茶店があるんだ」と話し声が聞こえた。半日で下校のため寄り道する生徒も少なくなく、スクールバスに空席があるのだろう。「きっと席は空いてるから、乗っちゃいなよ」という千尋の一言で、私はここにいる。
 バスに乗ると、私達は空いていた座席に座った。私が窓側、千尋が通路側だ。荷物は自分の膝の上に置き、程なくしてバスは出発した。
「はあ、疲れた。初日は気疲れしちゃうよね」
「そう? 寧ろ、半日だから楽でしょ?」
 私の言葉を簡単に否定する千尋と、この話題を続ける気にはなれず、私は窓の外を眺めながら彼女の言葉に相づちを打つことだけを続けた。
 駅までの時間、彼女は延々と話をしていたけれど、私は何を話せばいいのか分からなかった。だって、彼女とは友人と呼べるほど親しい間柄ではなかったし、少なくとも今日一日に対して、全く逆方向の感想を抱いていた。共通の話題があるのかなんて分からなかった。
 何か話題を提供しなければならないと思って、私は部活について聞いた。
「千尋って、高校でも陸上部に入るの? そこそこ足速かったよね?」
「これでも一応、東中一の足を持っていたんだけど。認知度はまだまだだったか。アピールしないとな」
「ごめんごめん。他のクラスの事情には疎くて、よく分からないんだよ」
「そう。いいよ。部活、高校はどうしようかな? 任意だって聞いているから、悩んでいるんだよね。入るなら陸上だけど。そういう陽菜子はどうするの?」
「私は帰宅部。もう決めているんだ」
「そうなの? 中学は何部だったんだっけ?」
「文芸部。本が好きだったから」
 読書が趣味。それだけの理由で文芸部に入部した。けれど、
「本当に本が好きで文芸部にいる人たちが半分、部室を私物化している人たちが半分。お世辞にも良い部活とは言えなかったんだよね」
 先輩達や声の大きい者が自由に部室を使っていた。真面目に活動しようとしている者は肩身の狭い思いをしたのだ。
「結局は面子が重要。そう思うと、活動内容や面子が分からない時期に入部を決めなければいけないってリスキーじゃない?」
「だから、帰宅部?」
「そう」
 何か不服そうではあった。「一緒に陸上部に入ろう」と提案してこないところは助かった。千尋と四六時中一緒にいるのは気が乗らないし、これまで体育の授業以外で身体を動かしていない私にとって、運動部は堪える。
 駅に到着すると生徒はちりぢりになった。
 千尋とは家の最寄り駅まで一緒なので、あと十分くらいは時間を供にする。他に何か話したいことはと考えたとき、私は高瀬由衣のことを思い出していた。
「新入生代表って、どうやって選ばれるのかな?」
「ん? 高瀬さんのこと?」
「そう。立候補する場があったわけでもないし。あんな大役、私だったらやりたくないなって」
「ああいうのは、入学試験の成績で決まるって聞いたことがある。高瀬さん、相当頭がいいんだよ」
 損な役回りを押しつけられるなんて、頭が良すぎるのも考えものだ。
 まあ、私には縁のないことだけど。
 気の毒だと思った。
「ってかさ、さっきの高瀬さんヤバかったよね」
「入学式の後の?」
 千尋がニヤニヤしながら話し始めた。
「だってさ、初日から大声で怒るなんて、短気というか、空気読めないよね」
「質問攻めで苦しかったんじゃない?」
「だとしても、私だったら我慢する。そもそも入学初日から皆に興味を持ってもらえるなんて、そんなことないよ? 新入生代表として挨拶をしたのに勿体ない」
 勿体ないか。
 そう思える千尋は、やはり人気者の素質があるのかもしれない。
 新入生代表というバッジを貰っても私は嬉しくないし、高瀬由衣だってそうは思わなかったのではないだろうか。テストが免除されるわけでもないし、遅刻しても許されるわけでもない。ただみんなからの注目を集めるだけのバッジ。そんなもの、出来ることなら捨ててしまいたいと思う私は贅沢ものなのだろうか。

 家の玄関の扉を開くと、お父さんの靴は無かった。午後から仕事へ向かったのだろう。
「ただいま」
「おかえり。陽菜子、思っていたよりちゃんとしていたわね。安心したよ」
 入学式の感想だろう。
 ちゃんとって。私は歩いていただけだ。どのような心配をしていたのか。
 ちゃんとしていたのは高瀬由衣だ。彼女はクラスメイトである私の目にも輝いて見えた。なぜ、そう思うのだろう。可愛いから。髪が綺麗だから。瞳が輝いていたから。そうであるけれど、一番はきっと、私の持っていない芯の通った心に惹かれたのだろう。
 自室の鏡で見る自分の姿は、今朝よりもまともな姿になっているような気がした。

 四月十二日。その日は雨だった。土砂降りではないけれど、雨傘を差していても服は濡れた。家から駅へ歩いている間に靴も靴下も濡れた。足の裏に濡れ雑巾を敷いているように、歩く度にぺちゃぺちゃという音と感覚が伝わる。春の陽気を感じ始めていた矢先。私達の骨の髄まで凍らせる冷たい雨だった。入学式以来の雨だった。
 昨日までの陽気で温められたコンクリートに雨が打つ。跳ね返った雨粒を避けることはできない。雨の日のコンクリート特有の臭いが町に充満していた。
 電車の中は床に浅い水たまりができていた。そこを踏まないようにと大股で飛び越える。雨の日独特のカビ臭さと、人の熱気を感じた。人肌で雨粒が暖まり車内に湿気が充満していて、蒸し暑さを感じる。手に持った雨傘からゆっくりと雨粒が滴り落ち、床を流れ、水たまりに合わさっていった。
 私はいつも通り、学校の最寄り駅から市バスに乗り込むと、いつもと同じ座席に座る。私はぼんやりと窓の外を眺めていた。窓から冷気が伝わってきて、まるで冬のような寒さを感じた。不思議な気分だ。コンクリートは温かく、雨は冷たい。触れるものによって温度が全く異なって、自分が今どの季節の中にいるのか迷子になる。
 ほんのり曇っている窓ガラスを指でなぞると、その後が残り、指に水滴が移る。雨粒がバチバチと音を立てて窓ガラスにぶつかる様は、入学式を思い出させた。あの日以来、市バスに高瀬由衣が乗ってくることはなく、バスは私一人が占有していた。
 今日も、私一人を乗せてバスが出発するかと考えていたときのこと。高瀬由衣が現れた。入学式の日と同じ、ちらっとこちらを見た後に、前方の座席に腰を下ろした。思わず私は大きく息を吸い、止めた。気配を殺す。何も気まずいわけではない。気まずくなるほど彼女と関わりがあるわけでもなかった。
 入学式の一件以降、クラスメイトから話を振られる度に彼女は淡泊な態度を取っていた。次第に話しかける人がいなくなった。昼食もクラスメイトの大半が弁当を持参しているが、彼女は食堂を利用し、一人で昼休みを過ごしている。いつしか彼女は一人になっていた。教室内にも歪な空気が充満し始めた。高瀬由衣と話してはいけない。そんな空気に私も飲み込まれていた。
 程なくしてバスは出発した。窓の外に顔を向けながら、横目で彼女の姿を見つめていた。
 やっぱり、可愛いな。可憐な花のような美貌に、筋の通った姿。気品のある彼女からは一人の時も強く、誇らしい、気高さのようなものを感じた。一体私は何をやっているのだろう。こんな盗み見をするようなことをして。さっさと話し掛ければいいのに。そんなことは分かっている。それでも、触れようとすると逃げてしまいそうで、近寄ることができなかった。
 雨が窓を打つ音が大きくなっていた。

 教室では、仲良しなクラスメイトで集まったグループができていた。
 中学までは女子は大きな一つのグループだけ。それなりに、みんな仲が良かった。高校では小さなグループが三つできていた。高飛車なお嬢様の城ヶ崎を中心としたグループ、私や千尋のグループ、そのどちらでもないグループ。高瀬さんはどのグループにも属していなかった。無所属である。
 ちなみに私の所属しているグループは千尋の他にもう一人。
「あの子は中学のときからあんな感じだったよぉ」
 高瀬由衣と同じ南中学校出身のクラスメイト、榊原寧々だ。私の右隣の席が寧々で、彼女が英語の教科書を忘れたときに見せてあげたことが話すきっかけだった。英語の初回の授業で、
「あぁ、忘れちゃった」
 と言ったっきり黒板を見つめていたので、
「一緒に見る?」
 と声を掛けた。
 彼女はどこかぼんやりとしていることが多く、焦ったり、驚いたりすることが少ない。私よりも小柄で、マイペースな彼女はどこか放っておけなかった。

「高瀬が誰かとつるんでいるところ、見たことがないな」
 私の斜め前に座っている男子からの証言。その男子は中学校も同じようで、その頃から高瀬由衣は全く変わらないという。
「どんな偶然か知らんが、中一のときから同じクラスで。でも、昼休みも一人で過ごしているし、放課後も一人で帰っていたな。部活も文芸部で、その中でも誰とも関わろうとしなかったみたいだ。中学まで、入部は強制だったから、人と極力人と関わろうとしないで済む部活にしたのかもな」
「へぇ、詳しいねぇ」
 寧々のにやけ顔を見て、言葉の意味に気付いたのか、
「ば、ばか! 別にそんなんじゃない! 三年間も同じクラスにいればそのくらい知ってるってだけの話だ!」
 慌てている彼が面白く、
「へぇ」
「へぇ、そうなんだ」
 寧々に続いて私も彼に視線を送った。耳まで真っ赤にしているところを見ると、まんざらでもないのかもしれない。
 多少ぶっきらぼうでも、あれだけ美人だったらファンがいるのも納得だ。